09
レザリアは、ギベオン書店に帰ってからもずっとぎこちなかった。ゼトから言われた言葉が頭の中でぐるぐるしていたからだ。
『レザリアさんが、素敵だからですよ』
そのぐるぐるは結局、翌朝まで続いた。
1階に降りると、ゼトがいつもと何一つ変わらない様子で受付に座っているのが見えた。レザリアは、息を吐いてからゼトに話しかける。
「おはよう、ゼトさん」
「おはようございます、レザリアさん」
「朝、いっつも早いね」
「早起きは大抵の場合、良い方向に人を動かしますから」
「じゃあさ、これからゼトさんが朝おきたら、ぼくのことも起こして? 部屋に入っていいから」
「いえ、女性の部屋に勝手に入るわけには行きませんので。遠慮しておきます」
「いいって言ってるのに」
レザリアはこうしたやり取りを続けていて思う。
ゴールデン・ラルム号の船長は、ゼトを「もはや筋しかねぇ赤身みたいな奴」と言っていたけれど、実際には「筋金入りの黒金剛石みてぇな奴」なのではないか。
「今日は少し店を空けます」
「お休みなの?」
「ええ、少し調べものでもしようかと」
「ぼくも一緒に行ってもいい?」
「それは――」
ゼトは断り方を考えているようだった。
はっきり断ればいいのに。
「いいですよー、ぼくはひとり、慣れてますから」
「――レザリアさん、あなたをひとりにしないために僕は動いています」
「じゃあ、一緒に行けばいいのに」
「ところで、ノートはお役に立てていますか?」
「え、うん……どうして?」
「いえ、メンテナンスもかねてどのような調子か近いうちに確認しようと思っていますので」
「えっ」
「では、そろそろ行きますね」
レザリアはゼトの背中を見送りながら、内心焦っていた。ゼトの個人情報を探るような質問ばかりしていたからである。
「ふぅ」
やれやれとこぼしながら、ゼトがいないのをいいことに受付に座るレザリア。
「試しに質問してみただけだよ?」
うーん。
「身近な人のことを知るのって大切だよね?」
うーん。
「だめだぁ……いい言い訳がぜんぜん見つからない……」
少女は受付に突っ伏すのであった。
レザリアは書店の入口で、縮こまるように座ってノートを胸に抱えていた。
「はやく帰ってこないかなぁ」
時々ペンを走らせては、ため息をつき、空をぼーっと見上げる。ぼーっとした後は、もう一度ペンを走らせる。その繰り返しだった。
「寂しい。もうひとりの生活には戻れないよぉ」
メイジ―おばあちゃんのとこ行こうかな……。
でも、また『ぼくぼく詐欺』をしないといけないもんね。
「そうだ!」
レザリアにはこういう時のための秘策があった――
「グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ン」
――琥珀橋で身につけた母猫の鳴き真似である。
周囲の目も気にせずに獣のような鳴き声を出し続けていると、どこからともなく猫が集まってきた。
「こんにちは、ぼくレザリア。あなたたちはさ、ぼくのこと覚えてる?」
「ニャア」「ニャア」「ニャア」「にゃあ」
「そっか。でも、きみたちはいい猫だよ。だって『ニャア』だもん」
レザリアは満足そうな笑みを浮かべながら、猫を堪能するのだった。
「あれ、きみはなんだか変わっているねぇ」
そう言ってレザリアは一匹の猫を持ち上げた。
モモ色の瞳と蜂蜜色の瞳がレザリアを見つめている。
「おいしそうだね」
左右で目の色が異なる猫を見るのは、初めてではなかった。しかし、少し様子がおかしい。
「なにこれ――」
蜂蜜色の目を覗き込み、驚愕とともに背筋に寒気が走る。
「――猫目効果!?」
それはまるで猫の瞳のように中心に光の筋が見える宝石――猫目石だった。
「だいじょうぶ!? 痛くないの!?」
猫は普通に瞬きをしており、痛みを感じているようには見えない。
「誰がこんなこと……」
金持ちの道楽にしてはあまりにも度が過ぎていた。
「どうしよう……」
猫目石……それもこんなにも綺麗な目の形……価値が分かる人が見つけちゃったら……。
レザリアは嫌な想像をして首を振る。
ひとまずゼトが帰ってくるまで、母猫の鳴き真似で関心を引くことを決意するのであった。
「ただいま――」
書店の扉が開いたとき、ゼトの目に映ったのは……店の真ん中で横たわり、奇声を上げて猫と戯れる少女の姿だった。
「――レザリア、さん?」
「グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ン! グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ン!」
