表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。

共通恋愛プロット企画参加作品  わたしのアンジェロ

作者: 瀬嵐しるん


リタはアルカラス伯爵家の一人娘。

いわゆる、ご令嬢である。


だが、今日も彼女は馬車にも乗らず供一人連れず、颯爽と街中を歩いていた。


「リタ、こんちわ!」


平民向けの商店街。店先にいる店員もお客も、気軽に声をかけて来る。

手を振って応えるリタも笑顔だ。


商店街の中ほどで細い路地へと曲がった彼女は、一軒の店の裏口へ回る。


「おはようございます!」


時刻はとうに昼を過ぎているが、入店の挨拶はこうするものだ、と働き始めた時に教わった。


厨房で忙しく働いている従業員たちが振り向き「おはよう」と返してくれたり、手だけ振ってくれたり反応は様々。


ここはリタの職場だ。

彼女は伯爵家令嬢でありながら、平民向けのレストランで働いているのだった。



リタの生まれたアルカラス伯爵家は、昔はそこそこ名門だったらしい。


それは、この国の人間に稀に現れるスキルのせいだった。


国が出来た当初から、益になるスキルを持つ人間が貴族として取り立てられてきた。

アルカラス家のご先祖も、治癒や浄化などのスキルで伯爵位を得たのだ。


スキルは個人ごとに違うが、スキル持ちの血筋にはスキル持ちが現れやすい。

叙爵は血統を守るためだった。



伯爵家を名乗るアルカラス家だが、ここ数代はパッとしない。


リタの父親のスキルは【草刈り】だ。

その気になれば、あちこちの家へ出向いて草刈りをし、立派に食べていけるだろう。ここは王都、雑草は忌むべき敵である。


しかし残念ながら、リタの父に営業力は無い。

結果、ご先祖の得た領地も財も手放すことになり、今では王都にあるタウンハウスで細々と暮らしている。


幸い、子爵家から父に嫁いだ母は、家事をすることを厭わない。

もう高齢だから置いてくれるだけでいいと言ってくれる気のいい使用人と共に、庭で野菜など育てて食いつないでいる。



「お父様、爵位を返上なさってはいかがでしょう?」


成人した日、リタは思い切って言った。

だが、父は珍しくきっぱりと答えたのだ。


「ご先祖様に申し訳が立たない。私の目が黒いうちは……」


「そうですか。わかりました」



名ばかりの貧乏伯爵家に、婿に来てくれる男はいない。


『ご先祖様、父は粘っておりますが、このリタの代で伯爵家は終わりますので悪しからず』


その日、リタはいつもよりも丁寧に、先祖の霊に詫びた。



さて、レストランの厨房は今日も大忙し。

表の店は昼の営業を終えているが、裏方は夜の仕込みの時間だ。


リタの仕事は食材の下ごしらえ。

皮を剥いて、すぐに調理できる状態に切っておくことだ。


食材は既に洗われて山盛りになっている。

その前で、リタは息を整えた。


巨大なまな板の上、よく研がれた包丁を手にしたかと思うと、目にも留まらぬ速さで食材を捌いていく。

傍らの調理台には、美しく刻まれた食材の入ったバットがどんどん摘み上がる。


三十分後、今夜ここで使われる食材は全て刻み切られた。


「お疲れさん。今日もお見事!」


食材の断面を見ながら、料理長が褒めてくれる。


「ありがとうございます。では、また明日!」


仕事を終えたリタは、店を後にする。

だが、このまま帰るわけでは無い。

しばらく歩くと、今度は菓子屋の裏口を潜った。


「おはようございます!」


「ああ、リタちゃん、待ってたよ。今日も頼むね!」


「はい」


菓子屋で切るのは果物。

リタが切ると不思議なことに断面が乾かず、少々時間が経っても風味が損なわれないのだ。


ここでの作業も正味十五分ほど。

そしてまた、次の店へと向かう。


実はリタもスキル持ちだ。

スキルの名は【切り刻む】



商店街の飲食店の厨房は、ほとんどがリタの職場だった。

切られた食材の状態が良いのはもちろん、とにかく仕事が速い。

時給換算にするとまったく稼げないので、作業量で計算し食材の状態をよくする分を上乗せしてもらっている。


おかげで午後だけの仕事でも、なんとか家族を支えられる程度に稼げた。

余った食材やら、失敗した菓子やらもちゃっかり貰って、リタは家に帰る。


伯爵家令嬢だとは誰にも言っていないし、スキルのことも内緒だ。

たぶん、バレてはいないはず。


まあ、こんな感じで、自分が家を継ぐまでは何とか持つだろう、そう思っていたのに……



「すまん、リタ」


ある日、家に帰ると父がいきなり謝って来た。


「お父様?」


「お前に良い婿を取ろうと思ったんだが、準備に金が要るだろう?

