違和感を覚えるとき
※私が頭の中で思っていることを書いた物ですので、「おこがましい」と感じられる方もいらっしゃるかもしれません。その場合は、ご遠慮なさらずに、いつでもブラウザバックしてください。
このご時世なので、最近は行っていないのですが、私は寄席で落語を聞くのが大好きです。
古典だ新作だと、いろいろとこだわりのある方もいらっしゃるようですが、私はきちんと聴かせてくれるなら、どんな噺でも楽んでいます。
コロナ禍に入る前、浅草演芸ホールで、テレビにもよく出演していた落語家さんが主任の定席を聴きに行ったときのことです。
この日の目当ては、トリの落語家さんではなく、柳家権太楼師匠と三遊亭白鳥師匠、そして、色物のロケット団だったのですが、当然、トリまで聴いていきました(※中入りという休憩時間を除き、途中で退席することは基本的に失礼にあたります)。
この日のトリを飾る噺は、人情噺の大ネタ『芝浜』でした。正直、目当ての師匠ではありませんでしたし、巷の噂では、さほど評価の高い噺家さんでもありませんでした(失礼!)ので、あまり期待はしていなかったのです。
しかし、所々くすぐりを加えつつ噺が進む中、私はすっかりとその噺に引き込まれていました。
ところが、「さあ、クライマックスだ!」(※古典落語だったので、この先どのような話の展開になるのかだいたいわかっています)というところで、それまで流れるように噺を紡いでいた師匠が噛みました。
噛んだのは一言です。一言だけなんです。
でも、もうダメでした……。
それまで流れていた江戸の風は霧散し、寄席は一気に現代の空気に変わってしまいました。
これが序盤なら、まだ挽回も効いたのでしょう。しかし、既に噺は終盤に入っています。
何とか取り戻そうと、その師匠は頑張っていらっしゃいましたが、結局微妙な空気で、その噺は終わり、追い出し太鼓の轟く中、釈然としない気持ちで、私は寄席を出たのでした。
落語は本当に難しいものです。たった1人だけで、全ての世界を表さなければいけません。しかも、使える小道具は扇子と手ぬぐいだけ。鬘や隈取りはもちろん、厳格に行うならば、古典落語では眼鏡もかけられませんし、そもそも噺が終わるまでは座布団から立つことだって許されません(※注)。
そんな限られた条件で語られているのに、話が進むにつれて、その世界に引きこまれていく。これが落語の醍醐味だと思います。
元来、付けられている条件が厳しいだけに、噺家さんたちは綱渡りをするような繊細なバランスの中で噺を進めています。
あの噺のように、一言噛んだだけでも一気に世界が崩れることがありますし、噺の途中で客のスマホの発信音が鳴り出してもだめです(※これは噺家さん本人には全く責任はありませんから、なんとも酷い話です)。
みなさんも落語(※特に古典の人情噺)を聴きに行く機会がありましたら、ぜひ、スマホ・携帯には注意してください。下手をすると、せっかくのみんな(※自分も含みます)の楽しい時間が台無しになってしまいます。
いきなり、話が変わりますが、ここからが本題です。
以前、感想機能を使って意見を言うことの可否について、エッセイを書いたことがあります。
このエッセイには様々な御意見を頂戴しまして、書いた当人としても、とても参考になりました。特に自分を見つめ直す機会になったのは良かったと思っています。
そんな中、気になったことがありました。
それは、「私はどんな時に『気になる点』としての意見を書いていたんだっけ?」ということです。
他のエッセイや感想欄等を見た経験では、気になったら、何でも感想欄に書いてしまう方もいらっしゃるようです。
しかし、私は「定説とかけ離れていて突っ込みどころ満載じゃん!」と思った話や、「常体と敬体が無意識に混在するとか表現が稚拙すぎて読むのが苦しいや」と思った話に対して、怒りにまかせて感想を書き込んだことはありません。
ちなみに、そんなとき私はどうしていたかというと、基本的にはブラウザバックです。
でも、過去を思い返すと、結構尖った感想を書いてしまったこともあります。
普段はブラウザバックしているのに、なぜ尖った感想を書いていることもあるのでしょうか?
そもそも、私がブラウザバックする作品と、感想欄に『気になる点』を書く作品の違いは何だったのでしょうか?
これについては、自分でも整理ができていませんでしたので、とりあえず、マイページの『書いた感想一覧』で、どんな作品に、どんな感想(『気になる点』)を書いたのかを、古い方から順に確認してみることにしました。
過去に自分の書いた感想をたどっていく中で、その後、削除されてしまった(もしくは作者が退会された)作品がいくつか出てきました。
本文が削除済みですので、もう、どのような話だったのか、正確に知ることはできません。
ところが、感想を読みなおすと、あまり長くない、3~5行程度の感想にもかかわらず、どんな話だったのか、どんな状況で感想を書いたのかが、なんとなく思い出されます。
数年前に書いた『感想』なのに、削除されてしまった小説本体の概要を思い出せる。
その小説を、『大したことのない話』、『読むべき価値のない話』だと思っていたとしたら、そんなことができるはずはありません。
『気になる点』があった。それと同時に、腑に落ちた。心に残った。何かしらの感動があった。だからこそ、現在も記憶に残っているのでしょう。
人はどうかは知りませんが、少なくても私は『感想』(※『気になる点』を含む)は、『良い』または『面白い』と思った作品にしか書いていなかったようです。
つまり、『気になる点』があるからといって、その作品が嫌いだったわけではなかったのです。
では、手放しに賞賛をしている作品と『気になる点』を書いた作品は何が違ったのでしょうか。
手放しに賞賛をしている作品は、『素晴らしい』作品です。特に語るまでもありません。
では、『気になる点』のある作品は?