「レザリアさん!!? 大丈夫ですか!!?」
「グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ……はっ! ゼトさん!? これはちがくて!!」
その時、ちょうど12時の鐘が鳴った。
「あっ」
「レザリアさん……何が違うんです――」
あっという間に、猫たちが一斉に店を飛び出していく。
「ぐる……ぐるる……あん。ぐるるぅ……ぁ」
「レザリアさん……?」
猫たちを引き留めようとするが、照れが入ってしまったのと喉が枯れてきたせいで上手く鳴けなかった。
「もうゼトさん見ないでよぉ!!」
「はいっ!」
とても紳士には見せたくない姿である。
「ゼトさん! 猫目石が目に埋め込まれている猫がいたの!」
「……なっ……るほど」
混乱しているらしく、ゼトの黒い瞳は細かく揺れていた。
「見てないで探してください!」
「はいっ!」
結局、ゼトは猫を見つけられずに戻ってきた。
「すみませんでした……僕が、動揺してしまったせいで……」
店の真ん中で正座で向き合い、反省するゼト。
「……れてくだざい」
うつむいて何かを言おうとするレザリア。
「……?」
しかし、ゼトの耳には聞き取れなかった。
「……ざっきの姿だけ忘れてぐださい!」
今度は聞こえたようだった。
「でぼぼくのごとは忘れだいでぇ……」
ゼトは天を見上げる。
「すみません……記憶力は……良い方なもので」
「んにゃぁッ」
悲哀に満ちた鳴き声を上げて少女は倒れた。
冷静さを取り戻した後、ゼトはようやく事の経緯を知る。
「――確かに、それは気がかりですね」
「そうなんだ……だから、このお店で飼ってあげちゃだめかな……」
「……ひとまずは2階に保護する形をとりましょうか」
ゼトは特に猫を飼うことは問題視していないようだ。
「しかし、どうしたものか……レザリアさん、もう一度あの声は出せますか?」
「もう出ないし出したくない」
「そうですか……残念です」
「猫を探す魔法とかないの……?」
「そういった限定的なものはないですが、協力者は作れます」
ゼトは受付台でメモ用紙にペンを走らせ、それを折って鳥の形を作る。
紙の鳥はひとりでに動き出し、宙を羽ばたいた。
「わぁ! すごいすごい!」
「これがもう一つの目になります。物陰に隠れていたら見つけるのは難しいかもしれませんが」
店の扉を開け、紙の鳥を空に放つ。
姿が小さくなっていくと、多くの人が本物の白い鳥と見間違えるだろう。
「魔法って何でもできるの!?」
「何でもとは言えませんが、何にでも役に立たせることはできます」
「すごいなぁ」
少女は灰色の瞳をきらめかせ、小躍りする。
青年は受付台の下から丸められた羊皮紙を取り出し、それを台に広げた。
「レザリアさん、見てください。さっそく見つけたようです」
「はやい! これは街の地図?」
「簡易ではありますが、位置は正確なはずです。この点滅している赤い点が鳥のいる位置で、猫の上空にいることを示しています」
「なんでそんなことができるの!?」
レザリアが身を乗り出すと、ゼトは真剣な表情で語り出す
「紙自体に複数の命令をしているのです。僕の専門は魔法言語学ですので、こういったことは比較的得意です。ちなみに、魔法にも様々な分類体系があって――」
「やっぱり今度聞かせて! この地図借りるね!」
「――魔法言語学は……ってレザリアさん! ひとりで行くんですか?」
「ぼくこの街の物陰に詳しいから!」
すり抜けるようにして人ごみをかいくぐり、少女は商店街をかける。
「あの子猫ちゃんこんなに人通りの多いところに来ちゃうなんて……」
レザリアは点滅しなくなった赤い点を見ていた。
「これって見失ってるってことだよね……」
右往左往していると、離れた場所の人だかりで悲鳴のような叫び声が上がる。
「「ぎゃあああぁぁぁ!!!」」
すぐさま確認しに行くと、割と見知った二人がいた。
紅茶をまき散らして、マダム二人が恐ろしいものを見たような表情で腰を抜かしている
「どうしたの!?」
二人の間に割り込んで、顔を交互に見た。
「あらやだ間に割り込みガール……何でもないわ」
「ええ奥様。何も見ていませんとも……」
何でもないというには無理がある。
二人は頑なに何を見たのか教えようとしない。
レザリアは小声で「ぼく、子猫を探しているの」と伝えると――
「ここここ子猫なんて知りませんわ!」
「そそそそそうですわ!」
――絶対見たよこの人たち!
