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鶴舞  作者: 神山雪
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4.イーハトーブの風


 淡々とした教師の声の間を、シャープペンのペン先で裏拍を取る。落ち着いたトーンの声は、トロンボーンとトランペットの装飾音だ。今期のフリーは音に迫力がある。ピアノソロ、テナーサックスのソロから終盤に。ここの盛り上がりは……。


「堤」


 無駄のない声に反応して、ノートから顔を上げた。頭の中の音楽が消える。銀縁の眼鏡をかけた男性教諭が、目で解いてみろと言っている。整っているが、少し酷薄そうな面立ち。数学の上条だ。今は5時間目。午後一発目の授業は、弛緩した雰囲気を漂わせている。

 俺は立ち上がって黒板に向かった。チョークと黒板が合わさって鋭角的な音が立つ。今日は中間のテスト範囲だった一次方程式の復習だ。中間考査は先日終了した。5教科どれも悪くはなかったから、「悪くない」状態は最低限維持したい。これから忙しくなるから。


「うん。よろしい」


 上条教諭は出来上がった俺の答えに頷いた。席に戻る。再び授業の内容に耳を傾けつつ、フリーの曲を脳内で再生させた。ここでスピン、ここで三回転フリップ。裏拍に合わせたステップにと、動きを確認する。


 6時間目までつつがなく終わり、放課後になる。クラスメイトは忙しなく鞄を手に取って教室を出ていく。本日の授業が終わったから、みんな少し嬉しそうだ。俺は掃除用具入れから箒とバケツを出した。今週は掃除当番だ。


「昌親、昌親」


 扉から瑠佳が顔を覗かせてきた。崎山瑠佳。同い年のリンクメイトだ。肩まで切りそろえた黒髪に、切れ長の黒い瞳。出会ったときは同じぐらいだったけど、いつの間にか俺のほうが10センチ以上高くなってしまった。


「まだ行かないの?」

「今週掃除当番だから。後、一応部活に顔を出してから行くよ」


 公立中学って融通が利かないなと思ったことが何度かある。大会と学校行事がかぶってしまったとき「学校行事を優先にしなさい」と言われたときとか。


 融通が利かない公立中学は、「部活動は全員必須」を校則にしていた。そしてそれは「スケートクラブに所属しているから」では、免除してくれない。公立中学は面倒だ。一年の春に一度だけ担任に掛け合ったことがある。そうすると担任は「君がスケートに打ち込んでいることは重々承知しているけど、高校に進学するとき内申点にも響くから一応何かに入っておきなさい」と言ったのだった。


 瑠佳はスケートの練習が忙しいという理由で、パソコン部に入った。週に一回しか活動しない上に、幽霊部員状態を保っている。俺も似たようなものだ。スケートの練習がある以上、スポーツ系の部活に入るという選択肢はない。


「すぐ終わる?」

「15分ぐらいかな」

「じゃあ、中庭で待ってる。一緒に行こう」

「コッペパン食いたいだけでしょ」


 八重歯を見せて、瑠佳は軽快な足取りで昇降口に向かった。瑠佳は生粋の盛岡生まれの盛岡育ちだ。盛岡冷麺を愛し、ソウルフードの福田屋のコッペパンを練習前に一つ食べる。福田屋のコッペパンは学校で出る給食のコッペパンよりも迫力がある。つまり、でかい。そしてうまい。スーパーで買えばいいのに、瑠佳はなぜか盛岡駅前に構える本店で買いたがる。気合を入れるための、彼女なりのこだわりだ。


 瑠佳を長時間待たせるわけにもいかないので、掃除をさくさく終わらせて部室に向かう。その間、一年の時のクラスメイトとすれ違った。次の大会はいつかと聞かれた。三週間後の全日本ジュニア選手権だと答えると、応援には行けないけど頑張れよと応援してくれた。ありがたい。開催地は仙台だ。近くて助かる。大会が大きくなると、開催地がどんどん遠くなるから。


 部室は3階の図書室の隣だ。「図書倉庫」とプレートが掛けられている。文芸部の部室兼図書倉庫。扉を開けると、所せましと本が積まれている。電気をつけても何となく薄暗い。


「三河、いるか?」


 扉を開けて声を掛ける。本の奥からいるよというつぶやきがあった。奥のテーブルで本を読んでいるのは、同級の三河だ。眼鏡をかけた小柄な男子生徒。大きくなるかもしれないと親御さんが考えて買っただろう制服は、入学から一年半経った今でもぶかぶかのままだ。もっとも本人はあまり気にしていないようだが。小動物のような愛嬌と、少しぼんやりした無関心さがある。

