[chapter:3]
[chapter:3]
『幽霊』とおぼしきものと見つめ合うことになってしまい、どうしよう。と、内心対応に困る。
だって、俺の二十数年の人生の中で、生き物と対応する機会なんてものは、人間とか、動物とか、あるいは植物、特に花とか、そういったたぐいのものばかりで、こういう、非生命みたいな存在とコミュニケーションを図ったことはない。
いや、シンや稲荷はそっち側だろうか。でもどう見ても特別枠だ。
黒い影は動かない。
「――……どうして子どもを追いかけてるの」
どうしよう。と、迷った末に浮かんできたのは、単純な疑問だった。
この場にシンがいたら正解を教えてもらえたかもしれないけれど、どう対応したらいいのかわからない状況で、シンも不在な今は、自分を信じて対応するしかない。
「逃げてるんだから、嫌がってるんだよ」
そう言葉を続けて、自分の上擦った声に、ああ、俺、怖がってるな。と、気づく。
だって、なんでかコイツからは嫌な感じしかしないんだ。嫌悪感とか、寒気とか、視線を向けられている今だって、鳥肌が立っている。
「やめて――」
やめてあげなよ。そう言おうとした瞬間、その『幽霊』が飛びかかってきて、抵抗する間もなくそのまま床に組み敷かれる。
ガシャン!! と、派手な金属音を立てて点滴のキャスターが倒れた。
点滴をした腕を押さえつけられてひどい痛みが走る。
「――……!! …………!!」
とっさのことに声も出ない。
じたばたと足を大きく振って暴れようとした瞬間、
『シニタクナイ』
低くて小さな声が聞こえた。
しゃべった!! と、目を見開く。
『シニタクナイシニタクナイシニタクナイシニタクナイ』
「君、は」
『シニタクナイ』
ダメだ。そう確信する。
まるで言葉が通じない。『幽霊』は、いびつな声でぶつぶつとそう繰り返している。
『シニタク』
腕の痛みが引いて、感覚がなくなる。
「――は!?」
左腕を見れば、『幽霊』に押さえつけられた部分の色が浸食するように、俺の腕が黒くなりつつあった。まるでペンキを垂らされているように黒い色が広がっている。その部分の感覚がない。小さい頃、ドライアイスで遊んで低温火傷をしたときの不思議な感覚に似ていた。痛いほど熱くて、痛いほど冷たい。そして感覚が、
『シニタクナイ』
殺される。
ぞっと腹が冷えて、手足をじたばたと無茶苦茶に動かす。
死にたくないのはこっちだって同じだ。
だってまだ、俺はなにも、
「――シン!!」
ようやく出た声が死神の名前だった。
「――まったく」
ため息まじりに聞こえる低い声は、耳慣れたものだった。
はっ。と、息をのみながら『幽霊』を見上げれば、その背後に、シンが立っているのが見えた
「これだから、むつきの『大丈夫』は信用できない」
どっと、体から力が抜ける。
脱力しながらシンを見上げると、「それで」と、シンは言葉を続けた。
「いつまで食いついてるんですか。いい加減離れなさい」
シンは腕を上に伸ばすと、なにかをつかむような仕草をしながら手を引き戻した。なにもない空間から大鎌が姿をあらわす。
平然とその『幽霊』の首のあたりに刃をかけると、無造作に腕を引いた。
「うわ」
ぼろん。と、まるでボールみたいに黒い頭が落ちて、ぼてぼてと床に転がった。
そのまま『幽霊』は輪郭を失い、重さに負けるようにぼろぼろとこぼれて、切られた首から砂がこぼれるように姿が崩れた。
「ーー……それで」
冷ややかな声に、思わず乾いた笑いが浮かぶ。
「言い訳ぐらいは用意してあるんでしょうね?」
その言葉に、「ええと」や「そのー……」と、うろんな返事をしながら、とりあえず取り繕うろうに愛想笑いを浮かべるしかなかった。
***
「おはようございます」
その声に、はっ。と、目を覚ます。
慌ててベッドから起き上がって、周囲を見回す。大きな病室の窓からは、カーテン越しにでもわかるぐらいの日差しが差し込んできていた。
「え、あ?」
「検温の時間ですよ」
カーテンの隙間から指を差し入れて、若い男性の看護師さんが声をかけてきた。
「え、え? あれ?」
夜だったよね。さっき変な『幽霊』がいて。ええと、あれ?
「シン?」
「え?」
看護師さんに聞き返されて、混乱しながらも我に返る。えっ? 夢?
