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鶴舞  作者: 神山雪
6/10

5.96年全日本ジュニア【前編】


『  昌親へ

 あなたのことだから心配をしていませんが、元気にしていますか。こちらは私もお父さんも、お義母さんも元気です。お義母さんは今年の夏、庭でヤングコーンを育ててご近所さんに配って回りました。やっぱり畑が好きみたいです。

 私は今、「六段の調べ」を練習しています。相変わらず押し手が苦手ですが、とてもいい曲です。そうそう、この間、積み立てていたお金で練習用のお筝を買いました。二年越しでしたが、これでようやく師匠に借りずに家で練習ができます。

 来週はもう全日本ジュニアですね。頑張ってください。見には行けませんが、陰ながら応援しています。短いですが、これで。

                                母より  』



 母からは年に二ヶ月に一回の割合で手紙が届く。それに対して、俺は気が向いたら送る程度だ。手紙で母は、釧路の様子や実家の近況を教えてくれる。農家の兄さんがインターハイに出場したことも、母が筝を始めたということも、手紙の中で知った。一般的な茶封筒なのはいつものことで、便箋は毎回違う。今回は水仙が右隅に描かれた品のあるものだ。


 応援する決意と自分が寂しい気持ちは別のもので、育児がひと段落した女性は抜け殻になるパターンがあるらしい。俺が釧路を離れて燃え尽き症候群になりかけた母は、祖母から「習い事でも始めなさい」と勧められた。母はパートの時間を増やすことを考えたそうだが、祖母は母に自分自身を豊かにしてほしかったようだ。そうして母が始めたのが、市内にある筝教室だった。琴ではなく箏。どう違うのだろうかと帰郷した際に母に尋ねてみたことがある。弦に柱があり、柱を動かして音の高さを調節するのが箏。琴には柱がなく、弦を押さえる場所で音の高さを決める。


 何故筝だったのかは、その時の母を見ていないのでわからない。だが、筝一つで母が元気ならそれでいいと思う。


 チカ、と階下から俺を呼ぶ舌足らずな声がする。


 今日は日曜日で、週に一度の休みの日。ランニングやストレッチはするけれど、氷上練習は完全にオフ。俺は便箋を封筒の中に入れて、ヨックモックの箱の中に閉まった。今までの手紙もこの高級菓子店の箱の中だ。


 釧路を離れて二年半が経ち、俺は中学二年生になった。下宿先の神月先生の家は、旦那さんと6歳になる息子さんがいる。さっき呼んだのは……。


 借りている部屋を出て居間に入ると、晋作さんがソファで新聞を読んでいた。神月先生の旦那さんだ。岩手市内の一般企業で働いている。カレンダー通りの休みなので、晋作さんも今日は休みだ。

 日曜日の朝は個々に朝食をとることにしている。俺はランニングした後に、7時半ごろ神月先生と一緒に食べる。


「おはようございます」

「おはよう、昌親君」


 晋作さんは俺たちより遅い。一時間遅く起きて、一人で食べる。午前中は学校から出された課題や中間テストの勉強に充てることにしていた。俺が二階の居候させてもらっている部屋にいる間に、ゆっくりと自分のペースで朝を楽しんでいたようだ。充満した紅茶のにおいが、晋作さんの幸福を物語っている。


「チカー。遊んでよー。今日休みでしょー?」


 乾いた笑いを返す。……息子のヒカル君は、チカと呼ぶなと言っても覚えてくれない。俺はチカって呼ばなければ遊んであげるよと返す。それでもヒカル君はチカと呼ぶ。このやり取りも何回もしたもので、ほぼ諦めている。初めて顔を合わせた時、母親の背中に隠れていた彼も生意気に育ったものだ。


 俺はヒカル君の両脇に手を入れて持ち上げた。来た時よりもだいぶ重い。


「高い高いはやだなぁ。子供じゃないんだけど」


 そういう割にヒカル君は楽しそうだ。俺を見下ろす形になっているからだろうか。晋作さんが目を細めて俺たちの様子を見守っていた。


「今度さあ、俺にちょっとだけスケート教えてよ」


 母親が指導者だからといって、ヒカル君はちゃんとスケートを習っているわけではない。気が向いたときについてきて、滑って遊んでいるだけだ。母親の才能も受け継いでいるのだろう、遊びで滑っている割に筋がいい。遊ぶだけだともったいないと思うほどに。