「お金のことしか考えてない人に見つかったら、どうなるか分かるでしょ……?」
「割り込みガール……あなた……」
「奥様……このガールはお下品な宝石商とは違うように見えます……」
お紅茶マダムたちは意を決したように目を合わせ、少女の両耳に交互に囁いた。
「子猫ちゃんは南側の路地に入りましたわ……」
「どうか、あの子を助けてあげて……」
「ありがとう。ぜったい助けるよ」
レザリアがお礼を言って立ち上がると、その手に何かを持たされた。
「マタタビの茶葉ですの。気休めにしかならないかもしれませんけれど……」
レザリアは強くうなずき、南へと向かう。
結局見つけられないまま、手あたり次第南に向かって移動を続け、翠緑庭園まで来てしまったレザリア。
「シャトヤンシーちゃーん! どこー!?」
呼んで出てきたら世話ないか……猫はおっきい音苦手だもんね。
レザリアはそう思いつつ、地図を開く。
赤い点は……まだ点滅していない。
「おぉい……どこだぁぃ……」
翠緑庭園は毎日整備はされているものの、「一日切らねば森になる」と言われているほどに、木々や草花の成長が早い。だから、いつの間にか動物たちの天然の隠れ家ができてしまうのだ。
草影に隠れている子猫を見過ごさないように、レザリアはかがみながら足元を見ていた。
「あぃたッ!」
硬いものが頭にぶつかり、両手で頭を押さえる。
「ちょっと! ちゃんと前見て歩きなさいよね!」
「うぅ……ごめんなさい」
レザリアが顔を上げると、そこには自分と同じように頭を手で押さえている赤毛の少女がいた。
緑色の瞳が、レザリアに向けられる。
「あんたのせいで猫を見失っちゃったじゃない!」
「ねこ……?」
「そうよ! 桃とハチミツの色をした……って、あんたには関係ないわ!」
ハチミツ色……!
「その子猫! ぼくも探してるんだ!」
「なによ! 渡さないんだから!」
「渡すとか渡さないとかそういうんじゃないよぉ!」
少女二人が威嚇しあっていると、茂みから物音がした。
「「ねこ!?」」
二人同時に叫んだが、その音の正体は上半身だけを茂みから出し、「にゃあ」と鳴く老紳士だった。
「マーカスさん!?」
「きも!!」
蛇のようにヌルっと茂みから全身を出すと、ため息をつきながら服についた葉っぱをはたき落としていた。
「して、お嬢さん達はこんなところで何を? まだ下校には早いように思いますが」
老紳士マーカスは、わずか数秒前の奇行を棚に上げ、少女二人に尋ねる。
「あんたの方こそ、こんなところで何してるのよ! 気持ち悪い!」
(言い方きついけどぼくも聞きたかった……!)
