天安門広場 2
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議員や秘書に面会を求める人たちが受付で列をなし、衆議院第一議員会館の正面玄関は喧噪に包まれている。受付ではいちいち事務所に内線電話を掛け、訪問者と内容を伝え確認を取っているので、時間がかかるのだ。
黒田龍之介は受付左脇のゲートへ向かう。警務官が議員バッジを目で確認し、短い敬礼をする。軽く片手を挙げてそれに応え、エレベーターホールへ向かう通路へ入る。
最近はテロ対策のため特に警備が厳重になった。航空機の登場口にあるような金属探知機が導入されたのだ。黒田は探知機の列にならぶ陳情客たちを横目に通路を早足で歩いた。
高層用と各階に止まり分かれたエレベータホール、黒田は高層用に向かう。議員専用エレベーターもあったが、黒田はあまり使わなかった。一基しかないので却って時間がかかる場合もあるし、《議員専用》という特権めいた響きがあまり好きではなかった。
ほどなくエレベーターの扉が開く。黒田は二、三人の秘書たちとともに乗り込む。扉の近くに乗り合わせた女性秘書が、黒田の顔を見て12のボタンを押した。
最上階の12階で黒田はエレベーターを降りる。各事務所のドアがずらりと並んだ廊下を黒田は速足で歩いた。スマートフォンのメールを確認したが、秘書からの連絡はなかった。
(外務省は情報収集中ということか。いずれにしても大臣政務官には用はないということだろう)
いまは午前九時を少し過ぎたところ。八時から民自党本部での外交部会に出席して来たところだった。
外務副大臣の訪米帰朝報告がテーマだったが、出席した議員の多くが外務省北米局長や北米第一課長を相手にこんな質問をぶつけていた。
「――それにしてもいったいあの国では、中国ではいま何が起きているんだね」
代議士会が九時四五分、続く衆議院本会が一〇時。
するとこちらも三〇分ばかりはテレビで情報収集する時間があるということか、と黒田は思った。
七時のNHKニュースでは、『今日未明、北京の毛主席記念館で大規模な爆発があり、記念館は全壊。警備にあたっていた武装人民警察の一個小隊に死傷者があった模様で、安置されていた毛主席の遺体に損傷があったかは不明』という中国国営テレビの報道をそのまま伝えていた。
現地の特派員が伝える情報によれば、現場となった天安門広場周辺は武装人民警察により封鎖されており各国の報道関係者は近づけない状況で、全壊したという記念館の映像は入っていない、という。また、アメリカABCテレビが伝えるところでは、ある中国政府高官は、爆発はテロである可能性が高いという見方を示したという。さらに北京軍区の第三八集団軍が出動を開始したとの情報もある。
第三八集団軍といえば、天安門事件の際に群衆弾圧の最前線に立った軍隊だ。
党本部に着くまで車で聞いていたラジオのニュースでも新しい内容はなかったから、これが現段階で黒田が得ている情報のすべてということになる。
長い廊下の突き当たり左が黒田の事務所であった。常に開け放たれたドアの入り口を通ると、私設秘書ひとりを含む四人の秘書がいっせいに黒田を見た。
事務所は三間に仕切られていて、秘書の事務スペース、議員の執務室と小さな会議室となっている。そう広くはない。
執務室の扉が閉まっている。ということは、来客があるのだ。
第一秘書の境公彦が代表するようなかたちになって、口を開いた。
「石渡先生がお見えです」
黒田は軽く頷いた。何の用だろうか、と思った。どうせ本会議前の代議士会で一緒になるのに。
簡素なつくりの扉を開ける。壁を背にしてソファーに座った男が立ち上がった。
「黒田先生、どうも忙しいところ済みませんな」
代議士の石渡勤は軽く会釈すると、再び腰をおろした。
「いや、私ら太ってる者にはつらい季節になりましたわ」
ハンカチで首筋の汗を拭う。石渡は笑う。もともと笑わなくとも笑ったように見える、愛嬌のある顔つきだった。それが痘痕が散った顔全体をくしゃくしゃにして笑う。が、やや色の入ったぶ厚い眼鏡の下の眼は、決して笑わない。
