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毛主席の贈り物  作者: くまいくまきち
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第一章 天安門広場 1

第一章 天安門広場


 戦争とは政治の継続である。この点から言えば戦争とは政治であり、戦争そのものが政治的性質をもった行動であって、昔から政治性をおびない戦争はなかった。

「持久戦について」(一九三八年五月)『毛沢東選集』第二巻



(それにしても、玲玲には何を買おうか……)


人民武装警察上級警司、撞良の思考は、また出発点へ戻ってしまう。祖母には毛織り膝掛け、母にはシルクのスカーフ、父には銀の煙草入れ、姉には日本製の口紅と指折り数えて、これらはもう再考の余地がないように思われた。さて、姪の玲玲は一二歳。まだ大人ではないが、子供扱いをされるとすぐにむくれてしまう。一二歳の少女が何を欲しがるのか、二七歳の撞には見当もつかない。ひとりっ子の玲玲は《小皇帝》の典型だな、と撞は思っている。


撞は腕時計を見る。午前三時。六月にはいったばかりだが、このところ日中の気温は三〇度を超えている。それでも日の出には間があるこの時間帯はじっとしていると凍えそうになるほど、寒い。吐く息が柔らかな風に白くたなびく。


 天安門広場は規則的に並んだ街灯に照らされている。さすがにまだ、人影は疎らであった。あと一時間もすれば太陽が昇る。広場の北の端にある国旗掲揚台には日の出とともに、人民解放軍兵士たちが五星赤旗を掲げる。それを目当て観光客も集まって、天安門広場の賑やかな一日が始まるのだ。


撞は、党と国家に忠誠を尽くす多くの青年と同様に十八歳で兵役に就いた。除隊後は志願して人民武装警察の一員となった。そして現在は毛主席記念館の警備にあたっている。


毛主席の死後に生まれた撞は、文化大革命の混乱も父母からおぼろげに聞くだけだった。功績七分、誤り三分と言われる毛主席の生涯は撞にとって、彼の世代の多くの青年と同じように膨大な歴史の一頁に過ぎない。


 しかし、こうして毛主席の遺体をお守りしていると、その存在に奇妙な近親感を覚えるのも事実であった。

 不意に、水晶の棺の中から起き上がり、その巨矩を揺さぶるように大股で歩きつつ、「警備、ご苦労である」と、ねぎらいの言葉を撞たちにかけてくれる。時に、そんな想像をすることもあった。


だが一方、死体となってなお党と国家のために尽くし、観光に一役買っている毛主席が、何となく気の毒にも思えた。


(……いずれにしても、この夏が最後だ)


と、撞は自分に言いきかせる。

 姉の夫、王曽平は広東省の省都広州に出稼ぎに行っていて、羽振りがいい。王はポリプロピレン樹脂を原料にしたクリアファィルなどを生産する工場に勤務している。総経理の信頼が厚く、今は副支配人の地位にあった。総経理は他業種への進出も計画しており、王がその工場全体を任される日も近いという。


工場で生産される製品のほとんどが日本に輸出される。質がよく、価格が安いため競争力が高い。業績は極めて順調らしい。


王の俸給を聞いて撞は驚愕した。何と撞の二十倍だという。

十年にわたって党と国家のために身命を捧げて来た撞の年収を、勤務を始めてまだ五、六年の河南省の農夫だった男が一カ月もかからずに稼ぎ出してしまう――。


時代というものが大きく動き出しているのだ……と、撞は感じた。ならば自分も時代の波に乗ってやろうじゃないか。まだ二十代のうちに。


撞はここ数年、帰郷する度に姉夫婦から出稼ぎのことで誘いを受けていた。


(この夏の休暇で帰郷したら、今度こそ真面目に王の話しを聞いてみようか……)


別に王の工場に限らずともよい。解放軍時代の友人が上海でIT関係の公司を興したとも聞いている。いったい彼はいくら稼いでいるのか。たぶん撞の想像を絶する金額に相違ない。


と、その時だった。

黒塗りの乗用車が一台、広場を突っ切るようにして近づいて来る。

撞は咄嗟に同僚の聶二級警司と顔を見合わせた。

天安門広場は車両の侵入は規制されている。

車は、紅旗であった。旧式の国産高級車で主に党の要人や国賓が使用する。しかも先頭には小さな五星紅旗がひるがえっているではないか!

お偉方がこんな夜中に毛主席に何の事があるというのだろうか?

撞は、さらに奇妙なことに気づいた。車は、紅旗は路面から浮き上がり、まるで宙を滑っているように見えたのだ。


「――楊隊長!」


撞は叫んだ。

だがその瞬間には、記念館の警備にあたっていた警司のほとんどが、紅旗の存在に気づいていた。正門わきの詰め所からも、数人の警司が飛び出してくる。

紅旗は、広場のほぼ中央にそびえ立つ人民英雄記念碑を掠めるようにして抜け、まっすぐ記念館へ向かっている。


撞は記念館の通用口付近、なだらかな階段の上に立っている。

紅旗は速度を緩めない。

 いや、紅旗は速度を上げている。 

冷たい刃を喉元に差し込まれたような感覚がした。

撞たち警司はその瞬間、隊長の指示を待つ格好となり、紅旗を漫然と眺めてしまう。

楊は、毛主席記念館警備隊長は戸惑っている様子だ。その理由は撞にもよく判る。通常車両が突進してきたのなら即座に発砲してでも停めるのだが、五星紅旗が翻った紅旗に発砲してもよいものかどうか……もし本当に党幹部が乗っていたらどうするのだ。

