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鶴舞  作者: 神山雪
9/10

8.G線上の2人のスケーター


 最初のシの音が伸びていく。


 音とともに、ユーリ・ヴォドレゾフが深いエッジで円を描いた。

 膝が柔らかい。あれだけ傾いているのに、音が全く響かない。一歩一歩が無駄なく伸びていく。

 スケートが深いのに軽い。柔らかいタッチで、両のつま先を180度に開いたイーグル。縁を描くのではなく、真っ直ぐ縦線が引かれる。股関節が柔らかそうだ。そう感想を抱いた直後だった。


 俺の息が止まったのは。


 イーグルから直接飛んだのは、グッと左のエッジをアウトサイドに踏み込む三回転ルッツ。キッチリ3回回って、羽毛が落ちるようにフワッと降りてくる。


 着氷姿勢が美しい。ステップから踏み込むのだって十分難しいのに、イーグルから直接飛ぶなんて。

 次のジャンプも規格外だった。


 少しばかり長い助走の後、あくまでもなんでもないジャンプだというように、トリプルアクセルから二回転トウループのコンビネーションを飛んだ。

 力強い離氷に対して、空中で舞っている姿は驚くほど軽かった。背中に羽でも生えているんじゃないかと思えてきた。呼吸をするのと、このジャンプを飛ぶのは、彼にとってはどちらが簡単なのだろうか。助走、俺より短かったし。


 二つのジャンプに対する観客の反応は、歓声が半分、戸惑いが半分というものだった。彼の身長は、多く見積もっても160センチぐらいだろう。それよりも低いかもしれない。選手というより、幼い子供という見た目の少年が、シニアでも難しいジャンプを軽々しく飛ぶ姿は、見るものに感心や称賛を抱かせるのではなく、異質なものに対する恐れを与えるのだろうか。


 子供の像を象った化け物。


 見るものに恐れを抱かせようが、ユーリ・ヴォドレゾフは淡々と演技を進めていく。一番最初の、感情を何も宿していない虚無な瞳で。自分がどれだけ凄いことをやったかも、何も興味を持たないみたいに。

 俺は彼の演技から目が離せなくなった。心臓がやけにうるさい。脳みそが、新しい刺激が与えられたような熱を持っている。


 ……凄い。

 あいつ、凄いな。

 


 G線上のアリアは、最初から最後まで緩やかだ。その流れるような旋律を、膝を深く使って進んでいく。アイスダンス選手のような綿密さで、リンクの上にS字と大きなサークルを描いていった。スケートのタッチは柔らかいのに力量も感じる。二つのステップを繋げている珍しい構成だ。


 視線の送り方、指の使い方、足の伸ばし方、体の柔らかさは、スケート選手というより、バレエダンサーを見ているようだった。ステップの隙間に、時折体がY字になったり、アラベスクのポジションになったりしている。実際、バレエをやっているのかもしれない。ロシアには国立のバレエ団がたくさんある、と神月先生が教えてくれたっけ。


 ラストはコンビネーションスピンだ。直前のダブルアクセルも危なげなく決めた。


 真っ直ぐな綺麗なT字のキャメルスピン。姿勢を変えてシットスピン。回っていない方の足が伸びきって、額が太腿にピッタリとくっついている。俺はここまで深く額をつけられない。

 再び姿勢が変わる。回転が速くなる。スタンドスピンから、背中を大きくそらす。肩を回し、頭上高くに持ち上がったフリーレッグを掴む。これは……。


「ビールマン!」


 会場からどよめきが起こる。そりゃそうだ。男子でこんなレアな技を見られるとは思わなかったのだろう。俺だってそうだ。


 ……世界でも稀な技。一握りの体の柔らかい女子選手の専売特許のような技だ。日本では、まだできる選手がいないはず。それを足を変えて両足で行う。マジかよ。しかも長い。何回回った? 10回? 15回か?


 俺が知っている男子シングルにはない魅力が詰まっている。これは……。

 新しいスケートだ。ジャンプの技術は間違いなく男子のものだ。ビールマンスピンやアラベスクが出来る柔らかさは間違いなく女子のもの。双方のいいところが詰まっている。


 こんなものは見たことがなかった。


 そして静かに終わる。

 ユーリ・ヴォドレゾフは湧き上がった歓声に、演技中の時と同じ瞳で静かに受け入れた。


 *


 ユーリ・ヴォドレゾフが、初老の男性とキス&クライに一緒に座る。コーチであるスタビスキーは非常に嬉しそうだ。当たり前だ。教え子がノーミスで終えたのだから。肩を抱くスタビスキーに対し、ユーリは氷よりも冷たい瞳で虚空を眺めていた。


