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ガーベラのお見舞い

 こんこん、と扉が叩かれる音がした。金香は無意識のうちにびくりと体を震わせる。

 それが『誰かが訪ねてきた』という事実を示していることすらすぐにはわからなかった。

 まだ夢の余韻かもしくは熱のせいか、ぼうっとしているようだ。

 数秒、動けなかった。そこへ聞こえてきたのは。

「金香。起きているかい」

 優しい響きを帯びた心配そうな声だった。

 声だけでそれが先生だと金香は理解した。

 どうして先生がこちらへ。

 思ったがすぐに気付いた。自分を気づかってきてくださったのだ。

 思った途端、意識ははっきりとこの場に戻ってきた。どくんと心臓が跳ねる。

 先生。

 先程、桜の花吹雪の向こうに消えてしまうのを視た。

 ただの夢だというのに不安になってしまっていたところへ。

 今、扉の前にいらっしゃる。

 ……お逢いしたかった。

 金香が思考の整理をするためになかなか返事ができなかったためか、数秒後にもう一度扉が叩かれた。

「……眠っているのかな」

 小さな声だったが確かに聞こえた。

 金香はもう一度はっとした。このままでは帰られてしまう。

 ばっと顔をあげて、やっと口を開いた。

「お、おき、て……おります……」

 出てきた声は掠れていた。寝起きだからという理由以外にも喉が本調子ではないのだ。

「ああ、良かった」

 それでも外からは、ほっとしたという声音の先生の声が聞こえた。

「風邪を引いたと聞いて。遅くなってしまったが、お見舞いに来たのだけど」

 お見舞い。

 その言葉に金香の胸に歓喜が湧いた。

 わざわざ私に会いに来てくださった。

 ご心配してくださった。

 先生の言葉が示している事実が次々に押し寄せてきて、今度は恐怖感にではなく胸が絞られた。

 それはなんだか甘さを帯びているようだ、と思ったのだが。

「入っていいかな」

 言われて戸惑ってしまう。

 お逢いしたいのは確かだった。

 が、寝起きで夜着姿である。髪なども乱れているだろうし顔も洗っていない。

 おまけに昨日から湯浴みも出来ていないのだ。

 お逢いしたいけれどみっともない姿は見せたくない。

 悩んだけれど。

「あ、あの……あまり良い格好では……」

 おずおずと言ったのだが源清先生の声の調子は変わらなかった。

「気にしないでほしい。私はきみの師だ。まるで他人ではないのだから、出来るならば顔を見せてほしい」

 そう言われればもう断れるはずがないではないか。

「ええと……す、少しお待ちいただけますか……」

 それは了承されたので金香は覚悟を決めた。

 が、完全に寝起きのままでは駄目だ。女性として。

 起き上がり、急いで鏡に向き合い髪をとかす。

 水を使って整えられないので癖は直らなかったが、元々ふわふわした髪はあまり思い通りにはならない。

 顔は洗えないので鏡を覗き込んで汚れが無いかだけ確認した。

 このようなみっともない姿はお見せしたくないと思うのだったが今、お逢いしたいのも本当だった。あんな夢を見たところだったので。

 鏡を覗いて自分の顔を見て気付く。

 目が赤い。そのうえ目元にも痕がついていた。

 起きたときに涙が零れたと思ったのだが眠っている間も余計に泣いていたのだろうか。

 目元を軽くこすったが消えやしない。これはどうしようもなかった。気付かれてしまっては恥ずかしいと思うのだが。

 時間がなかった。

 着替えるのをお待たせするのも悪いと思ってしまったので箪笥から薄い羽織を取り出して身を覆う。夜着一枚よりかはましに見えるはずだ。

 なんとか最低限の格好をつけて。

 すう、と金香は息をひとつした。

 大丈夫。

 桜の花も散らないし先生も消えやしない。

 ……大丈夫。

 扉に近付いて鍵を開けた。おずおずと開ける。

「すみません……お待たせしました」

 視線をあげると、そこには確かに源清先生が居た。金香を見てほっとしたような表情を浮かべてくださった先生が。

「いや、こちらこそ急に押しかけてすまなかったね」

 先生の優しい表情、声、言葉……そのすべてが金香に安心をくれた。

 が、同時に妙に心臓が高鳴ってしまって仕方がない。

 みっともないと思われないかしら。

 でもお逢いできて嬉しい。

 自分の感じる気持ちがたくさんありすぎて、金香はどう表したら良いかわからなかった。