結婚斡旋所で相談しても埒が明かなくて。

そうしたら、近くにいた人が親切に話を聞いてくれてな。

その人に誘われ、つい、調子に乗って賭博に手を出してしまったんだ」


「……賭博は、元手が必要ですよね?」


「家と土地を……」


「それで、イカサマで全部持って行かれた、と?」


「いや、違う」


「まあ、負けなかったんですか?」


「イカサマではなかった。私に博打の才能が無かったんだ!」


ここで胸を張られても、とリタは呆れるしかない。

素直に騙されたと認めて欲しい。


「そもそも、寄り親の侯爵様にご相談すべきだったのでは?」


「ずーっと貧乏で、季節の挨拶にも行っていないのだ。

困った時だけ顔を出すのもどうかと……」


まったく、貴族というのは要らないプライドの塊だ。


「では、家の明け渡しまでに荷物をまとめればよろしいんですか?」


「お前は、相変わらず話が早いな。だが、そうではない」


そういえば、父の隣にいる母は、ずっと落ち着いて澄ましている。

家を出ていくのならば、もう少し慌てるか怒るかしそうなものだ。


「私が賭博で作った借金を肩代わりしてくれる方が現れたのだ」


「まあ」


なんと酔狂な。何の得があるのかしら?


「それで、代わりにお前を嫁に欲しいというので、行ってくれないか?」


「……」


ああ、それで最初に謝られたのか。

やっと得心が行ったリタである。



一人娘を嫁にやる。

今はそれしか方法がないのだろうが、つまりそれって伯爵家は終わりってことでいいのよね、とばかりリタは二つ返事だ。


「承知いたしましたわ、お父様」


ホッとした顔の父の隣で、母はおっとりと微笑んでいる。

平民に混じって働くほど逞しい娘なら何かあっても自分でなんとかするだろう、という母の信頼を感じたリタは黙って微笑み返した。


とはいえ、明日からすぐ婚家に出向くのは無理だ。

リタには仕事がある。

引継ぎをする時間は、もらえるだろうか?


