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毛主席の贈り物  作者: くまいくまきち
4/4

天安門広場 3


「――いくよ」


 メイランはかん高い声をあげた。四角いダクトの内側に両手を突っ張る。そうして身体を支えると、両脚を畳み込むように引き上げる。と、次の瞬間一気に解放する。両脚がダクトの蓋を蹴る。重量感ある金属質の音が響き、網状の蓋がずれる。メイランの手がようやく入るほどの隙間ができた。まるで敏捷な子猫のように彼女は素早く身体を入れ替る。両手を隙間に差し込んで、引き戸のようにごろごろと蓋を押し開いた。するすると身体を滑らせて外へ出る。そして、ダクトの中を覗き込んで、人差し指を動かした。


 ――出て来いよ。


とでも言うように。

 CNN北京支局ディレクター杉原浩一郎は滑り落ちるように、メイランの後に続いた。眩しさに、目がくらんだ。あんなに鬱陶しかった圧迫感が消える。あまりに急激に過剰な圧迫から解放されたために、何か却って居心地が悪かった。母の胎内から押し出された瞬間は、きっとこんな感触なのだろうか、と妙なことを思った。


 ――それにしても身体じゅうが痛い。あちこち小さな傷が無数にあるだろうし、普段は絶対に使うことのない筋肉を酷使した。明日の朝はたぶんベットから起き上がれないだろう。だが、それだけの収穫があれば、それもいいかも知れない。


杉原の眼が、次第に周囲の光りを受け入れられるようになる。カメラマンのボフ・スミルノフの巨矩が滑り落ちるのが見える。カメラの入った黒いアタッシュケースを胸に抱いて落ちる様は、どう見ても水葬に付される太り過ぎの水兵だった。


 スミルノフは鈍い声をあげた。どうやら落ちた時に尻をしたたかに打ち付けたらしい。

眼が慣れてくる。景色が飛び込んでくる。高層ビルがいくつか見える。メイランの指さす方向を追う。

斜め前方、ふたつのビルの間を目を凝らして見る。北京は空気が悪い。が、今日は心なしか澄んでいる。それはそうだ。今このあたりで排気ガスを撒いている乗り物と言えば戦車と装甲車両ぐらいだ。


確かに見える。灰色の瓦礫の山だ。前方ふたつのビルの間は、そうカール・ルイスかルーク・スカイウォーカーだったら跳び超えられるほどの距離。その間隙を抜いて、天安門広場が見える。お嬢様の言い分は正しい。


「どうだ、見えるか?」

 でかい尻をさすりながら、ようやく立ち上がってきたスミルノフが痛みに顔をしかめながら、尋く。


「――おめでとう。俺たちはやったぞ。毛主席のケツが見えるぜ。瓦礫に埋まってる」

「――マジか?」


スミルノフは埃にまみれた眼鏡をジーンズのパンツからはみ出たシャツの端っこで拭いた。こいつは何

でもシャツの端で拭く。ビックマックを食った後の口も。


「そんなことより、早くおまえの自慢のイチモツを組み立てな」


赤い星を腹に付けたヘリコプターが、喚き散らすように爆音を撒いて頭上を過ぎて行った。スミルノフはしゃがんだ。スーツケースを開ける。


確かに毛主席記念館は全壊していた。幾本かの円柱が、まるでパルテノン神殿のように天に向かってようやく突っ立っている。杉原の視力はよい。両眼ともに二・〇。おかげで四〇を越したころから読書には老眼鏡が必需品となった。


「どう、ほんとに見えたでしょ」

 メイランが細い腕を延ばし、杉原の目の前で手を広げてみせた。小さな可愛らしい手だと、杉原は思った。メイランは、もちろん英語が解らない。


 杉原は尻のポケットから財布を取り、札を抜いた。百ドル札を五枚。それをメイランの手のひらに乗せる。彼女は札を握りしめ、一枚いちまいまるで真贋を確かめるかのように、ゆっくりと数えた。


 この小さな可愛い手は、いったいこの先どんなものを掴んでいくのだろうか。そう思うだけで、胸が痛くなる。

 メイランは一〇歳になるという。戸籍がないので正確にはわからない。戸籍のない子供を黒孩子〈ヘイハイズ〉と言い、毎年この国で生まれる子供の一割程度がこれにあたるという説もある。メイランは六歳の時に親に売られた。その親も本当の親ではなく、赤ん坊のメイランを将来息子の嫁にするために買ったのだ。その息子が病死してしまい、不要になった未来の花嫁は、叩き売られた。人買いの地下組織がこの国には存在し、多くの子供が売買されている、という。


 それからどうやったのか、メイランはうまく組織を逃げ出し、以来彼女はストリート・チルドレンとしてこの街で生き抜いている。


メイランとは以前、ドュメンタリーの取材を通して知り合った。杉原は彼女に名刺を渡した。「困ったことがあったら連絡してくれよ」そう言い添えた。連絡が入ることを、杉原は心のどこかで願っていたのかも知れない。ステップ・ファーザーになることすら、想像していた。もちろん野良猫のような剥き出しの野生を持つ娘や妹ができることを、アメリカにいる妻や息子が快く思わないだろうことだけは、容易に想像できたが……。


