01
灰色の少女は、時計塔から南西にあるメイジーの家の前に立っていた。
ツタが這いまわるドアをノックし、待つこと十数秒。
「どちら様でしょうか?」と柔らかくしゃがれた声が聞こえてくる。
「ぼくだよ! ぼく!」
少女が威勢よく声を出すと、「あらあらまあまあ!」と嬉しそうな声がドアの奥から聞こえてきた。
「もしかして……シャンティちゃん?」
顔を出したのは腰の曲がったメイジ―だった。透き通った水晶のような瞳をきらめかせていた。
「そうそう! ぼく、シャンティ!」
威勢の良い声に驚いたのか、メイジ―は目を丸くした。
「……ふふ。さあ、早くおはいり」
「メイジーおばあちゃん大好き!」
少女はメイジ―にそっと抱きついてから、老体を支える。
「重いね」
「あら、太ったかしら」
「ううん、おばあちゃんは軽いよ。もっと太らなきゃ」
不思議そうな顔をするメイジ―だったが、少女はかすれた口笛を吹いては顔を背けた。シャンティという名は、メイジ―の孫娘の名であって、少女はそれをありがたく無断で借りているだけなのだ。
今日も今日とて朝食をご一緒するために、シャンティとしてメイジ―を尋ねたのである。
少女とメイジ―は一緒に朝食を作ると、リビングで向かい合って食事を摂っていた。
「背に腹は代えられないってよく言うよね、おばあちゃん」
「そうねぇ。おばあちゃんは背中とお腹がくっつきそうなくらい骨と皮ばかりですけど」
「もう……おばあちゃんジョークはよしてよぉ!」
「ふふ、スープの出汁くらいにはなるかしら」
少女は目を細めていたが、メイジ―は嬉しそうに笑っている。
「とにかく……しっかり食べてね!」
「ふふっ……そうね。あなたと一緒だと、食欲も湧いて来るわ」
「ぼくも、おばあちゃんと食べると美味しいよ?」
「嬉しいわ」
「ところでこのパイとっても苦い」
「あら、味付け間違えたかしら……作り直さないと……」
作り直すだなんてとんでもない。
少女は立ち上がろうとするメイジ―を止める。
「いいの! いつも美味しいし、こういうのも生きてるって感じがする!」
「いつも?」
「あぁ……えっと……むかし食べさせてもらった味を思い出しちゃって!」
「あらあら、うふふ。今度は作りましょうね」
借り物の名前、偽物の繋がり……それで得た温かな時間の中で、少女は足を小さく揺らしていた。
今となっては、メイジ―の家は少女にとってのよりどころであり、生命線となっていた。
「おばあちゃん、ぼく、そろそろ行かないと……」
「あら、そうなのね……あなたの顔が見られて良かったわ」
「またくるよぉ。おばあちゃんもしっかりごはん食べてね」
もうすぐ12時だ……。
少女はぎこちない笑顔をメイジ―に見せた。
「いつでもいらっしゃい。美味しいパイを焼いて待ってるわ」
「……うん!」
少女はメイジ―の家を出ると、深くため息をついた。
懐中時計を内ポケットから取り出すと、その秒針を見つめる。
「またね、おばあちゃん」
ぼくぼく詐欺の罪は、いつか必ず償います。
そう誓いながら、小さな詐欺師は走り出した。
宝石の街の中心にある時計塔から遠ざかるようにして、真珠通りを下っていく。
昼の12時の鐘の音が少女を追い立てるようになり響くと、少女は口を大きく開けた。
「こんにちはー!! みんなー!!」
待ちゆく人々が、何事かと振り返る。
少女は走り続ける。
「ぼくはレザリア!! 覚えてますかー!!」
偽物にすらなれない少女――レザリアは必死に叫んだ。
どんなに大きな声を出したとしても、鐘の音を止めることはできない――しかし、叫ばずにはいられなかった。ただの少女でもなく、シャンティでもなく、レザリアであるために。
街の中心の時計塔から南西に向けて、まっすぐに真珠通りを下っていくと、日長石街道に突き当たる。
「今日はどこにいこっかなぁ」
レザリアは全力で叫びながら走ったばかりだった。
しかし、全く息を切らしていない。
「尖晶石通りにしよっと」
特に深い理由もなく目的地を定める。
日長石街道を西に向かって数分歩くと、右手側に尖晶石通りが見えてくる。
「紅玉通りと青玉通りのにせもの扱いの尖晶石通り……だけど、ぼくは好きだなぁ」