「あんまり太ると選挙民から、あいつはまだ苦労が足らんと言われて落とされてしまいますからな」
黒田は曖昧に笑った。
横目でテレビを見る。ニュースを見たかった。黒いままの画面に石渡のずんぐりした横顔がぼんやりと写っていた。
「いや黒田先生、笑い事じゃあありませんよ。私なんか一度本当に落っことされましたから。あれは痛かったなあ」
石渡は声を出して笑った。柄に似ず奇麗な歯並びの向こうで、不気味な軟体動物のように舌が動いた。
石渡は当選四回。確か二度連続当選の後、一度落選した。同期の初当選組からはぼつぼつ大臣が出ている。石渡は党内最大派閥、武山派の中堅だ。黒田は多くの意味での制約を嫌い、無派閥を通してきた。だが代議士となった経緯や人脈が武山派に近い。先輩格であることは、間違いない。
(それにしても一体何の用なのか……)
石渡が大きな封筒を取り出す。衆議院議員石渡勤と書かれ、実物よりもさらに太ってデフォルメされた石渡の漫画が――汗を振り撒きながら書類を抱えて走っている――が印刷されている。石渡はその中からB5判の薄い封筒を抜いた。
「これなんですがね」
封筒を滑らせるようにして、黒田の前へ置く。外務省と印刷されている。促されるように黒田は封筒の中身を取り出す。外務省で作成している諸外国の概要などの資料だった。
「トルクメニスタンという国なんですがね」
黒田は石渡の表情を見上げる。石渡の赤い舌が上唇を軽く嘗めた。
「あの辺はイスラム教とキリスト教の境界で、そのうえ大国ロシアの利害が絡んだりと難しい場所でね。チェチェン共和国がいい例というか。まあ歴史的にロシア共和国の一部じゃなくて、ソビエト連邦を構成する共和国だったことが幸いしたんだろうけど、ソ連崩壊とともにうまく独立できて、今じゃ永世中立国なんですと」
黒田は資料を眺めている。トルクメニスタンの概要、国会議長の顔写真と経歴だった。「私も一昨年、外務副大臣を拝命しておりました時に外遊させてもらいました。まあ、遠いこと遠いこと」
「……それで、私に何をしろと?」
石渡は冷めたお茶を一口ふくんだ。頷くようにして嚥下する。
「議員連盟をね、作ってほしいんですよ。日本トルクメニスタン友好議員連盟。秋に先方の国会議長が、こちらの参議院議長招待で訪日予定なんです。だから、それに合わせて」
「……はあ」
黒田はつい、他人事のような返事をしてしまう。
(なぜ私がそれをやるんですか? )
という言葉が口を突いて出そうになり、ようやく飲み込んだ。
代わりに石渡が口を開いた。
「会長は副島先生が就任されるということで了承をいただいています。副会長は不祥私と……もうひとりは民政党からですね。ああ言い忘れましたが議連は超党派です。事務局長は黒田先生」
副島の名前でピンときた。
「――これは副島先生のご意向ですか」
石渡の小さな眼が光っている。狡猾な爬虫類を思わせた。少し間をおいて、石渡は言った。
「そう理解していただいてよろしいかと」
仕立てのよいスーツに身を包み、ほんのわずかに背を反らすようにして歩く貴族然とした副島の様子が目に浮かんだ。
副島亮介、衆議院当選九回、外相、副総理等の要職を歴任している。大蔵省出身、親中国派の領袖、武山派有力幹部のひとり。
(それにしても、なぜ副島さんが俺に……)
少し考えたが、理由は思いつかなかった。接点がない。副島とは挨拶を交わす程度でしかない。
「まず設立総会の準備ですな。設立趣意書と発起人ですね。まあ、私の方でも二、三あてがありますから。わからないことがあったら遠慮なく事務所へ連絡下さい。ウチはスタッフはこういうことには慣れておりますから。議連の事務局は大変ですが、当選回数の少ないうちはこういう雑用もやらないといけないんですわ、この永田町では。いわゆる雑巾掛けですな」
石渡はにたりと笑う。そして壁の時計を見た。九時半になるところだった。立ち上がった。黒田も椅子から立った。扉を開けようとしたところで、石渡が立ち止まる。思い出したように、言った。
「そうそう忘れるところだった。副島先生からの伝言がありましてね」
「――伝言? 」
石渡は頷いた。