「あぁ、これはこれは……お恥ずかしい。かわいい子猫のお尻を追いかけていたら、こんなところにまで来てしまいました。するとどうでしょう、今度は人の姿をしたかわいい子猫が二匹も現れたというわけです――」
老紳士は衣服についた葉っぱを全て落とし終えると、改めて真剣な顔をした。
「――はてさて、私は新たな子猫たちのお尻も追いかけるべきか、あるいは……」
「このじいさん気持ち悪い!」
「ほっほっほ。気持ちのいいお嬢さんですな」
「きもい!」
マーカスさん、いい感じだ。元気そうでよかった。
二人が喋っているうちに、ぼくが子猫を見つけてしまおう。
レザリアはこっそりと二人から距離をおき、翠緑庭園の探索を続けることにした。
マタタビの茶葉が入った袋を振りながら歩いていると、どこからともなく猫たちが湧いて出てきた。
「うわぁお。マタタビすごい」
レザリアは一匹一匹確認するが、子猫は見つからない。もう一度地図を取り出して確認するも、赤い点がふらふらと移動しているだけだった。
「どうしよう……完全に見失っちゃった」
いっかいゼトさんのところに戻ろうか……。
そう考えていた時のこと――
〈西に向かって――〉
「――誰っ……!?」
声が聞こえる。どこからだろう。
葉擦れの音と水の流れる音しかしない。
「ひょっとして――」
細くて浅い水の通り道が蜘蛛の巣のように広がっていることにレザリアは気が付く。翠緑庭園には噴水があり、そこから溢れた水が庭全体に広がっているのだ。
「――水の人!」
レザリアは水路に耳を近づける。
絞り出すようなか細い声が伝わってきた。
〈尖晶石通り――黒いマント――猫目石の猫――〉
猫目石――あの子のことだ!
〈助けて――お願い〉
「わかった!! あなたもいつか必ず――」
レザリアは水に向かって力強く声をかける。
「――たすけるから!!」
それと同時に背後から小さな影が忍び寄ってきた。
「ちょっとあんた! きもいじいさん押し付けて抜け駆けするんじゃないわよ! ていうか猫いっぱいだし!」
猫の大群に少しときめいている赤毛の少女に、レザリアはマタタビ茶袋を投げつけた。
「あげる!!」
レザリアは持ち前の俊足で翠緑庭園を駆け抜ける。
「ちょっ……待ちなさいよ!! あぁ! 猫ぉ」
通りを走る灰色の少女に、赤いバンダナの露天商が呼びかける。
「おーいそこのかわいいお嬢さん。アクセサリーとか興味ない?」
以前ぼったくり価格で商品を売っていた赤いバンダナの露天商が手を振っていた。
レザリアは後ろ向きのまま、通り過ぎた露天商の前に戻る。
「なに!? ぼくとっても急いでるの!」
「まあまあそう言わずにさ。どう、安いよ。今は大感謝祭をしていてさ」
「どうせ高いんで……やす!?」
「あっ、分かっちゃう? 若いのにすごいね。日頃お世話になってるこの街の人達にさ、感謝の印としてお安く売ってんのよ」
そうなんだ……。
「それはとってもいいことだね……でもごめんなさい! 今いそがしくて!」
「そいつは呼び止めて悪かったね。また来てよ」
「ところで、黒いマントを着た人見てない!?」
「黒いマント……知らねぇなあ」
露天商の男はあからさまに興味のなさそうな顔をした。
(ぜったい知ってるやつだ!)
「猫目石の――」
「わぁわぁ! お嬢ちゃん! 今日は安いよぉ!」
猫目石という言葉に反応した商人が、急に大声を出した。
驚くレザリアを手招きする。
そして、小声で言葉を伝えてきた。
「いいかい嬢ちゃん……事情は知らねえが、悪いことは言わねぇ。やつらには関わるな」
「……やつらって?」
「やつらはやつらさ。ここいらじゃ有名さ。第一考えてみなよ……黒いマントを着た奴なんて関わるとろくなことねぇだろう、絶対」
「赤いバンダナのぼったくり露天商よりも?」
ぼったくりと聞いて露天商は目を丸くした。
「お嬢ちゃん、ぼったくりたぁ人聞き悪いぜ……」
「ぼく、この街には詳しくて、どこでどんな露天商がぼったくりしてたか、とっても詳しいの」
「ふーん……でもおれっちがどんな値段で売ってたかまでは知らないだろう?」
レザリアはそっぽを向く男に耳打ちをする。
すると男はあんぐりと口を開けた。
「い、今はさぁ! まじで心入れ替えたんだって! いや、まじでさ……」
「黒マント」
「はぁ……?」
「知ってること教えて」
少女の灰色の目は、激しく燃えていた。
「……まいったなぁ――」
レザリアは尖晶石通りの北側から、一直線に琥珀大橋に向かいながら、露天商の言っていたことを思い出していた。
――やつらの正体が何なのかなんておれっち知らねえけどよ、アンバーブリッジの向こう側から来てるってことは確かさ。
アンバーブリッジの向こう側といやぁ、この街でも一番金持ちが集まるとこだろう?