同級で、俺を含めてたった二人の文芸部員。


「授業出たのか?」


 ずっとそこにいたかのような様子の三河に、思わず聞いてしまう。


「出てたよ。でもヴァレリウス・アンティアスのアスカロン攻防のほうが忙しくて」


 まったく答えになっていないが、言いたいことはわかる。つまり「本を読むので忙しくて、授業なんて聞いていない」だ。出会ったころ聞いたことがある。「銀河鉄道の夜は読んだのか?」と。すると彼は「宮沢賢治なら全部読んだ」と答えた。


 文学のブの字も縁がない俺が何故文芸部なんぞに入っているかというと、この三河と不思議と馬が合うからだ。あまり共通項はないが、俺にはスケートがあり、彼には本がある。夢中になれるものがあるのはいいことだ。そしてもう一つ。今日俺が用があるのは、こいつの進める本じゃない。

 三河は学生鞄に手を入れた。


「ほら、録音しといた」


 取り出したのはカセットテープだ。

 本の虫は無類の音楽好きだった。それも、クラシックから流行歌まで何でもござれの雑食だ。音楽が好きな理由を聞くと「物語だから」という答えが返ってきた。


「サンキュー。で、今度は何?」

「安室奈美恵。好きだろ」


 嫌いじゃない。あれだけ歌って踊れるとなると最高じゃないか。スケートをやっていると多少は音楽を知るものだ。その逆に、流行には疎くなる。テレビで放送される音楽番組も見ないし、CDを買う余裕はない。同級生の会話の中や、給食時間のリクエスト放送で知る程度に留まる。三河がいなかったら、SMAPも安室奈美恵も相川七瀬も名前だけ知っていて聞かずにいただろう。ある意味で広くはなった。


「次はさあ、Xジャパンとか持ってない?」

「Xもいいけど、ラルク聞いてみないか」

「お前が持っているなら」


 三河が目で頷いた。

 受け取るものも受け取ったので、部室から出ようとした。


「堤」


 文字と文字の関節から生まれたような、静かな音だった。


「俺はあんまりスケートはわからないけどさ。大会、頑張れよ。気が向いたら、見るかもしれないから」


 俺は思わず、三河の顔をまじまじと見た。彼は本から目を離してはいなかった。小動物のような愛嬌のある顔立ち。本と音の世界に没頭する才能がある反面、彼は周りを気にしない性質も持っていた。実際、一年の時に同じクラスだったが、友人らしい友人は俺ぐらいだった。物語の隙間から発する軽い好奇心だとしても、こいつがそう言うなんて珍しいを通り越している。


「まあ、本でも読みながら待っていてくれ。全日本ジュニアは、もしかしたらテレビ放送あるかもしれないから」


 俺が出場する全日本ジュニアが開催されるより前に、ヴァレリウス・アンティアスのアスカロン攻防の結果を三河が知るほうが早いだろう。その時には別の話を読んでいるかもしれない。

 それでもいい、と思う。どんな形でも、興味を持ってくれるのは嬉しいものだ。

 ぼんやりとした激励に、静かに扉を閉めることで応えた。読書の邪魔をしては悪い。


 中庭に行くと、瑠佳がベンチに座っていた。クラスメイトから借りたらしい、ティーン向けの雑誌を広げていた。


「遅いよ昌親。早く行こう。先生に怒られるよ」


 少し遅れたぐらいで目くじらを立てるような神月先生ではないが、早く行ったほうがいいに越

したことはない。俺は鞄からマフラーを取り出し、三河からもらったカセットテープをウォークマンにセットした。耳にイヤホンをひっかけると、安室奈美恵の美声が再生された。駐輪場に止めた自転車は、中学の入学祝で父からいただいたものだ。これで、学校が終わったらリンクまで自分で直行できるようになった。


 靴をはじめとして、スケート関連のものをカゴに入れる。通っている盛岡市立第六中学から練習拠点のリンクまで、自転車で20分。道に飛び出して真っ先に見えるのは岩手山だ。瑠佳が「盛岡駅のバスターミナル以外からなら、岩手山はどこからでも見えるんだよ」と教えてくれたが、その通りだ。