「チベットの偉い坊さんの件は我々に任せといて下さい。それと、アメリカとのことは外務省を通しなさい。黒田先生もキャビネットの一員なんですから、いつまでもトップ屋気分でいられては困ります」
一瞬めまいにも似た感覚が襲った。言葉がなかった。そしてすべてを理解した。
(――あの件だ)
「――どうかしましたか?」
石渡の言葉が黒田を現実に引き戻した。
「――いえ、何でもありません」
「私じゃありませんよ。副島先生のお言葉です」
石渡は言い訳でもするように、そう言った。
「黒田先生も、そろそろ我が派閥へおいでになりませんか。と言っても私なんか現住所は大武派、本籍地副島派ですがね。どうです一緒に副島先生の茶坊主でもやりませんか?」
あはは冗談ですよ、と石渡は笑った。
黒田は返す言葉がなかった。
石渡を見送って、黒田はやや呆然とした面持ちでわずかな時間を立ち尽くした。境が声を掛ける。
「どうしたんです?」
「この俺がトップ屋だってさ。副島さんもずいぶん古い言葉を使うなあ」
「――えっ?」
黒田は笑ってみせた。奥の執務室へ入り、スタッフを手招きした。事務室には私設秘書の佐々木恭子が残って、後の三人は執務室へ入る。扉を閉めさせて、黒田は言った。
「ダライ・ラマの件が副島さんにバレた」
第一秘書の境公彦、第二秘書の松野幸康そして政策秘書の高山君子、全員の表情に鋭い緊張が走った。
きっかけは『チベットと手をつなぐ議員の会』代表世話人の新倉壮朗代議士だった。年末の通常国会開会後にダライ・ラマ一四世を同議員連盟招待で来日させる予定だが、これを衆参いずれかの議長招待に格上げできないだろうか?
新倉はそう持ちかけてきた。新倉とは超党派の若手政策勉強会『名無しの会』において旧知の仲であった。また中国北京政府に追従する日本外交のあり方を憂い、歯に絹きせぬ物言いと筋の通った行動に黒田は好感を懐いていた。
新倉は野党民政党に所属している。議長は与党民自党が出す。それだけの理由で新倉がまだ当選二回の黒田に相談に来たのか、それとも予め黒田の人脈を知っていたのか、いずれについてもその辺りは深く追求しなかった。黒田は全力を尽くすと約し、ふたりは別れた。
黒田の友人がアメリカ国務省に在職していた。その友人経由で駐日アメリカ大使へ話しを通してもらい、大使から与党幹事長あたりを説得してもらう。そんな筋書きだった。現在の駐日大使は元副大統領、いわゆる大物大使として知られている。
黒田は高校三年に進級して間もない初夏、ひとりアメリカへ渡った。ニューヨークの名門高校フリップス・アカデミー・アンドバー校へ編入し、翌年の秋にはアイビーリーグのひとつプリンストン大学へ入学を果たした。そして非常な苦労の末、同大の国際政治学科を卒業したのだ。卒業後黒田は日本の大手新聞社へ就職するが、結局一年ほどで再び世界へ飛び出してしまう……。
デービット・シコースキーは高校と大学を通じての友人で、現在アメリカ国務省の国連政策を担当するセクションにいた。
確かに正統な方法ではなかった。しかし永田町では正統な方法だけでは何も変わらない、ということも骨身に染みて理解していた。ダライ・ラマの議長招待などという動きは、常に北京の動向を重視している親中国派に一蹴されるだろう。現実にこうして一蹴されてしまったのだ。まだ水面下で動いていただけなのに。
「……しかし、どうして副島さんが知ったんだろう?」
判らなかった。具体的にはワシントンに何度か電話を入れ、メールを何通か送っただけだ。次のアクションとしてはアーチーボルト・レーマン駐日大使に面会をしようか、とシコースキーと相談していたところだった。
「盗聴でもされていたんだろうか?」
「まさか……」
境がそう言いつつも不安になったのか、口をへの字に歪めた。高山君子は黙っていた。表情は変わらない。彼女は最初からこのアイディアには反対だった。
「国益を損なう恐れがあります」
と、明快に言ってのけたのだ。スタッフの中で彼女だけが政策秘書の国家資格を保持している。当選後しばらくしてから民自党事務局の斡旋でスタッフに加わった。彼女は仕えている議員と、そして彼女自身のキャリアにも責任を負っているのだ。
