渚へ
13
額が鈍く痛む。樹に寄り添ってノーチェを抱き締めたまま眠っていたらしい。まだ体調は万全とは言えないが皮膚を氷や石辺が突き出てくることはなかった。
肌には火傷のような痕がついてしまったが、僅かに痛むだけで化膿や抉れた状態は治っていた。ノーチェの魔力のおかげかもしれない。
ノーチェの話が正しければおそらく十三日目の朝だろうか。頭上を覆う枝葉から陽光が差し込めている。
(……翼も尻尾もないままだ。すぐに死にはしないとは言ってたけど。猶予はあるって……時間が経てば死ぬってことだ。魔力を取り戻す方法……ないのか?)
考えてもノーチェはまだ眠っていた。今は呼吸も穏やかだが顔色はとてもじゃないが良くない。発作みたいに譫言を発しているときもあった。
「ぁああ……ッ。ああああああ……!! なん、で……っで……!」
背中に回されたままの手に力がこもる。弱り切った力でジタバタと身悶えだして、彼女の爪が肌に食い込み血が滲む。翼のない背中を擦るぐらいしかできなかった。
「ぁああ……ー……! よ、ヨースケ……?」
ノーチェがゆっくりと瞼を開ける。蒼く潤んだ瞳が俺を見上げて、込み上げるように嗚咽する。
「起きたか。その……すまん。俺の所為なのに。何もできなくて」
彼女はゆっくりと首を横に振って、余裕のないはずなのに空元気を振り絞るように笑った。それから少しばかり頬を膨らませる。
「謝るんじゃなくて。ありがとう……って。言われたほうが、嬉しいんすよ……?」
「…………ありがとう。いつも助けられてる。今だって――」
「それに、何もできなくなんかない。ぎゅって、してくれて。今だって、怖い夢から覚ましてくれた。淫魔だって罵られて、仲間じゃない……って。嬲られて、仲間だったって思ってたの……私だけで。船から落とされて――そんな夢。見たくなかっ、たから」
「絶対に助ける。ノーチェが言ったんだ。頼ってくれていいって。甘えてくれていいって。ベタベタに甘やかしてくれるんだろ……なら元気になってくれないとダメだ。ずっと、内心あの言葉はドキドキしてたんだ。責任取らせてやる」
「えへへぇ……お熱いっすねぇ。楽しみッ……スねぇ。私、最近、甘えてばっかだったから……」
きっと翼はパタパタと動いていたはずだ。尾が機敏に揺れていたはずだ。掠れた声で笑う。昨日よりも衰弱していて、生気がないようで痛々しい。
今度は俺がノーチェをおぶった。凝り固まった筋肉が、石片の古傷に痛みが走って躓きそうになるのを堪える。
「……び、びっくりするから。急には。…………抱き着いたり、裸、見せ合うようなこと……あったすけど。それでも、慣れない……ものなんすよ?」
表情は見えない。ただ信頼して体を委ねてくれているだけでも十分だった。腐葉土の地面を踏みしめる。棘のある葉、絡みついた蔓を切り裂いて、雨溜まりの流れた痕を頼りに移動することにした。
「どこに……向かうんすか? 私、できるなら……ヨースケと。たくさん、話、したくて」
「……海に向かう。魔力を急いで補うなら血肉を摂取するかしかない。密林にいたままじゃ賭けが過ぎる。砂浜まで出ればまた川を見つけられるかもしれないし、あの嵐で魔法関係の道具が流れ着いてる可能性だってある」
そうは言ったものの移動自体がひどい賭けだった。雨溜まりが海に向かって流れていたのを見れたのは拠点を作った場所だけだ。
ほかの雨溜まりの流れが海に向かってる保障もないし、海に出ても岸壁かもしれない。
(鳥の囀りも虫の鳴き声もない…。まだ近くにあの翼竜がいるのか?)