そうだわ、手紙を書いてお伺いを立てることにしましょう。

あら、そう言えば……


「お父様、お相手の方のお名前を伺っておりませんわ」


「セルベラ伯爵家ご当主、バレリアノ様だ」


父が婚姻相手の名を口にした瞬間、母が気を失った。

顔に血の気が無い。貧血だ。

父に手伝わせ、ソファに母を横たえたリタは、先ほどの名を反芻する。


『バレリアノ・セルベラ』


姿を見たことはないが、噂をよく耳にする。


セルベラ伯爵は奴隷商人のお得意様で、幼い子供の奴隷を買っては、屋敷の地下で手足を切り刻んでいるらしい。


リタのスキルは【切り刻む】だ。

まさか、子供を一緒に……

いやいやいや! セルベラ伯爵がリタのスキルを知っているとは思えないし、噂が真実とは限らない。


嫁ぐ以外に今のところ道はないのだから、先ずは礼を失しない手紙を書こう。

リタは気持ちを切り替えて、自室に向かった。




リタがセルベラ伯爵家に嫁いだのは、それから一か月後の事。


婚姻式当日に初めて訪れた伯爵家は、王都の外れに近い場所だった。

敷地は広大で、屋敷は小ぢんまりしている。


前に絵で見た田舎の風景のようで落ち着くわ、とリタは思った。


伯爵家の隣には、平民向けの教会がある。

そこは孤児院を併設していて、時々賑やかな子供の声が聞こえてきた。



伯爵家に到着すると、迎えに出てきたのは家令と名乗る若い男。


「ようこそ奥様、私のことはアンジェロとお呼びください」


通された屋敷では、二人のメイドが支度を手伝ってくれる。

伯爵は忙しいので隣の教会で式を挙げる、と聞いていた。

用意されたドレスはシンプルなデザインで、とても気に入った。


だが、やけにベールが分厚い。

全く前が見えないのだ。


支度を終え、玄関までメイドに手を引かれる。

そこには父が待っていて、隣の教会まで馬車で移動するという。

確かに隣ではあるが、距離はそれなりにあった。


馬車を降りてからは父のエスコートに任せ、祭壇の前まで進む。

次に差し出された手は、伯爵のものだろう。



そう言えば、手紙の返事を書いてくれたのは、この手なのだ。


婚姻を承諾するという挨拶の手紙に、仕事の引継ぎのために時間をもらえないかと書き添えた。

実家が貧乏なのは知られているし、自分が働いていることを隠す必要もない。


翌日には、丁寧な文字で了承する旨の返事が届いた。


急がなくても大丈夫だという気遣いと、自分も忙しいので挨拶に行けず済まないという謝罪が綴られ、懐の深い人柄を感じた。

とても、子供を切り刻むという噂の人物とは思えない。


今日から夫婦になるのだから、対面した時に直接、尋ねればいいのだ。

気に病んだままの生活は、リタには苦痛になる。



教会での式は簡素なもので、年配らしき司祭が慣れた様子で手早く進めていく。

あっという間に宣誓をし、分厚いベールの上から額に口づけを受けて終了だった。


帰りはそのまま伯爵に手を引かれ、一緒に馬車で屋敷まで戻る。

玄関先でメイドに引き渡され、やっとベールを取ってもらった。

さて、お顔を見てご挨拶を、とリタは姿勢を正す。

しかし、伯爵の姿はどこにも無かった。


こちらへ、とメイドに案内されたのは応接室。

少し遅れて馬車で戻った両親と共にお茶をいただき、一息つく。


「それにしても、噂からは想像できない優しそうな方だったわね」


母が安心したように、ほぉっと息を吐く。


「ずいぶんと土産物を頂いた。

今までリタには苦労をかけたが、伯爵様のところではいい暮らしが出来るだろう。仲良くな」


外に働きに出ることを反対された覚えはないが、父なりに娘の苦労を気にかけていたのだろう。


「お父様、お母様、今までありがとうございました。

これからは、伯爵家でお役に立てるよう精進いたします」



「失礼いたします」


と部屋に入って来た家令のアンジェロが、親子の光景を見て優しく微笑んだように見えた。


微笑んだ、とはっきり言えないのはアンジェロの髪型のせいだ。

前髪が長く、表情がわからない。

着衣や振る舞いは、それなりにきちんとしているのに不思議だった。


しかし、彼の主人である伯爵様が許しているのならば、リタが言うべきことは何も無い。



両親を見送ると、アンジェロがざっと家の中を案内してくれる。

リタの実家よりはずっと広いが、無駄のない小ぢんまりした屋敷だ。

迷子になることはないだろう。


厨房や休憩室にも入り、使用人との挨拶を一通り終えた後、リタはふと思い出した。


「地下室は、無いのですか?」


「地下室、ですか?」


リタは言ってからハッとした。

妙な噂話を持ち出されたと気分を害したかもしれない。


「あ、ごめんなさい。変なことを言って……」


「いいえ。厨房のパントリーにはワインなどを入れる地下貯蔵庫がありますが

室、というほど広くはないですね」


「そうですか」


やはり、噂は噂。

子供のことも、隣の孤児院の話が混じって、面白おかしく捻じれていっただけかもしれない。

噂話には、よくあることだ。