黒田は事務所を出る。結局ニュースを全く見られなかった。ふと思いついて、歩き出した廊下をほんの少し戻った。松野に声を掛けた。
「外務省政府控え室の佐瀬さん、松野君の友達の、元々彼は中国課だったよね」
「――ええ、そうです」
「本会議終わったら昼飯を食わないかって誘ってくれないかな。君も一緒にさ。」
「――了解です」
黒田は腕時計をみる。十時の二分前だった。エレベーターで地下二階ので降り、地下通路を使い議事堂へ向かう。ぎりぎりだった。長い廊下を、黒田は走った。
3
多くの人たちが不安そうな眼差しで見上げている。車両の通行がほとんど途絶えた大通りを戦車や装甲車が駆け抜けていく。そんな映像が何度も流れていた。天安門広場はいまだに封鎖されていて、全壊したという毛主席記念館の映像は写されていない。
黒田は国会議事堂二階の議員食堂にいた。国会議事堂、議員会館内に食堂は幾つもあった。遠くから観光バスを仕立ててやって来る後援会国会見学ツアーの昼食は、大抵ここで摂る。天井が高くゆったりしていて格調高く見える割に、価格が安いからだ。だが今、黒田がここにいるのは大きな液晶TVが据えてあるからだった。
「ウチだって情報なんてありませんよ。北京の大使館だってきっとCNNを見て情報収集してると思いますよ」
外務省政府控室専門職員、佐瀬和弘が卵を割りほぐしながら、言った。
「もっとも情報があったところで、ぼくみたいな下っ端には届きませんけどね」
佐瀬は大卒後外務省専門職員試験を受けて入省した。キャリアではないが、中国のエキスパートだ。もちろん中国語に堪能で、アタッシェ(専門職員)として北京大使館に派遣され、昨年本省勤務となった。現在は国会内の外務省政府控室にいる。政府控室は各省庁が国会内に置いている出店で、議員に対する便宜供与が主たる仕事だった。
佐瀬はすき焼きうどんを解き卵に浸して、ずるずると啜った。国会議員を前にしても、佐瀬は緊張するということがない。
(――こいつは中国オタクなんですよ)
松野は佐瀬をそう紹介した。大学時代からバイトして資金を作っては中国を旅行する、そういうこと何度もしてきたのだという。
何度か昼食を共にしながら話すうち、政治、軍事、民生や料理、風俗に至るまで佐瀬の中国に関する知識の懐の深さに驚いた経験があった。佐瀬は松野の大学時代の友人だった。
NKK総合ではニュース後の昼の娯楽番組を潰して、『毛主席記念館爆破事件』を報道していた。
これまで新たに判ったことは、北京軍区第三八集団軍の戦車師団、機械化歩兵師団、歩兵師団とみられる車両や兵員が天安門広場周辺、故宮博物院や中山公園を含む五キロ四方を封鎖していること、北京市中心へ向かう車両や人の通行が遮断されていること、などであった。
爆破の原因や毛主席の遺体についての情報はない。ただ、複数の外国報道機関が『中国政府高官』とソースをぼかした表現ながら、爆破はテロの可能性が高い、との情報を流していた。
「ある中国政府高官というのは誰のことだろう?」
日本の場合は明快だ。政府首脳は首相、政府筋は官房長官。
佐瀬はそれが癖らしく、眼鏡を右手中指で押し上げる。銀縁の眼鏡は厚い。佐瀬は色白で小太り。中国オタクよりコンピューターかゲームオタクといった風貌だった。
「わかりませんね。ただ軍隊が動いているということは葉華生かその周辺が今回の対応の中心にいると見て間違いないです。葉華生は中央軍事委員会主席ですから」
「童振国家主席じゃなく、引退した葉華生が?」
「葉華生は引退なんてしてませんよ。中央軍事委員会主席というのは軍の最高指揮官ですから。前の天安門事件のことを思い出してください。鄧小平は学生に手ぬるい対応をした趙紫陽首相を怒鳴りつけて、民主化運動を戦車で押し潰した。あのときの鄧小平の肩書が中央軍事委員会主席です」
黒田は頷いた。映像が過る。巨きな人の海とも見える群衆に突進していく戦車。一九八九年六月四日の夜。あの戦車の搭乗員は一体どんな気持ちだろうか?
キャタピラが人間の身体を轢き潰していく感覚は、どんなものなのだろう?
