(12)
朝の十時半という時刻は、ちょうど朝食のあと小腹が空いてくるのでおやつにいい時間だ。
イザベルは早速ルイスの部屋に向かおうと籠を手に持ち、ふと考える。
「たくさんあるから、メイドの皆さまにもお配りしようかしら?」
クッキーはゆうに三十枚以上はあり、とてもルイスとふたりで食べきれる量ではない。
「二つに分けて、ルイスの部屋に行く前にメイドの控室に寄ってお渡ししましょう」
控室に置いておけば、休憩に戻ってきたメイド達がおやつに摘まむだろう。
そう思ったイザベルは早速準備すると、まずメイド控室に向かうことにした。
(誰かお部屋にいらっしゃる?)
メイド控室の少し開いたドアからは、楽し気な話し声が聞こえてきた。
イザベルはドアノブに手をかけ、開けようとしたところでぴたりと動きを止める。
「旦那様、サラ様のことどうするのかしら?」
部屋の中から、会話が聞こえてきた。
(サラ様って……)
どこかで聞き覚えがある名前だと反芻し、メイドのエマから聞いた名前だと思い出す。たしか、屋敷を取り仕切る役目をしているようなことを言っていた。
(そういえば、サラ様って誰なのか聞けていないままだわ)
結局あの日、エマからは聞き出すことができなかったし、その後聞く機会もないので聞けずじまいだ。
ただ、『サラ様』なる人物が屋敷の切り盛りに一役買ってくれているのならば、イザベルはここの女主人としてしっかり挨拶をするのが礼儀だろう。
(ちょうどいいわ。ついでにその〝サラ様〟のことも──)
「てっきり、私はサラ様が奥様になるんだとばかり思っていたわ」
「きっとすぐ離婚するから次はサラ様とご結婚なさるんじゃない? だって、旦那様はご結婚以来一度も奥様の元に通っていないのよ」
「ええー! そうなの⁉」
室内でわっと盛り上がる声が聞こえた。
ついでにサラが誰なのかも聞こうと思っていたイザベルは再びドアノブを手に持ったまま動きを止める。
(ものすごーく、入りづらいわ)
よりによって自分の噂をしているなんて、なんてタイミングが悪いのだろう。これではまるで、立ち聞きしているみたいではないか。
(今の話から判断するに、サラ様っていうのはアレックス様の恋人なのかしら?)
話の流れから判断するに、そう言う結論に至るのが自然だ。
(あの人、恋人がいるのにわたくしと結婚したの!?)
イザベルの中のアレックスの評価が一気に下がってゆく。
そのときだ。「あら? 奥様?」と至近距離で声がした。
イザベルはハッとして声のほうを見る。
「あなたは──」
ちょうどやってきたのは、先日少しだけ話をしたメイドのエマだった。きっと、午前の仕事を終えて休憩のために控室に来たところなのだろう。
「奥様。籠などお持ちになって、こんなところでいかがなさいましたか? どこかに届けるのならば、私がやっておきますが」
エマはイザベルを見つめ、不思議そうに首を傾げる。
実はルイスと仲良くなるために作ったクッキーをメイドの皆さんにもお裾分けしたいと持ってきたのだけど、自分の噂話で盛り上がっているところだったので気まずすぎて立ち尽くしていました。とは言いにくい。
それと同時に、先ほどまで絶え間なく聞こえていた楽しげな話し声がぴたりと止まる。
(あー。わたくしがいること、気づいたわね……)
今頃、中にいるメイド達は真っ青になっていることだろう。見なくとも想像がつく。
イザベルははあっとため息を吐く。
「あの……、これあげるわ」
イザベルはずいっと持っていた籠のひとつをエマに押し付ける。
「え?」
「メイドの皆さんで食べて。いつもお仕事ご苦労様」
イザベルはそれだけ言うと、その場をあとにする。背中に、エマの困惑の視線を感じたが振り返らずにルイスの部屋へと向かった。
(あーあ。わたくしが作ったって話して会話のきっかけにしたかったけど──)
先ほどの様子では、イザベルの作ったものなど皆食べたくないだろう。それならば、買ったものだとでも思われていた方がいい。
(ルイス、会ってくれるといいな……)
とぼとぼとルイスの部屋の前に着いたイザベルは、トントントンとドアをノックする。
「だれ?」
いつものように、可愛らしい声がした。
「こんにちは。お母様よ。お菓子を持ってきたから、一緒に食べない?」
大きな声で中に呼びかける。
「いらない」
「クッキーは嫌い? ルイスに食べてほしくて、たくさん作ったの」
イザベルは諦めずに話しかける。
暫く待つが、反応はない。
「ルイス。聞こえているんでしょう? ドアを開けて」
もう一度大きな声で呼びかける。少し待ってみたが、返事はない。
(やっぱりお菓子でもだめかしら……)
無理やりドアをたたき壊して中に入ることもできる。
しかし、そんなことをしたらいよいよ屋敷では頭のおかしい女主人としての地位を確固たるものにして、ルイスからは怖がられてしまうだろう。
(出直すしかないわね)
諦めて部屋に戻ろうとしたそのとき、カチャッとドアノブを回す僅かな音が聞こえた。イザベルはハッとして背後を振り返る。
ほんの少しだけ、ドアが開く。
「……おかあさまがぼくのためにつくったの?」
ドアの隙間から少しだけ見えるのは、くりっとした大きな黒い瞳だ。イザベルを見つめるのは、ルイスに間違いなかった。