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鶴舞  作者: 神山雪
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1.白い世界の神の使い


 前だけ見つめていたはずなのに、いつの間にか目の前が真っ青になる。

 そのまっさらな青を横切ったのは、一羽の神だった。


「あ」


 身体を大の字に投げ出したまま考える。背中と頭に当たる冷たさが絶妙に心地よい。飛行機って鳥に似せて作ったって本当かな。鳥がつばさを広げれば確かに飛行機の形になるし、あの形だからこそ遠くへと飛んでいけるんだと思う。


 でもあれは飛行機じゃない。タンチョウだ。この辺りだとなじみが深いけど、その範囲を過ぎれば途端に姿を見せなくなるみたいだ。母方の叔母の家は札幌にあって、こっちに遊びに来たとき初めて見たそうだ。タンチョウを見て、「初めて見たよ! でかいな! 喰えるかね!」とえらく感動してたっけな。


 この世で一番身近で、かつ神々しい思わせる生き物は、俺にとってはタンチョウだ。彼らは、湿原の神だ神々しいだとか言われている。今みたいな冬場に湿原に現れて水を啄んでいる姿は、一枚の写真に納めたいと思う写真家が多そうだ。上手く撮れたなら、この世のものとは思えないほど完璧な空間になるだろう。

 だけどタンチョウは意外に作物を荒らす。保護活動で繁殖させて丁重に扱われながらも、同時に害鳥扱いもされてしまう。

 人の都合で神扱い。人の都合で害獣認定。


「……チカ。昌親!」

 今飛んでいるタンチョウは害獣扱いされなければいいな、と思っていた時だった。母が長靴のまま、ものすごい勢いで走ってくる。……大声で呼ばれて、そういえば自分は周りと同じように滑ろうとして、スピードをつけすぎて転んでしまったことを思い出した。タンチョウに気を取られて忘れていた。


「大丈夫? 立てる? 頭打ったんじゃないの?」

「大丈夫だよ、母さん」


 俺はむっくりと立ち上がって、母に向き合う。だって、転んでも下はただの氷だから。溶ければただの水だから。何も問題ないような口で答えると、母は目を丸くさせてまじまじと俺の顔を見つめていた。


 ……初めての400メートルリンクはとてつもなく広く感じられた。膝を曲げて、手を後ろに組んで、腰を折り曲げて上半身と氷が水平になる姿勢で滑る。ロングトラックの滑り方だ。

 ただ、この広大な400メートルを、ただ真っすぐに滑るだけなのはもったいない気がした。スピードにはスピードの楽しさがあり、難しさがある。決して、スピードを馬鹿にして思ったことではない。何か自由な図形でも描けたらもっと楽しいんじゃないかっていうことだ。たとえば、まっさらな農地に、トラクターで整地するのではなくて足でずぼずぼと落書きするみたいに。ナスカの地上絵を描いた人の気持ちを思う。

 もしくは……タンチョウが自由に空を舞い、湖水で踊るように。


 そうぼんやり考えたのは、6歳の頃。

 釧路にあるスケート少年団に入る日の事だった。


 *


 俺が初めて氷に乗った場所は、スケートリンクでも学校の校庭ではなかった。小学校に入学する前から当たり前にスケートをやっていたし、俺の近所でも、農家のもろこし畑が冬の間だけスケートリンクになっていたことがあった。


「あんま設備とか機材はないんだけどねぇ。必要だし、この辺りはパチンコか自宅で麻雀ぐらいでなーんも娯楽はねえからなぁ」


 と言いながら、もろこし農家のおじさんが農業器具を使ってスケートリンクを作ったのだ。冬の間はスケートが体育の授業に組み込まれているのだ。滑れて当たり前だし、滑れなかったら授業に出られなくなってしまう。冬の間絶対に必要になるもの。それがスケートリンクだった。

理由はどうであれ、即席で作ってくれたおじさんのリンクは俺を含めて近所の子供には大好評だった。テレビゲームを持っている友達は少なかったし、こう雪ばっかり振っていると、足元が滑ってサッカーもやる気にもならなくなってしまう。

 スケートは冬の間の、授業の一環であり、みんなにとっての娯楽だった。


「マサは筋がいいね」


 近所のみんなと滑っている時、そう声をかけたのはリンクを作ってくれたもろこし農家の兄さんだ。俺が1年生の時その兄さんは5年生。「普通の子はそこまでスピードなんて出さないよ」といって話しかけてくれたのが兄さんとの始まりだった。

