警告
「待ってぇぇぇぇぇっ!!!」
私の絶叫も虚しく、本日の終電は私の目の前で走り去った。
ようやくここまで辿り着いたのに。私はその場にへたり込んだ。終電を逃した女が一人だらしなくホームに座り込む様は、傍から見たらさぞかしみっともないだろう。
足のどこかが軽く痛いような気がするが、どこが痛いのかもよくわからない。少し醒めたとはいえまだ酔いの残る頭で、これからどうしよう、などとぼんやり考えた。
電車の走行音が消えた無人のホームはここが都会のど真ん中であることすら忘れてしまいそうなほどに静かだ。改札を抜けたあと、ホームに来るまでにコケて時間がかかってしまったのがいけなかった。でも、危うく酔い潰されそうだった状態でちゃんと駅まで来られたことのほうがむしろ奇跡ではないだろうか。バーを出たときは足元もちょっと覚束ない状態だったのだ。
でも、奇跡はそう何度も続かなかった。
ホームの床のコンクリートは冷えたビールよりも冷たく、アルコールで火照った体を足先からじんわりと中和してゆく。深夜だからか、あるいは私の体が熱いせいか、線路の向こうから微かに吹いてくる風は真夏とは思えないほど冷たい。私はとりあえず立ち上がり、とにかくどこかに座りたい気分だったので、ホームの待合室の椅子に腰かけた。
終電時刻を過ぎたホームに電車を待つ客などいるはずもなく、待合室は無人だった。この大都会で、これだけの広いスペースを独占できる状況は限られている。その意味では少々レアな体験をしていると言えなくもないが、それだけでは何の慰めにもならなかった。
少し霞が晴れてきた頭で、私は今夜のことを振り返った。
今日は上司と二人で取引先に営業に出向いたのだが、予想以上に話が長引き、予定より帰りの時間がずれ込んでしまった。その甲斐あって商談は見事に成立。労を労おうと上司に夕食に誘われたのだが、私が女で上司は男であることを、もう少し考慮するべきだったかもしれない。
夕食は豪華なイタリアンで、ワインも少し飲んだ。今になって振り返れば、私は少し浮かれていたのだ。その後上司にバーに誘われたことも、私は何ら不審に思わなかった。
しかし、それから向かった上司行きつけのバーで、上司が私にどんどん酒を薦めながら話を引き延ばそうとしていることに気付いた時には、鈍い私でもさすがに身の危険を感じた。これ以上ここにいたら終電を逃してしまう。私は引き留める上司をどうにか振り切ってバーを飛び出し、タクシーを捕まえてようやく最寄り駅に着いたのだ。
なのにこれだ。
はあ。本当にツイてない。今夜どうしよう。家までタクシーを使うのと、近場の手頃なホテルを探すのとではどっちが安上がりだろうか。幸い明日は仕事が休みなので、朝の心配はない。今夜のことがあっていきなり明日上司と顔を合わせずに済むのも不幸中の幸いといったところか。
『警告です』
……え?
私は咄嗟に辺りを見回した。今、何か人の声が聞こえたような気がしたけど……?
だが、待合室には誰もいない。天井の蛍光灯のブーンという音が聞き取れるほど静かだ。蛍光灯の周りを小さな蛾が一匹飛んでいるのが見えた。
気のせいか。きっとまだ酔いが醒め切っていないのだ。もう少しここで休憩していこう。今から家に帰るのはやっぱりしんどいから、近場に安めのビジネスホテルがないか探してみるか。私はバッグの中からスマートフォンを取り出した。
『警告です』
またしても人の声がして、私ははっと顔を上げた。意識していたせいか、今度はさっきよりはっきりと聞き取れた気がする。女の声だ。それもだいぶ若い女の、大声ではなく囁くような感じ。だから、遠くで誰かが叫んでいるのがこっちまで聞こえて来た、とかいうわけではない。
全く同じ幻聴が二度も聞こえることがあるだろうか。少し気味が悪くなってきた私は、待合室を離れ、改札へと急いだ。
ホームから階段を昇り改札へ向かうまでの通路にも人影は全く見えなかった。日中は人がゴミのようにひしめいているし、ここに来るまでもそれなりに利用客らしき人とすれ違ったはずなのだが、終電の時間を過ぎればこんなものなのだろうか。
しかし改札に着いたとき、私の疑念は確信に変わった。
改札まで来ても、客どころか駅員の姿さえ一人も見当たらなかったからである。
「あの~! すみません!」
改札の窓口から呼びかけても返事はない。駅のだだっ広い構内に、私の声だけがやまびこのように反響した。終電が過ぎてからまだ10分と少ししか経っていないのに、駅員が誰もいないというのは明らかにおかしい。
私は改めて周囲を見回した。この駅はもう数え切れないほど利用しているが、改札も、券売機も、店も電光掲示板も何も変わらない。それなのに、風景はまるで違って見える。ただ人がいないというだけで、これほどまでに印象が違うものだろうか。
まあ、私は何も無賃乗車をしたわけではない。ちゃんと正規の手段で改札を通り、終電を逃したから帰ろうとしているだけだ。駅員に断らなけれなならないことなど何もない。私は改札を離れ、駅を出ようと歩き始めた。
この駅は迷宮と評されることも多いが、改札さえ抜けてしまえば外までの通路はそれほど長くない――はずだった。
「……あれ?」
私は首を傾げた。この通路を曲がればすぐ出口だったはずだ。しかし、私の目の前にはまだ長い通路が伸びている。私の記憶違いだろうか。
この時私はようやく気付いた。私は今何か妙なことに巻き込まれているのではないかと。
急に不安が押し寄せてきたが、手掛かりは何もない。私はとにかく歩き続けた。曲がり角を何度も曲がった。もう5分以上は歩いたはずだが、それでも出口には辿り着けない。酔いはすっかり醒めている。さすがにこんなに長くはなかったはずだ。試しに今来たばかりの道を戻ってみたら、1分も経たずに元の改札まで戻ることができた。
おかしいじゃん、なんで5分以上かかった道を、全く同じペースで歩いて1分で帰れるわけ?