家族や友人がいないせいか、レザリアは独り言がとても多かった。
もちろん、そうしていれば誰かが自分に振り向いて気づいてくれるかもしれないという打算もあったが――
「はあ、冷たい目。みんな冷たい。みんな宝石みたいにきれいな目。だけど、目まで冷たくならないで欲しい」
――変人にしか見えないため、むしろ通行人からは距離を取られることがほとんどだった。
しかし、この日は違った。
「そこのきれいな目を……じゃなくてきれいな髪……じゃなくてとにかくかわいいお嬢ちゃん!」
尖晶石通りでは珍しくもない露天商の男から声をかけられたのだ。
「石ころみたいにじみーなカワイイお嬢ちゃんですよぉ……」
「へへ、まいったなぁ……お詫びに安くしとくよ。アクセサリー2割引きにしちゃう!」
「安くって――」
実のところ、レザリアはこの赤いバンダナの露天商を何度か見かけており、流し目する程度には商品を知っていた。
「――2割引きしたら先週とほぼ同じ値段になるよ。むしろちょっと高い。それも、それも……それも」
「ありゃ、こいつはいけねぇ……おれっち人の顔を覚えるのは得意なんだけどなあ」
心底しまったという顔をしている男を見て、少女はニヤリと笑う。
「尖晶石通りに露骨にぼったくろうとしてくる露天商がいるって、つい独り言をこぼしちゃうかも!」
「そいつは困る……嬢ちゃんの声ばかでけえからな……」
「そう、ぼくの声はばかでか……うるさいなぁ! みなさーん、ここに――」
「あぁーあぁー! 分かった分かった! ほんとに安くするって!」
「――じゃあ5割」
「ごっ……おいおい、年末特大セールにはまだ早いぜ!」
「それでやっと相場の2割引きでしょ。だいたい分かるもん」
「嬢ちゃん目が利きすぎるぜ……」
レザリアはもう一度大声で叫ぼうとし――。
「分かった! 5割引きにするから! 嬢ちゃんだけ特別だよ……?」
――勝利した。
「あまりじっくり見たことないけど――」
彼女は獲物を見定めるかのように赤い敷物に並べられたアクセサリー類を見ていく。
「ねえ、呪いに効きそうなアクセサリーとかないの?」
「そうだな、声がでっかいのに効く――」
「ガルルッ!」
「――というのは冗談で、アクアマリンの首飾りとかどうだい」
「ぼくの心はいつだって母なる海のように穏やかで静かなのに?」
「海は時々荒れ狂うもんでさ」
「怒ろうかと思ったけど本当にキレイなネックレスだから怒らないであげる。でもいいかな。ぼくにはちょっときれいすぎるよ」
「なんでぇ、嬢ちゃんにだって似合うだろう?」
「石ころよりも宝石の方がみんな好きでしょ?」
「そりゃあ……そうだろう?」
「そういうことだよ。さすがに冷やかしで終わるのは嫌だから、これ買うね」
首をかしげる男をよそに、レザリアは翡翠輝石のネックレスを手に取る。それは、混じり気の少ない緑色をしていた。
「嬢ちゃん、それはもちっと高いぜ?」
「ぼくが着けるんじゃないもん」
購入を済ませると、疲れた様子の露天商が「まいどあり―」と心にもないことを口にする。
「そうだ!」とレザリアは声を出すと、内ポケットからメモとペンを取り出した。
ペンを走らせると、そのメモを折りたたんで露天商に差し出す。
「これを渡しておくね」
「何ですかいこれは……脅迫状ですかい?」
「そうだよ。開かないと呪いがかかるの」
「それはもうすでに脅迫ですぜ……へへ」
メモを受け取ると、「おーこわ……」と露天商は胸ポケットにそれをしまった。
レザリアはニヤリと笑い、「いい買い物だったよ」と言って立ち去ろうとするが、男が呼び止めた。
「お嬢ちゃんには魔除けなんて必要ないんじゃねぇかな」
「必要ないかと思ってたけど、あなたに声をかけられたから、考え直そうかなって」
「こりゃ恐れ入った」
「質はいいんだから、ちゃんとした値段で売ってよね」
頭をかく男を後ろに、レザリアは尖晶石通りを歩いていく。
ジェダイトのネックレスを見せびらかしていると、日傘を差したレディに声をかけられた。
「グレイト! あなたお若いのにセンスがありますわ! その色、その腰つき!」
「ありがとうございます……?」
腰つき……?