 おじさんが作ってくれた即席のリンクは意外に広い。だから思い切りスピードを付けて走るのが気持ちいいのだ。


「俺のところのスケート少年団に入らないか? 今から入って練習すれば、マサもいいとこまで狙えるかもしれんね」

「少年団?」


 氷の上でひたすら遊んで走りまくって、一休みしている時だ。隣の兄さんから本格的にスケートをやらないか? と誘われたのは。

 少年探偵みたいなものだろうか、と思ったら違う。スケート靴で犯人を追い詰める探偵。……いろいろとそれはおかしい。兄さんは苦笑いをしながら教えてくれた。


「スピードスケートだよ。サッカーとか野球とか、スポーツ系の習い事の一環でもあるし。そこからでっかい大会に出たりすることもできるよ」


 俺もこないだ大会に出てきたんだ、と兄さんはひとしきり語る。全小の1000メートルクラスで上位入賞したらしい。スケート少年団は近くにあって、学校でも通っている子供が多いとも教えてくれた。

 もともと、頭を動かすことよりも体を動かす方が俺は好きだった。サッカーも野球も嫌いじゃない。皆でやればそれなりに楽しかった。でも北国に育った人間らしく、俺はアイススケートが一番好きなようだった。

 氷の上で速さを競うスポーツ。


「うん、やってみるかな」


 深くは考えなかった。ただ、これを始めれば、俺はずっと氷の上にいられる。そう思うと、兄さんの誘いに断る理由はなかった。

 家に帰って、母に相談してみよう。それだけを決めて、再び真っすぐ滑り始めた。


 スケート少年団の先生は「スケートの先生」が副業で、本業は町の電気屋だった。電気屋の裏にそれなりに広い庭があって、スケートの練習に必要な機材もそろっていた。少年団の子は電気屋の裏の庭で陸上練習をしていたり、機材で練習していた。剣道の先生のほとんどが警察官なのと似ているのかもしれない。

 少年団に入りたいというと言うと、両親はすんなりと了解してくれた。了解した理由は聞いたことはなかったけれど、母にも父にも、子どもに何か習わせたいという思いがあったのかもしれない。

 夏は主に陸上トレーニング、冬に氷上で練習。

 腰を曲げて、胴体と地面を水平にするにはそれなりの筋肉が必要になる。腹筋も太ももの力もあまりないうちは、すぐにグラグラして足が痛くなった。

近所の兄さんは少年団の中でも有望らしく「次の全小では、入賞じゃなくて優勝を狙うんだ」と意気込んでいた。俺は兄さんのお手本のように綺麗なフォームを真似して、氷の上で際限なく滑る自分の姿を想像した。


 *


 札幌から叔母が再びやってきたのは小学校2年生の2月だった。

 母方の叔母は札幌の小さい出版社でスポーツライターをやっていた。専門はウィンタースポーツで、日本のどこでも飛び回った。今日やってきた理由は俺の通っているスケート少年団の取材だ。もろこし農家の兄さんが1月の全小で優勝したので、話を聞きにやってきたのだ。


「チカ君、筋いいじゃん」


 練習が終わり、片づけをしている俺に叔母が話を掛けてきた。隣には母がいる。普段は練習を見に来ないけど、叔母が、少年団の取材に来ると聞いて久しぶりに会おうとも思ったのだろう。家には寄らずに札幌に帰るとも聞いていたから。

 叔母は出会った時から俺のことをチカと呼んでいた。以来、俺の周りの親しい人間はチカと呼ぶ人が増えてしまった。チカと呼ばれるのはあまり好きではないから、いい迷惑だ。近所の兄さんみたいに、マサ、と呼んでほしかった。昌親のチカだけ取ると女の子みたいじゃないか。


「ねえ、もう一つのスケートって見た事あるよね?」


 まるで知っているのが当たり前だという雰囲気で叔母が聞いてくる。もう一つのスケートって何だろう。俺にとって一秒でも一コンマでも早く滑るのがスケートだから、それ以外に何かあると言われてもぴんと来ない。


「もう一つのスケート?」

「そう、こないだのオリンピックで凄く盛り上がったんだよ」


 叔母はファイルから一枚の写真を取り出した。写っているのは、青い衣装を着た小柄な女性だった。髪をポニーテールにして、笑顔で滑っている。スケートって、こんなきらきらしい衣装を着て滑るようなものだったっけ? そしてこの人は……誰だろう。