「ああ、大事なことを忘れていました。

外にある納屋には、近づかないでください」


「納屋?」


「この屋敷の敷地は、ほとんど薬草畑になっています。

セルベラ伯爵家の生業です。

その薬草を扱うための納屋があるのです。

薬ですから、素人が間違えて触れると事故になりかねません。

くれぐれも、お気を付けください」


「わかりました」


「……地下室」


「はい?」


「納屋には地下室があります。

ここは、特に扱いの難しい物が置いてあるので、絶対に入らないでください」


「……わかりました」


やはり、地下室はあった。



それから家令のアンジェロは、重大なことを、まるでついでのように告げた。


「伯爵様は、お仕事でお出かけです。

しばらく戻らないので、屋敷で自由にお過ごしください、とのことです」


リタは恋人がいたことはないが、そこまで物知らずではない。

初夜への不安が先延ばしになり、少しだけホッとした。



そして一夜明けて今日のこと。


自由に、と言われたことを思い出して、はたと気付いた。

生まれてからこのかた、裕福だったことのない伯爵家で育ったリタには趣味がない。

令嬢らしい暇つぶしの方法など何も知らない。

切り刻むのはともかくとして、家事ならば一通り出来るのだが。


一応、厨房を覗いてみた。

しかし、使用人の分を含めても、ここで一度に使う食材は多くない。

無理を言って気を遣わせるのは、ただの迷惑だろう。


小ぢんまりした屋敷は手入れも行き届いていて、メイドの手も足りている。

草むしり? とも思ったが、間違えて薬草を引っこ抜いてしまったら……

これも駄目そうだ。


とりあえず応接室のソファに座り、メイドが出してくれたお茶を飲みながら、ひたすら考えたがいい案は浮かばなかった。



知らず知らずのうちに傾げた首が凝りそうになってきた頃、ふと、こちらに向けられた視線を感じる。

その先には、家令のアンジェロがいた。


「奥様、何かお悩みで?」


「ええ、実は……自由にしていいと言われても何も思いつかなくて」


「お買い物などは、いかがです?

メイドを一人付けましょう。旦那様から奥様用のお小遣いも預かっております」


「お買い物?」


「ええ、普段使いのアクセサリーや、お菓子などを選んで気晴らしをされては?」


アクセサリー、は必要ない。

でも、お菓子は。


「あの、お隣の教会付きの孤児院へ贈るお菓子を買ってもいいでしょうか?」


「寄贈、ですか?」


「婚姻式の前後も、子供たちの元気な声がしていましたわ。

食べ物は余計にあっても、迷惑にはならないと思うのですが」


「子供がお好きで?」


「ええ、元気な子を見ると、こちらも元気になります」


「そうですか」


まただ。アンジェロの表情がとても優しくなった……ような気がする。

残念ながら、今日も長い前髪が邪魔でよくわからない。


「わかりました。そういうことでしたら奥様のお小遣いではなく、家計費から出しましょう。

当家で孤児院へ寄贈の際に使っている菓子屋がありますので、そこへ案内させます」


「ありがとうございます」


「いいえ、職務ですので。

当家の奥様に相応しい行いで、旦那様もお喜びになるでしょう」



馬車で菓子屋まで行ったリタは、メイドのアドバイスを受けてお菓子をたっぷり買った。

そのまま孤児院へ寄って菓子を寄贈し、夕方まで子供たちと遊んだ。


そもそもは暇つぶしだったのだ。


『子供たちに遊んでもらった、が正しいかもしれないわね』


その夜は遊び疲れて、ぐっすりと眠れた。



だが翌日、リタは妙な夢を見たことを思い出す。

子供の泣き声がする、と思って目が覚めたのでカーテンを少しめくって外を見た。

闇夜にランプの光がひとつ、ゆらゆらと浮かんでいた。

あら、お庭にはランプのお化けがいるのかしら? と思ったのだ。


変な夢。そう思って笑いそうになったが、ふと窓を見ればカーテンがわずかだが、めくれたまま。

この屋敷のメイドは、そんなミスはしない。

では、あれは夢ではなかった?


夢でないとしても、出来た家令のアンジェロあたりが、大事な庭の夜の見回りという可能性もある。

子供の泣き声は……孤児院から風に乗って来たかもしれない。


きっとそうだ。




あまりに暇だが、孤児院に通い詰めるわけにもいかない。

リタは、婚姻前の様に飲食店で切り刻む仕事をしたいくらいだった。

優雅な生活はムズムズする。


そう訴えると、家令のアンジェロが花壇を用意してくれた。

屋敷の建物に近い場所に、煉瓦で四角く切り取られた地面。

そこを自由に草花で飾っていい、というのだ。


昼間の庭には、通いの園丁がいる。

彼に相談するように、と紹介された。



ある日、蔓植物のために支柱をもらおうと園丁を捜したが見当たらない。

捜し歩いているうちに、禁じられた納屋の裏手に出てしまった。

これはいけない、と戻ろうとした時、馬車の音が近づいてきた。


馬車は納屋の入口の前で停まったようだ。


「急いで!」


これは、アンジェロの声?