レザリアは意味がよく分からなかった。
「どこでお買いになったの!?」
「そこの赤いバンダナをつけた赤い敷物を敷いている露天商さんですわ。早めの年末特大セールをやっていましてね、4割引きですってよ」
「行かなキャッ!」
腰つきレディが豊満な尻を振りながら走っていく。
それを呆然と見送る少女。
「すっごいお尻ですわ…………しゃべりかた移っちゃった」
レザリアは口に手を当てて「ぼくはレザリア、ぼくはレザリア……」と言い聞かせるのだった。
時計塔のすぐ南側には大きな庭園が広がっている。翠玉通りを挟んだ北と南側、その周辺をまとめて――そこは翠緑庭園と呼ばれていた。
「あっ!」
レザリアは庭園の中に学校帰りの少女たちを見つけた。
その二人はベンチに座って、ぼーっと空を見つめている。
「やっほー元気? ぼくのこと覚えてる?」
見知らぬ少女に声をかけられた二人は、大いに戸惑う。
「えっと……どちらさん?」うっすらとした空色の瞳の少女――シルゥカは目をパチパチさせた。
「ごめんなさい……私も分からないです」黄色く輝く瞳の少女――スアレは不安そうに胸に手を当てる。
「だよねぇ……あはは……はぁ」笑い声の中に小さなため息が紛れ込む。
それでも気を取り直して、レザリアは二人に笑顔を見せる。
「となりのクラスのレザリアだよ。ぼくはちゃーんと覚えてるもんね。シルゥカとスアレでしょ?」
「おっと正解……ごめん、覚えてないわ。いい名前なのに」シルゥカは後ろ手に頭をかく。
「私もです……ごめんなさい。けれど、いいお名前ですね」頭をぺこりと下げるスアレ。
レザリアは知っていた。
「いい名前ですね」という言葉は困った時の言葉だと。
「いいよー、ちょっと話をしたことがあるくらいだからさー。ごめんね邪魔しちゃって」
「いや、うちらこそ悪い。物覚えが悪くてさ。でもスゥも忘れてるってのは珍しいな」
「そんなこと……でもそうですね、あなたのような人を忘れるなんて――」
スアレは何か言いかけて、焦った様子で首を振った。
「ごめんなさい! 深い意味はなかったんです!」
「どうしたんだよ?」
シルゥカの問いかけにだんまりを決め込んでしまうシルゥカだったが、レザリアはこのやり取りにも慣れていた。
「あはは、いいよスアレ。ぼくの目でしょ? 地味だよね」
「あの……その……!」
スアレは黄色く輝く瞳をきょろきょろさせながら、ペコペコと頭を下げるばかりだった。
「だいじょぶだいじょぶ! 別にばかにするつもりなんてないんでしょ!? わかるよ!?」
スアレ……変わらないなぁ。
必死に怒っていないことを全身で示すレザリアに、スアレはほっとした様子で胸を撫で下ろした。
「ぜんぜん分かんねーな―と思ってたら、そういうことか。確かにうちもあんたみたいな子を見たら忘れなさそうだな。ていうか、かえって目立つんじゃね? 全くのグレーの瞳なんて珍しいもんな」
シルゥカも相変わらずだ。スアレとは違ってあっけらかんとした様子。
そう見えて実はけっこうな気遣い屋だと、これまでも何度か話しかけてきたレザリアは知っている。
「ところで、二人は何を話してたの? なんだかぼーっとしてたから、気になっちゃって」
「あぁ…隣のクラスなら知ってるかも知れないけどさ、うちのクラスのやつが一人行方不明になってるんだよ。親も学校に乗り込んできたり大変さ」
探してくれる親がいるんだ。いいなぁ。
「友達だった?」
「いや、うちはそんなに仲が良かったとかはないんだけどさ、スゥが気にかけててな」
「はい……アイサさん、物静かで……あまり人と関わらなくて――」
「スゥと似てるよな」
「――そうそう、人付き合いが……ってもうルゥ! 変なところで話を遮らないで!」
「へいへい」
「その……一人でいることが多い人なんですけど、たまたま授業で一緒になったことがあって……その時になって初めて『あっ、この人冗談とか言うんだ……』って思って、友達になれるかもって思ったんです。そんな矢先に、霧のように姿を消してしまったんです。色んな人が、『誘拐された』とか『魔女隠し』だとか、色んなことを言っていますけど、結局何にも分からないんです」
(魔女隠し……)
レザリアは心の中で呟く。この街に存在する噂話。
古くから街に住む魔女が、気に入った人間をさらってしまうというものだ。さらわれた人間はどこに行くのかは誰も知らないとか。
レザリアはその話を自分と重ねて「うんうん」と頷いていた。
「で、スゥがそんなに気にするなら話してみたいよなーと思ったから、どうしたもんかなーって」
「うんうん、分かる、分かるよ」
「分かりますか……?」
「ぼくも色んな人と仲良くなりたいなって思うし、いつも独りぼっちだから、アイサさんの気持ちも分かる気がする」
