限界の果て
今日の夜に、おそらく21時から23時ぐらいの間にもう1話投稿します。
一瞬で肉薄する黒い巨躯。存在を誇示するように広がる翼膜。土砂降りの雨のなか怒りに滲んだ一瞥が向かう。振り下ろされるように頭上に影を差すアギト。拭いきれない死への確信。
(跳べ――!)
幾重にも重なった記憶が叫んだ。大顎が開き牙が喉元を噛み千切るよりも早く、体が勝手に動いていた。
疾駆した勢いのまま地面を蹴り跳ぶ。竜の頭殻へ、見下ろしていた双眸が動揺に震えているように思えた。
そのまま瞳へ指を掛ける。持っていたナイフをそのまま突き入れた。
ぐにゅりと粘液を帯びた感触。硬い瞬膜と眼球の隙間に指をねじ入れ、全身で羽交い絞めるように翼竜の大顎を抑え、しがみ付く。
「■■■■■■■■■■――――」
唸り声が全身を震わせた。音にならない怒号をまき散らし、翼竜は力任せに首を振り回す。五感を揺さぶる衝撃、加速。視界の全てが遠心力のままに軌跡を描く。
振り落とされないように必死に全身に力を込めて――とっくに限界を超えた体で耐え続けて、――どうすればいい? 考える猶予はなかった。致命傷を追憶する記憶はあれど、竜を殺すための記憶は思い出せない。
「あああああああああああああああああ!!」
ただ叫び続けた。無茶苦茶になってでも藻掻き続けた。諦められるはずがなかった。体に熱がある限り指先の一端にまで力を込め続けた。
圧迫するように発生する慣性と風圧が骨を軋ませる。とっくに折れただろう脇腹が悲鳴をあげていた。意識が途絶えるよりも先に、眼球と膜の間に突き刺していた刃が滑るように抜ける。
そのまま体が放りだされた。朦朧とする視界が宙を舞う。勝利を確信した翼竜が両翼を仰ぎ、大顎を開けて首を伸ばす。
――――しぬ。達観するように自嘲が込み上げた。鳴り響いていた警鐘がピタリと途絶え、静まり返る。
(あの部屋で見た俺はこうやって死んだのか? 藻掻いて、苦しんで、結局届かなかったのか?)
傷がない場所を探すほうが難しかった。熱がない場所を、痛みがない場所を探すほうが難しかった。気力も体力もとっくに尽きていた。
暴雨の混じる激しい風圧のなか、衝撃のまま暗転していく視界に映るのは肉を貪らんとする口腔ではなく記憶だった。
ほんの刹那の間、全てが巡る。俺のかもわからない思い出が混じる。ぱたぱたと揺れていた黒い尾と翼。色褪せて濁った青い瞳。頬に残った涙の痕。俺のために命をかけて、満たされたように笑っていたノーチェの姿。
幻覚だ。……いたみがひろがっていく。血と雨の臭いばかりだ。
思い出す。火をつけようとして悪戦したときのことを。生き延びようと雨のなか歩き続けたときのことを。体を温めるために肌が触れたときの熱を。
感傷だ。……宙に飛んだ体を動かす方法もない。地面を蹴ることだってもうできない。だけど。
(足りない。ノーチェの翼と尻尾も触りたい。一緒にまた肉も食べたい。拠点も作り直そう。そういうことを考えてると力が湧いてくる。だからやれる。無茶じゃない。……こいつもあるしな)
約束のように交わした言葉が蘇る。
(……ああ、まだ。続きを言ってもらえてない)
目を瞑ったまま、握り締めた物を絶対に離さないように力を込めた。込めることができた。無いはずの力が込み上げた。とっくに限界を超えていた体を過ぎた熱望だけが突き動かす。
「痛みがあるなら……動けるッ!!」
爛々と目を見開いた。瞳と血。魔力が集まる部位に意識を向けながら虚空に折れた杖を向ける。僅かに残った全てを振り絞るように。
初めてそれを唱えたときのことをハッキリと思い出す。思わず口角が吊り上がった。笑みを浮かべ、唱える。
「【岩槍】……!」
僅かな魔力の蛍光が霧のなかを照らす。折れた杖が魔力の波によって砕け散る。押し潰すほどの岩槍は作れなかった。形成されていく小さな石柱が、宙に放られていた俺に足場となって触れる。
体を捻り膝を曲げた。頭が地に向かう。眼前にまで迫る牙。恐怖はもうなかった。ナイフの刃を突き向けて、形成した石柱を俺ごと撃ち放つ。
――――加速。
全身を打ち付ける衝撃。宙を貫く石柱をそのまま強く蹴り飛ばす。一歩、空を駆けた。竜の大顎と入れ違う一瞬の至近。そして――。
露わになっていた喉元へ、衝撃のままに全身を殴打しながら深く刃を突き刺した。
逆鱗を貫いた刃の隙間から血飛沫が溢れた。流星のごとく竜と共に地に落ちる最中、零れ出る竜の血を飲み込む。
焼けるような熱と魔力が唾液に混ざる。舌を麻痺させる。
――これで、撃てる。
最期の一発を。ナイフの柄を握り締めたまま叫んだ。
「【岩槍】!!」
釘を打つように刃へ強くたたき込む。逆鱗を貫き、砕き、飛散する大量の鮮血。形状を保てずに崩れる土くれ。断末魔も怒号も響くことはなかった。落下する竜。地鳴りの残響。俺の体もどうしようもなく地面に叩きつけられた。
口の中の血が一瞬にして乾き剥がれていく。竜血の魔力だけでは足りなかったらしい。致命的な虚脱感の果てに視界が酷く黒ずんでいく。
仰向けに倒れたまま、もう一歩たりとも動けそうになかった。痛んでいたはずの体は、焼けそうなくらい赤熱していたはずの体は、指先の僅かな痺れしか感覚がわからなくなっていた。