「この人がいま有名なんですか?」

「え! 知らないの?」


 叔母さんは心の底から意外そうに声をあげる。


「チカ君、こないだのオリンピック、見てなかったの!?」


 首を思いっきりかしげる。

 あんまり記憶にない。オリンピックという、縁遠い場所に出場する雲の上の人を見るより外で遊ぶ方が楽しいから、テレビで放送されていたのもろくに見ていないのだ。

 祖母や両親は見ていたみたいだが。


「だめだよチカ君、スポーツやっているなら、オリンピックぐらい見てないと! これからフィギュアスケートの時代が来るわ! 目指せ! 未来の伊藤みどり!」

「ちょっと香ちゃん! あんまり昌親をたきつけないで!」

 母と叔母は姉妹の間柄であるので、母は叔母には容赦ない。

「いいじゃない! だって、姉さん。せっかくチカ君スケートをやっているのよ? 今大盛り上がりのフィギュアだって知ってほしいじゃない! もうとにかくすごいのよ、みどりは!」


 みどりって。その人は叔母さんの友人か何かかよ。叔母ははしゃぎまくって、ビデオだけ参考にと置いて札幌に帰っていった。ビデオの表紙に「88年カルガリー、フィギュアスケート競技」とだけ書いてあった。

 母も父も、オリンピックは見るけれどあまり熱心にスポーツを追いかける人間ではない。このビデオの表紙を見て祖母だけが「もう一度見たいねぇ」といったのだ。


「色々面白かったけど、フィギュアがやっぱり面白かったねぇ」


 祖母はそう言って、ビデオをセットしてくれた。

 ビデオは抜粋だったらしく、叔母さんが残したい演技だけ録画されていた。最初に映っていたのが、外国人の男の人と女の人。二人で一緒に滑って、時折男の人が女の人を頭の高さより持ち上げたり、投げたりしている。……凄いな、曲芸みたいだ。そうしてその次は、男の人が一人だけ現れる。男子だけで滑るらしい。


 そういえば叔母は、女子の事は話していても男子についてはそんなに触れていなかったっけな。「男子シングルも、日本から一人だけ出たんだよねー。まぁ、頑張ったよ!」ぐらいの雑さで話していただけで。それにしても、さっきからビデオを見ていても外国人が多い。何だ、日本人は一人だけなのか。


 ――ニッポンの選手の登場です。星崎総一郎。コンパルソリーは12位、テクニカルは13位からのスタートです。フリーは、リスト。ピアノ協奏曲第2番。


 公共放送のアナウンサーの口調は堅苦しいけど聞き取りやすく、映像の人の動きを邪魔しない。重要かつ端的に情報を言っただけで、あとは余計なことは言わなくなった。

 背の高い、少し硬質な顔立ちの男性だった。整っているけれどどこかロボットを連想させるような感じ。ミスター・スポック? アンドロイド?

 曲が始まり、同時に演技が始まった。


 そしてその演技に……目を奪われる。


 何だこれ。これって、俺がやっているスケートと、同じスケートなのだろうか。後ろ向きに滑り、ブレードの動きが変わり、斜めになったりくるくる回ったりしている。目まぐるしく足の動きが変わる。それでもスピードは変わらない。


「母さん」

 半ば呆然としていた。聞きなれた自分の声が遠く感じる。


「俺、スピードをやめてフィギュアやる」

 目だけはテレビから離さないように、静かに宣言する。


 その後も理解を超えた演技が続いた。複雑奇怪な足の動きをするソ連の選手。ダイナミックなジャンプのカナダの選手。軍人のように硬派に滑るアメリカの選手。線は細いけれど、動きが華やかなソ連の選手。どの選手もかっこいい。すごい。

 ――ただ一人で立ち向かった日本人がいる。長身で、端正な顔立ち。アンドロイドみたいにすっとよどみなく滑っていく。成績は良くなかったけど、彼は堂々と世界と戦っている。氷上で、自由に図形を描きながら。

 こんな人が日本にいるんだ。

 

 ……その人の名前は、星崎総一郎。


「フィギュアをやって、世界のひとと戦いに行く」


 氷の上で戦う人になりたい。滑って。飛んで。回って。自由な図形を描いて。

 あの人みたいになりたい。


 あの人みたいに日の丸を背負って。

 世界の中に切り込んでいくのだ。


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