レザリアが素直な気持ちを話すと、スアレが思わずベンチから立ち上がった。
「えぇ!?」
驚いた様子のレザリアに「ごめんなさい……」と言ってしょぼしょぼと座り直す。
「えー、レザリア……でいいよな? スゥはこう言いたいのさ。『全然そうは見えない!』ってさ」
シルゥカが「なぁ?」とスアレに振ると、こくこくと頷く小動物のような少女がそこにいた。
「よく言われるよぉ……でも年頃の少女は複雑なのだ」
「ふーん。じゃあさ、うちらと友達になればいいじゃん」
シルゥカはいつも友達になろうと言ってくれる。
「じゃあ、ぼくもアイサさんのことを探してみるね?」
「本当ですか! ありがとうございます! レザリアさん!」
「レザリアでいいよぉ」
「……うん……レザリア!」
スアレの人懐っこい声を聞き、レザリアは空を見上げた。
(かわいい……)
レザリアがぼーっとしていると、シルゥカが不意に立ち上がった。
時計塔を見上げて時間を確認する。
「と、いっけね、うちらそろそろ帰らないと。母さんの雷は槍よりこえぇからな」
「ルゥのお母さん、とても優しいと思うけどな……」
「スゥが知らないだけだよ。じゃあな、レザリア……って、そう言えば、どこに住んでるんだ? うちらは楔石通りだけど」
「琥珀大橋の端の下」
「おいおい、猫でも住まないぜ」
「あはは……真珠通りを下って、柘榴石通りに入ったあたりかなぁ」
ちゃんと住む場所があるって、どんな感じなのかな。
シルゥカがうっとおしそうに、けれど楽しそうに母親のことを話す姿を見ていて、レザリアはいつも気になっていた。
「わりと近いじゃん。いつでも会えるな」
「私、あそこの雰囲気とっても好きです!」
「うん……ぼくも好きだよ」
レザリアは伏しがちな目で、次の言葉を待った。
「じゃあ、またな!」
「学校で会おうね! レザリアさん……あっ、レザリア!」
(いつ、ともだちになれるのかな)
レザリアは二人に手を振って見送る。
「ばいばい……シルゥカ、スアレ」
小さく言葉にしてから、ぼーっと空を見上げる。
レザリアの隣には誰も座らない。
灰色の瞳の少女は、メイジ―の家の前に立っていた。
何も変わっていない寂れたドアを、力ない拳で3回ノックする。
青い夕暮れが街を包み、沈みかけた太陽に照らされた時計塔がじろりと街を見下ろしていた。
「どちら様?」
「ぼく、ぼくだよ」
レザリアだよ。
「もしかして……シャンティちゃん?」
ドアを開いたメイジーに、レザリアは精一杯の笑顔を見せた。
「うん、実はね、ぼく、家出しちゃったんだ。お母さんとけんかしちゃってさあ、家に帰れないんだ」
「……まあ、そうなの。まずはお入り。少し冷えたでしょう。温かいシチューでも作りましょうね」
急いで歩こうとするメイジ―を少女は支える。
「無理しないでよね」
「えぇ……そうね。ありがとう」
ゆっくりと歩きながら、少女はメイジ―に尋ねた。
「……おばあちゃん。ぼくのこと、覚えてた?」
「そうねぇ……あなたとっても大きくなったから見違えちゃったわ」
「そうだよねぇ……ぼくはおばあちゃんのことずっと覚えてたよ!」
「あらあら……うれしいわ」
「はっはっはー、記憶力はいいのである」
「うふふ、ずいぶんと面白い子に育ったのね」
「おばあちゃんの孫だからね――」
それから、いつものようにメイジ―と一緒に食事を作り、一緒に食べる。
余った時間は、行き届いていない家全体の掃除などをした。
最後に、メイジ―を1階の寝室まで連れていき、眠るのを見守る。
「誰かが寝かしつけてくれるなんて、子ども時代に帰ったみたいだわ」
「えへへ、ちゃんとおばあちゃんしてよねぇ?」
少女はメイジ―が寝るまで子守唄を歌い続けた。
(おかあさんって、こんな感じなのかなぁ)
メイジ―に優しくハグをしてから、少女は2階の客用の寝室に向かう。
そして夜の12時、少女は2階の寝室で大きな鐘の音を聞いた。
「ばいばい、おばあちゃん」
少女はベッドに縮こまると、昨日出会った人達のことを忘れないように、その人達を心の中で思い描く。
「みんな……忘れないでね――」
懐中時計を胸に抱きしめ、少女は眠りについた。
早朝、レザリアは寝室の窓からロープを背の高い木にかけると、振り子のように隣の民家の屋根の上に飛び移った。
「――おはようございまーす!! みなさーん!! ぼくのことー!! 覚えてますかー!!」
少女は遠く離れた時計塔に背を向け、街の南側に横たわる日長石街道を見渡した。
「ぼくはレザリア―!! 石ころなんかじゃなーい!!」
レザリアは、朝焼けの街を駆け出した。石造りの家の屋根を飛び回り、声を大にして叫ぶ。この迷惑にして壮大な自己紹介は、知らず知らずのうちに街の目覚まし時計となっていたのだった。