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一時の安息

 三章:背負い合って



 豪雨が降り続けている。陰鬱な熱帯雨林を殴る暴風。鼓膜が破れそうな轟音。伸ばした指先が見えない暗闇のなか、木々の隙間が白く光る。遅れて雷鳴。乱れ散る稲妻。閃光が走るたびに暗闇の密林が一瞬一瞬、目の前に広がる。


 歩き続けた。切り立った崖の下。一面を覆う蔦を切り払い、倒れそうになる脚に力を込めて、泥だらけになりながら、引き継がれるみたいに受け取った記憶を頼りに洞窟までたどり着いて、それで……それで――。




「ヨースケ!」


 ノーチェの叫び声が片頭痛のなか響く。それでようやく呼吸ができた。ヒューヒューと浅く激しい呼気。雨に濡れた身体に汗が混じる。脈動が脳の血管を激しく打っている。


 呆然としているうちにゆっくりと我に返った。何も見えない暗闇。外から響く雷鳴と豪雨が反響している。背中の重み。弱々しい熱。華奢で柔らかな感覚。……ノーチェを背負ったままだった。


「大丈夫だ……。もう、落ち着いた」


 自分に言い聞かせて足元を見下ろす。洞窟の岩肌に寄りかかるように眠ったまま動かない、自分に酷似した別人。息はしていない。腐敗臭こそまだないが軋むぐらいの嫌悪が胸に渦巻く。


「すこし、待っててくれ。これを遠くに置いて来る。埋めるのは……無理だけど」


 手探りの闇のなかノーチェを下した。持っていたナイフと服の一部だけ拝借して、自分と全く同じ身体の死体を抱える。氷のように冷え切った肌。自分の筋肉の感触。


 触れているだけでどうしようもなく鳥肌が立って、今すぐにでも手放したくて動かない脚を無理矢理動かして外に出た。洞窟の中に放置するわけにも、あんまりにも近くに置くわけにもいかなかった。


 洞窟から出ると同時、熱帯とは思えない吹き荒んだ暴風が殴りつける。大粒の豪雨が再び身体を震わせる。歩みを急いだ。離れ過ぎれば二度と洞窟に戻れなくなりそうなくらい林冠を覆う暗雲は分厚くなっていて、死体を埋める余裕もなくその辺に適当に寝かせた。


 駆け足で来た道を戻る。転ばないように、間違っても樹木にも枝にも触れないように。警鐘を鳴らす確かな記憶に従って行くと切り立った崖にぽっかりと開いた洞窟が目に入る。


(よかった。とりあえずは戻ってこれた)


 異常な緊張感が消えると頭がぽっかりと真っ白になった。洞窟まで駆けこんで、ノーチェの顔を見ると笑っていた膝にもう力が入らなくて、彼女の隣でへたり込む。疲労感じゃない。もはや虚脱状態だった。


 どれほどの時間黙り込んだままでいたかはわからない。時間の進みが酷くゆっくりに思える沈黙。喋り始める程度に気力が戻るには時間がかかった。


「はは……ひとまずは、なんとかなったな。ああ、くそ寒い……」


 ぼんやりと理性が戻ってきて、脱いだ服から水を絞って広げた。火はつけられない。この場に乾いた枝もあの炎を吐き出す蜥蜴もない。太陽は顔を出す気配もなくて、湿気と濃霧が洞窟に流れ込んでくる。


「ノーチェは平気か?」


 顔を見合わせる。ノーチェは傷ついた脚を気に掛けるように尻尾で撫でていたが、ふわりと微笑えんで、何も言わないまま抱きついた。向かい合った状態で、肌が密着するように胸や肩。腹部が触れ合う。


 数日前も似たようなことがあった気がするが、そのときと違って今は彼女のほうが冷えていた。凍えるようで、触れた瞬間だけは鳥肌が立った。


「我慢はしないっすよ。えへへ……でももう慣れちゃったんすか? 逃げないじゃないすか」


 そんな余裕ないはずなのに元気を装うように笑って、身体を押し当てる。心臓の鼓動が直接伝わっていく。恥ずかしいといよりじれったいというか、けどそれよりも緊張が和らいでいく。


