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04

「……こんな抜け道があるなんて」


ゼトは目の前に広がる空間に声を潜める。

洞窟の穴という穴を進んだその先に、街の地下坑道と繋がる抜け穴があったのだ。


「ゼトさんも知らなかった?」

「はい、知りませんでした。凄いですよ、レザリアさん」

「えへへ……」


街に地下坑道があることは、昔から街に住む人間の多くが知っていることだった。しかし、地下坑道への入口は既に閉ざされているらしく、誰も入れないように管理されている。ましてや、メテオライト海蝕洞と繋がる抜け道があるという話を、レザリアも他人から聞いたことがなかった。


「ここは……地上なら書店の近くですね」

「うん。きっとこの道が藍玉(アクアマリン)通りの下なんだと思う」


道の先は暗闇で見えなかったが、地面や天井――いたるところに色とりどりの光水晶が散らばっているおかげで何とか歩けるようになっていた。


「ところどころ削られていない柱は残っていますが、横幅も地上の大通りと変わらないのでしょうか」

「両手を広げて……50人分くらい?」

「……だとすれば、地上の道に沿って坑道が掘られたのでしょうね」

「ふーん?」


両手を広げたまま少女はくるくる回る。

一方でゼトは眼鏡を外し、広大な地下空間を見渡していた。


「どうして外すの?」

「しっかりと目に焼き付けて置こうと思いまして」

「……?」

「これは特別な眼鏡でして、見え過ぎないようにするためのものなんです」

「……見えちゃだめなの?」

「僕の場合、見え過ぎると疲れてしまう体質のようで……まったく難儀なものです」

「そうなんだ……」

「ご心配にはおよびません。今のところ生活に支障はありませんので」


レザリアはためらいがちにゼトに歩み寄ると、その手を握る。


「レザリアさん?」

「ここ、たまに大きな穴があるんだ。危ないから、離れないでね」

「分かりました……きっと、さらに地下まで掘り進めたものでしょうね」


ゼトは時々声を漏らしては興味深そうに頭を動かしていた。


「地下なのに……まるで星空の中にいるようです」


(ゼトさん、子どもみたいだ)


レザリアは振り子のように繋いだ手を揺らす。

二人はまるで仲の良い兄妹のように永遠の夜道を歩き続け、たわいない話を交えながら、街の中心へと少しずつ近づいていた。

ちょっとしたお出かけ気分になっていたレザリアに、ゼトは改めて尋ねた。


「――本当に、彼女は危険ではないのですか」


彼女――それは自分たちを突如襲った白仮面の少女のことだ。

レザリアは心配するゼトの手を強く握った。


「だいじょうぶ。あの子はきっと、やさしい子だよ――」


――この道を進んだ先で初めて出会ってね?

壁に背中を預けて座っているあの子がいて、怖くなって来た道を帰ろうとしたの。それからずっと歩き続けて、気がついたら迷子になってた。

どうしようもなくなって、泣いてたの。そしたらね?