たぶん彼らはその感覚を一生忘れられない。
あの映像が眼球に飛び込んで来た瞬間、黒田はそんなことを感じた。その時黒田はパレスチナのイスラエル占領区域、カザにいた。まだフリーのジャーナリストだった。
「中国には日本みたいに《ぶら下がり》取材なんてないですから、情報は意図的にリークされているはずです」
「テロかも知れないっていう?」
松野が飯を頬張りつつ、言った。
「誰が、何のためにリークしたんだ?」
黒田が尋く。佐瀬は短い首を振った。
情報のリークは通常マスコミに先行させて事実を発表した時にその衝撃を柔らげたり、受け入れに向けた雰囲気の醸成に使われることが多い。
「テロだとして、そんな組織が中国にあるんだろうか?」
「普通に考えれば、ないでしょうね。チベットだってダライ・ラマが亡命したのは一九五九年のことだし……。ただ、今の世界はテロ組織が活性化しちゃってますからね。中国内のイスラム教徒が外国勢力と結び付いた可能性も、ゼロじゃない」
「イスラム国とか?」
松野が尋いた。佐瀬は首を傾ける。黒田が応えた。
「中国はイラク戦争に対しても終始反対の立場だったからな。イスラム国だってわざわざ敵を増やしたくはないだろうよ」
「でも奴らが全てのテロ組織を統率している訳じゃない」
「でもさあ、どうして北京政府はテロらしい、と考えたんだろう」
「たぶん……」
佐瀬は眼鏡を中指でぐっと押した。
「爆破の手口じゃないですか。自動車爆弾とか、自爆とか」
黒田と松野は頷いた。
「それにしても毛主席記念館を狙うとは。あれは天安門広場の真ん中にでんとあって、中国共産党の権威の象徴みたいなものですからね」
TVの画面が切り替わった。さきほど現地時間の正午、日本時間の午後一時に中国政府のプレスリリースがある、と報道されていた。中央に演壇があり、その脇に五星赤旗が掲げられている。
『連続テレビ小説』は一時一五分より教育テレビで放送します、とテロップが流れた。
「始まりましたよ」
松野が言った。三人とも液晶TVに注目する。ひとりの男が画面右手から現れた。
「――おお、張志明」
中国語が佐瀬の口から漏れる。松野がわからず佐瀬を一瞬見た。
「張志明、最年少の政治局常務委員です。それにしても異例ですね。政治局常務委員がブリーフィングをやるなんて」
痩身を暗い色合いのスーツに包んでいる。身のこなしが柔らかで、隙がない。落ち着き払った表情からは、深い自信が感じられた。確かに若い。四十代になっているかどうか。 TVからは東京のスタジオに詰めている解説委員の、異例ですね、プレスリリースは政府の報道官が行うのが常ですが、という声がする。
「ははん、こいつですよ中国政府高官は。張志明は葉華生の懐刀です。一昨年の人民代表大会で天津市党委員会書記から中央入りしたのも、葉華生の強力な引きがあったからと言われています」
張志明の会見が始まった。
低音の、張りのある声だった。すぐ女性の同時通訳の声が、張の言葉に被っていく。
「……まず今回の事件について私たち中華人民共和国政府が、現在までに把握している事実とそして、私たちが今後取るべき方策についてお話しをしたいと思います。その後で、お集まりの各国プレスの皆さんのご質問を受けます」
張志明はそう言うと同意を得るように、正面を見据えた。TVカメラが捕らえた彼の視線は、異常なほど力の持っている。黒田はその一瞬、言い知れぬ恐怖を感じた。
「本日未明、正確には午前三時すぎ。天安門広場の毛主席記念館に高性能爆薬を搭載した乗用車、これはちなみに赤旗ですが、突入し爆発しました。これにより記念館は全壊しました。毛主席のご遺体は、水晶の棺とともに破壊され、非常に大きな損傷を被りました。われわれは偉大なる指導者である毛沢東主席のご遺体の復元を試みましたが、不可能と判断せざるを得ませんでした」
張はひと呼吸入れる。
「自動車爆弾ということですね」
解説委員の声が入った。
「自動車を運転していた男も同時に死亡しましたが、この男は今回の事件を引き起こした一味の人間であることが、判明しています」
「――自爆テロ!」
松野とNHK解説委員の声が重なった。
「男の名はヤン・シュウピンと言います。以前北京大学の教員をしたいました」
「――ヤン・シュウピン!」
佐瀬はほとんど叫ぶように言った。どこかの議員の後援会婦人部といった印象の女性たちが振り返った。
「もしヤン・シュウピンが楊秋平だったらエライことだ」
「――どうして?」
松野が佐瀬を見る。黒田は片手をわずかに上げて松野を制した。後で聞く、というように。黒田の視線はTV画面の男、張志明に張り付いたままだ。
