海原に背を向けて
四章:賭けられた願い
波が打ち付ける。陽光照らす晴天。穏やかだった。青空が遠い。翡翠の海は果てが見えない。決して遠くはない場所であの黒竜が哭いている。それでも、穏やかだった。
嵐も雨もない。ほとんどの音が絶えた風のなか、ようやく真っ白な砂浜に腰を下ろした。岩陰に寄り添うノーチェの隣に。
「ノーチェ、この指輪は……魔法の道具だったりとかはしないのか?」
祈るように漂着物を漁ったが魔力のこもった品はなかった。唯一それらしいものも結局は違うらしく、ノーチェは微笑を浮かべながらゆっくりと首を横に振って、俺の手を包むように触れる。
「これは……ふつうの指輪っすね。でも……もしヨースケがよかったら――つけて、もらってもいいっすか?」
左手を差し出された。この世界も指輪をつける場所は同じなのだろうか。悩んだ。悩んだけど、今は彼女の薬指につけれなかった。苦し紛れに自分の指に適当に嵌める。少しばかりキツかった。
「……むぅ。いじわるっすよ。ヨースケ……」
囁くようにノーチェは笑う。色の霞んだ蒼い瞳がジィっと。
「これは……決意だ。俺のケジメだ。ノーチェを助ける。助けたら……指輪を嵌める。嫌って言ってもつける」
正面切って言ったら、ノーチェが思いのほかもじついて顔を赤らめる。
「ずるいっすよ。そういうの」
「ノーチェにだけは言われたくないな」
椰子の実をくりぬくのも久々だったが手が覚えていた。時間をかけずに二人分。ノーチェに手渡す。
飲み始めたころは好きじゃなかったはずなのに、いざ喉を通すとそのまま一気に飲み干せてしまった。ノーチェもぐしぐしと口を拭って空っぽの椰子が転がっていく。
「ノーチェ・ディ・フィジー・コッコ」
「んぇ!? な、なんすか……! い、いきなり……」
呼ばれ慣れていないからか素っ頓狂な声があがる。ぽかんと口が半開きだった。
「海に着いたら、向かい合って名前呼ぶって言っただろ。……タイミング、今ぐらいしかなかった」
「わ、私は――っ! うぅ……ッ。な、名前はやっぱり……ノーチェがいいっス。むずむずして落ち着かないっす……よぉ」
ノーチェが溶けるように微笑んで肩に寄り添う。細く白い髪が頬を、首筋をくすぐる。思わず体の緊張がほどけそうになって、律するみたいに唇を強く噛み締めた。
(こんなことをしてる場合じゃない……漂着物はダメだった。あとは何がある血……。どうやって探す? どこを探せばいる。 ここまで辿り着いたのは俺しかいないのか? ――記憶。なにか――思い出せないのか?)
「ねぇ、ヨースケ……」
俺の肩に頭を乗せてまま空を仰ぐように顔を覗く。恥じるように頬を赤くしたまま口元を緩める。
「もう、ちょっと。こうしてたい……ッス」
「……わかった」
椰子の葉を敷いた。黙り込むと波音だけがさざめいていた。ノーチェの熱がじんわりと伝う。
海に出たものの手詰まりだった。どうしたらいいかもわからなくなっていたのに、ノーチェは不満も言わずに俺に寄り添ったまま。八重歯を見せて笑いかけてくる。
「…………なんで笑っていられるんだ」
「嬉しいからっすよ。初めて私の全部を知ってくれた人が……、私のためにマジになってくれる。そんな人……と、海。また、一緒に見れてる。……胸が、バクバクするんすよ」
心臓が痛いくらい跳ねた。逃げるように彼女と同じ海を眺める。陽光に煌めき揺れる水面。遠く、海原の中央で黒煙が上がっている。
「……あれはなんだ?」
脈動が早まる。バクン、バクンと。奇跡みたいな可能性に祈れば祈るほど気道が狭まる。縋る想いで黒煙のあがる一点を注視して、吐く息が震えた。
「船……船だノーチェ!! 帆船がッ! すぐに狼煙を……ッ。魔力をどうにかしてもらえば助かるぞ! この島から出られるんだ!」
勢いのまま立ち上がろうとして力強く手を掴まれた。爪が食い込む。思わず振り向くとノーチェは目を見開いていて、怯えるように血の気が引いていた。
「ダメ! お願い……お願いだから……ッ!」
「なんでダメなんだ!? あれが最期のチャンスかもしれない。今なら急いで火を起こすなりあれに向けて魔法を撃てば――――」
そのまま腕を引っ張られて、ノーチェを押し倒すみたいに足を取られた。咄嗟に手をついて頭がぶつかるのだけは避けたものの、顔と顔が目と鼻の距離にあった。
蒼い大きな瞳が俺の顔を映している。息が顔にかかる。時間が止まるみたいに数秒、身動き一つ取れなかった。
「船に助けてもらったら。魔族の船でも、人間の……船でも。私たち、引き離されるんすよ…………!?」
泣いていた。一層強く食い込む爪。皮膚が切れて鋭い痛み滲んだけれど、それよりも突き刺さるみたいに胸が痛んだ。ノーチェの声が、呼気が小刻みに震えている。
「この島……しか。私たち。一緒にいられないんすよ……!」
「――――ッ」
「お願い……使う、っす。約束してた…………なんでも言うこと聞くって、やつ」
言葉が出てこなかった。一緒にいられなくても、船に助けを求めればノーチェが助かるかもしれない。このまま衰弱していかなくて済むかもしれないのに。指の一本だって動かせなかった。もう立ち上がれなかった。
波音が響いている。雲一つない晴天に照らされたまま、水平線に浮かんでいた帆船がどうなったかを確かめることもできなかった。
狼煙をあげるなんてできるわけがなかった。ずっとノーチェを押し倒したまま、船が通り過ぎるのを待つみたいにジッと、何もしなかった。
「は、はは……。嗚呼……やっちまったよ」
全身の力が一気に抜け出てノーチェの隣で仰向けになって倒れた。爛々と照り付ける陽光があまりに眩しくて、腕で顔を覆った。
「ノーチェ、……助け、たいのに……ッ! 俺は、俺……は」
目頭が熱い。喉が苦しい。込み上げた何かが顎骨のあたりで停滞し続けた。海原を見直すこともできなくて目を覆ったまま空を仰ぐ。
「あああああ……。ぁあああああああ!! 俺は……ノーチェが助かることより――ああ、ああああ……う、っ……ぁああ!」
叫んだ。砂を強く蹴り踏んだ。奇跡に等しい救いの可能性を捨ててしまった。ノーチェは俺の所為で魔力のほとんどを失ったのに。嗚咽すると口腔が掠れて血が滲む。
「………………………………ありがとう」
ノーチェが消え入りそうな声で、確かにそう囁いた。叫ぶ声すら出せなくなった。不意に頭のなかを静寂が満たして、ただ熱砂を握り締めた。
ごうごうと強い風が響いている。椰子の葉が靡き、陰鬱を拭う様に、嫌になるくらい爽やかな涼しさが横切った。