「こんなところで何をしているの」


あの子がぼくを見つけてくれたんだ。

それから、何も言わずにぼくを洞窟の出口まで案内してくれてね、「もう二度と来てはだめ」って言われて、いつの間にか消えちゃったの――


「――まあ、それから何度か覗きに行ったんだけどね……」


レザリアは目をきょろきょろさせながら説明を終えた。

ゼトは「確かに、お話を聞く限りでは親切な方ですが――」と呆れた顔をする。


「――どうして彼女はあんなことをしたのでしょうか」

「ひょっとしてゼトさん、あの子と何かあったの……?」

「断じてそのようなことは……出会ったのは初めてです」

「ぼくも初めてだよ? 初めてじゃないけど……」


レザリアは自分で言って悲しい顔をした。


「とにかく、お話した通りの段取りでお願いします」

「…………やだなぁ」

「レザリアさんが『自分一人でも行く!』と言うから、ここに来たんですよ」

「あの子に気づかれないようにこっちが先に見つけて、不意打ちであの子をロープで縛って、魔法をかけて自白させる……こんなの犯罪者だ……」


ぼくが言うことじゃないけど……。


「お互いが最も傷つきにくい方法です」

「…………ゼトさんのへんたい」

「……?」


ゼトは言われたことが理解できなかったのか、右手で自分の顔を掴むようにした。


「ゼトさん、前見ないとこけちゃうよ」

「変態とは、あくまで生物がその形を変えることを指すのであって――」


ぶつぶつと独り言を言っているかと思えば、不意にゼトはレザリアを近くの柱の影に連れて行く。声を上げそうになる少女の口を、ゼトは手際よくふさいだ。


ぱきり……ぱきり……


何かが割れる音が遠くから響いている。


「――静かに」


ゼトは外套のポケットから眼鏡を取り出すと、それをかけ直した。

目を瞑ってじっとしていたが、しばらくして先ほどまでよりもさらに小さな声で囁く。


「レザリアさん、ここをまっすぐ行った先には壁があるんでしたね?」

「……んー」

「すみません」

「びっくりした……そうだよ? 丸い柱みたいな壁だと思う」


レザリアの言葉を受けて、ゼトは小声で続ける。


「この地下坑道が地上の通りと概ね同じであると仮定するなら、僕たちは今紫水晶(アメシスト)通りと翠玉(エメラルド)通りの境目の十字路を過ぎたあたりにいると思うのですが――」

「うん。十字路のちょうど真ん中から1分32秒歩いたよ」

「――時間を計っていたんですか?」

「ううん?」


ゼトの驚いた表情にきょとんとするレザリア。

それに対してゼトもまた驚くのであった。

気を取り直すようにゼトは言う。


「おそらく紫水晶(アメシスト)通り側か翠玉(エメラルド)通り側のどちらかに、仮面の少女がいます……あの音が彼女のものであればですが。少なくとも正面にはいないのではないかと」

「どうして分かるの……?」

「反響音で……ひとまずこのまま突き当り付近までは黙って進みましょう」


歩くにつれて、奇妙な音は大きくなってゆく。

この音を聞いていると、レザリアはどうしてか胸が締め付けられるような感じがした。

壁の近くまで来てようやく、その音が紫水晶(アメシスト)通り側――東側から聞こえてくるのだと分かると、レザリアたちはさらに慎重に音の正体へと迫っていく。


(いた……!)


うなだれるようにして壁にもたれかかる白仮面の少女がいた。

光水晶に照らされ、青白い空気があたりに漂っている。

彼女は拳を自分の胸に向かって叩きつけ、その度に「ぱきり」という音が響き渡っていた。


(何を……してるの……?)


レザリアは、彼女の行動に大きな不安を感じた。

陰から飛び出そうとしたが、ゼトにしっかりと掴まれて動けない。

声を抑えつつ、レザリアは抗議する。


「ゼトさん、放して……」

「静かに……」


ガツ……ガツ……ガツ……ガツ……


今度は硬い地面を砕かんばかりの足音のようなものが、聞こえてきた。

それは、明らかに仮面の少女に向かっている。


「オォーホホホホホホホホホ!! 無様!! 無様!! 無様!!」


身震いするほどに大きな高笑いと罵声に、レザリアは鳥肌が立った。叫びそうになった口を必死に自分の手で抑えるが、漏れてしまいそうな気がしてならない。


「レザリアさん、大丈夫です。あなたは独りじゃない」


ゼトにしっかりと手を握られて落ち着きを取り戻し、

笑い声の正体を確かめようと一歩踏み出す。


白い少女に覆いかぶさるかのように、黒い塊のような人影がそこにはあった。血のように赤い瞳を暗闇の中でぬらりと光らせている。フードからはみ出た長く豊かな髪が、地面へと手を伸ばすかのように垂れ下がっていた。


魔女――これほどこの言葉が相応しいと思ったことは、レザリアにもなかった。


「手伝ってあげるわ」


魔女は急に優し気な声を出したかと思うと、地面に投げ出された白少女の足を踏み抜いた。それを何度も繰り返すと、ピンと張り詰めた音が何度も反響する。


「アハハハハハ!! オホホホホホ!!」


魔女は脚の根元から先まで嬉しそうに踏み散らかした。

レザリアは飛び出そうとしたが、ゼトに抑えられる。


「セミの抜け殻みたーい!! アハハハハ!!」


踏まれても踏まれても、少女は微動だにしなかった。

代わりのように叫ぼうとしたレザリアだったが、ゼトに口を抑えられて声が出せなかった。


「オホホホ……あなたって頭の中腐ってるのかしらん。前みたいに泣き叫びなさいよ。つまらないわ」


次に魔女はお腹を蹴り始めた。


「そうだった……腐る中身もないんだったわね」


魔女は紅く塗りつぶされた爪で、白仮面を指さす。


「出来損ないのガラス少女(グラスガール)なんだから」


魔女の指先から緑色の稲妻が伸びたかと思うと、白仮面の身体はガラガラと崩れ落ちた。

魔女はバラバラになってしまった少女を指さしたまま高笑いする。


「オォーホホホホホホホホホ!! 泣いているのかしら? 心までガラスなのかしら?」


ヒールのついた靴でガラスの少女を踏みつける。


(ゼトさん……はなして)


「あなたが救われるには呪うしかないの!! 街の人間どもをね!!」


(はなして……ッ!!)