紅旗は、さらに加速する。


「――突っ込むぞ!」


 撞は咄嗟に叫んだ。

 と、次の瞬間、「撃て!」と誰かが怒鳴った。楊隊長だ。隊長が決断したのだ。

警司たちが拳銃をホルダーから抜く。


 紅旗は煌々とヘッドライトを照らし、迫る。いくつかの銃声が、金属的な乾いた衝撃音が極寒の天安門広場に響く。

撞と聶も拳銃を構える。持ち場は絶対に離れない。撞たちは毛主席をお護りしているのだ。その永遠の眠りを妨げてはならない。


紅旗のヘッドライトの一方が割れる。が、片目を潰されても怪物のような紅旗の勢いは止まらない。

紅旗は広場と記念館の前庭を仕切る金属フェンスに激突する。フェンスは紅旗に引きずられるようにして大きく「く」の字に湾曲する。紅旗の勢いが緩む。自動小銃が掃射される。フロントガラスは銃弾を浴びて白濁する。だが、防弾処理をされており、割れはしない。 フェンスは大人の背丈ほどで、日中は観光客を入場させるために開かれる、伸縮するタイプで強度はあまりない。が、相手は大きいとは言え乗用車である。咄嗟に、止められる、と誰もが思った。


しかし――紅旗は、前輪をわずかに上げてフェンスに乗り上げたと思うと次の瞬間、まるで装甲車両のように押し倒し、乗り越えてしまった。

紅旗は記念館の前庭に侵入してしまった。

もう距離はない。


「――タイヤを狙え」


 撞は聶二級警司に短く指示する。自分はフロントガラスに、運転者に向けて発砲した。 紅旗の後方からも発砲が続く。外れた弾が耳元を擦過するが、そんなことに構っていられない。撞は両手で拳銃を構え、これより一歩も通さぬ気概で撃ち続けた。


紅旗は、手負いとなった獣のごとく、あちこちから白煙を吐き、エンジンを咆哮させて迫る。ついに階段をも昇り始めた。


 撞は気づいた。


 紅旗が宙を滑っているように見えたわけを。 タイヤが違っていた。大きいのだ。おそらく軍用四輪駆動車のものを取り付けたに相違ない。防弾処理もしてあるのだろう。 ――とすれば、敵は、この紅旗を操る者は、フェンスの構造やこの階段も計算に入れている。


 ――自爆テロ。


イスラム過激派によるテロリズムの一形態が脳裏を過る。


(紅旗の中に乗り込んで、止めるしかない)


瞬時に撞は判断した。こんな状況にあっても、冷静でいられることを誇りに感じた。

撞は階段を駆け降りる。もはや撞は紅旗と刺し違える覚悟だった。跳ねた弾が右の大腿を掠り、筋肉をもぎ取っていった。それにも構わず撞はほとんど転げるようにして紅旗の左側、運転者側のドアに取り付いた。

ドアは開かない。ロックされている。撞は鍵穴に銃口を近づけて慎重に引鉄をひいた。


 ドアが開く。

撞は飛び込む。

が――運転席にあるはずの操縦者が、テロリストがいない。

見ると、助手席の床に誰かが転がっている。金属質の、血の臭いが強くした。死んでいるようで、動かない。

 撞は運転席に座る。ブレーキを踏む。銃創を受けた右足が動かない。両足で、撞は全身を伸ばすようにして、ブレーキを踏む。

 ――が、効かない。サイドブレーキに齧り付く。しかし、これも効かなかった。


撞は諦めない。ハンドルだ。せめて記念館の突入を避けられば。が――だめだ。ハンドルは動かない。


――自動操縦、さもなければ遠隔操作。

撞の脳裏に閃いた。助手席で死んでいる人間は頭部を撞の方へ向けている。この体勢では運転していて、撃たれたのであるまい。あらかじめ死体にされ、ほうり込まれたのだろう。


撞は銃弾をスピードメーターなどの計器類に向かって撃ち込む。撃ち込む。撃ち込む。

しかし紅旗は止まらない。

撞は弾を撃ち尽くしてしまう。


拳銃を投げ捨て、ハンドルを殴りつけた。撞は絶望した。母の、そして父の顔が浮かんでは消えていく。脱出しようという気力も残ってはいなかった。死が、魔物のような赤い口を開いてすぐそこまで迫っているのを感じた。全身が恐怖に慄えた。

紅旗は階段を昇りきり、通用口の白っぽいドアをぶち抜いて進んで行く。撞にはどうすることもできない。


強い衝撃があって、白濁していたフロントガラスが飛び散った。撞はハンドルに前頭部をしたたかに打ち付けた。

突然、視界が開けた。

 毛主席が、撞を見下ろしている。

紅旗は、止まっている。三メートルはある巨大な毛主席の大理石の座像に衝突し、止まったのだ。

撞は毛主席を見上げた。毛主席は、いつものように穏やかな笑みを浮かべて、撞を見ている。――そしてそれが、撞良の見た最後の映像となった。 


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