「まず最初に申し上げなくてはならないことは、この爆破事件が悪辣極まりないテロである、ということです。ニューヨークで、イスラエルで、イラクで起こったことがこの北京でも起きた、ということです。もちろんテロを行った者たちのバックグラウンドは全く異なります。現在アメリカ合衆国をはじめ国際社会が一致して、テロとの戦争を遂行していることは皆さんもご承知と思います。わたしたち中華人民共和国も国際社会の一員として、このテロに屈することなく、断固として戦い抜いていくということを申し上げたい」
張志明はデスクの上の原稿にほとんど視線を落とさず、聴衆をカメラを見据えて静かに語っている。時折、通訳のスピードを気遣うように、間を取った。その姿はアメリカや日本の優秀なニュースキャスターを思わせた。
黒田は佐瀬を見た。佐瀬は早口で言った。
「楊秋平は楊建平の息子です。楊建平は政治協商会議主席や国家副主席を歴任した実力者で、とくに広東省の首領と言われた男です。父親は七大元帥のひとり楊憲栄――」
張志明が話し始めた。
「この平和への挑戦、暴虐なテロリズムを実行したヤン・シュウピンの背後にはふたつの大きな組織があります。ひとつは――」
黒田は息を飲んだ。張志明の視線がひときわ力を増した、と感じた。
「――法倫功です。もちろん法倫功に属する人々すべてではありません。一部の好戦的なならず者たちによって今回のテロは実行されました。そしてもうひとつは、ヤン・シュウピン個人のネットワークです。その悪のネットワークはヤンの出身地である広東省広州を中心に彼の親族が多く含まれています」
「やっぱりそうだ。ヤン・シュウピンは楊秋平だ。しかも法倫功もだと。こりゃあエライことになる」
ため息のように、佐瀬の厚い唇からそんな言葉が漏れた。
「テロリストたちは複数の標的を破壊することを計画していました。その中には人民大会堂、北京駅、北京空港、世界貿易センターなどの新しい我が国が世界に誇る高層ビル、工人体育館などが含まれていました。テロリストたちの目的は、それらを破壊することにより多くの罪なき人民を殺傷し、社会不安を引き起こし、わが国とわが党の権威を失墜させることにありました。しかしながら、これらの計画は警備厳重なため、大幅に縮小されたのです。
現在テロリスト一味の厳しい追求が行われています。彼らは数も多く、ほとんどわが国の全域に散っていると思われます。テロリストの悪の野望を打ち砕くまで一時的に、われわれは次のような措置を取ります。
すべての行政機関、すべての党委員会は本日正午をもって、党中央軍事委員会の指揮下にはいるものとする」
会場が騒ついているのが中継映像でも判る。NHKのスタジオも多少の混乱を来している。だがNHKの解説委員はヤン・シュウピンと広東省の首領、楊建平をまだ結び付けられていない様子だった。
「――これは、戒厳令ということでしょうか」
アナウンサーが尋く。解説委員が呻くように応えた。
「……うーん日本式に言うならば、そういうことになるでしょうね。共産党中央軍事委員会は人民解放軍の指揮権を握っている唯一の組織ですから」
張志明が続ける。
「――申し上げましたように、これはテロリズムとの戦争であります。戦争である以上、われわれは必ず勝利します。かつて日本帝国主義の戦いに勝利した先人たちの偉業を思い起こさねばなりません」
「――また日本かよ。関係ないっツウのに」
松野は口を尖らせて、言った。
その時、三人ばかりの中年過ぎと見える女性が液晶TVに、つつと近づいた。
だいじょうぶやけん、あん人たちも随分なごう見とらすから。少しウチらにも見せてもらおう。
そんな声が聞こえる。何をするのか、と見ているうちにTVのチャンネルを変えてしまった。画面は切り替わり、いかにも日常的な茶の間の風景が写し出された。NHKの『連続テレビ小説』らしいことはすぐに判った。
――あ、おばちゃん、と松野は言いかけて黒田に目顔で制止される。
黒田は苦笑した。時計を見る。衆議院外務委員会が午後一時半から始まる。どのみち席を立たなくてはならない。
それにしても――ああいう人たちが、日本の政治を支えているのだ、と黒田は思った。世界のどこで何が起ころうと、今日と変わらぬ明日が必ず訪れるのだと信じている人たち。平和であるということが、空気があるということと、ほとんど同義であるという認識しかない人たち。
もちろんそれが悪いとは思わない。そういう人たちが幸福に暮らせる社会を作ることが、政治というものの重要な仕事だ。しかし、世界は変わっていく。政治がどれほど頑張っても、守り抜けない巨きな波が日本を襲うことが、近い将来ないとは言い切れない。
――そう、あの男。
張志明の落ち着きはらった表情が過る。あの男は、あの国を、中華人民共和国をいったいどうしようというのだ?