なんでも、貴重な宝石を収集する闇組織があるってもっぱらの噂だぜ。
もっと言うと、人さらいだってするとか聞くぜ?
ひとつ忠告するなら、絶対に橋は越えるな。
まあ、越えようったって入れないだろうけどさ。
「ゼトさんに相談――」
――してる暇、ないよね。
橋に向かうなら、街を突っ切る方が早い。
少女は路地を走り抜け、時には屋根に飛び乗り、柵を飛び越え、最短で琥珀大橋へと向かう。
アンバーブリッジのその先には、レザリアも踏み込んだことがない。観光客はもちろん、橋より内側の住民が入ったところを見たことはない。
〈きゃあッ!〉
〈あの子足はやッ!?〉
〈のわぁー!!〉
道すがら、通行人たちの悲鳴を浴びては、レザリアは謝罪を繰り返す。
琥珀大橋まで走り続けた少女は少しばかり呼吸が乱れていた。
「すぅ………………………………はぁ…………………………………」
立ち止まって深呼吸を数回繰り返し――
「よしっ!」
――調子を取り戻してから、人通りの中に黒マントを探し始める。
橋の上から見える水平線を楽しむ人たち以外に、それらしい怪しい人物は見当たらない。
「まだ来てない……? それとも……」
もう橋の向こう側に行っているとしたら、自分に何ができるだろう。レザリアはしばらく考え込んだが、特にいいアイデアは浮かんでこなかった。
「こうなったら待ち伏せだ――」
夜が更けてくると、レザリアはひとりうなだれる。
「――はぁ……これならゼトさんのところに一度向かえば良かった。ノート持ってくれば良かった」
人通りも途絶え、もう誰も来やしない。
そう思い始めていた時のことだった。
「……だまを……か……まま……るか」
暗い闇の中に人の声が聞こえた。
レザリアは息をひそめて、橋の端の柵を越えて、姿を隠す。
「誰だ」
冷たく低い声が、確実にレザリアに向けられていた。
必死に両手で口を押さえるが、漏れ出る息すらうるさく感じてしかたがない。
「どうせ猫でしょ? ここ多いし」
若い女の人の声がする。
しかし、女の言葉に反して、男の方は用心深いようだった。
「誰もいない……か」
声の方から何かの光が差してきたので、レザリアはとっさに橋の端にある大きな手すりの陰に身を隠す。
どうやら気づかれずに済んだらしい。
灯りは消え、わずかな足音が通り過ぎようとした。
(はやくどこかいって……はやく……)
レザリアは震えながら祈っていた。
(ぼく、ばかだ……来るんじゃなかった……)
早く帰りたい。
はやく……はやく……。
レザリアはぎゅっと目をつぶり、ただ時間が過ぎるのを待とうとした。
(はやく……)
何しにきたんだろ。
(どっか行ってよ……)
助けに来たのに。
(ゼトさんがいれば、ぼくはそれでいいもん)
ぼくって、こんなにやな奴だったっけ。
(たかが猫だよ……? 人と比べればそんなの――)
やめて。
(――ただの石ころだ)
石ころと心の中で言い放った時、少女は懐かしい声を聞いた気がした。
〈覚えていますよ。石ころのレザリアさん〉
そうだ、ぼくは……ぼくこそが石ころだったじゃないか。
少女は歯を食いしばり、震える脚に爪を立て、目を見開く。
「グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ン! グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ン!」
琥珀大橋に響くなき声。
幼い猫を呼ぶその声を、黒衣の男女が耳にする。
「誰だッ!!」
「猫よ。知らないの? あれは母猫が子猫を呼んでいるのよ」
人の声に紛れるか細く小さな鳴き声を、親猫の耳は逃さない――
〈にゃあ〉
――この不器用な鳴き声を、少女は知っている。
暗闇の中で、灰色の女豹が黒衣の男女に向かって飛び出した。
隠し持っているであろう子猫を奪い返そうと、二人の間をすり抜けるようにして駆ける。
