2.黎明期は図形を描いて
家から車で10分のところに、そのアイスリンクはあった。釧路クリスタルパレス。そこに釧路市内唯一のフィギュアスケートのクラブがある。
スピードスケートを1年でやめて「フィギュアをやる」と言い出したわけだが、両親を反対されることもなかった。ばあさんがかつてジャネット・リンのファンで、俺の一言を後押ししてくれたのも大きかったみたいだ。俺を誘ってくれた農家の兄さんも「そっかー! 俺もスピード頑張るから、そっちはそっちで頑張れよ!」と背中を叩いてくれた。
クラブのヘッドコーチは三木まり恵という、40そこそこの女性だった。
400メートルリンクを離れることにあまり抵抗がなかったけれど、いざ屋内のリンクに入ってみると、これから始めるスケートは今までと全く違うものなのだと改めて思わされた。リンクの大きさ。靴の性質。そして何より――
「男っていないの?」
聞いた俺に、まあね、と三木先生は苦笑する。
釧路のスピードスケートの少年団の男女比率は7対3。20人中14人が男子で、6人が女子。
そしてこのフィギュアクラブに所属しているのは20人。下は5歳から上は22歳までだと聞いていた。
そのすべてが女の子だった。
「スピードスケートもお金はかかるけれど、フィギュアも相当かかるのよ。お金持ちの習い事っていうイメージがあるし。それに、綺麗な衣装で氷の上で滑るってなると、女の子に習わせたいって思う親御さんが多いみたいよ。男の子は外でサッカーやったりスピードやる場合が多いしね」
思いっきり首をかしげる。俺もスピードスケートから転向してきた人間だけど、そういうものなのだろうか。スピードがあってかっこよく飛ぶ男子だって世界には存在するのに。大体、今人気の伊藤みどりだって、男子かよって思うぐらいめちゃくちゃダイナミックじゃないか。
フィギュアスケート=女の子が綺麗に踊る競技、という認識の方が実は浸透しているのだとこの時初めて知った。
「まあ、なんでもいいんだけどね」
驚いたけれど、あんまり深いことじゃない。問題なのはこれからの俺だ。
スピードは腰を低くして、なるべくお腹と氷の線を水平にする。それでフィギュアが滑れないことは分かっている。
じゃあ、と三木先生は続ける。
「まず、その靴から慣れることから始めましょうか。さあ、氷の上に入って。その前に、みんなに紹介するからね」
氷の上に練習生が集められる。一斉に俺に注目が集まった。よろしくお願いします、と頭を下げた。
*
スピードとフィギュアはかなり勝手が違う。フィギュアはブレード部分が足の裏の長さではないし、厚さも違う。フィギュアのブレードは、つま先にギザギザがあるのだ。
そしてフィギュアをやって初めて、ブレードにはエッジ部分が二つあることを知った。
「こうさ、エッジ二つに乗せて滑るとスピードはつくんだけど、これはフラットっていう状態で、あんまりよくないんさね」
スケートクラブの先生は3人。三木先生のほかに、30歳半ばと思しき女性が二人。俺は三木先生から主に教わることになっていた。
「なんで?」
「フラットな状態だと、氷をガリガリ削っちゃうんだよ。やっぱりガリガリ削ると、余計な力を使っているから見る人間に与える印象も悪いしね。それに、インサイドエッジとアウトサイドエッジ。この二つのエッジをきれいに使い分けて、氷の上に図形を描くんだ。それが、フィギュアスケートの醍醐味だよ」
それをちゃんと身に着けるためにコンパルソリーがあるの、と三木先生は続ける。彼女の教え方はとても丁寧だった。
同じ氷の上の競技で全く違うところ。「どれだけ自分が速く滑れるか」というのがスピードスケートで、「他者から見て綺麗に滑る」のがフィギュアスケートだと、初めて見て実感した。スピードをやっていた頃は、自分が速く滑るために姿勢を正していた。それで風みたいに滑るのが気持ちよかった。だからだろうか。滑っていて、「見ている誰か」を意識する必要はなかったような気がする。
だから今まで、エッジも気にする必要もなかった。
「昌親くん、膝をもう少し曲げて」
「ループの時もっとインサイドを傾けて」
エッジの分け方一つとっても最初は難しく、「フラットで滑るな」と言われてもわからなくなってしまう。スピードスケートをやっていた影響からか、スピードを出すことにためらいはない。
「スピードはいいけど、エッジ! フラットになってるよ!」