「痛いよ……」


弱々しい子供の泣き声。


「すぐに終わるから静かにするんだ」


押し殺した声。


すぐに終わる? 何が? まさか……子供の命?


馬車は慌ただしく去って行く。



人の気配が消えたのを見計らい、リタは納屋の正面に行ってみた。

もう誰もいなかったが、扉が少し開いている。

思い切って中を覗く。


納屋の中は、最初に説明された通りの場所のようだ。

薬草が吊るされ、麻袋が積み上がり、壁には道具が掛けられていた。


足を踏み入れると、薄暗い部屋の中ほどに地下への入口らしい蓋があり、隙間から光が漏れている。


「……痛い、痛いよ! 止めて!」


また、子供の泣き声。

本当に切り刻まれている?



どうしても気になって、リタは蓋をずらす。


そこには階段があり、ずっと下まで続いているようだ。


意を決して降りていくと、子供の泣き声は更に激しくなっていく。

何が起きているの? 焦る気持ちに押されそうになるが、なんとか慎重に階段をたどる。


やがて、泣き声がふいに止んだ。


階段を降り切ったリタが見たものは、寝台に横たわる子供と、その傍らに立つアンジェロの姿だった。



「死んでしまったの?」


思わず声を出したリタに驚いて、アンジェロが振り返る。


「リ……奥様、どうしてここへ!?」


「ごめんなさい、子供の泣き声がしたので」


「そうですか。いえ、この子は気を失っているだけです」


切り刻まれて? と訊ねそうになって、リタは気付いた。

寝台にも、その周囲にも刃物の類は一切置かれていない。

あるのは飲み薬の瓶や、透き通った水の入った水差しとコップ。

そして、軟膏が入っているらしき瓶がいくつか。


それから包帯と……一つだけ目についた刃物は、包帯を切るサイズの小さな鋏だけだ。


二人の間に沈黙が落ち、困惑が広がった時だった。



「ねえ、治療終わった?」


奥の扉から、元気な子供の声が聞こえてきた。


「先生、開けてもいい?」


別の子の声だ。


「いいぞ。なるべく静かにな」


扉がパッと開かれる。

わらわらと出てきたのは、数人の子供たち。

元気そうだが皆、どこかに包帯を巻いていた。


「この人、だあれ? 先生の恋人?」


「そんなわけあるか!」


「先生、もっと優しくしないとモテないよ!」


「黙れ。苦い薬を飲ますぞ!」


「ぎゃくたいはんたい!」


恋人ではない、ときっぱり否定され、なんだか少し傷ついたリタだったが、おっと自分は人妻だったと思い出す。

婚姻式をしたにもかかわらず、まだ見ぬ夫の顔は思い出せないが。


それはさておき。


「治療? 先生? アンジェロは医者なの?」


「私は薬師です。

口が悪いのは許してください。

悪ガキどもの前では澄ましていられないので」


「ううん、少し驚いただけ。全然、気にならないわ。

それより、この子供たちは?」



「僕たちは伯爵様に助けてもらったんだ」


一人の男の子が口を挟む。彼は片腕を三角巾で吊っている。


「働けなくて食い扶持がかさむから、って奴隷として売られたの」


今度は車いすに乗った女の子。



親が貧しかったり、保護者がいなかったり。

いろいろな事情で奴隷商に売られたのだろう。


奴隷商を営む者には厳しい法律が適用される。

奴隷を飢えさせることは禁じられているし、国の調査も適時入ると聞いていた。

明日の食べ物が用意できない親には、他に選択肢はなかったのかもしれない。



でも、その奴隷の中から身体を痛めている子供を、伯爵が引き取るのは何故?

そして、アンジェロに治療させているのは何故?



「子供を切り刻むなんて、そんな黒い噂は事実じゃありません。

理解できたら、もう用はないでしょう?