レザリアはゼトを本気で睨んだが、ゼトもまた魔女を凄まじい形相で睨んでいた。


「耐えてください」


怒りを抑えようとしているゼトの横顔を見て、レザリアは抵抗をやめた。


「あぁ……本当に泣きたいのは、このワタシなのよ。ワタシこそが救われるべきなの……」


魔女は両手で自分の顔を触り、慰めるように撫で下ろした。


「ふふ。あなたがとっても羨ましいわ。砕けてもくっつくんですもの」


最後にガラスの残骸を蹴り飛ばすと、そのまま来た道を戻って去っていく。来た時とは打って変わり、すっきりとした足音だった。魔女の気配がなくなるまで二人はじっと耐え続ける。


やがて、微かなすすり泣く声だけが残された。

レザリアが飛び出す。


「あなた……時計塔の……」


バラバラになった少女は、力ない声を出した。


「ねぇ……なにしてるのよ」


レザリアは素知らぬ顔で周辺に散らばったガラスの破片を集めていた。


「ねぇったら……」


苛立ちを抑えきれないかのように叫ぶ少女だったが、レザリアはただ黙って地面を見下ろしていた。


「ねぇっ……!」

「ぼくは『ねぇっ……!』じゃありません。レ・ザ・リ・ア……っていう名前があるの!」


レザリアは「ぼくはレザリア~友情を売る女~」と歌いながら破片を拾い続け、めくった服の中に入れてゆく。


「ねぇ!」

「フフフフン~」

「……レザリア!」

「なあに?」


ようやく名前を呼んだ少女に、レザリアは振り返った。


「なにしてるって、聞いてるの……」

「あなたの身体を集めてるんだ」

「それでどうするの……!」

「返すよ。あなたの身体でしょ」


レザリアの言葉に深いため息をついてから、ガラスの少女は言い放つ。


「とんだ自殺志願者! わたしがあなたにしようとしたことをもう忘れたの!? わたしは……あなたを呪おうとしたのよ」


あぁ……ぼくだったんだ。

ゼトさんじゃなくてよかった。


「どうしてあなたはぼくを呪おうとしたの?」


レザリアの無邪気な聞き方に面食らったのか、少女は何か言いよどんでいた。


「ねえ、どうして?」

「……言いたくないわ」

「いつもぜんぜん話してくれないよね」

「……いつも?」


そうだった、忘れてるんだもんね。

なんて説明しようかと考えたが、今はいったんやめておくことにする。


「ぼくを呪っても、多分呪いは解けないと思うよ」

「……あなたに何が分かるの」

「あいつがめっちゃ性格が悪いってことかな」

「……あなたは、わたしに復讐しに来たんじゃないの」

「ううん? ただ……気になったから」


少女はレザリアの言葉に、押し黙った。

しばしの沈黙ののち、仮面の奥から声を出す。


「無様でしょ。全身ガラス張りなの」


なんて言ってあげればいいんだろう……。

レザリアはどう返したものかと考えていた。


「ステンドグラスみたいにしてみるとか……どう?」

「死にたいの?」


まちがえたみたい……。

レザリアは目を逸らす。


「レザリア……あなたはどうして、そんなことをしているの?」

「そんなことって?」

「わたしの……身体を集めてる」

「そんなことじゃないもん。ともだちの力になるってことだもん」

「友達……? わたしとあなたが……? 意味が分からない……」

「いいもん。ぼくが勝手に思ってるだけだから」

「勝手に思わないで……! どうして……変だわ!」

「変じゃないよ。だって、あなたと会うのは初めてじゃないから」

「どういうこと……?」


やっとぼくのこと見てくれた!