「……何、これ……」
私の問いに答えてくれる人は誰もいない。
他の改札はどうだろうと構内の通路を歩き回ったが、今度はその他の改札を見つけられない。迷っているわけではない。確かにそこにあるはずの場所に辿り着けないのだ。
明らかにおかしい。どうなってんのこれ?
シャツの下は生温い汗でじっとりと湿っている。このまま一生この駅から抜け出せないのではないかという非科学的な不安に襲われ、歩きすぎてもはや棒のようになった足を焦燥感が突き動かした。まだ少しどこか痛むような気はしたが、そんなことはもう気にならなかった。
「ちょっと! 何なのよこれ! 誰かイタズラしてんの? 見てるんでしょ!? ねえ!」
誰にともなく呼び掛けてみたが、もちろん返事はない。私のヒステリックな声が長い通路に虚しく散っていった。
さんざん歩き回っても他の改札を見つけることができなかった私は、結局元の改札を抜け、さっき目の前で終電を逃したホームに戻ってきた。改札から外に出るという発想が間違っていたのかもしれない。駅の中で改札を経由せず外の世界と直結している場所に、私はようやく気付いたのだ。
そう、私の目の前で終電が走り去っていった場所、線路の向こうである。線路に沿って歩いて行けば、必ず駅の外に出られるはずだ。私はそう考えた。
しかし、線路からホームまでは1メートルを優に超える高さがある。下手に飛び降りたら足を挫いてしまうかもしれない。ただでさえ足を軽く痛めているのだから。そ~っと、慎重に……。
と、足を降ろそうとしたその時。
線路の向こうから突然電車の走行音が聞こえ、私は慌てて足を引っ込めた。
え、電車? さっきのが終電だったはずじゃ?
戸惑いながら音のした方向、右側の線路の先に蟠る暗闇を見つめていると、猫バスの目のような大きな二つのライトの光が見え、それからよく見慣れた車体が姿を現した。あれは紛れもなく、もう何百回、何千回乗ったかわからない、ごく一般的な普通電車の車両だ。
ただし、異様だったのは、一両編成ということだった。
地方の牧歌的な田舎の、半ば文化遺産として走っているような小さな私鉄なら、一両編成もあり得るかもしれない。だがここは日本の首都圏、大都会のど真ん中である。見たところ乗客はいない。いや、それどころか運転士や車掌の姿すらないようだ。
その不気味な電車は私の目の前でぴたりと止まり、乗降口のドアがひとりでに開いた。窓から中の様子を窺うと、ロングシートの座席で前方に運転席があり、乗降口上方のスクリーンには簡易的な路線図が映し出されている。
やはりごくありふれた普通電車の、何の変哲もない車両だ。
が、車体以外の全てが異常だ。むしろ一般的な車体であることが、その異様さをさらに引き立てているようにも思える。
私にこれに乗れと言うのか……?