 総合する感情など本来、ひとつしかないのであるが。

 布団をのべたままで恐縮ではあったのだが部屋に入っていただく。

 そこで気付いた。源清先生がなにかを手にしていることに。それは数本まとめられた花だった。

 橙と黄色の華やかな花。

 ガーベラ、とかいっただろうか。西洋からきた花だ。

 座布団に座り、先生はそれを金香に差し出した。

「つまらないものだけど、病床の慰みにでもしておくれ」

「いえ! とても、……綺麗です。よろしいのですか」

 とっさに言ってしまったが源清先生は笑った。ちょっと困ったような笑みだった。

「きみのために持ってきたのだよ」

「あ、……りがとうございます」

 遠慮しすぎたようだ。申し訳なくなりながらそれでも金香は花束を受け取った。

 手にすると良い香りがほのかにする。

 西洋の花。このあたりでは咲いていない。

 どこで手に入れてくださったのだろうか。

 それを訊くのは無粋なので、花束を見つめるしかなかったが。

「具合はいかがかな」

「もう、だいぶ良いです」

「そうか。でも声が枯れているね」

 病状についていくつか訊かれて、そして先生は心配そうな声で言った。

「目元が腫れてしまっているようだけど」

 言われてどきりとした。

 泣いたことに気付かれてしまったようだ。

 風邪を引いただけではなかなか目元まで腫れないのだから。

 風邪で寝込んだだけで涙してしまうなど。子供ではあるまいし。

 情けなさと羞恥に顔が赤くなったかもしれない。

「少し、嫌な夢を見たのです」

 俯いて言った金香にかけられた声はどこか消沈していた。

「そうか……知らない間に無理を強いていたのかもしれないね。すまない」

「そんなことはないです!」

 先生のせいだと思われてしまった。自分の管理不十分が原因であったのにそのように思われてしまうのは申し訳ないが過ぎる。

 金香はぱっと顔をあげて言っていた。

 そうしたことで先生と目が合う。

 どくんと心臓が高鳴り、しかし金香は目が離せなかった。

 先程見られなかったお顔。今はきちんと見ることができる。

 まっすぐに、こんなに近くで。

 どくどくと血を流す心臓を抱えながらも目が離せない。

 そのうちどこか痛くなってきた。胸ではなく、心が。

 先生はどこかきょとんとしたような顔をしていたが、自分を見つめる金香から目をそらすことは無かった。そして目元がふっと緩む。

「快方に向かっているようで、良かった」

 言われて金香は気付いた。不躾にもずっと見つめてしまったことに。

 今度は違う羞恥が襲ってきてやっと視線を外す。

 謝ろうかと思ったが言われた言葉に返す言葉は違うだろう。

「……ありがとうございます」

 妙にくすぐったかった。

 しっかり見つめた先の、焦げ茶の瞳がくださったのは安心だけでなく、ほかにもあるような気がする。その先のことに、金香のいったんは少し落ち着いていた心臓は跳ね上がった。

「屋敷のことも、寺子屋のことも、文のことも考えなくていいから、ゆっくりおやすみ」

 言われた言葉は単純に金香を気遣うものであったが、先生はちょっと身を乗り出して、手を伸ばして金香の髪にそっと触れたのだから。

 それほど体が近付いたわけではない。

 が、これまでで一番近い触れ合いであった。

 撫でるというにはあまりに軽いもので、髪に触れ、軽く滑らせるだけであった。

 それだけだというのに金香は驚いてしまった。目が丸くなっただろう。

 触れられた。

 このように触れられたことなどなかったので。

 しかもお逢いしたいと思っていた先生に。

 元々やりとりしたあれやこれやのために顔は赤かっただろうに、もっと熱くなってくるのを感じた。

 そんな金香を見たのに先生はただ微笑み腰をあげた。

「長居するのも悪いね。これでおいとましよう」

「あ、……はい」

 一瞬だったが、夢を見たのでないか。

 金香がそう思ってしまうほどに源清先生の動きはスムーズであった。

「あ、ありがとうございました」

「ゆっくりお休み」

 そんなやりとりだけで先生は帰ってしまった。

 金香はのろのろと部屋の中へ戻り羽織を脱いだ。

 夏の折に着たので少し暑かった。が、暑いのは羽織のためではないような気がする。

 どこか夢心地で金香は布団に入る。

 なんだか急速にくすぐったくなってきて、鼻の先まで掛け布団にうずめてしまった。

 頭を、撫でられた?