女が抱えているものに手を伸ばしたが、とっさに距離を取られた。
レザリアは歯嚙みする。
「あら――」
女の方が面白がるような声を出した。
「――人間だったみたい。まるで猫みたいだけど」
「どうでもいい。何者か言え。答えれば楽に壊してやる」
主導権は自分たちにある――そう言わんばかりの物言いに、少女は怯まない。
「ぼくは石ころ――」
真っすぐに敵を見据え、牙をむく。
「――石ころのレザリアだ」
黒マント二人も、レザリアから決して目をそらさない。
「いい名前ね」
「……知らんな。どこに所属している」
「琥珀大橋の端の下」
不敵な笑みを浮かべて、少女は軽口を言ってのけた。
女の方はくすくすと笑っているが、男の方は反応がない。
「そうか、なら――」
男はマントの中から何かを素早く繰り出す。
「――ここで死ね」
何かが飛んでくる。
刃物だろうか……確認はできない。
しかし、それがいつ自分の身体に届くのかは分かる。
(受け止めて武器にする?)
触っても大丈夫かな。
考えている間に、男が別の刃物を抜く音がした。
飛び道具を追うようにして、切りかかろうとしてくるのが分かる。
女の方は動きがない。
レザリアはとっさに懐中時計の鎖を掴み、飛び道具をかわしつつ男の顔めがけて本体をぶつけた。
不意を突かれてよろめいた男のあごに蹴りを入れ、その勢いのまま女に向かって懐中時計を振り回すが――
「すごいわねぇ」
――女はこれをかわす。
暗闇の中で時計を覗く余裕すらあるように見えた。
(もう一回……!)
レザリアは回転を維持したまま時計を振りつつ、二人の動きを見張り続ける。
〈レザリア、お前の私よりも優れた部分を見つけたぞ〉
男は倒れたままだ。
女の方は何をしてくるのか読めない。
〈時間の感覚が極めて正確だ。エルフでは誰も――〉
あと少し……!!
〈――敵わないだろう〉
懐中時計が女のこめかみを捉えた瞬間、12時を告げる鐘の音が届いた。
少女は零れ落ちた石ころに手を伸ばす。
「人騒がせな猫ちゃん……ゼトさんに感謝してよね……!」
少女はそれを抱きかかえたまま、脇目も振らずに全力で街へと逃げた。
「ぼくが石ころじゃなかったら、あんな怖いことしないんだから……!」
会いたい……はやく……ゼトさんに会いたい……!
【ギベオン書店 入り口前】
靴を片手に持った少女は衝撃の光景を目にした。
「グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ン! グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ゛ン!」
会いたかった人が地面に寝そべり、猫に囲まれながら聞き覚えのある声で鳴いていたのだ。店の前で。
「ゼトさん!!?」
「グルルゥ゛ゥ゛ゥ゛ァ……はっ! レザリアさん!? これはちがくて!!」
「いいから中に入れて!?」
二人は黙って書店の中に入る。
ゼトは後ろ手に鍵を閉め、10秒固まった後、大きくため息をついた。
「ふぅ……」
「……」
「おかえりなさい。レザリアさん」
「なかったことにはできないよ!?」
レザリアとゼトは事の経緯をお互いに伝え合うことにした。
二人は用意した椅子に座って向かい合い、子猫はレザリアの膝の上でおとなしく丸くなる。
「――それで、やっと帰ってこられたの」
「そんなことが……お役に立てず、申し訳ありませんでした」
「ゼトさんは、役に立ってたよ」
「どういうことですか?」
「……ないしょ」
「……?」
青年が首をかしげるが、少女は答えてあげなかった。
「無事で何よりと言いたいところですが、確認しておきたいことがあります。なぜ裸足なのですか?」
青年の視線が少女の足に向かっていた。
爪に砂粒が挟まり、控え目に言ってもかなり汚れている。
「あっ……ごめんなさ――」
「痛くありませんか?」
「――うん、痛くない」