「慣れるわけないだろ。……不安だっただけだ。本当に不安だったんだぞ……。息してなかったんだぞ……さっきまで」


 正直に吐露していくと勝手に涙が込み上げる。ノーチェのほうが弱っているはずなのに励ますみたいに背中に手が回る。撫でられた。指先まで冷え切った指が肌をなぞっていく。


「正面切ってそんなこと言われたらこっちのほうが恥ずかしいっす……」


 らしくもないくらい頬を赤らめて、暗闇のなかでもくっきりと映る蒼い双眸が見上げてくる。目が合って、思わず息を呑んだ。緊張じゃない。けど隠せるとは思っていないし隠し通すつもりもない。


「俺だって……なんていうか、むず痒い。けど、でも、臭いし格好つけかもしれないけど、本当に……本当にこうしていられて嬉しいから。ノーチェがいてくれて、良かったと思う……はは」


(……口にして言うことじゃなかった。恥ずかしい)


 好きだった。今更だったし、こんな状況だったのに彼女の素振りがどうしようもなく胸を締め付けて、ごまかすみたいに真っ白な髪を撫でる。雨に濡れて、ボサボサで、泥と葉が取り切れていなかった。


「……本当のこと言うとっすね。ここまでヨースケが私なんかのために必死で、命がけで助けてくれるなんて信じられなかったんす」


 笑顔は一転して、痛みを堪えるような苦い表情へ変わる。ぎゅっと腕を掴まれる。震えた弱々しい手。寒さもあったけど、それ以外のものがあることも理解できた。


「転移者だから差別はしないって分かってたはずなのに、この島に来てからずっと一緒にいたからヨースケがどんな奴かって分かってたはずなのに、いざモンスターに捕まったとき疑っちゃったんすよ。見捨てられるんじゃないかって」


 掠れた声が耳元に響く。さっきまであったはずの恥ずかしさも混じり冷えた熱に溶けてわからなくなった。抱き締め合ったまま、ノーチェの言葉に耳を傾ける。


「その……だから。私はヨースケにそんな風に思われるほど出来た奴じゃない……んすよ? それに魔族だし、しかも低位で、人間を利用しないといけない半端者で――」


「誰だってあんな状況になったら見捨てられるんじゃないかって思うに決まってる。……ノーチェは悪くない。それに前も言ったかもわからないけど、魔族だろうが俺は気にしない。ノーチェだって、俺が何人目かもわからないのに、同じことを言ってくれただろ。俺だって同じだ」


(こんなことを言っても逆効果だろうか。でも他になんて言葉をかければいいかわからない。……こういうときどうすれば自分を責めないでいてくれる? ……わからない)


 ――沈黙。一瞬で豪雨と暴風の音が静寂を支配する。何かを言うタイミングが分からなくなって、大きく一呼吸置いた。意を決するみたいにノーチェが顔を近づける。


 思わず咄嗟に目を閉じた。硬直して、確かな心臓の脈動に身体を預ける。けれど数秒待っても何も起こらなくて、曖昧な思考のまま目を開けてみると、悪戯が成功したとばかりに八重歯を見せてクスクスと彼女は嘲っていた。


「……それは趣味が悪いぞ」


「ふっふー。クヨクヨしても仕方ないと思うなゃうから。でも私も嬉しいっすよ? そうやって笑ってくれることとか、私が思ってる以上に私のことを助けようとしてくれたこととかが、全部、全部っす」


 確かに正面切って言われると顔が赤くなる。覆いたいくらいに。


「だから、少し話がしたいと思ったんすよ。ヨースケに私のことを全部知ってほしいなって。砂浜で色々話したとき、見栄張って嘘ついてたこととかもあったから」


 頷きだけ返した。暗雲が過ぎ去るまでの間を耐え続けるために。途端に死に溢れた記憶を抑え込むために。火も何もない暗闇で彼女の言葉に耳を向ける。そうしている間は打ちひしがれそうな想いも消えてくれた。

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