レザリアは、少女が自分に関心を持ってくれた気がして少し嬉しくなってきた。


「ぼくね? 呪われてるんだ。石ころの呪い」

「……石ころ? どこが石なの? 頭の中身?」

「それ……すごく傷つくね……」


ガラスの少女は「そうね」とだけ言う。


「石ころみたいにどうでもいい存在になる呪い。12時になると、みんなぼくのことを忘れちゃうの」

「……本当におとぎ話みたいね」

「あなたも、ぼくのことを忘れるんだよ」

「覚えていたら呪ってあげる」

「やだぁ……」


レザリアはひと通り欠片を集め終えると、白仮面の少女に近寄る。


「近くに置いておいてくれればいいわ。そのうち勝手に集まるから」


言われたことにうなずき、一つ一つ丁寧に地面に置いていく。

既にバラバラに割れていたが、それでも大切にしたかった。


「謝るということは……許しを乞うことと同じだと思う」

「ふぇ?」


少女が急に難しいことをぽつりとこぼし、レザリアは気の抜けた声を出す。


「……だから、あなたにも謝ったりしないわ」

「???」


どういうこと……?


「……意味が分からないって顔しないでよ」

「だ、だって……よくわからないんだもん」

「……あなたに謝るつもりはないし、どうしてあなたを呪おうとしたのかも……話すつもりはないってこと」

「んーぅ?」

「もういいわ。わたしが悪かったんだから」


少女は仮面の奥からため息をついた。

レザリアは少女の言葉を理解したかったが、半分も分かりそうになかった。


「とにかく、もう二度とわたしには近寄らないで」

「いやだ……いっしょにここを出よう?」

「出てどうするの? あの人はどこまでも追ってくるわ」


あの人というのは、さっきの怖い人のことだよね……。


「……あの人って、いったい誰なの?」

「それを知ってどうするの?」

「……」

「……教えないわ」

「……けち」


レザリアがふてくされていると、少女は苦しそうに言葉を発した。


「あの人は……いつ現れるかは分からない。わたしを殺したりはしない。殺せないのかも。わたしも、どうすれば自分が死ぬのか知らないから」

「死んじゃだめだよ……」

「あなたが言うの?」

「え……」

「とにかく……わたしも詳しくは知らない。かわいそうな人だということ以外はね」

「かわい……そう?」


どう考えても、かわいそうなのはあの人じゃない。

レザリアは少女の言うことが理解できなかった。


「まるで、かわいそうなのはわたしだとでも言いたげね」

「そ、そんなこと、ないよ?」


図星をつかれたレザリアは、握った左手を右手でさする。


「かわいそうなものか。わたしは……あなたを呪おうとした……ううん、呪ったの」

「……あいつのせいなんでしょ? あいつがあなたに酷いことするから……」

「違うわ」

「違わないよ……!」


レザリアは思わず叫ぼうとしてしまうが、両手で口を塞いだ。

少し時間を置いてから、静かに口を開く。


「ぼく、考えてたんだ。あなたが優しいから、ぼくは死ななかったんだって。そうだよね……?」

「手元が狂っただけよ。無様にもね」

「そんなこと――」


――どうして、そんなこと言うのさ……。

レザリアは仮面を上から覗き込んで、涙の粒を落とした。


「無様なんかじゃないよ……」


レザリアは顔を覆って泣く。

泣くつもりなんてなかったのに、抑えることができなかった。


「レザリア……いい名前ね」


少女はそう言って、繋がりかけた手でレザリアの頬に手を当てた。白い手袋の内側の冷たい感触がレザリアの頬に伝わる。

音を立てて崩れそうなその手を取り、レザリアは一番聞きたかったことを少女に尋ねた。


「そうだ、あなたは……あなたの名前は?」

「私は忘れてしまうのに、それって不公平じゃないかしら?」


少女の言葉は、レザリアの心にはガラスの破片のように突き刺さる。


「それは……そうかも……」


レザリアはがっくりとうなだれ、地面を見つめる。


「正直に言うとね……こんな身体で名乗るのは何だか……とても嫌なの。だって、こんなのはわたしじゃないから」


人形のようにぎこちない動きで、少女の親指がレザリアの涙を救い取った。


「不公平って言ったのは……ただの建前よ」


もう片方の手で、少女はレザリアの頭を撫でて言う。


