前編
扉がゆっくりと開かれた。アンティークを思わせる古めかしい造りの扉には鐘も備え付けられており、控えめな音を立てて店員に来客の到来を告げる。
「いらっしゃいませ……」
店員は厳かに礼をした。その一時だけ手を止めたが、すぐに彼は自分の仕事へと戻る。といっても、彼の仕事はバーテンダーだ。その場に屹立して手元のグラスを磨いている。
彼の後ろには多くの種類の酒が所狭しと並べられている。それらは柔らかな色合いの照明に照らされて静かに輝いている。小川のせせらぎにも似た輝きだ。アルコールの小川があったら最高だろうな、とかのんきな事を考えて彼女はカウンターに向かう。
「おーう、こっちだよ」
彼女の姿を見て、一人の男が手を挙げた。彼は隣の席に置いていた鞄をどかして、彼女のための席を用意する。
「久しぶりね。えーっと……2年ぶりくらい?」
「そうだなぁ。……それぐらいじゃないか?あんまり覚えてないや」
男はすでに出来上がっているらしく、ケラケラと笑ってグラスを煽った。
「まずは再会を喜ぼうじゃないか。あ、店員さん、もう一杯下さい。それと彼女にも同じものを……」
店員は返事の代わりにグラスを二つ差し出す。
「じゃあ、乾杯」
「ええ、乾杯」
二人は同時にグラスを傾けた。ただ女の方は軽く一口煽っただけだが、男の方はそのままグビグビと一息のうちに飲み干してしまった。その姿に女は無言で眉をひそめる。彼女はムードを大事にする人間であり、そんなお酒の飲み方はこの店にはそぐわない、と考えたためだ。
だが、男の方もその表情にはすぐに気がついたのだろう。慌ててしおらしい態度で言った。
「ごめんよ、久しぶりに会えて嬉しかったんだ。だからつい……」
「お酒で喜びを表現していた?」
「そう、そうなんだ。つい舞い上がっちゃって……ほら、僕らの仕事って一度取りかかると年単位はざらじゃないか。だからさ……」
取り繕うような笑みを浮かべたが、その笑みはすぐになりを潜め、ため息をついて項垂れてしまった。しかし、空のグラスを握った彼の手はゆっくりと店員の方へと伸ばされ、店員は無言のまま、そっとおかわりを差し出す。
「ああ、分かったわ。今度の仕事はそれぐらいツラかった、って話ね?」
女の言葉に男は弾かれた様に顔を上げた。
「そう!そうなんだ。今回の仕事はとてもツラくてさ。……話してもいい?」
「長くなりすぎないようにしてね。あんまり長いとまた寝ちゃうわ」
「ああ、分かったよ。なるべく短く話すことにする」
男はもじもじと落ち着きのない仕草を取るようになり、それまで一息で飲み干していたお酒をちびちびと何回にも分けては飲むようになっていた。以前、話が長すぎることに腹を立てて怒ってしまったが故に彼はこんな状態になってしまったのだと彼女は密かに反省した。自分もこの店にそぐわない人間だったな、などと考えながら男の言葉を待つ。
「……今回の仕事はね。最初に聞いた話ではただの商談で終わるはずだったんだ。僕は薄汚い行商人で、偉そうな顔をした金持ちのおっさんの屋敷に行って嘘みたいに高額な商品を売りつけて、それで終わり。……っていう簡単な仕事のハズだったんだよ。2年だったっけ?そんなにかかる予定じゃなかった。一週間程度で帰れると思っていたんだ……」
男はそう言うとまたちびちびとお酒を飲み始めた。泣いているのだろうかグズグズと鼻を啜る音も聞こえる。どうやら落ち着きがないのは自分が怒ったせいばかりではないようだ、と女は少し安心した。
「でもね、その商談の途中でね。……山賊が襲撃を仕掛けてきたんだよ!自警団は逃げ惑うばかりで役に立たないし、おっさんは山賊にぶっ殺されるし、僕も死にかけた。全く、最悪だったんだ!」
「ええ?でも会社からは『武具一式』と『魔道書一式』に『非常事態下での対応マニュアル』を渡されていたでしょう?」