「ちゃんと母さんに教わりな。俺だってヒカルの母さんに教わってる」


 日曜日の午前、神月先生は行きつけのコーヒー屋で至福のひと時を過ごしている。多忙な先生のやすらぎの時間だ。


「母さんにはそのうち教わるよ。でも、チカに教わったほうが楽しそうなんだもん」

「わかったわかった。その代わり、今度出雲が来た時、邪険にしないでちゃんと遊んであげるんだよ」


 出雲は神原出雲という、最近リンクで遊んでいる2歳ぐらいの男の子だ。肺が少し弱いらしく、体を強くするためにスケートリンクに来るようになった。母親に連れられてリンクのはしで遊んでは、体調を崩してぐったりしている。ヒカル君はそんな出雲がちょっと邪魔だと思っているようだ。


「だってあいつまだ小さいんだもん。からだが弱いし、一緒に遊んだってつまんないよ」

「俺から見たらヒカル君だって小さいよ。リンクにいればみんな仲間なんだから、あんまり意地悪するなよ」


 窘められて唇を尖らせるヒカル君をゆっくりと床に降ろす。ヒカル君は唇を尖らせながらも、わかったという風に首を縦に振った。

 全日本ジュニア前の、最後の休日の日だった。



 *



 杜の都仙台は、盛岡よりもずっと都会だ。キャリーケースを引き、エスパルの橋を渡る。タクシーで目的地の仙台市民体育館へ。


「あー緊張するー」


 行きの新幹線の中でも、現地入りしてからも、留佳はずっとそわそわして落ち着きがなかった。三週間練習しても、いまいち調子が上がらなかったのが緊張に拍車をかけていた。


「今から緊張してどうするんだよ。もう少しマサを見習えって」


 仙台市民体育館を目前にして、瑠佳を窘めたのは長澤先輩だ。長澤真一さんという、俺より二つ年上の高校生スケーターだ。東日本ジュニアは、俺に次いで2位だった。長澤先輩はスケートが滑らかで、身長が高いので演技の見栄えがする。切長の瞳に綺麗に伸びた背筋は、そつなく飛ぶジャンプなどは、どことなく星崎総一郎を思い出させた。彼もこの大会で表彰台に上がれば、世界ジュニアの代表が見えてくる。去年は惜しくも出場を逃しているから、大会に賭ける思いは強いだろう。


 緊張していないわけではないから、瑠佳の気持ちもわかる。俺だって全日本ジュニアに出場するのは初めてだし、今日、この仙台市民体育館に集まるのは、全国から勝ち残ってきた選手たちなのだ。今までよりも観客も多ければ、注目度も高い。その中で、失敗したくない、いい成績を残したいというのは、競技に身を置く人間の本能のようなものだ。だから緊張する。


 日程は、1日目が男女ショートで、二日目が男女フリー。アイスダンスとペアは登録カップルがいないので開催されない。順番は両方とも、男子が先で、女子が後だ。


 入念にストレッチを行い、イヤホンを耳にセットする。リラックスするために、まずは三河からもらった安室奈美恵のカセット。自転車を漕いで留佳と走っている時と同じだと言い聞かせる。程よく緊張がほぐれてきたところで、カセットを変える。今度はショートの曲だ。


