振り絞る血反吐
大粒の雨が水飛沫をあげている。ビチャリと、地面を踏み蹴るたびに泥が弾ける。白い闇に染まる空気。雨で張り付く髪。
体中にまとわりつく汗混じりの泥。赤く染まった雨粒。倒れそうになる体を支えようと脚を前に出し、疾駆し続ける。
何本もの【轟雷】が何もかもを炸裂させながら降り続けた。竜の逆鱗に触れたらしい。
あのときよりも執念深く、怒り狂い、俺を開けた場所へと誘っていく。
激しく耳を劈く雷鳴。霹靂。樹木を破砕し、倒し伏せる破壊の力。すぐ近くを落ちるたびに全身をハンマーで殴られたかのような衝撃が打ち付けた。そのたびによろめいて、泣きたくなるくらい神経が逆立つ。
目頭が酷く熱くなった。焦燥が喉の届かない奥深くを描き回す。腹部の異物感が思い出したかのように熱を帯びていた。泣き叫びたくなるような痛み。痛み。痛み。
「ッフー…………! フー……!」
絶叫を押し殺した。音はきっと、致命的な事態を招く。唇を噛み締めたまま息もできなくなりそうだった。
ああ、けど。まだ動ける。痛みがあるならまだやれるはずだ。底冷えていく体温。感覚のない指先。けどまだ、心臓の熱がわかる。音がわかる。血の中を巡る魔力がわかる。手から伝う杖の感触がわかる。
彼女の音を今もハッキリと残っている。背中合わせの熱が今もまだ残っている。二人で生き抜くんだって、叫んでいる。
「ッ――――!」
見覚えのある植生。林冠の形状。視界の先が広がっていた。確かに視認できる見慣れた布切れ。翼竜に喧嘩を売る前に倒木に掛けた、自分の死体が着ていた衣服だ。
(林冠を抜けたが最期だ。逃げ場はもうない。賭けるしかない)
最後の一歩に全力で力を込めた。騒ぎ喚く本能を押し殺したまま理性と直感の境界を保つために我ながらきっと、歪んだ笑みを浮かべていた。
前屈みになる姿勢。バネのように縮む脚。頭の中に蠢く数多の記憶が死の可能性を警告している。今更だった。
(死にに行くんじゃない。俺は――――ッ!)
血の臭いを拭い泥と葉で汚した衣服を纏って地面を踏み蹴る。
頭上を覆う枝もない、ぽっかりと密林に空いた決戦の場所へ跳んだ。影が晴れて重い灰の空の下に出る。
次の刹那、土砂降りの雨と白霧を貫き獰猛に突風が哭いた。
両翼が瞬き、衝撃波を帯びて黒竜は急降下した。白く濁った空気に深紅の軌跡と黒曜の残像が映る。
何もかもを両断する刃のごとき爪が、俺のすぐの目の前を。倒木と掛けられていた衣服を撃砕した。飛散する木片。布切れ。体中に突き刺さる破片。
最後の一撃だけは目に頼るがために竜は――狙いを違えた。身を翻して竜の懐で立ち上がる。視界を覆う竜の腹部。翼膜。黒く濃い影が差し込める。
「――――――!」
竜が俺を知覚して唸り声をあげた。魔力の波を感じたのか咄嗟に距離を取らんと尾と後脚で地を強く蹴る。跳ねる泥と水飛沫。
逃がすわけにはいかなかった。指先にまで力を込めて、黒竜に杖をを突き伸ばした。いつか死にかけたときのことを思い出す。
…………雨に濡れた体。息もできない緊張のなか。死に物狂いになった暗闇を追憶する。凍えそうな熱を震わせるように魔力を込める。
――――そして唱えた。
「【凍結】――!」
体を巡る魔力が血を伝い、腕から杖へ、一点に放たれる。
大粒の雨を、肌に纏いつく湿気を、呼気に混じる熱を、燐光する魔力はあのときよりも遥かに形をともなった一撃としてなにもかもを凍り付かせる。
凝縮した青い魔力の輝きが熱帯の空気を一転して鋭い冷気に染めあげた。ノーチェが教えてくれた翼竜の弱点。確かな痛打となっていた。
「■■■■――――■■――――――ッ!!」
魔法をもろに受けた翼竜が苦痛に悶える。動揺し、大きく開く口腔が一層冷気を循環させた。
鈍く揺れる巨躯。鱗を濡らす雨粒が薄く纏うように凍っていくなか、倒れそうになる体で俺は地面を踏み切った。
魔力の大半を消耗したらしい。視界が眩んでいた。全身を蝕む虚脱感。――無視した。ナイフを力強く握り締める。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
張り裂けんばかりに絶叫した。何もかもを剥き出しにして転びそうになりながら疾駆した。地面を滑り込む。肌が摩擦で擦り剝けた。知ったこっちゃない。
勢いのまま翼竜の内側へ肉薄して、四足で這う竜の首元に狙いを済まし、力任せに地面を跳ねた。逆鱗に向けて刃を突き伸ばす。
――防がれた。翼竜は頑強の頭殻で一撃を振り払う。そのまま頭蓋が横薙いで、無慈悲な殴打を叩き込まれた。
「――――グぁ……ッギ――っ!」
ゴム玉みたいに体が何度も地面を跳ねた。痛い。痛い。苦しい。肺が痙攣して小刻みに息が震える。でもまだ動ける。生きている。
役目は果たしたとでも言うように杖は折れてしまっていた。だが、おかげで直撃は避けれた。手足の感覚は残っている。
(尾で吹き飛ばされたときよりも衝撃は鈍い。動きも見えた。魔法は確かに有効打だったはずだ)
そう何度も自分に言い聞かせた。折れた杖の先端だけを握り締めたまま震える脚で立ち上がった。……魔力のうねりが手に取るように理解できる。杖の効力はまだ残っている。
顔についた泥が豪雨の所為で体を流れ伝っていく。目頭だけが酷く熱かった。
「ハハ……! びびった、か……? 今度は突進して来ないのか……?」
翼竜はすぐに追撃は仕掛けてこなかった。半開きになったアギト、牙の隙間から長い舌と唸りが垣間見える。零れる白い吐息。両翼と後脚で音もなく地面を踏み締めて、爪が軋む。
互いに睨み合った。ざぁざぁと降りつける雨音だけが静寂のなか響いていた。竜の瞳が俺を見下ろす。そして、
「■■■■■■■■■■■■――――――■■■■――――ッ!!」
空気を震わせる怒号が轟いた。瞬膜が見開く。
何度も致命傷を避け続け、騙し、追い詰められてなお喉元を狙ったことが絶対強者のプライドを害したのかは分からない。
雨のなか、静寂を切り裂くように翼竜は怒りの赴くままに加速した。死を直観して鋭敏な五感が摩擦する。
心臓が破裂しそうなくらい脈打っていた。歪に重なり合った記憶の群れが視界に映る黒竜をまざまざと、ゆっくりと見せつけてくる。走馬燈が巡る。
(――爪じゃない。大顎を開けて俺をそのまま噛み砕く)
……逃げられない。もとより、今更逃げるつもりもなかった。とっくに体は満身創痍を超えて息は果てている。
迫る翼竜を前に、対峙したまま口元を拭った。血がべっとりと手を塗り染める。
一度だけ深く呼吸した。眦を決して地面を深く――蹴る。
(これが最後のチャンスだ。竜に噛まれようが噛まれまいが、これ以上は持たない)
だから俺は。
「――――――ッ!」
翼竜に向けて死力を振り絞り駆け迫った。