奥様はお屋敷にお戻りください」


「ええ、わかったわ」


黒い噂よりも複雑そうな状況に、なんだか混乱してきた。

リタは大人しく従うことにする。

あくまで今日のところは、だ。



翌日、リタは再び納屋の地下に行ってみた。

昨日子供たちが出てきた扉の奥は、ベッドが並んでいる療養室だ。


「お姉さん、また来てくれたの?」


「ここには先生しか来ないから、つまんないんだよねぇ」


「ねぇ、何かお話して!」


治療中の子供たちに何か持ってきたかったけれど、思い浮かばずに手ぶらで来た。

食べ物は薬と合わないこともあるだろうし、ボールなどは論外だろう。

でも、リタが子供の頃に聞いたおとぎ話なら頭の中に入っている。


「じゃあ、お姫様と王子様のお話をするわね」


「お姫様! 聞きたい」


「王子様って、おやつ食べ放題?」


「昔々、あるところに……」


最初はいろいろ混ぜっ返していた子供たちも、だんだん大人しくなり話に聞き入った。


「……そして二人は末永く幸せに暮らしました」


リタが語り終えた時、何の反応も無かった。

ただ、子供たちの安らかな寝息が聞こえるだけだ。


毛布を掛け直しながら子供たちを一人一人見て回る。

どの子も、安心して眠っているようだ。


「よかった」


リタは静かに部屋を出た。




初めてここを訪れた日こそ、リタを追い払うようだったアンジェロだが、その後は特に何も言われることは無かった。


『投薬中は日光の刺激が強すぎる場合があるから、絶対に子供を外へ出さないで欲しい』


『いつもの菓子屋のシンプルなクッキーなら、食べさせても大丈夫。

ナッツやハーブの入ったものは避けて欲しい』


など、むしろリタが手伝いやすいようなアドバイスをくれる。



毎日のように子供の世話に来ていたリタだが、回復した子はここから出ていく。


半月ほど経った頃、療養していた最後の子供が回復し、孤児院へ移ることになった。

ここで治療を受けたことを口外しないよう言い含められ、庭師が操る作業用の小さな馬車で伯爵家の敷地内を運ばれていく。


「子供が出ていくとき直接孤児院に送り届けるから、まるで奴隷商から買った後、行方不明になったみたいに見えるのね」


「そういうことも、あるかもしれないですね」


アンジェロは涼しい顔をしている。


「子供たちの怪我は、虐待もあるの?」


「どうでしょう、詳しくはわかりません。

ただ、身体に不具合のある子はそのせいで怪我をしやすくなる。

私はただ、なるべく体調が整うまで薬で治療するだけです」


「そう」


少し俯いたリタの横顔を、アンジェロがじっと見つめていた。


「……な、なによ!」


「いや、礼を言たくて。貴女のお陰で、子供たちが楽しそうでした」


「別に、何もしていないわ」


彼の口元が笑みを作る。前髪の中の目も、きっと笑っているだろう。

リタの頬が熱くなる。



数日後のこと、リタが納屋に行ってみると、アンジェロが難しい顔をして二十日大根のような小さな根菜を睨んでいた。


「アンジェロ、どうしたの?」


「ああ、奥様。

これは相当に希少な根っこなんですが、切り方次第で効果が変わるから扱いが難しいんです」


「切り方で効果が変わる?」


「切ると必ず汁が出るでしょう?

汁と一緒に薬の成分が流れてしまうので、下手をすると効果が半減してしまいます」


「汁が出ないように切ればいいの?」


それなら、リタの得意分野だ。


「え? そんなこと出来るわけ……」


「任せてちょうだい。言ってなかったけど、私のスキルは【切り刻む】よ」


貧乏なせいで平民向けの飲食店で働いていた、ということは隠していないが、伯爵家令嬢のスキルが【切り刻む】だとは、わざわざ伝えていなかった。



アンジェロの指示通りにリタが切った根菜からは一滴の汁も落ちない。


「すごい! ありがとう、リタ」


また、笑った。

ねえ、あなたの笑顔を全部見たいわ。前髪の中まで。


リタは、ハッとする。

それは、まるで、彼のすべてを知りたいと言っているみたいだ。


アンジェロは切られた根菜を瓶に入れ、必要な薬剤を混ぜて休ませる。

それから、ふと真面目な雰囲気になり、少し考えこんだ。



「……ところで、伯爵様が今夜、お帰りの予定です」


「え?」


不意打ちのような言葉に、リタは狼狽える。


「晩餐はドレスアップでお願いします。奥様」


「……」


そんな今更?

