痛覚
コロナのせいで外出できないのでシイタケを栽培したのですが半生だったせいで食あたりしました。
「ッ止まレ! ノーチェ!」
咄嗟に叫んだ。数メートル先に広がる血だまり。腕と胴体がバラバラになった人間の死体。その場所だけ樹木が禿げて陽光が差していた。
「誘導ッ…されてたってわけっすか!?」
ノーチェが咄嗟に真横へ跳ねる。進路を切り替えて地面を蹴り込む中、すぐ隣で突風が乱れた。翼竜が急降下する。足の鉤爪が俺の死体を鷲掴み、咆哮をあげて再び飛翔した。
(前の俺にたすケられた――ッ、けどどうすれば……ふり切れる? 目は良くないのか? ……なら、においか?)
「ノー……チェ、一回、俺を……おろして、くれ。あいつが……俺、死体に気を……今が、チャンス、なんだ」
声を出すたびに得体の知れないなにかが喉奥から込み上げる。溺れているみたいに空気が吸い込めない。
「置いてけとでも言うんすか!? 嫌、嫌ッス! 私は……私はヨースケと一緒じゃなきゃ嫌!!」
「違ッ……逃げ切、ため。賭け、る」
蒼い双眸が周囲を見渡す。ノーチェは震えながら俺を地面に下ろしてくれた。不安そうに顔を覗き込んで、手を握られる。焼けそうなくらい華奢な指が熱く感じられた。
「服、上だけでいい……俺のを脱がせてくれ。臭いを……ごまか、すんだ」
ノーチェはすぐに頷くとナイフで俺の服を切り裂いた。出血の所為で血を吸いに吸ったシャツを手に取って、可能な限り体の血を拭い取った。
「臭いを誤魔化すならゴキブリの! 全部使っちゃうっスよ!」
ペットボトルに詰めていたゴキブリの体液を頭から掛けられた。近くにあった落ち葉と土を体に塗られて、再びノーチェに背負われる。
「離しちゃ駄目っすよ……! 絶対、絶対に私に抱きついたままでいるっすよ!!」
肩で呼吸をしながらノーチェは駆けだした。上空から轟く竜の叫び。火喰蜥蜴による火災がさらに広がっているのか森が騒がしい。翼竜の気配を前に隠れていた鳥があちこちを飛び交い、悲鳴のような鳴き声があがる。
「ふ、フフフ……! マジで気配が離れて行ってるッス! このまま距離を取れば逃げれる。逃げられるッス!!」
バチン!
絶対に忘れることのできない音が鬱蒼とした密林に響く。ノーチェの心臓が酷く跳ねた。バクバクと高鳴る熱が皮膚を伝う。
バチン――バチン。
極彩色の巨躯が見えた。ギロチン風船……。前にも遭遇した浮遊フグが視界に入る。ノーチェは咄嗟に足を止めた。歯を軋ませて目の前のモンスターを睥睨する。
「縄張りを突っ切るしかないっす。音が……! 威嚇の音は絶対にあいつにも聞かれた。迂回してる余裕はないっス!」
身をかがめて地面を蹴り込んだ。俺を背負っているせいでバランスを崩しかけて前のめりによろけながらなんとか足を踏み出して、駆けて、駆けて、疾駆する。
宙を泳ぐフグは威嚇をやめて一瞬で肉薄した。極彩色のヒレが風を切る。四本の巨大な歯がすぐ目の前で煌めく。
「カロロ……」
口ずさむみたいに火喰蜥蜴の鳴き声を真似た。ヤケだったが、フグの動きがピタリと止まった。
「な、ナイスっすヨースケ! 声帯模写なんていつの間に練習したんすか!?」
ノーチェが歓喜に声をあげて浮遊フグのすぐ隣を横切る。とっくに息も果てているのに一層手足に力を込めて、樹木を縫うように突き進んだ。
体から伝う着地の衝撃。脚に籠る力。翼が強張っていた。駆けて駆けて駆けて駆けて駆けて、蹴って、跳んで。俺は何もできないままノーチェに担がれていた。
方向感覚もとっくに消え失せた密林の奥、鬱蒼とした枝葉ばかりが横切っていく。一歩、一歩と足が踏み出されるたびに体が揺れる。脳が揺すられる。翼竜はどうなった? あのフグは?
威嚇の音も空気を震撼させる咆哮も聞こえないノーチェの吐息だけが間隔的に、酷く小刻みに肩を揺らす。体の芯が凍えるように冷えるほど、彼女の熱が燃えるように皮膚を覆う。
(……まずい。瞼が重、い)
窮地を超えた? 限界をとうに過ぎていた体を動かすアドレナリンが途絶えていく。急激に全身に錘が圧し掛かった。鈍くなっていた痛みが全身を蝕み始める。麻痺していた感覚が振り返る。
「ハーァー……! フー……! よ、-スケ。ここまで、逃げたら……フー! 大丈夫ッスよ」
陽の差さない大樹の根本に下ろされた。ノーチェの体から離れるだけで悪寒が増していく。心臓の脈動が一転して緩やかに落ちていく。
「――っ。ノ……ぇっ。秘密、をまた……一つ。教え合、う?」
「嫌っすよ。冥土の土産みたいじゃないッスか!! とにかくここにいるっすよ。幸い薬草が生えてる環境に近い場所に逃げれたっす。絶対、生き延びるんすよ……!」
地面を蹴る音。足音が遠ざかっていく。ノーチェの気配が。
「ーー……っ。ああ、……くそ。こわく、ねえよ。くそ」
(意識を保て。寝るな。目をとじるな)
思い続けるだけだと簡単に何もかもが暗転してしまいそうで、太腿から飛び出した石片を肉の内側へ押し込んだ。
熱い。熱い。痛い。いたい。いたい。……いたみがひろがっていく。
(いまま、で――超えてきた。はずだ。あれ……いや? 記憶がまざっているのか? わからない。ほんとうにいままでの、記憶はぜんぶ俺のもの、なのか?)
けど、けど――火のない夜も。豪雨の夜も。星が見えた日も。こえたはずだ。いくつも乗り越えて……生き延びて。
「――――――――…………」
声が出ない。顔を動かすこともできなくて。ただ濃厚な緑を仰いだ。