「そろそろ行きなさい。わたしはきっと、いきなり目の前に現れた見知らぬ女の子を良く思わないから」

「どうすれば、あなたと仲良くなれるかな」

「さあね。同じことを繰り返すとか?」

「そんなの……いやだよ」


レザリアは少女の手を支えて、ゆっくりと地面に下ろした。少女の砕けた胴体が目に入り、思わず目をつぶってしまう。


「ねぇ、レザリア」

「……なあに?」

「わたしのことを、『無様なんかじゃない』って言ってくれた女の子は、いなくなってしまうの?」


レザリアは石のように固まった。

唇が震え、声が出てこない。

何か言ってあげたい……けれど、言葉が出てこない。


レザリアは言葉の代わりに少女を抱きしめ、仮面の額にキスをする。


「ぼく……ずっと……この街にいるから……」


レザリアはゆっくりと立ち上がり、その場を後にした。何度も振り返っては、「一緒に行きたい」と言ってくれないかと期待して――







「――大変な一日でしたね」


ゼトが書店のドアの鍵を閉める。

ろうそくで明かりを灯すと、店の真ん中でうずくまる少女がいた。


「お客様、いつまでもお店の真ん中で丸まってはいけませんよ」

「丸まってるんじゃないもん」

「じゃあなんですか」

「丸まった猫の真似だもん」

「丸まっているじゃないですか……」


12時の鐘が鳴る。

少女はピクリと身体を動かし、次第にぶるぶると震え出した。


「レザリアさん。12時の鐘が鳴りましたよ」


ゼトの言葉に、レザリアは飛び上がりそうになる。


「……ゼトさん……まだ……ぼくのこと覚えてる?」

「覚えているから、真っ先にあなたの名前を呼んだんですよ」

「ゼトさん」

「何でしょうか」

「これから毎日12時になったらぼくの名前を呼んで……?」

「……早く寝たいときはどうするんですか」

「…………起こす」


レザリアの頭の方に回り込むと、ゼトは彼女の脇を抱えて持ち上げる。


「猫の真似はもう終わりです。あなたはレザリアさん……なんですよ」

「うぇ……みないでよぉ」


レザリアは泣きはらした顔をしていた。

お世辞にも、年頃の少女が男性に見せたい表情とは言えない。

ゼトもばつが悪くなってしまい、顔をそらす。


「失礼しました……」


ゼトは心底申し訳なさそうにした。

レザリアはふらつきながらも何とか立ち上がると、とぼとぼとドアの方に向かう。


「どちらへ?」

琥珀大橋(アンバーブリッジ)の端の下」

「寝言は寝て言ってください。2階に上がって左の部屋にベッドがあります。寝心地は保証できませんが、今日はもう遅いのでそこで寝てください」

「でも……」

「いいから、そうしてください」

「ゼトさんはどこで寝るの……?」

「安心してください。ちゃんと別のベッドで寝ますよ」


ゼトに見送られながら、弱弱しい足取りで階段を上がるレザリア。何度もちらちらとゼトを振り返りながら、ようやく階段を上りきるのだった。







「まだ怒っているんですか」

「ふん」


ギベオン書店の受付に座る青年と、その脇に座る少女がいた。

少女の怒っている理由はこうだ――


(――ちゃんと別のベッドで寝るって言ってたのに)


青年ゼトは結局受付のイスに座って夜を明かしてしまったのだ。そのことが、少女レザリアにとっては許せないのである。


(変な姿勢で寝て、身体こわしたらどうするのさ)


レザリアはゼトにも直接言った文句を心の中で繰り返していた。


「いらっしゃいませ」


そんなレザリアの機嫌を取れないまま、ゼトは店長としての勤めを果たさなければならない。客から相談を持ちかけられれば、それに応えることも彼の仕事だ。


「あらやだその子は店員さん?」

「でもでもご機嫌ナナメの様子ね?」


昨日も会った紅茶好きのマダム達だった。

今日も今日とて紅茶を片手に街を出歩いているらしい。


「彼女は……そうですね。今日からうちの店で働くことになった――」

「レザリアです」

「――緊張して表情がこわばっていますが、じきに落ち着くことでしょう」


レザリアがもう一度ゼトを睨んだが、ゼトは見ないようにしていた。


「あらあらそうなのね、はじめましてレザリアちゃん。とってもいい名前ね」

「ええ本当に」


(特に褒めるところがないんだろうな)


少女は卑屈な笑みを浮かべる。


「あらあら笑顔はとってもチャーミング」

「……」


(そういう笑顔じゃないもん)