結局連絡はなかった。がしかし、今日になってメールが入った。


『毛主席記念館が見える場所を知ってる。五百ドルでどう? メイラン』


待っていた連絡は、商売の話だった。

天安門広場、人民大会堂、革命博物館、故宮博物館を含んだ北京市の中心部、東は王府井大街、西は西単北大街、南は珠市口西大街、北は地安門大街に囲まれた区域おおよそ五キロ四方が人民解放軍により封鎖され立ち入り禁止となっていた。


 毛主席記念館が爆破されたのが午前三時。解放軍は夜明けとともに出動し、何も知らない早起きの市民が朝の体操のために公園に向かうその横を、戦車がキャタピラが軋ませて駆け抜けていったのだ。

 封鎖がほぼ完了したのが午前七時ごろ。朝、ニュースを見ないで出勤した人々が地下鉄駅や道路に溢れた。官庁やオフィスビルが多いこのエリアに住民はそう多くはない。多いのはホテルに宿泊している観光客やビジネスマンだったが、これらの人々は早朝にたたき起こされ、エリア外のホテルへ強制的に移されていった。


 まず中国国営テレビが『毛主席記念館で爆発があり、記念館は全壊。毛主席の遺体は不明。警備にあたっていた人民武装警察に死傷者が出た』というニュースを論評抜きで伝えた。そして、天安門広場周辺の立ち入り禁止エリアが発表された。エリア内にいる人々は急いで外へ避難するように、とも。


 やがてABCが『中国政府高官が語ったところによれば、今回の爆破はテロである可能性が強い』との報道をする。スクープだ。

各国メディアは全壊したという毛主席記念館の映像を撮ろうと躍起になったが、解放軍の封鎖は完璧で、中へは入れなかった。もちろん空からの取材も規制されていたから、戦車や兵士を撮影するぐらいしかできなかったのだ。


杉原も、焦っていた。

 そこへ、メイランからのメールが届いた。杉原は『OK、どこに行けば、君に会えるの?』と返信する。しばし待つ。待つ。送受信を繰り返す。――返事が来る。久しぶりのデートの待ち合わせは東単公園の北門、SNN支局の入っているオフィスビルから急げは二分以内だった。相棒のカメラマン、ボブ・スミルノフを引きずって杉原は公園へ急いだ。メイランと半年ぶりの再会……しかし、その後は最悪だった。


 路地裏からゴミ捨て場、たぶん西太后の時代より一度も掃除されていない下水道を抜け、排水口から排気ダクトの、パンダのケツの穴の中より暗く臭い、長い梯子を昇ってここまでたどり着いたのだ。

景色からすると、ここは王府井の東、東単公園からそんなに遠くない雑居ビルの屋上らしい。

それにしてもよくこの場所を見つけたものだ。

スミルノフはファインダーに片目をくっつけたまま、ゴーゴンに睨まれて石になった男のように動かない。


「どうだ、毛主席はいたか?」


「……毛主席の回収はあらかた終わってるようだな」


 スミルノフは、見てみろ、と言うようにファインダーを杉原に譲った。杉原が覗く。瓦礫にたくさんの兵士たちが蟻のように取り付いて、スコップを使っている。その一角、白い幕で覆われている場所をカメラは捕らえている。


「白い幕が見えるだろ、あの辺りに毛主席の遺体があったんじゃないか。変わり果てた姿を多くの兵たちに見せないように囲ったんだろう」


 しばらく見ていたが、幕から出入りする者はいない。スミルノフが言うように、毛主席はもうあの場所にはいないのだろう。

 カメラを少しパンさせてみる。骨組みだけになった自動車の残骸らしき物があった。


「――赤旗ホンチーか」

「ああ、たぶん。展示物に赤旗なけりゃな」


毛主席の遺体の一部でも映像で捕らえられれば、世紀の大スクープだ。だが、これでも結構なスクープであることは間違いない。少なくとも支局長は明日いち日ぐらいの休みをくれてもいいくらいの。