 ペダルを思いきり漕ぐと、冷たい風が顔を撫でる。肌の水分を全て抜き去っていきそうなほど、冷たく乾いた風。水気をたっぷり含んだ空気の釧路とは違う寒さだ。タンチョウが湿気と雪を運んでくるように、岩手山は木枯らしのような冷気を運んでくる。祖母に感謝しなくてはならない。祖母が編んだマフラーは、盛岡の冬では欠かせないものになった。これのおかげで自転車に乗っても首回りがあたたかい。


「昌親―」


 安室奈美恵の美声と瑠佳の快活な声が混ざる。


「最近、調子いいじゃん」

「おかげで。瑠佳も悪くはないんじゃない?」

「でもルッツの調子が上がらないんだよ。大会まであと三週間しかないのに」


 どうやったら昌親みたいに飛べるんだよ、と聞かれる。グッと押してパリっと飛べばいいんだと何度も言っているけれど、その「グッと押して」が結構難しいようだ。

ルッツは左足のインサイドエッジから滑ってきてから、飛ぶ瞬間にアウトサイドエッジに踏み込んで飛ぶ。アクセルを除く後ろ向きで飛ぶジャンプのうち、最も難しいジャンプだ。俺の印象では、女子で苦手な選手が多いように思う。


 瑠佳は今月の東日本ジュニアの時2位だった。ショートは1位だったが、フリーでのルッツの転倒が響いた。全日本ジュニアではリベンジだと燃えているけれど、肝心のルッツジャンプがどうにも不安定なのだ。


「気合入れていかないと。昌親は優勝だったんだから、私だって」


 そうして福田屋に行ってコッペパンを買う。瑠佳はあんバター。俺はチョコレートにした。程よい甘さに口が幸福を訴えるが、夕飯の白米は少し減らそうとも考える。


 リンクに着いて時計を見ると、4時半を回っていた。スケートリンク盛岡の構造は、釧路のリンクと大差ない。受付を通り過ぎると、神月先生はリンクサイドでスタンバイして、ちびっ子たちの練習を見ていた。痩身で品のある女性。元スケーターらしい、しっかりと伸びた背中が美しい。


 神月先生は、三木先生よりも少し若い。詳しく聞いたことはないけれど、30代後半と言ったところだろうか。その若さで、既に世界レベルの選手まで育てているのだから、指導者としての実力は確かなものだ。


「よろしくお願いします」


 着替えてから瑠佳と二人で、リンクサイドの先生に一礼する。本日二度目だ。すると神月先生が破顔した。


「よろしくお願いします。じゃあ、アップしてから八の字ね」


 まずはストレッチから。スケートリンクの共通廊下を往復して走る。それから、地面に膝やひじをつけて、真っすぐな姿勢をキープする体幹トレーニング。これを推奨したのは神月先生だ。「体幹を鍛えればスケートがより綺麗になる」という言葉から従っている。確かにこれを始めてから、ジャンプの時の空中姿勢や滑っているときの姿勢が綺麗になった、と、瑠佳に言われた。


 程よく体が温まったところで靴を履き替える。氷の上に立って徐々にスピードを上げていく。インサイド、アウトサイドを気にしながら氷上で八の字を描く。スーッと綺麗なトレースになるように。何度も八の字を描いているうちに、少しずつ足が氷に馴染んでいく。この感覚が好きだ。上履きでもスニーカーでも革靴でもなく、地面を蹴って歩いているときでもなく、スケート靴を履いて氷の上を滑っている瞬間が「本来の自分の足に戻った」ように感じられる。八の字の後はひょうたん。両足ひょうたんは、上から見ると瓢箪の形になるように滑る。両足をやったら、今度は片足だけで。


 充分に体と足が氷と馴染んだのを確認し、前向きに思いきり―—飛んだ。


 シュッと氷が削れる音とともに、頭が上にひっぱられる。腕を思いきりひきつけると、筋肉が痛いほど収縮する。

 ―—着氷し、真っすぐに生まれたトレースを確認する。


 飛べたのはトリプルアクセルだ。去年一年かけて、やっと習得できたジャンプ。


 王者のジャンプ。


 リンクの反対側にいた瑠佳が軽く拍手をする。

 全日本ジュニアまであと三週間だが、長いスパンで見れば4年に一度の祭典が待ち構えている。


『長野五輪まで、あと420日』


 ホームリンクでは長野五輪までのカウントダウンが始まった。


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