黒い不安が、心の真ん中にどっかりと座っている。
(あの男は、危険だ……)
心の中で誰かがそう叫んでいる。
根拠がない。先入観念は最終的に判断を誤る。
――わかっている。
だがその声は、消えない。まるで追っても追っても離れない羽虫の音のように。
「あのおばちゃんたち、副島先生の後援会ですよ。『佐賀発、世界へ!』って、副島先生のスローガンでしょ。胸のリボンにロゴが入ってますよ」
押し殺した声で、松野が言った。
「今日は朝から副島さんに振り廻されるな」
笑いながら黒田は言った。松野は恥ずかしそうに俯いた。黒田は佐瀬を見た。
「張志明について、教えてもらいたい」
「後で略歴とか、資料をお届けしますよ」
三人は席をを立つ。黒田が支払って、議員食堂を出た。重厚な扉の向こうは暗い廊下であった。赤い絨毯が敷き詰めてある。議事堂の中は、空気が重い。古い黴のような、独特の臭いがあった。
黒田は歩きながら、話した。
「張志明は、どうしてあの若さであそこまで出世ができたんだろう?」
「極めて優秀な男だと言われています。が、もちろんそれだけではありません。張志明は葉華生の姪を妻にしている、言わば葉ファミリーの一員です。葉が国家主席の職を去るにあたって中央に打ち込んだ強靭な楔、それが張志明です」
前方に人だかりがある。記者たちが、群れ集まってそのまま動いている。真ん中にいるのは武山憲太郎だった。与党内の最大派閥、武山派の領袖。当選一三回、元首相。現在武山は派閥への不正政治献金疑惑に見舞われていた。
「そのむかし四人組のひとり王洪文が、一介の工員から三五歳の若さで国家副主席にまで昇りつめた。それでついたあだ名が『ロケット』。もちろん多少の阿諛も含めて。文革時代のロケットですからね。あまり賢くはない。だが、飛ぶのは飛びます」
佐瀬はひと呼吸いれた。
「張志明にもあだ名があるんです」
佐瀬は流暢な中国語で何ごとか呟いた。他のふたりには、もちろん判らない。
「スペースシャトル。多少いま風ですね。ハイテクの塊だから、きっと頭もいい。でも、もうひとつ意味があるんです。スペースャトルは大きなブースターを捨てるでしょ。役目を終えたら、投げ捨てる」
「張志明も何かを捨てた?」
松野の言葉に佐瀬が頷く。
「陸紅――北京市党委員会書記で、一時は葉華生のライバルと目されていた男です。張志明の育ての親とも言っていい。張は陸を裏切った。裏切って、葉に付いたんです」
「陸紅は、今はどうしている?」
佐瀬は短い首を振った。
「死にました。汚職の罪で訴追され有罪となりました。銃殺刑です。張志明は陸紅を売った、とも言われています」
「――ひどい男だな」
思わず口を付いて出た。
「ひどいかどうか判りませんが、それが張志明という男です」
第三委員会室の前。黒田は佐瀬に礼を言った。そこで黒田はふたりと別れる。
外務委員会はこれから二時間の予定だった。
その後は党本部で党婦人局幹部との会合、これは党婦人局次長として出席。その次は霞友会館でサウジアラビアへ赴任する大使の壮行レセプション、これは外務省大臣政務官として……。明日は党の組織副本部長として支援団体のひとつ全国石油政治協会の幹部と朝食会、そのあとは、そうだ、地元に戻って副島さんの娘婿の高嶋を囲んでタウンミーティングをセットしたんだ。これは神奈川県選出の民自党衆議院議員として、次期参院選の神奈川選挙区から出馬予定の高嶋威臣さんを支援する……。
世界のどこで何があろうと、これらのスケジュールには変更はなさそうだった。
(雑巾掛けは十分やってるつもりだけどなあ)
石渡の痘痕顔が浮かんだ