乗ってはいけない。私の中の理性がそう囁いた。どう考えても、今私が巻き込まれている現象は、そしてこの電車はおかしい。しかし、これ以外に駅の外に出る手段はないようにも思える。それは私の直感だった。
理性と直感が対立した場合どちらを選ぶか。私は基本的に後者である。その選択が常に正しかったわけではない。でも、より後悔せずに済むのが直感の方だから。
それに、もう私の心身はすっかり疲れ切っていた。何でもいい、どこでもいい、私をここから出してくれるなら。そんな気分だった。
私はその怪しげな電車に乗り込み、ホーム側の座席に座った。
!i!i!i!i!i!i!i!i
乗降口のドアはやはりひとりでに閉まり、電車は静かに動き始める。車内アナウンスはない。無人の駅の無人のホームの、見慣れているはずなのに不穏な風景が、窓の外をゆっくりと流れてゆく。この電車は次にどの駅に停まるのだろうか。私は上方のスクリーンを見上げた。
だが、そこに映し出されていたのは路線図ではなかった。
『警告です』
白い画面に赤文字でそれだけ書かれている。
思わず背筋が凍り付いた。
そして、画面には一人の少女が映し出される。アルビノのように色の白い美しい少女。その瞳だけがルビーのように赤い。
少女は言った。
『小説を書こう! 運営です』
その瞬間、世界は崩壊した。
!i!i!i!i!i!i!i
真夏の熱帯夜。私は自分のワンルームマンションで電気も点けずにノートパソコンに向き合っている。エアコンは電気代がクソほどかかるから扇風機を使っているが凌ぎきれず、下着姿で過ごしているが体は常に汗ばんでいる。
作品の中の主人公と同じなのは性別と年齢ぐらい。新卒で就職した会社を過労と心労によるうつ病で退職して以来貯金を切り崩しながらのニート生活。陰キャだから働いていた頃上司や同僚に食事に誘われたことはない。それは私がブスだからじゃなくて陰キャだからである。
最近の私の楽しみといえばアニメを観ることと、趣味の小説を書くことぐらい。その私が自分の小説を投稿し公開しているのが、国内最大の小説投稿サイト『小説を書こう!』だ。今書いていたのは、そのサイトの夏の定番企画『夏ホラー』に参加するための作品。最終的には一万字程度にまとめる予定で、その前半部分、主人公が怪しげな電車に乗り込む場面までは既に一話として公開している。つまり二話目を書いていたわけだ。
説明はこれぐらいにして本題に移る。私はノートパソコンの画面を見つめている。そこにはアルビノのように肌も髪も白く、ルビーのような紅い目をした美少女の顔が映し出されていた。そんな操作をした覚えはないし、そもそも知らない女である。新手のウイルスか? なんかそんな怪しいサイト見たっけ?
しかし、少女はもう一度念を押すように、冷たく透き通る声で言った。
『小説を書こう! 運営です』
運営……運営さん?
いや運営がこんな美少女なわけねえだろ、というツッコミはさておき。最近の運営は利用者のPCをハックするのか?
運営さんはさらに続ける。
『いつも小説を書こう! をご利用頂きありがとうございます。小説を書こう! 運営です。本日、朝靄アザミ様が投稿されている作品内におきまして、利用規約第14条1482項に抵触する部分を確認致しました』
「え……利用規約……1482? って何?」
『抵触理由はアイディアの丸パクリです』
「丸パクリって……でもそれは!」
利用規約あんまり真面目に読んでなかったけど1482項ってちょっと多すぎないか?
たしかに私はアイディアをパクった。それは事実だが、他人の作品のアイディアを盗用したわけではない。
件の『夏ホラー』企画では毎年テーマが決められていて、必ずしもテーマに沿って執筆しなければならないわけではないのだが、いわゆる『お題』としてそのテーマを扱った作品を書く作者が多い。また、夏ホラー企画の特設ページでは運営がいくつかのアイディアを一例として挙げている。今年の場合はそれが、『終電後にやってくる行先不明の電車』、『誰もいないはずなのに声が聞こえる待合室』、『どう歩いても出口に辿り着けない駅構内』の三つだったのである。
私はテーマに沿い、例の通りに作品を執筆しただけだ。それをパクリと言われても納得がいかない。
運営さんは無表情のまま続ける。
『朝靄アザミ様に対しては以前にも二度警告対応を実施しております。運営の要請に従って頂けないものと判断し、アカウントの削除措置を実行致します』
「えっ、いや、ちょっと待てやコラ、あ、いや待ってください」
運営の言う通り、私は過去に二度警告を受けている。うち一つは過度の性的表現、もう一つは作品内に歌詞をたったワンフレーズだけ引用したものだった。このサイトでは三度目の警告を受けるとアカウントが削除されるらしい。だから私も最近は注意していたし、夏ホラーの企画だっておとなしく運営の例の通りに書いたつもりだったのだ。
しかし、通話する相手なんか一人もいない私のノートパソコンにはマイクがないし、仮にマイクがあったとしても向こうに聞こえるかはわからない。私には弁解の手段すら与えられていなかった。
『それでは、失礼致します』
運営の美少女は冷徹な口調でそう言い放つと、画面の中で小さく一礼する。その直後、パソコンの画面が一瞬暗転し、再び画面がついたかと思うと