それは、「面白い、面白いんだけど……惜しいなぁ!」と感じる作品です(※こんな言い方は、かなりおこがましいのは認識していますが、自分の頭の中で考えていたことですので御容赦ください)。
私にとっての『気になる点』は、素晴らしい噺の中で鳴り響く、携帯電話の発信音のような異物なのです。
ただ、落語と小説には大きな違いがあります。
落語は話芸ですから、一度口から出た言葉を元に戻すことは不可能です。強いて言うなら、次回に期待するしかありません。それに対して、小説は、修正することができますし、再度読み直してみたら納得できることもあります(※逆もありますが……)。
実際、『気になる点』を書いた後、作者の方から個人的に説明をいただいたり、次話以降の後書き等に注釈があったりして納得できたことや、後ほど作者の方が内容を修正なさって、それが腑に落ちたことなども多々あります。
ちなみに、私は同じ『気になる点』を複数回指摘することはありません。作者の方の反応があろうがなかろうが、説明に納得できようができまいが、これについては遵守するように心がけています。
以前エッセイを書いたときにいただいた感想で、ある映画監督さんが科学的な矛盾点を指摘する声に「俺の宇宙じゃ音なるんだよ」と言った。というものがありました。
素晴らしい言葉だと思います。『名言』と言って良いでしょう。
誰に何を言われようが、世に送り出した自分の作品に責任をもつ。
この監督さんは真のクリエイターだと思いました。
この監督さんのように、作者の方は作品に責任をもっていらっしゃいます。
科学的におかしかろうが、歴史的に合わなかろうが、作者が自信をもってそう考えるのであれば、その作品の中では、それが『正しい』のです。
そして、事実誤認があったのならともかく、作者がそれを『正しい』と考えているのですから、それ以上の読者の方で指摘を行うことは失礼でしかありませんし、作者の方としても指摘されたからと言って、考えていることを曲げる必要もありません。
作品は作者のものなのですから。
ただし、「読み手としての自分が納得できるかどうか」となったら、話が別です。
納得ができない時はどうするか?
読者には2つの選択肢があります。
我慢するか、我慢しないかです。
あ、『我慢しない』と書きましたが、勘違いしないでください。
これは「我慢せずに文句を書き散らせ」とか、「しつこく何度でも問題点を指摘しろ」と言っているわけではありません。
そんなことをしても、ほとんどのケースでは、書いた方も書かれた方も、嫌な思いをするだけで、誰の何の得にもなりません。それどころか、他の読者から“危険人物”扱いされることだって考えられます。
こういったことを、 する・しない は、その方の自由ですが、私はおやめになった方が無難かと思います。
私が言いたい『我慢』とは、
そのまま我慢して読み続けるのか。
我慢せずに読むのをやめるのか。
ということです。
師匠が噺の途中で一言噛んだだけで、落語の空気が変わったように、納得できない違和感があると、とたんに作品自体が嘘くさく感じられてしまうことがあります。
小説自体がフィクションなのですから、事実と異なるのは当たり前です。
ですが、あたかもそれが真実であるかのように読ませてくれるからこそ、人は作品に没入できるのではないでしょうか。
『気になる点』を書いて、なお、未解決の違和感が、我慢できれば読み続けますし、我慢できないなら読むのをやめる。
読者として、私にできるのは、それだけなのです。
注1:江戸の古典落語を前提にした話です。同じ古典落語でも上方落語では文机が置かれます。新作(創作)落語に至っては、座布団をこね回しながら蕎麦打ちを表現したり、立ち上がって客席を駆け回ったりするものもあります。
ちなみに、そんなのも好物ですw
こういうことを書くと、お怒りになる方もいらっしゃると思いますが、ここに書いたことは、『こうしましょう』という提案ではなく、『自分はこう考えている』という私の思想です。感想欄で、お叱りを受けたり、説得されたりしても、変えようと考える可能性はほぼありません。「なるほど、あなたはそうお考えになるんですね。私とは違う考えですね!」で、おしまいです。
ですから、「それは違うぞ!」とか、「この本地無し! 何いっちゃんず!」とか考えた方は、是非、反論エッセイを投稿なさってください。その方が、このような作品の感想欄に意見を書くよりも、よほど多くの方の目に触れると思いますし、間違いなくエッセイジャンルの活性化に繋がります。あ、擁護エッセイも大歓迎です!
なお、感想欄で、具体的な作品名を挙げると、『宣伝行為』になって、規約に引っかかるかもしれません。ですから、作品名は書かずに『反論書くから読め!コノヤロウ!!』とでも書いてください。読みに伺いますので。