想いの血
最初の部屋の構想だけは浮かんでいたので筆が早かったです。
ガシャンと。硝子が砕け散るみたいに。俺の周りのすべてが壊れた。なにもかもが暗闇に染まって、額に鈍痛が滲む。
「ッ……うぅ」
うめき声がようやく喉から溢れた。重い瞼を開ける。光が入り込んで白く何度か点滅した。ぼやけた視界が定まるにつれて、ノーチェの顔が定まっていく。
俺を上から覗き込んでいた。滂沱の涙が落ちて、弾けて。俺の頬を伝って落ちる。目が合うと、ノーチェは俺の手を強く握りしめた。
「はは……なんて顔してるんだ。……ノーチェ」
「ヨースケ! 起きたっすよね! 起きっげほっ! ……起きたんすよね? 生きてるっすよね!?」
勢いのままに抱き締められた。背中に手を回されて。ぎゅ、と。柔らかく。華奢な体から伝う体温がただただ心地よくて、ジッと力の入らないからだを委ねた。
「ヨースケ……! ずっと起きなくてッ、二日間ッも! ん……! なくて! 死んじゃったかと思ッて! ぁぅうう……ああああううう……!」
(あの扉を……開けなくてよかった。開けたら、どうなっていた?)
ノーチェが嗚咽して目を潤ませる。俺は俺で、ただ震えることしかできなかった。彼女がいつか言った言葉が振り返ってくる。――同じ川には二度と入れない。死んで、記憶が途切れる。そこで終わりなんだ。
「ノーチェ……」
彼女の名前を呼んだ。潤んだ双眸が俺を見据える。鬱蒼とした密林の黒い影のなかで。枝葉の隙間から照らす夕暮れの陽が差す下で、ノーチェはゆっくりと目を閉じた。泥と傷だらけの顔が目の前にある。
抱き寄せた。吐息が触れる距離になって、生きている実感を感じようとして唇を重ねた。
時間が止まったみたいに。ずっと。溶けるみたいな熱が舌に絡む。咥内を満たす鉄の味が唾液に溶ける。なにもかもを麻痺させる。
いつ離れたらいいかわからなくなった。ノーチェが一層寄り添う。力なく。静かに彼女は目を開けて、満たされたように儚く笑う。
一瞬で頭が真っ白になった。全身を悪寒が包む。確かめるように彼女の背中を撫でた。――翼がない。
「その、謝らなきゃ……いけないっすね」
華奢な指が頬を撫でた。赤く生暖かい血が伝う。激しく心臓が脈打っている。俺のも。彼女のも。
「ノーチェ……。俺のために何をしたんだ」
「……ヨースケだって。きっと、逆なら同じことをしたと。思うんすよ。そのおかげで、今、数秒……すごく、熱くて。びりびりして……しあわせだったって、思えるんスよ……?」
血濡れた手。すぐ隣に転がる赤黒く刃を染めたナイフ。血。体のなかで血が一番、魔力を帯びた部位で。
「薬草あったけど。魔力が空っぽで衰弱しちゃってて。どんどん体温が低くなって、心臓……鳴らなくなって。だから――――えへへ。わたしの血。わたしの……いのち。魔力。……うれしいっすよ」
ノーチェは自分の血を俺に飲ませていた。魔族の体を構成する……命に係わるものを俺に。
「なんでこんなことしたんだ……! ノーチェ、自分で言ってただろ!?」
「言わなきゃわからないなんて――ずっと一緒にいたのにひどいっすねぇ……」
今に果てそうな息を刻みながら、ノーチェは悪戯に微笑んだ。血に濡れた手が俺の手を握り締める。熱に濡れた指が交わる。
「どうすればいい? どう見たってただ事じゃない。翼が……完全に消えてる。どうしたら……どうしたらいい!?」
頼りない肩を掴んだ。声が無意識に荒らぐ。すぐに自責が胸を突き刺した。ノーチェが俺の顔に触れる。ジッと青い瞳に向かい合うと冷静さが降り戻った。
「……俺だって同じだ。同じなんだよ。助けたい。どんな方法でも。吊り橋効果かもしれないけど。運命の人だなんて言われてずっと意識してただけかもしれないけど。――死んでほしくない。ずっと一緒にいたい。触れていたい。生きてるって実感したい……二人で」
言った。けど言い切れていない。ノーチェが空笑いを浮かべながら顔を赤らめる。
「いますぐ死んじゃうわけじゃないっすよ。猶予はあるっす。……だから。落ち着くっすよ。ヨースケ。今はもう夜になるから。今日は……今日はこうしていたいっす。……ハグハグ」
もう一度抱き締められた。ノーチェの背を撫でた。震える体。枝葉で切れた皮膚。こびりついた泥。何もかもが愛おしくて力強く抱き寄せる。
「好きだ。好きなんだよ。…………言葉にするとさ。子供っぽくて言いたくなかったけど。絶対に助ける。今度は、俺が助ける。ノーチェが言ったんだ。俺一人じゃ生きてけないって。その通りなんだよ。俺だけが生き延びたって意味がないんだよ」
「…………ん。しばらく、こうしてていいっすか? ヨースケが起きて、しゃべってくれて。好きって、言ってくれて……うれしいんすけど。直視できないっすよ……」
表情を隠すように肩に顎を乗せられた。純白の髪が首元を撫でる。焦燥の汗が滲んでいたけど、呑まれるように俺は頷いていた。
夜になったら何もできない。身動きの一つも取れないから。
何日目かも定かじゃない黄昏の陽が沈み、暗い影が落ちていく。焚火の灯りもなくて、密林が闇に染まっていく。だんだんと何も見えなくなるなか、ずっと抱き締めて。
自分の腕さえ見えなくなる頃にようやく耳元で寝息が聞こえた。肩を濡らす涙が圧し掛かる。