……最初の頃はそれで何度も指摘をされた。スピードを出し過ぎてエッジがおろそかになり、フラットの状態で滑ってしまう。だけど、暫く滑っていると、「どっち側のエッジに乗っているか」がわかってくるのだ。
左右で二つのエッジ。どれだけ綺麗に切り替えられるか。どれだけ深く倒して、無駄な力を入れずに早く滑れるか。……そうして滑った自分が、第三者から見て本当に綺麗に見えているか。綺麗に図形が描けているか。
いつの間にかそのことに夢中になっていた。
1990年ごろ。当時のフィギュアスケートの代名詞と言えば「伊藤みどり」と「トリプルアクセル」だろう。小柄と言っても差し支えない女性が、竜巻でも起こせそうなトリプルアクセルを飛んでいたのに日本中が夢中になっていたのだ。
豪快なジャンプの反面、伊藤みどりは「コンパルソリー」が苦手だった。確かにコンパルソリーはジッと映像で見るとみんな同じ動きをしているから、退屈になる。しかしやっている本人にとっては物凄く意味のあるものだった。
「見ている人間にとっちゃ、コンパルは確かに退屈さね」
練習の合間に、俺を含めて生徒たちに基本技術について説明した時があった。
やっぱりコンパルソリーは単調であまり人気はなかった。そこそこ仲良くなった女の子達も、綺麗なスピン、軽やかなステップに、バレエのアラベスクのようなポジションのスパイラルを見ては目を輝かせていたものだ。コンパルソリーを見るからに退屈そうに、そして手を抜いて練習する子も少なくはなかった。
「でも、どんな技術もまずは基本から。コンパルが綺麗にできない人間に、綺麗なスパイラルはできないし、エッジの使い分けが明確じゃないとステップが踏めないよ。ピアノをやってる子ならわかるよね? 退屈なハノンも、指を動かすために必要なものでしょう?」
テレビの向こう側の演技にたどり着くのに、近道はない。
三木先生の口調は穏やかだけれど、確かな説得力があった。
屋内で、夏でも練習できる環境は新鮮だった。
冬になるとフィギュアスケートの大会が放送され、その度にビデオに録画した。星崎総一郎をはじめ、当時の名選手の演技を繰り返し視聴した。
何度も何度も演技を見てみると、彼らには共通点があった。姿勢がよく、どんな姿で滑っても無様になることがない。頭の位置は滑っていても変わらない。スピードがあって、余計な力が入っているように見えない。自由にツルツル滑っているようにも見えて、氷とエッジが、お互いに吸い付いているようにも見える。
滑る姿が、どこまでもナチュラルなのだ。その自然に滑ったまま、ジャンプを飛ぶ。
なるほどこれが基礎技術なのか、とあらためて納得して再び練習に向かう。後ろに滑ったまま、右足のエッジをアウト、イン、アウト、インと切り替え、その中で4連続のループ、カウンター。今度は左足のエッジを体を前向きのまま、イン、アウト、イン、アウトと切り替える。動きがテレビの選手よりもだいぶぎこちないのがもどかしい。もっとスムーズに。もっと、深くエッジを倒して。
*
三木先生の教え方は丁寧で筋が通っていた。どうしてコンパルソリーが大事なのかは一歩目で、ジャンプやスピンの際も同じだった。半回転多いからアクセル。スピードを殺さずに入るのが胆だ。ルッツとフリップは力の向きが違う。エッジの滑らせ方がサルコウとループで違う。スピンの時は、三半規管を鍛えることの大切さを説いた。また、スピンのポジションは体が柔らかくないと美しくないから、柔軟運動は欠かさずにやりなさい、とも。
そのジャンプを覚えたのはスケートを初めて1年だった。ジャンプは6種類あって、ひととおりのダブルジャンプが飛べるようになった。
見様見真似で前向きに踏み込むと、タンッ! と体内に心地よい音が響く。空中で体をぎゅっと引き締める。右足で降ると、スーッとまっすぐなトレースが生まれていた。
「い、今何飛んだの?」
三木先生が目を剥いて飛んできた。
前向きに飛んで、二回回って降りてくる。何も難しいとは思わなかった。本当は三回半回って降りてきたいのに。そう言ったら三木先生は、笑顔のまま固まった。テレビの解説員は何て言っていたっけ? ――決まりました、ダブルアクセルです。……そうだ、ダブルアクセルだ。
その日以来、俺を見る三木先生の目が少し変わった。少なくとも、ほかの練習生とは違う種類のまなざしになったような気がする。
*