レザリアは顔をほんのり赤くした。



マダムたちは壁に向かって当てのない本探しをしながら、楽しそうにお喋りをしていた。


〈たまにはア~ンチエイジングを忘れるのも〉

〈悪くないですわね、奥様〉


その様子を見ながら、ゼトが口を開いた。


「本当に、あなたのことを忘れていますね」

「そうですね」

「すみません。あなたが嘘をついているとは、もちろん思っていませんでした」

「頭がおかしくなってるかもって思ってた?」

「……」

「ゼトさん」

「……『おかしい』というのは語弊がありますが、ほんの少し。あくまで可能性としてです」


ゼトははひやひやした様子だったが、レザリアは怒らなかった。


「ぼくもそうなのかもって、しょっちゅう思うもん」

「あぁ……」

「でも、これでやっぱりそうじゃないって分かった」

「……」

「なにその顔~」


ゼトの神妙な面持ちに、レザリアはころころ笑うが、彼が目を瞑って唸り始めると、今度はそわそわし始める。

反応が欲しくて、ゼトの顔の前で手を振ってみたりしていた。


「すみません」

「うわぅ……」

「少し、考え事をしてしまいました」


予期せぬタイミングで声を出されたので、犬のように鳴いてのけぞってしまう。しかし、反応してくれるだけでもレザリアは嬉しかった。


「……ぼくのことを考えてくれてたの?」


レザリアはそう言ってから恥ずかしくなり、自分の指同士を絡めて手遊びをする。

そのやり取りを見ていた者達が近づいてきた。


「私たちとっても心配だわ」

「ええ心配ですの」

「ここが書店じゃなくて劇場になりやしないかって」

「劇場も悪くないのだけれど」

「毎日ラブロマンスだと」

「若返っちゃいそう」


マダムたちが「もうやだ~」と笑うので、レザリアは苦笑する。そんな中、ゼトはおもむろに立ち上がり、店の隅の方へと歩いて行った。本を数冊手に取って戻ってくると、マダムたち二人にそれを見せた。


「そんなお二人にぴったりの本がございます――」

「あらま!」

「聞きたいわ!」


青年店長が本を紹介し始めると、マダムたち二人は目をとろんとさせて聞き入っていた。

レザリアはその光景を見て何となく思う。


(これはよくない!)


だが、何が良くないのかを上手く言葉にすることができなかった。


「もう全部買っちゃう!」

「こちらはもう一冊ずつあるのかしら?」

「そうですね――」


マダムたちはそれぞれで個別に購入するのだろう。

しかし、ゼトの反応からみるに、在庫はないのだとレザリアは予想した。


(どうするんだろう)


「――ご存じかもしれませんが、本好きな学生同士は別々の本を買っては読み終わった後に交換したりするものなのです。たまにはそのようにしてみるのも悪くないかもしれません」


ゼトは昔を懐かしむような表情で瞳を閉じる。


「そうねぇ……」

「どうしましょう……」


二人には何か後押しが必要なようだった。


柘榴石(ガーネット)通りの喫茶店で、かわいらしい学生たちが本の貸し借りをしていたの見たことがあります。とてもほほえましい光景でした」


ゼトは街の中でも特におしゃれな飲食店が多い柘榴石(ガーネット)通りを言葉にする。


(それでいけるのかな……)


レザリアは少し疑ったが――


「素敵……」

「ねぇ……」

「いつもありがとうございます」


(いけた……)


――購入が決まったらしい。



「またのご来店をお待ちしております」


新人店員と青年店長は深々と頭を下げる。

マダムたちは意気揚々と去っていく。

跳ねるような後ろ姿は学生のようだった。


柘榴石(ガーネット)通りで放課後ティータイムよ!〉

〈老化後の間違いでなくって?〉

〈もうやだ奥様ったら~〉

〈おほほほ〉


いつも陽気な人達だなと、レザリアはつくづく思う。

そう思っているのは自分だけではないようで――


「あのお二人、いつも『ア~ンチエイジング』とおっしゃる割に、老後を楽しんでいるんですよね」


とゼトも笑っていた。


「くすっ……」

「どうかしましたか?」

「だってゼトさん、『ア~ンチエイジング』なんて言うから。それもそっくりなんだもん」

「すみません、記憶力だけはいいもので」

「ふふ……記憶力の問題なのー?」


なんだかおかしいや。

レザリアは今朝のゼトに対する怒りも忘れて、楽しい気持ちで胸がいっぱいになっていた。



時はあっという間に流れてゆき――12時になる10秒前、レザリアは緊張した面持ちでゼトの顔を眺めていた。


「9、8、7、6――」

「……本当に毎日する気ですか」

「――2、1、0……ゼトさん、ぼく。ぼくです。ぼくぼくぼく!」

「レザリアさん、覚えていますよ」

「……行ってきまーすっ!」


少女は灰色の瞳を輝かせて店を飛び出す。

「いってらっしゃい」というやや呆れた声がとても心地よく、自然と頬が緩むのだった。

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