「……ええと?」
「あ、内出血してますね」
その指摘に、看護師さんの視線を追うように腕を見れば、
「とりあえず抜きますね」
そう言いながら、看護師さんがパソコンが乗ったカートを押してきた。カートの下の段には、個包装のアルコール綿やよくわからない薬のチューブが並べられていた。
夜に遭ったあの黒い『幽霊』に襲われて、シンに助けられたあたりで記憶が途切れている。
看護師さんに腕を差し出して、自分の腕を改めて見おろし、腕に広がった赤黒い内出血の痕に眉をひそめる。それはまるで、『幽霊』につかまれて黒く染まったときのことを彷彿させられて、見れば、それは人の手形にも見えたからだ。
「ちょっとチクっとしますよ」
その言葉に、それとなく視線をそらす。
明るい日差しの差し込むカーテンの方を見れば、カーテン越しに小さな影が動いた。
ぎくりとすると、カーテンのすき間を小さな手がつかみ、ひょっこりと小学校低学年ぐらいの子どもが顔を出した。
「――……子ども……?」
俺のつぶやきに、腕から針を抜いた看護師が反応して、「え?」と、俺の視線を追いかけるようにカーテンのある方向を見て、それからわずかに首をかしげて俺を見た。
「人には見えていませんよ」
シンの声は、天井から降ってきた。
「なにかいました?」
看護師の質問に「あ、いや、気のせいでした」と、ごまかす。入院初日に渡されていた体温計を脇の下に差し入れながら、「なんかカーテンが動いたので、人がいるのかと思っちゃいました」そう愛想笑いを浮かべる。
「まあ、慣れない環境ですからね。夜は良く眠れました?」
「……ええ、はい」
そう会話をする中でも、子どもはカーテンのすき間から中に入ってきて、ベッドに上半身を乗り上げて、こちらを見上げてきた。
「……夜中に一回ぐらい目を覚ました気がします」
子どもの足音と、黒い『幽霊』に襲われました。
一部を伏せて返事をしたところで、体温計から測定終了の電子音が響く。
そのタイミングで隣のベッドの人が軽い咳をした。
「体調どうです?」
「それは、全然」
平気です。と、答えれば、看護師さんは笑顔を浮かべた。
「やっぱり若いと回復も早いですね」
体温計は三十六度五分。絵にかいたような平均体温を確認して、看護師さんは電子カルテにカチカチと数字を入力してゆく。
「午前中に先生回診にくると思うので。それで退院許可が出れば」
「ありがとうございます」
ちゃんと食事と水分を取っていればこんなことには。
内心しょんぼりしながら軽くお礼を言えば、看護師さんはパソコンの画面から顔を上げて「それじゃ失礼します」と、明るい笑顔を浮かべた。
看護師が退席をして、ようやく一息つきながら、今度はベッドに乗り上げてきた子どもを見る。
色素が薄い長い髪に、色白な肌。子どもらしいクマ柄の薄いピンク色のパジャマを着たその子どもは、ベッドに完全に乗り上げて、そのまま腕を伸ばして足をぶらぶらとゆらしている。
なんとなく、だけれど、この子が夜に『幽霊』に追われていた足音の主なんだろうな。と、思う。
「――……なつかれましたね」
俺の予想をシンが口にした。
あ、やっぱり? と、天井を見上げると、シンが天井に座っていた。
上下が逆さまになっているというのに、服や髪すら変化がない。まるでそこだけ重力が逆さまに働いているような印象だ。
「まったく」
ぼやくようなその言葉を聞き流す。
子どもはごろごろと左右に転がって、それから俺の方を見た。なので手を差し出せば、子どもは驚いたように俺を見た。
「――……見えてるよ」
小声でそう言えば、そのまま起き上がり、俺の腹の上にまたがってくる。重さは感じないし、布団やシーツが動くこともない。
じっと俺の顔を見上げた子どもは、べちん。と、俺の両頬を両手で挟みこんできた。
な、なんだなんだ。
ひたいがくっつくんじゃないかという程、子どもが顔を近づけてきた。
視線だけでシンを見るものの、反応がない。ということは、悪いものではないのだろう。
あの『幽霊』みたいな、嫌な感じもしない。
俺の視線の意味に気づいたのか、「問題ありません」と、シンが答えた。
「迷子?」
俺の質問に、シンは「いいえ」と、答えながら体を動かした。ゆっくりと体を起こし、天井を軽く蹴り、空中で一回転しながら床へと舞い降りた。
子どもは死神の存在にようやく気付いたのか、びくりと体を震わせると、俺にしがみついてきた。
「怖くないよ」
その背中を軽くさする。すり抜けるかと思いきや、体に触れることができた。とはいえ、その感触はすこし頼りない。水面に手を触れているような、輪郭の定まらない柔らかい不思議な感覚だった。
「……魂はもうありません」
少し間を置いてシンが言葉を続けた。
「残留思念というものです。時間がたてば自然に消えるか、他の幽霊に食われるかするでしょう。放っておいて問題ありません」
「いや、どうだろそれ」
自然に消えるのはともかく、幽霊のたぐいに食われるのって問題ないの?
「特異な環境下でなければ、生者に対する影響力はほぼありません」
その言葉に、以前高校で見た『幽霊』を思い出す。あのときにも現状保留と言い切っていた。きっと今回もそうなのだろう。
俺にしがみついて、胸元に顔を突っこんでいた子どもが、おそるおそるといった様子でシンを見て、シンがわずかにその子の方を向くと、顔を隠すようにまた顔を俺の胸元にうずめてきた。
死神が嫌いなのだろうか。いやでも、なんか、どちらかというと――
「嫌がられたものですね。まあ、私も子どもは嫌いです」
そう断言するシンの声音ななんとなくいつもより低くて、あれ? と、首をかしげる。
「もしかしてちょっと傷ついている?」
「――……そんなわけないでしょう」
不自然な間があいた。
微妙な沈黙が落ちる。
「ええ……?」
「いい加減口を閉じなさい。医者とやらが来ましたよ」
なんだか、そうとしか思えない態度と言葉で、シンが会話を打ち切り、その直後に、
「羽柴さん、失礼しますよ」
と、昨日も顔を合わせた主治医がカーテンのすき間から顔をのぞかせた。