と思う自分が変なのだろう。


婚姻式の後、仕事で忙しかった伯爵が戻ってきて、その続きを始めるのは自然なことだ。

続き……きっと、晩餐の後は……


夫婦の寝室で、自分の隣にいるのは……



納屋から、いつの間に自室に戻ったのだろう。

気が付けば、メイドによって綺麗に飾られていた。


鏡に映るのは、伯爵夫人に相応しいドレスやアクセサリーを纏った自分。

手だって働いていた頃のようには荒れていない。

宝石の付いた指輪が、よく似合っている。


そういえば、メイドが手をマッサージする時に使ったクリームは彼のお手製かもしれない。

すぐに肌が瑞々しく綺麗になっていったもの。

彼が直してくれた、肌。



今夜からは、本当に伯爵の妻になるのだ。

そして、伯爵の傍らには、彼の右腕のアンジェロが控えるだろう。

私は、この恋心に蓋をして、穏やかに微笑んでいられるかしら?



「無理!」


伯爵家のために働きづめだった。

リタにとっては、アンジェロが初恋だ。


「絶対に無理!」


晩餐の席で、伯爵の横に立つアンジェロを見たら、きっと泣いてしまう。

全てを台無しにしてしまう。


「逃げよう」


何から逃げるのかもわからないまま、今はそれしかない、とリタは思い込む。



屋敷は小ぢんまりしている。

廊下から出れば、出口に着くまでに誰かに会ってしまうだろう。

となれば残るは窓だ。


この部屋は二階だけど、なんとかなる。

そう思って自分を勇気づけると、リタは窓枠を蹴った。


どさり。

思ったより小さな衝撃と誰かが尻もちをついたような音。


「大丈夫ですか?」


気遣ってくれたのは、聞き慣れた声だった。

だが自分を抱きとめているのは、貴族の正装をした男。

じゃあ、声の主はどこに?


リタは顔を上げて周囲を見たが誰もいない。


『聞き間違えたんだわ』


がっかりしながら、最後に自分を抱きとめている男の顔を見上げた。

きっと、この方が伯爵様だと予感しながら……


ゆっくりと胸から上に視線を動かす。

あれ?

この首、顎、唇、髪の色も、よく知っている。


「アンジェロ? 伯爵様?」


この人は誰?