「うん、渡されていたよ。……でも今回の役柄は行商人だったからあんまり物騒なものを持ち歩くことも出来なかったし、魔道書も持ち運びやすいものしか携帯していなかったんだ」
「バカねぇ。どんな事態にも対応できるようにその三点は常に携帯しておくって言うのが私たち『異世界エージェント(株)』の鉄則じゃない。そんなことじゃ世界を平和に出来ないでしょう」
「うん。本当にそうだったよ。ほうぼうの体で街を出たときにはすでに街のほとんどが焼け落ちていてね。正に死屍累々、って感じだったよ」
「『やむを得ず命の危機に陥った場合に際しては、職務の放棄を認める。ただしその場合には原則として上司に連絡の上、後日必ず反省書を提出すること』って職場規則にはあるけど……放棄しなかったの?」
「考えてみろよ。上司はあの悪魔みたいな男だぜ?連絡したところで『会社に戻ってから死ぬ』か『勤務先の異世界で死ぬ』のどちらかしか無いじゃないか!」
女は男とは違う部署であるが、男の上司がどういう人間であるのかは把握している。男の言うとおり、悪魔みたいな奴だ。会社のみんなも「社長が異世界から連れてきた魔王」だとか「鬼の血が流れている人間」とか好き放題言っているのも知っている。
「でも、生きてたじゃない?」
「死に物狂いだったからね。携帯していた魔道書はごくごく簡単な攻撃呪文しか載っていなかったし、武具だって最低限の護身用でしかなかった。それで戦って山賊を追い払ったんだよ」
「あら、それはすごい。次は勇者の仕事が回ってくるんじゃない?」
「止してくれよ、勇者なんて……それに本当に大変だったのはこの後だったんだ」
男は深くため息をついた。彼の話によれば、本来であれば彼が金満な貴族に売りつけるはずだった商品は勇者の手に渡る所謂「伝説の武具」だったのだが、それが山賊の襲撃によって奪われてしまったのだ。きっと今頃も街の露店の一角を埋めるだけの商品に成り下がっているはずだ。結局、男は「異世界エージェント(株)」の社員として、その埋め合わせをせざるを得なくなってしまったのだ。彼は泣く泣く勇者の旅に同行することにしたらしい。
「でも、その旅にはちゃんと物騒な武器と強力な魔道書を持っていったんでしょう?」
「もちろんだよ。おかげで敵は難なく倒せた。でも、僕は勇者の引き立て役に過ぎないんだ。目立たないようにするのが難しかったよ」
そう、手段こそ変わってしまったが、彼の仕事はあくまで「勇者が魔王を倒す」という目的を達成できるように「補助してあげる」というものだ。彼の存在は黒子なのだ。例えば彼が魔王を倒すなんて事があってはいけないし、もしそうなった場合「魔王を倒した勇者」として名前が残ってしまい、彼は未来永劫その世界に縛り付けられてしまう。だから本当は旅に同行するのも「勇者の仲間」として名前が残りやすいため危険なのだ。
「じゃあ、最初以外はそんなに苦労しなかったんじゃないの?」
「まあ、幸い魔王は勇者がちゃんと倒してくれたし、僕もそれで無事に旅を終えることが出来てめでたくハッピーエンド……だと思ったんだ」
男は頬をさすった。
「でも旅に同行したのは僕だけじゃないんだ。僧侶と魔道士と野伏に、それから剣士が一緒だったんだ」
「別に普通のパーティじゃない。ちょっと数が多いくらいね。それがどうなったの?」
「……そのパーティは僕以外が全員、女性だったんだ。もちろん、勇者もね」
「ああ、なるほど……」
女の視線はたちまち憐れみの色を帯びた。よく見ると、男がしきりにさすっている頬には掌の跡が赤く残されている。
「穏便に済ませることは出来なかった、とだけ言っておくよ……」
「ご、ご愁傷様……」
きっとみんなの記憶から消したいくらいのことをしたのだろう。だがそうでもしなければ名前が残ってしまう。「異世界エージェント(株)」の社員として、それは御法度なのだ。