 きっと夢を見て泣くなど子供っぽいと思われたのだろう。先生は私と違って大人であられるから。

 そう思っておくことにしたのだが、しかしその事実は胸をくすぐって仕方がなく、なかなか金香は寝付けなかった。



 ガーベラの花はしばらくの間金香の部屋を彩ってくれた。

 花瓶のガーベラは生き生きとしていて、布団の中でそれを見るたびに金香は幸せを覚えた。

 そして本当にただの風邪であったようで、先生がお見舞いに来てくださった次の日には床をあげられた。

 「しばらく無理はしないように」と言われて寺子屋の仕事はもう数日休みにさせていただくことにしたが。

 仕事内容はともかく屋敷から寺子屋までは少し距離がある。単純に歩いていく距離や時間だけでなく暑い折で、外を歩くだけでも体力を使うということもあり。

 自宅に居た頃であれば寺子屋が近いこともあり「もう治ったから大丈夫」と仕事に行ってしまっていただろうが心配してくれる人がたくさんいるのだ。金香はおとなしくお言葉に甘えておいた。

 『おとなしくしている』間は、部屋で勉強に宛てた。

  三日も寝込んでしまったのだ。源清先生からの課題も終わっていない。

 先生は期限を延ばしてくださっていたがそういうわけにもいかないだろう。

 新人賞の提出期限までもう一ヵ月もなくなっていた。出来る限りクオリティをあげて、先生に見ていただいて……今、できる最上級のものを提出しなければ。

 なにしろ今は『源清流門下生』という肩書を有難くも頂戴してしまっているのだ。源清先生に恥をかかせるような結果に終わらせるわけにはいかない。

 課題は一日もかからずに終わったが、そこからは自主勉強に移った。

 体を動かすのは避けておいたほうが良いが、頭を動かすのにもう支障はなかったので。

 勉強にいそしんでいる間も文机に置いてあるガーベラがなんだか励ましてくれているような気がした。金香の体調とは逆に、切り花であるガーベラはどうしても日ごとに元気はなくなっていくのだが、まだその美しさは保っていた。

 ガーベラの花言葉。

 いただいて少ししてから金香はそれが気になるようになっていた。

 花にはそれぞれ『花言葉』というものがある。

 たとえば桜なら代表的なものは『精神美』。

 桜は今の金香には、視てしまった怖い夢を連想させるのであまり思い出したくはないのだったが。桜の季節には遠いので見て思い出す機会は少ないだろうが。

 それはともかくガーベラは比較的最近国に入ってきた西洋の花なので、この国ではあまり流通していない。花自体も、そして花言葉も。

 でも本などをいくつか見れば載っているかもしれない。

 気になっていたそのことをやっと調べられたのは、そこからさらに三日ほどが過ぎ、寺子屋への仕事を再開できたときだった。

 先生に屋敷の資料をお借りしていいか訊くのはなんとなく気が引けたので。ご本人にいただいている以上。

 寺子屋には教材のほかにも本がたくさんある。このあたりでは、随一ではないだろうか。

 調べ物をするのにもうってつけであり、外から「こういうことを知りたいので」と本を借りにくる人もいるのであった。

 資料室で見つけた本にガーベラの花言葉はきちんと載っていた。

 橙色は『我慢強さ』。

 黄色は『やさしさ』。

 それぞれ指すのだという。

 ほかにも幾つか載っていたが『これらの言葉のために、西洋では見舞いとしてよく贈られる』とも書いてあったので、多分この解釈なのだと思う。

 そしてそれは先生が『おそらく花言葉を理解して、花を選んでくださった』ということを示していた。

 花言葉を知ってそれに沿ったものを贈るなどと、なんと浪漫に溢れたことか。

 ご自身が花のようなうつくしさを持っている、源清先生らしい。

 そして花言葉に沿った花を贈る、ときと場合。

 それは大概、『求愛』なのであるが。

 思って金香の頬はなんだか熱くなってしまった。

 単純なお見舞いであってそういうわけではない、と思いはするのだが、年頃の女子として連想してしまったのだ。

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