 点数が出るのに時間は掛からなかった。

 ファーストマーク、セカンドマークに並んだ点数を確認する。


 演技中に起こったようなどよめきと、歓声と。納得が入り混じった息が混じる。

 ここまですごいのなら仕方がない、というような。


 ……今まで年下の子に負けたことはなかった。むしろ、歳の離れた高校生や大学生を相手に勝ち進んできた。初めて出場したシニアの全日本だって、エースの月島さんに次いで二位だった。


 ショートプログラムで、俺は年下の少年に初めて負けた。

 向こうはファーストマーク、セカンドマークも5.8がずらりと並んでいる。俺は、5.7が6に、5.6が3。アメリカのジャッジも彼には5.8を入れている。ソ連が崩壊し、冷戦が終結したのはまだたった数年前。フィギュアスケートの鉄のカーテンは全く取れていない、ジャッジだってそうなのだと神月先生が教えてくれたのは1ヶ月前だ。

 そんなアメリカのジャッジも、自国の選手よりも上の順位を入れざるを得ないのだ。


 ジャージのポケットの中に入れた右手が、いつの間にか固くなっていた。手の皮膚が白くなるほど。手のひらに爪が食い込んで、鋭い痛みが走った。


 最終組が終わるまで、彼の1位と俺の2位は変わらなかった。年少の彼と俺が、ショートプログラムツートップで折り返すことになった。

 

 *


 公式記者会見の後、俺はすぐに会場から消えた彼を探し回った。

 ショート1位の彼の言葉はどこまでも簡潔だった。いつも通りに滑っただけ。何も特別なことをしていない。他人の演技は見ていない。……3位のアメリカの選手が、殺気立った気がした。会場につめてきたアメリカのマスコミも。男子ショートでトリプルアクセルを決めたのは、俺と、ヴォドレゾフだけだったのだ。アメリカの選手はステップアウトし、他の選手は飛ばなかった。まだ飛べない、というのが正しいのかもしれない。


 簡潔な言葉。自分にも他人にも興味がないような。

 それが、俺に余計な興味を抱かせた。


「君がユーリ・ヴォドレゾフ?」


 しばらく会場内をうろつき、更衣室付近でようやく見つかった。帰るところだったようで、スポーツバックを抱えてロビーに向かって歩いていた。


 公式記者会見でも隣に座っていた。間近で見ると、本当に、女の子のように綺麗だった。髪、超サラッサラだし。肌は白く透き通っていて黒子一つもない。黙っていても、氷の彫像のような静かな迫力がある。ここまで異常に整った人間なんて、俺の周りにはいない。少なくとも、中学のクラスには。


 思い切って話を掛けてみる。頭の中で英語を組み立てる。通じればいいんだけど。何を言おうか。すごいと思った率直な感想か? でも嫌味だととられても嫌だ。一瞬考えて、一番、あたり触りのなさそうな言葉を吐いた。反感も抱かなさそうな、本当に普通の言葉。


「本当に俺より一個下? でもまあ、それならあんまり変わらんもんね。一緒に頑張ろう」


 ユーリ・ヴォドレゾフの瞳が揺らいだ。初めて、表情らしい表情が浮かんだ。

 色を写さない虚無のビー玉にヒビが入った。瞬きを何度も繰り返し、繰り返すたびに、水滴が落ちた波紋のように揺れた。思わず俺は首をかしげた。……何か変なことを言ったのだろうか。

 俺はそう聞こうとしたけど、聞けなかった。

 彼がさっと顔を逸らして、そのまま走り去っていったからだ。


「マサ! やったな!」


 細い背中を見送っていた俺のところに、長澤先輩がやってくる。先輩はショート9位だ。それなりにいい演技をしたけど、コンビネーションのセカンドがダブルになったのがが響いた。


「今、マサが話しかけたあの子、ショート一位の子だよな?」

「はい」

「めっちゃ綺麗だったけど、本当に人間かよ? 実力といい、見た目といい、綺麗すぎで人外だろ。化け物かよ、あんなの」

 長澤先輩は大半の人と同じように、驚嘆半分、恐れ半分の感想を抱いたようだ。言葉の中にも、異質なものに対する恐れが混じっていた。


 ……俺は長澤先輩の言葉を、緩やかに否定した。


「いや、それはないです先輩」


 俺が話しかけたとき、彼は確かに動揺していた。俺の拙い英語は、彼にきちんと伝わったのだ。

 一緒に頑張ろうと言っただけだ。特別なことでもなんでもない。俺が盛岡にきて、留佳や長澤先輩と一緒に切磋琢磨してきたように。瑠花とはリンク上での純粋な仲間で、長澤先輩は国内ではライバルでもあるから。

 彼にとってはそれが特別なのだろうか。


 化け物かよ、という先輩の言葉には待ったをかけたい。

 だって彼は、実力者である前に、ユーリ・ヴォドレゾフという1人のスケーターだ。




 明後日のフリーの滑走順を決めるくじ引きで、俺は最終組の最終滑走を引き当てた。

 直前の5番滑走が、ショートプログラム1位のユーリ・ヴォドレゾフだった。

 


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