 杉原はカメラから離れる。スミルノフが戻った。


「――メイラン小姐(シャオジェ・お嬢さん)」


メイランは給水塔を囲むフェンスに凭れ、微かな声で唄うように唇を動かしている。振り向いて、笑ってみせた。

 杉原は財布から百ドル札をもう一枚抜いて、渡した。メイランは怪訝そうな表情で見た。


「帰りだよ。帰り路の案内も頼む」

「あら、それはさっき貰ったツアー料金に含まれるわ」


杉原は首を横に振った。

「オプションを頼むよ。あのコース以外だ」


 きらっと、少女は輝くように笑った。

「メイラン、そのお金はどうするんだい?」

「貯金するの」

「貯金して、どうするの。何に使うの」

 少女は目をくるくると動かした。


 ――お嬢様には夢がある。いいことだ。


「日本に行くの。日本に行って、悪い日本人をだまして、もっとお金を儲けるのよ」


杉原はとっさに言葉を失った。


「……だって、日本人は狡くて卑怯で残酷で、昔抗日戦の時に何百万人も殺しておいて、まったく謝りもしないじゃない。みんなそう言ってるわ」 


一気にそう言って、メイランは思い当たったように顔を伏せた。

「もしかして、スギは……日本人だった?」

杉原はそう言われて、ますます発する言葉がなくなった。

 杉原は大阪で生まれた。誕生時の国籍は朝鮮民主主義人民共和国。それから大韓民国となり、日本国となった。大学時代にアメリカに留学し、そのままアメリカに留まって就職した。アメリカで日系アメリカ人女性と結婚。妻はいずれ夫もアメリカ国籍を取得することを望んでいる……。


――いったい俺は何人なのか? 

 杉原は少女に首を振って見せた。


「いいや違うね、お嬢さん。俺は地球人だ」

 メイランは弾けるように笑った。

 ヘリが、轟音とともに頭上を飛び去っていく。その瞬間、三人とも頭を抱えて蹲った。


「――戻るか」

遠ざかっていくヘリを目で追いつつ、杉原は言った。


「ああ、テロリストに間違われて殺されたんじゃ、せっかくのスクープもだいなしだ」

スミルノフはカメラを分解し、ケースに収めている。


「おい、テープだけでいいぞ」


「冗談じゃない。いくらすると思ってるんだ。ベトコンに囲まれたって、俺はコイツだけは持って帰るね。何ならお先にどうぞ」


そのヘリは中空にフォバーリンクしている。天安門の上空あたりか。もちろんヘリは他にも何機かいて、一帯を哨戒していた。


 ヘリを見つめていて、杉原はあることに気づいた。天安門の先、黒々とした林が見える。毛主席記念館が見えたビルの隙間から、六〇度ほど右回転した、やはりビルの隙間を通して、それは見える。


この北京では珍しい豊富な樹木と、陽光を受けてきらきらと輝く湖水。中南海――党の極めて限られた幹部たちが住む街。

 木々の間から灰色のすんなりした棒状のものが幾つも突き出ている。目を凝らす。凝らす。やはりそうだ。あれは戦車砲。中南海にたくさんの戦車がいる。


「おい、お偉方のお住まいに戦車がいるぞ」

スミルノフはケースをたたむ手を止めて振り向いた。

「あ? 何だって」

「中南海に戦車がいる」

 別に驚いた様子もなく、スミルノフはケースを持って立ち上がった。腹の肉が揺れた。


「護ってるんだろうよ、テロリストから。九・一一同時多発テロの時に、ホワイトハウスを戦闘機部隊が護衛してたろう。あれと同じじゃないか」


エンジン音が激しくなる。ヘリが近づいている。

「――行くよ」

 メイランが叫ぶ。フェンスづいたに走る。ふたりは後を追う。少女は高山の岩山を撥ねてゆく子鹿のよう、走った。そして立ち止まったかと思うと、本物の鹿のように、高く跳んだ。杉原とスミルノフは豚のようによたよたと追う。そしてその場所に到達して、息を飲んだ。

 少女とふたりの間には大きな亀裂があった。彼女は隣のビルに跳び移ったのだ。メイランが手招きをする。


――さあ、早く、そう言うように。

ふたりは下を覗いた。何階か判らないが、判ったところで大した意味はない。どうせ落ちたら、おしまいだ。

距離は、それほどでもない。ヨーダが念力フォースを使わなくとも少し頑張れば超えられるくらい。


ヘリの爆音が迫る。振り向いた。まるで獲物を見つけた牛魔王みたいに、頭をちょいと下げて一直線に向かってくる。ターボチャージャーがフル回転する、鋭い金属音が聞こえた。口の中がカラカラに乾いている。舌が噛み切れないステーキ肉のように、口中にへばり付いている。


「やっぱりカメラは置いて行った方がよかったんじゃないか」

「うるせえ――」


――スミルノフの語尾を打ち消すように、乾いた爆発音が短く連続して、起こる。何かが風を鋭く切り裂く音が耳元で聞こえる。見上げると、給水塔に穴が幾つも空き、水が飛沫となって散った。

ふたりの中年男は互いの顔を見合わせた。 杉原はスミメノフの妙に赤い唇が咄嗟に、アイ・ラブ・ユーと動きそうな気がした。


 ――デブちゃん、そいつだけはやめてくれ。後生だ。

だが、同僚が発したのは、短い呪いの言葉だった。スミルノフは黒いケースをその場に置いた。

「早く、ツアーはまだ続きがあるのよ」

 お嬢様が叫ぶ。

 その声に励まされて二匹の豚は、跳んだ。


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