「前と……逆っすね。えへへぇ……。前は、ヨースケがすぐにバテバテで……私、こうやって抱っこされるの、恥ずかしいから嫌って。……覚えてるっすか?」
「…………覚えてるとも」
けど前は噎せ返るような熱気だった。黒い影が覆うくらい鬱蒼とした密林は、姦しいぐらいに生き物の声で騒がしかった。
けど今はどうだ。ノーチェは弱り切って、翼竜の気配に怯えて静まり返った森のなか。落ち葉やら枝を踏みしめて、切り裂いて、そんな音と衰弱した呼気だけが耳元を撫でている。
「最初と比べてたくましくなっただろ? ……はは、ノーチェのほうこそもっと頼ってくれていいんだぞ。甘えたって、俺はもう恥ずかしがんねえ」
「それはそれで……寂しい……ッスねぇ」
ドクン、ドクンと。彼女の心音が背中伝いに体に響く。柔らかな胸がずっと押し当たっている。もう離れようとは思えなかったけど、慣れない。
慣れないまま、彼女を背負って歩き続けた。何時間か経っていたかもしれない。陽光が昇り気温があがっていく。
「私のこと……何度も助けてくれた人間が。泥だらけ、で。汗だらけで……。私のこと、必死で。息も切れてるのに。……それが、それがっすね。すごく嬉しくて、宝物みたいで……」
「言葉で……! そういうこと言われるとさすがに恥ずかしいから。そういうのは、もっと元気になってから言ってくれよ。笑ったらいいのか、照れたらいいのか。怒るべきなのか、泣くべきなのか。わからなくて、……その、俺は」
目頭が熱くなってくる。いつからこんなに涙もろくなったんだろう。死んだ記憶が脳をぐちゃぐちゃにしたときからか?
――けど自分のことよりも彼女の果てた息が肺を締め付ける。気道が狭まる。
「秘密。まだ何か残してるんだろ。冥土の土産にするつもりもないし。遺言にさせる気もないからさ。また言い合おう」
それでも言葉は自然と出てくれた。まだ笑うことができる。刻一刻と迫るように心臓が脈打っているのに。不思議と穏やかに話すことができている気がした。
「とは言っても俺はもう言っちゃったんだけどな。尻尾とか翼とか触ってたこととか、……好きって言ったこととか。あと何があった?」
「ヨースケはぜんぶ、ぜんぶさらけだして……くれたっす。私、だけ。私だけ。まだ残してた。けど大したことじゃ、ないんすよ?」
顔が近づく。表情も見えないまま、ノーチェの髪と頬の感触が肌を撫でる。頭を押し付けるように頬ずりされた。
――息が止まりそうになった。慣れない。ずっと。ずっとこの時間が続いてほしくて、とっくに疲れ切った脚を動かせる。
「私、フルネームをずっと言ってなかったんすよ。本当は、ノーチェ・ディ・フィジー・コッコって。特にトラウマとかが、あったわけじゃなくて。ただコッコって……響きが。ずっと恥ずかしくて……」
「……海賊の奴らにも言ってなかったのか?」
「知ってるのはこの世界で私と……ヨースケだけ。でも、いままで誰にも言わなくてよかった。私たちだけ、の。大切な秘密に……なったッスか?」
「なったとも。……俺にしか言うなよ。絶対。それで海についたら、顔を向き合ってその名前で呼ばせろ。絶対だ」
踵からつま先へ。流れるように地面を踏み締める。祈りが届いた気がした。目の前を切り開くためにナイフを振るい続け、汗を拭う最中。一陣の風が通り抜ける。久しく嗅いでいなかった臭い。潮風だ。
勝手に体が駆けだしていた。踏み込んで地面を蹴り上げる。潮の臭いが近づいて波音が響く。郷愁に駆られるみたいに急いだ。
枝葉のなかを潜り抜けて、視界が開ける。容赦のない直射日光が肌を照らした。刹那、視界が白く眩む。
くるぶしが砂で汚れた。鼻腔を満たす臭い。果てのない水平線に言葉を忘れた。海岸に転がる乾いたヤシの実。濡れた岩礁。砂浜。
ただ必死になって生き延びるために。二人で生きるために、俺たちは背負い合った末に海にまで戻っていた。