「リタ、改めて自己紹介を。

私は、バレリアノ・アンジェロ・セルベラ。貴女の夫です」


そう言った彼の瞳は、はにかみの色を浮かべている。



「ところでリタ、どうして窓から?」


「アンジェロが伯爵様だとは知らなかったから、逃げ出そうと思ったの。

知っていたら……逃げようなんて考えもしなかったわ」


アンジェロは目を瞠る。


「本当に……アンジェロ?」


「ええ、貴女のアンジェロですよ。……私の、リタ」


「わたしの、アンジェロ」


はにかみは、やがて甘い甘い色になり、二人は初めての口づけを交わした。



「旦那様、奥様!?」


話声を聞きつけた執事がやって来る。


「彼が本当の家令です」


「おや、ばらしてしまったのですね」


初老の家令は、悪戯っぽく笑った。



場所は移動して応接室。


アンジェロは抱き留めたリタを放そうとせず、ソファに座る際も膝の上に乗せたまま。

リタは恥ずかしさから降りようと試みたが、彼の力は思いのほか強く、諦めるしかなかった。


それに……こうされているのが、嫌なわけじゃないし。



「今まで、家令と偽っていて済みませんでした」


彼はまず謝罪した。



そもそも、二人の婚姻は国王陛下の命令だったという。


「私がいつまでも独り身なので、陛下が適当な令嬢を見繕うと言って決めた相手が貴女でした。

スキル持ちの血統は、なるべく国の管理下に置きたいようです」


「父に博打を持ちかけたのは?」


「それは、普通にその筋の方だったようですよ。

私はタイミングよく、救済という形で貴女を迎えたわけです」


「陛下の命令で、わたしの実家を援助してくださったんですか?」


「いいえ、違います。

そもそも、私は薬師として陛下に雇われているのです。

薬草を育て薬を作っていますが、それを売っているわけではありません。

貴女の実家の援助については、経費として陛下が認めたものです」


なんと、リタの家は国庫からお金を出してもらっていたようだ。

あまりのことに、驚くというか呆れるというか……


薬のことで手いっぱいの伯爵は家の事や、ましてや社交までは手が回らない。

その辺りは、全て王宮から派遣された執事に任せているという。


「では、奴隷商から身体の不具合のある子供を買い取るのは?」


「それも、陛下に頼まれた仕事です」



人間の体調に敏感な者が定期的に奴隷商を訪れ、問題がないか調べているのだという。


「私の他にも、外科的な手術に優れたスキルを持つ方や、身体の動きを助ける道具を作るスキルのある方などが、同じような仕事をしています」


奴隷制度そのものは、経済的な救済として機能している部分もある。

それが悪用されないように、また、そこに関わるものが道を外れないように、国はしっかりと見張っている。


国王陛下は、きちんと国を見ておられるのだ。

リタは嬉しくなった。

しかし。


「お仕事の話はだいたい分かりましたが、家令を名乗っていたのはどうしてですか?」


「伯爵家、とはいえ私はこんな仕事です。

いくら困窮されている家のご令嬢でも、貴族らしからぬ生活は嫌だろうと思いました」


実家の援助をしたのも、実際は陛下だ。

出資していないので元を取る必要はない。


「ほとぼりが冷めたら、離縁もありかと」


ずっと伯爵と会えないまま、白い結婚で終わらせるつもりだった、と彼は言う。


「だから、騙すのを止めたのではないんです。

騙しきるはずの予定を変えました」


「どうして?」


「私のところに来てくださったのが、貴女だからです。

貴女を愛してしまったからです」


「アンジェロ……いえ、バレリアノ様?」


「アンジェロがいいです。貴女にそう呼ばれるのが喜びになってしまったから」


「まあ」


「リタ、陛下の雇われ薬師の私ですが、これから生涯を共にしていただけますか?」


「もちろん、喜んで!」




リタの協力の元、アンジェロの薬はますます効果を上げ、陛下に更に重用されることとなる。

褒賞授与のために王宮に呼び出され『爵位を上げようか』と問われた二人は謹んで辞退した。

『そんなものより休みが欲しい』と言って、宰相以下のお偉方に渋面を作らせたが陛下は笑って許してくれた。


半年間を、遅ればせながらの新婚旅行に費やした二人だが、その中身は、新しい薬草探しや珍しい薬草の採集。

途中で買い込んだ外国のお菓子や玩具は全て、伯爵家の隣の孤児院に贈られた。


やがて二人の間に生まれた男女の双子は、スキルが発現するかしないか、そんなことおかまいなしに元気いっぱい。

友達がたくさんいる孤児院に、我が物顔で居座る始末。



地下室の黒い噂は消えることなく、時折思い出したように世間を騒がせる。


けれどその後も、アンジェロとリタの二人は末永く幸せに、楽しく働き続けた。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
クリック→ 共通恋愛プロット企画概要
↓作品の検索はこちらをクリック
共通恋愛プロット企画
― 新着の感想 ―
[一言] ヒロイン、リタの「切り刻む」というスキルが、最後まで効果的に使われていているのが素晴らしいな、と感心しながら拝読させていただきました。 リタの家計を支えるたくましさも素敵でしたが、伯爵家でも…
[良い点] プロット企画よりお邪魔します♪ ヒロインの『切り刻む』スキルがすごく効いていて面白かったです! 黒い噂がたまに現れてもどこ吹く風で幸せに暮らしていくところが逞しくて、すごく格好いいなあと思…
[良い点] ヒロインのスキルが『切り刻む』なところが、黒い噂と重なってドキドキ。楽しかったです。 二人のその後のエピソードがいいですね。とても幸せそうでほっこりしました。 爵位よりも休暇を取ったことも…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