「すみませんが、足の裏を見せていただいてもよろしいですか。怪我をしていないかだけ、確認させてください」
青年は床が汚れることなど気にしていない。
少女はそっと小さな足を差し出す。
「はい……」
「……怪我は、なさそうですね」
「えへへ、足は砂粒より硬いんだ。ずっと裸足だった時があるからかな」
「そうでしたか……」
「あっ、あんまり見ないで!」
「これは……失礼しました」
ゼトが視線を外すと、入れ替わるかのように子猫が飛び降りて足裏の匂いを嗅ぎ始めた。
「なっ……」
口は半開き、目は見開き、それでいて真剣な空気を漂わせるその表情をする子猫。
それを見たゼトは大いに喜んだ。
「この反応は初めて見ました……すごい」
「なんだよぉ……これってどういう顔なの?」
「おそらく、しっかりと匂いを嗅ごうとして――」
「かぐなぁ!」
レザリアは子猫を蹴らないように足を引っ込める。
「匂いのことははさておき、どうして裸足だったのですか」
「臭くないもん……黒い人たちから逃げてるとき、『もし足音で追いかけられたらどうしよう』って思って……脱いで走ったの」
レザリアは足を交互に揺らした。
「それから、街中をぐるぐる回ってからここまで来たの」
ゼトはレザリアの言葉を聞きながら、真剣な表情で唸る。
「ぼく、間違ってたかな……」
「何も間違ってなんていません。むしろ、僕は尊敬しているんです」
「……そんけい?」
「自分の意志に基づき、その場でできることを考え、それを実行したのですから」
うつむいた顔を上げると、レザリアは泣きそうな顔をしていた。
「ぼく、いっぱい考えたの……考えないといけないって言われたから……考えないとって思ったから……」
「はい」
「こわくて……ほんとは……にげたくて……うっ……あぁ……」
「それでも、逃げなかったじゃないですか」
心配そうに鳴く子猫を抱き上げ、レザリアは鼻をすする。
「でも……もし、ぼくが後をつけられていて、この書店にいるってばれちゃったらどうしよう……もうここにはいられなくなったらどうしよう……この子がまたとられたらどうしよう……またひとりになったらどうしよう」
「もしここにいられなくなったら、他の場所に引っ越しましょう。この子が取られたら奪い返しましょう。そして、あなたがひとりになることはありません」
ゼトさんがいるから……?
レザリアはそんな言葉を期待している自分に気がつく。
「――あなたが、誰かを見捨てないあなたである限り、レザリアさんがひとりになることはありません」
期待していた言葉とは少し違った。
けれど、少女は弱弱しい足取りで、子猫を抱いたまま青年の方に歩み寄る。
そして、彼の胸に縋りつくようにして泣いた。
「レザリアさん、あなたは勇敢でした」
「うぁぁ……あぁぁ……」
ゼトはさらに何かを言おうとして口を開きかけたが、ぐっとこらえるようにして口を閉じる。
代わりに少女の背中を何度も優しくさすった。
涙も収まってきたころ、ゼトに身を預けたままレザリアは尋ねる。
「――ところで、ゼトさん。あれはなんだったの」
「あれとは?」
「店の前でやってたやつ」
「店の前で」
「猫みたいに寝っ転がってたやつ」
「……忘れました」
「うそつき」
「……鳴き真似をすれば、レザリアさんのようにこの子猫が来てくれるんじゃないかと思いまして」
少年のように恥ずかしそうな顔をしているゼトを見て、レザリアはニヤリとした。
「ゼトさん、もっかい鳴いてみてよ」
「……嫌です」
「ねえねえ……あっ……にゃあにゃあ」
「猫っぽくしてもだめですから」
本物の猫を差し置いて、猫になろうとしていた二人の耳に奇妙な声が聞こえた。
「……とう」
声が……少女の腕の中からだ。
「お……ねぇ……ちゃん……」
えっ……?
「ありが……とう」
二人は言葉を失った。
その猫は、何度も「おねえちゃん」「ありがとう」を繰り返す。このことが何を意味するのか、レザリアには分からなかった。