「何も変わらないわ。東日本だろうが西日本だろうが、やることはいつも一つよ」


 6分間練習を終えて、神月先生に力強く送り出される。俺は最終組三番滑走。

 電光掲示板を見る。今の順位は1位が西日本ジュニア1位の、沢入昭仁さん。彼と同じ大会になるのは初めてだ。

 ーー27番、堤昌親さん。盛岡FSC。アナウンスと共に、まばらな拍手が起こる。観客席は、六割程度だろうか。


 緊張していないわけではない。だけど、それ以上に勝っているのは楽しみ。


 そうだ。初めての大会だろうが、集客数が多かろうが、注目度が高かろうが何も関係ない。

 やることはいつだってただ一つ。深く息をついて位置に着く。


 ショートプログラムは、ベートーヴェンのピアノソナタ十四番、嬰ハ短調。

 重々しいイントロは一楽章だ。少し長めの助走の中、心の中でカウントを取る。十四番の一楽章は拍が取りやすい。一拍で3つの八拍子が入る。


 イチ、ニ、サン。

 ヒョイっと。

 天空へと飛び上げるタンチョウのように。


 タンチョウはーーどの鳥もそうだがーー飛び立つ時に躊躇なんてしない。飛び立つときはいつだって空に向かっている。だから俺も躊躇わずに飛び上がる。


 3回半回って右足で着氷、その足で2回転トウループを繋げたコンビネーションを音の節目とともに成功させる。スーッと伸ばして、三連符に合わせるように、チョクトー、カウンター、ツイヅル。……観客席から、驚愕と感嘆が入り混じった何かが飛び出てきた。拍手はありがたいけど、そんなに驚くことだろうか。


 エッジの傾きを気にしながら、次のジャンプに向かう。最初に、規定の三つのジャンプを固めている。3回転ルッツと最後のダブルアクセルを決めたら、ここからは三楽章に切り替わる。急激に上昇するアルペジオに合わせて、スピードを上げる。一楽章は繊細なスロー。三楽章は嵐のような激しさ。曲に振り落とされないように気をつけながら、リンク上に円を描くサーキュラーステップと端から端まで駆け抜けるストレートラインステップを繋げる。二つとも、ターンやステップの量よりも、エッジを確実に切り替えられるキレとスピードを重視したステップ。


 両足のエッジを、インとアウトに綺麗に細かく切り替えて。……三木先生から徹底的に叩き込まれたコンパルソリーは、演技全体を底上げしてくれる。


 ベートーヴェンのピアノソナタ十四番。別名は「月光ソナタ」。


 月光は一楽章と三楽章が有名だ。曲の趣も全然違う。個人的には、三楽章の方が好きだ。月下を狼になって駆け抜ける感じがする。だけどただ没頭して走るだけではダメだ。それだけだと客観性が伴わない。走る時だって、いつでも綺麗に見えなくてはいけない。ラストのスピンまでスピードを落とさない。バタフライからキャメル。コンビネーションスピンのラストはスタンドスピンは両足。グッと体を引き締めて最後まで回る。一本の鉛筆に見えるように。


 演技の全てが終わった瞬間……。割れるような歓声が起こった。


 

 荒い息を宥めながら四方にお辞儀をする。人数よりも、拍手の音、歓声が多いのは気のせいか。花束が降る。小学生ぐらいのフラワーガールが拾ってくれる。持ち切れるだろうか。

 こんなに多いのも初めてだ。誰かの分を間違えて入れたのではないか。


「何、なんですかね。これ」

「スタオベだよ! ものすごく良かったよ! 初めての全日本ジュニアでトリプルアクセルからのコンビネーションを決めるなんて!」

「……東日本の時だって決めたじゃないですか」

 リンクサイドに戻って、神月先生と握手をする。先生もものすごくエキサイトしていた。今更驚くようなことだろうか。神月先生だって、見慣れているのではないか。


「あのね、練習で決めるのと本番で決められるは違うの。ほら、みんな驚いてる」


 ここまでで決めた選手はいないのだろうか。暫定1位の、沢入選手とかはどうなのだろう。

 掲示板に得点が出るまで時間は掛からななかった。技術点、5.7、5.7、5.8……。プレゼンテーション、5.7、5.8、5.7……。ずらずらと並んだ数字を目で追い、そこで初めて自分が驚くべきことをしたのだと悟った。

 神月先生とハイタッチする。3人残して、暫定一位。


 俺は観客席から残りの三人の選手を見学した。神戸の高校生、長澤先輩、名古屋の中学3年生と続く。長澤先輩もいい演技をしたけれど、先輩にはトリプルアクセルがない。沢入選手は抜かしたが、俺には届かない。



 全ての選手の演技が終わり、俺はショートプログラム1位で折り返すことになった。



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