初めての試合はよくわからないうちに終わった。とりあえず滑っていたらいつの間にか台の上の一番高いところにいた。曲は確か「タッカー」だった覚えがある。子供の大会だから、フリーのみの一発勝負。ずらりと、5.1とか5.2とかが並んでいた。三木先生は泣きながら褒めてくれたが、先生が言うには「北海道の地方の小さい大会」で、その大会は「さらに大きい大会に出ていくためのステップ」のようだ。
理解できたのは勝ち続ければもっと大会に出られる、ということだ。
またスピードとフィギュアで違うのが、氷上に一人でいるか複数でいるかだ。スピードは徒競走に似ている。フィギュアは体操に似ている。その人の演技が、美しく優れているかどうか、複数の審判員がじっくりと評価する。優れれば優れるほど、5.1が5.2に、5.3から5.5の評価になるのだ。
試合に出て初めて分かった。フィギュアスケートが特殊なのは、氷の上をその時間だけ独り占めできるところだ。
氷の上を独り占め。
見ている人間が大多数に対して、演技を行うのはたったの一人。
音楽があり、氷があって、俺がいる。
……それはとても、尊い出来事のように思えた。
この世界を独り占めできるのなら、俺の演技をもっと見てほしい。その場所を、もっと俺に与えてほしい。俺を知っている人でも、知らない人でも、瞬きさえする間もなくずっと見ていてほしい。その為にはどうすればいいんだろう。テレビの中の選手なら、その方法を知っている気がした。
テレビの中の選手のように。
大会から大会までは二週間近く時間が空く。その間、今までよりも少し長めに練習をした。三木先生は俺を見る時間が増えた。
次の大会は札幌で行われた。2週間前に滑った「タッカー」を、ジャッジに視線を送ることを意識して。振り付けも多少変わったのだ。滑りながら衣装のサスペンダーをうまく使ってみると、周りの反応がみるみる変わった。そうしたらまた真ん中に立っていた。次の大会までは時間があり、また場所は本州だった。修学旅行よりも先に本州に行くことになって、同級生からは羨ましがられた。本州といっても青森だ。りんごチップスをお土産に持ってくると約束した。現地に行ってみると、札幌の大会よりも出場している子供の滑りの質が、上がっていた。東日本で一番を決める大会だよと三木先生に言われた。東日本って、どこからどこまでなんだろうかと考えているうちに、再び真ん中に立った。三回目だ。両脇に立つ選手は、俺よりも身長が高くて大人っぽかった。持ちかえったりんごチップスは、クラスメイトの胃に無事に収まった。でもまだ大会があるらしい。次はどこかなとわくわくしたら、神奈川だよと三木先生が教えてくれた。神奈川ってどこだ。俺の中の本州の地図はぼんやりとしていて、神奈川も千葉も茨木も大して違いがわからなかった。でも、本州の人に、釧路と帯広と北見の違いを教えろと言われても、タンチョウが盛んに飛んでいるか否かしか答えられない。
練習をするうちに、振り付けや音楽やジャンプが、自分の細胞に馴染んでいくのがはっきりと分かった。覚えたものが自分の血肉になる感覚がたまらない。「タッカー」の曲も振り付けも、最後に演じるころにはだいぶすべらかになっていた。音と振り付けの境界線が感じられないほど。
でもなぜだろう。まだ、足りない。もっと滑りたいし、もっと見てほしい。
これで満足はできない。
演技が終わった後、悶々と考えてみる。
もっと複雑に滑りたい。あのジャンプの飛び方で、本当にあっていたのだろうか。もう少しソフトに飛んだほうがよかった気がするし、最後のジャンプはサルコウじゃなくて、ルッツにしたほうがパリッとプログラムが引き締まる。きれいに残っているのはいいけど、図形は少し単調すぎじゃないだろうか。締めのスピンで、もう少し早く回れれば恰好よく決まるだろう。
……だから、最後に真ん中に立った後、三木先生に聞いてみた。
「次の大会はどこですか?」
すると三木先生はあきれた笑顔を返した。呆れながらも、先生は泣いていた。悲しいのかなと思ったら違った。次はもうないんだよ。次は、来年。……来年?
「昌親、おめでとう」
思いっきり抱きしめられる。そうか、俺はまだ足りないと思っていたけど、三木先生はうれしかったのだ。
そうか、来年ならまたあるのか。
真ん中に立つたびに首にかけられたもの。ネックレスよりも紐が太くて、色は輝かしい金色。……メダルだ。日本一を決める大会の。
この大会で、初めて全日本クラスの大会で優勝した。