血路への誘導
(ああ、くそ……くそ。怖い。逃げたい。……こいつを傷つける? 冗談じゃない)
「――――冗談じゃねえ! やれ! 俺がやるんだよッ――! ノーチェと一緒に生き延びてやる……! てめぇなんかよりッ、ノーチェがいなくなっちまうほうが怖いんだよ! デカ蜥蜴ッ!!」
竜の威容に気圧されるのがわかる。顔が歪む。自分の体を貫いた氷と石の破片の痕が疼痛を訴える。
それでも二人で生き延びるために膝を曲げた。臨戦態勢を取り戻す。震える全身に動け。動けと必死に命じる。
一歩。竜が歩み寄った。見下ろす緋色の眼光。音もなく降り上がる爪。
(来る――ッ!)
記憶が叫ぶ。視認するよりも早く俺は地面を蹴飛ばした。空気すら裂かんとする圧倒的な猛威を前に全力で横に跳ねる。
「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!!」
どっちが叫んだかもわからなかった。寸でにして振り下ろされる黒曜の爪が酷くスローに見えた。叫び声が耳鳴りを響かせる。飛び散る土塊。砂塵が視界を遮る。
酷く無様に転んだ。激しい勢いのまま転がって、へたくそな受け身を必死に取って立ち上がる。肩に軋む痛み。浅く枝が刺さっていたが堪えられる程度の痛みだった。
竜は目が悪い。曖昧な期待を確信させるように深紅の双眸が周囲を見渡していた。空気を濁す塵に薄っすらと光が映る。
「コヒュー……。コヒュー…………」
竜の呼気が耳を掠める。竜が見失ってくれたのは数秒だ。距離を取ろうとする俺に突き刺す視線が追従する。獰猛な敵意。血に反応して鼻腔を震わせる黒竜は翼膜を広げ、再び前脚を振り下ろされる。
「ッ!」
もう一度、今度は前方へ跳んだ。背後から響く衝撃。俺はそのまま前転して竜に背を向けたまま密林へ駆ける。
(走れ走れ走れ走れ!! あの場所まで!)
黒竜は四足で這うように俺を追った。強迫する巨塊。地面から伝う衝撃。背後を見れない。息もできないまま大きく足先を伸ばして、強く地を蹴り込む。
――――追いつかれる。苦痛を伴う近視感が頭を軋ませながら警鐘を鳴らす。最初の一撃を避けたように真横へと身を翻す。
前脚の爪がすぐ隣を掠める刹那、黒い影が脇腹を抉るように殴打した。腹部の骨から脳髄の奥まで激痛が突き抜ける。視界がシェイクされ、訳もわからないまま全身が吹っ飛ばされる。
宙を転がったまま胃液を吐瀉した。何度も地面をバウンドして、そのたびに気が狂いそうな痛みが突き刺す。
腐葉土を引きずるように衝撃のまま地面を滑って、巨大な樹の根に全身を打ち付けてようやくブレーキが利いた。
「――――ッうううう……! ー……!! フーー……ッ!」
立ち上がろうとして痛みのあまり脚が震える。酷く視界が眩む。手探りで地面に転がる杖を落ち葉と共に強く握り締めた。涙が滲んで嗚咽が込み上げる。深く息を吸うとズキズキと打ち付けた腹部が悲鳴をあげる。
飛びそうになる意識が保てたのは雨のおかげだった。ポツリ、ポツリと、最初の数滴が落ちると、すぐに曇天の空が暴雨を降らせ始めていた。
林冠を殴る大粒の雨。頬を伝う。体に打ち付ける。急速に冷えていく気温。空気が霞掛かる。
(痛い。痛い――。なにがおきた? 竜は――)
地面を打ち付ける黒尾。翼竜はすぐ目の前にまで迫っていた。致命打を受けた俺に引導を渡さんと。眼前に開かれたアギト。剥き出しになった牙。桃色の長い舌。腐臭と唾液が竜の口腔からこぼれる。
「これでもッ食ってろ!!」
トドメを刺そうとする絶対強者の傲慢さに一矢報いようと。竜の牙が肉を噛み砕く、その前に。ズボンのポケットに入れたままの物を握り締めて、投げつけた。
「ギイィ――!」
竜の喉から悲鳴にも近い鳴き声が響いた。鼻を貫く刺激臭。飛び散る虫の翅。内蔵。衝撃で元からほとんどが潰れていたのに、僅かに生き残った奴が必死で目の前の敵から逃げようと噎せ返るような酸の臭いを煽る。
翼竜は確かに怯んだ。その巨躯が揺れ、怒り狂うように尾が周囲の樹木を薙ぎ倒す。反して俺は、スイッチが入るように力が漲った。
足元に転がっていたナイフを再び手に取る。脳がビリビリと痺れて脇腹を突き刺す激痛も曖昧な違和感に変わる。
「こっちだワイバーン! 俺を追いかけてみろ!!」
叫び自分自身を鼓舞した。気づかないうちにできた大量の掠り傷から血と汗が滲む。最低限の仕掛けをした場所へ向かうために、黒翼竜では通れない狭い密林のなかへ飛び込む。
「■■■■■■――ッ■■■――――!」
怒り狂った翼竜は咆哮をあげ、容赦なく猛追した。背後でベキベキと鳴り響く樹木がなぎ倒される音。振動。枝葉が重なり合い、雨に混じって降り注ぐ。
頭殻を鈍器にして振るい、翼が何もかもを破砕していく。走り抜ける場所が安全かどうかなんて確認すらできないまま必死になって逃げ駆けた。
「しまッ……!?」
強く踏み締めた一歩が体を支えきれずに重心が反れる。苔むした地面に僅かに足を取られた刹那、背後から伸びた前脚が衣服を掠めた。千切れるのではなく音すらなく布地が斬れる。
あと少しのところで皮膚が寸断されるところだった。咄嗟に振り返ると黒竜が両翼を仰いだ。埋め尽くすような樹木を全て薙ぎ倒そうとするのをやめ、体が吹き飛びそうになるほどの突風を巻き上げて一気に飛翔する。
(前逃げたときと同じだ。あいつはきっと――)
ビリビリと全身に纏いつき、迸るほどの魔力。黒灰の空。密林の影が一層濃く染まるなか狙いの曖昧な【轟雷】が僅かに離れた地点に落ちた。
青い雷撃が熱帯雨林を貫く。一瞬にして黒く焦げる樹木。雨に濡れながらも空気を歪ませる炎が勢い立つ。
(間違いなく、開けた場所に誘導してくる)
「ハハ……! 乗ってやる! 向かってやる!!」
力を踏み込むたびに腹部に異物感が食い込んでいた。痛みも分からないまま、出鱈目に放たれる暴虐な稲妻が当たらないことを祈り、体を前に倒す。
地面を踏み切る。跳ぶ。石を蹴って、樹の根を蹴って、加速したままシダの葉も椰子の葉も杖とナイフの両方を使って突っ切っていく。
奴の目が林冠に塞がれているうちに泥と枝葉で汚しておいた衣服を羽織った。少しでも竜の目を欺くために。知性のない暴虐そのものに立ち向かうために。
「やれる……! やれる……!! ノーチェは魔法も武器もなにもねえなか俺を守ったんだ。俺が――俺が今度は」
柄を握り締めたまま震える拳。爪が食い込むくらい強く締め付けた。ギリギリと歯を軋ませ続けてきた所為で、血の味がする口の中まで麻痺してきていた。




