暗雲が見せた牙
「フー! フー……! 久々に呼吸を、した気分……っスよ。ヨースケ、えへ、へ。嬉しいっすねぇ……。けどよかったら、脚の……抜いてもらっていいっすか? 泣かないっすよ。耐えるっすよ。魔族のほうが、頑丈っすもん」
浅い呼吸が響く。申し訳なさそうに手を伸ばして俺の頬を撫でて、それからゆっくりと自身の脚を押さえる。棘は痛々しいぐらい皮膚に食い込んで、血が滲んでいる。
……引き抜かなきゃ移動もままならないが、抜いたあとはどうすればいいだろうか。止血に感染症。衰弱。どこまで防げる?
(駄目だ。考えてもわかることじゃない)
恐る恐る彼女に刺さったままの鎌を掴んだ。あの怪物が生きていたときはビクともしなかったが今は違う。引き抜くのに力はいらなそうだった。
「痛ッぁッ!?」
「っ……。けどこのまま抜けそうだから我慢してくれ。……ごめん」
ノーチェは蒼白として目を閉じた。顔を反らして、痛みを押し殺そうと彼女は地面を握り込む。
……ゆっくりと引き抜いても苦痛が長引くだけだ。纏うような湿気に混じる血の臭い。ここに長居をするのも危険だった。
見ているだけでも痛々しくて、抜くときの痛みがどれほどか想像もできなかったがやるしか道はなかった。意を決して棘を、痛みが長引かないように一気に引き抜く。
枯葉色のそれが脚の肉から離れると同時、声にならない叫び声が豪雨の密林に響く。閉じていた目が大きく見開いて背が弓反りになるぐらい筋肉が強張る。
「あがッ――! ぁあああああああああああああああああッぐ! ッあアアアアアアアアアアアア!! フー……! フー……! 痛ぃ……! 痛いッ……っー!」
荒い深呼吸が腹部を張っていく。棘の刺さっていた箇所から熱く真っ赤な血が溢れたけれど、幸いにも傷口の大きさに対して出血量は少ない。
それでも痛みがどれほどなものか。瞳に涙を蓄えて必死に脚を悶え、のたうち回る彼女を、俺は無理矢理押さえつけた。傷口を水で何度か流して、シャツで脚を押さえる。布地が一瞬で赤く染まっていく。
「大丈夫だぞ。大丈夫だ。もう抜けきった。俺達は生き残ったんだ。……まだ生きてるんだ」
自分に言い聞かせるみたいに何度もそう口にした。大丈夫だなんて保証がないことは分かっていたが言葉にしないとどうにかなってしまいそうだった。
白昼の闇のなか、無情にもやむ気配のない豪雨に打ちひしがれて、溢れる痛みを押し殺すようにノーチェが俺の手を握り締めた。握り返す。爪が深く食い込む。彼女の痛みに比べたら些細なものだった。
好転する気配のない現状。それでもひとまず落ち着くためにしばらくの間、地面に座り込んで彼女の手を握り続けた。
ああ、けど、こうして座り続けるわけにもいかない。寒い。雨溜まりに落ちた身体を濡らし続ける雨。吹き付ける冷たい風が歯を鳴らす。ノーチェも可能な限り体を縮めて必死に堪え続けていた。
「……移動しよう。おぶるから」
「そろそろ、歩けるっす……」
ノーチェは噛み潰したみたいな笑みを浮かべて立ち上がろうとする。けど脚に苦痛が走ったのか小さな悲鳴を零してすぐに倒れそうになった。咄嗟に肩を持つ。そのまま彼女の身体を背負った。
「ヨースケだって余裕はないじゃないっすかぁ……!」
「ノーチェよりはある。それに、生きるために我慢をするなって言ったのにはそっちだろ。今我慢しちゃいけないのは絶対にノーチェのほうだ。その足で歩いたって悪化する」
柔らかで、華奢で、冷たい体。肌と肌が密着しているのに熱を感じられない。身体中から泥と雨水、血と草木の臭いがする。急ぐ必要があった。
でもどこに行けばいい? 周囲を見渡しても、分厚い暗雲が太陽を遮った今、視界は黒くなにも見えない。動くのも危険だった。ただでさえ消えかけている方向感覚が完全になくなったら帰れなくなる。それに毒を持った生物が足元にいたって気づけない。
けどこのまま耐え続けるわけにもいかなくて、一歩踏みだす。次の刹那、電気が走るみたいに頭痛が響く。よろけそうになった脚を咄嗟に一歩前に踏み込んでなんとかその場で持ち堪えた。蛇が首に巻き付いたみたいな錯覚。また直感が見えた。俺は――俺達は――――。
胸を突き刺す痛み。締め付ける頭痛が分かり切ったことを改めて知らしめる。俺達はまだ危機を脱せていない。自然が、異界の猛威が、暗雲がついに牙を見せた。
死。死。死。あまりにも多すぎる。ノーチェと一緒にいるうちにこの島で暮らすのも悪くないと思いかけたけど……ダメだ。無理だ。なんとか生き延びれていたのも俺達が踏む地面に数えきれないぐらい屍が積み重なってるからだ。いつ順番が来るかもわからない。
「ヨースケ、もしかして……また」
「……少し待とう。多分、もうすぐここに来るから」
そのときはすぐに来た。林冠を横殴る雨のなか、落ち葉を踏み締めるような音が微かに耳に入る。距離は近い。確かな気配に反応して、ノーチェが力強く背を抱き締めていた。
「大丈夫。モンスターじゃない」
確信があった。背丈ほどのシダ植物を斬り進んで、棘のある多肉植物を迂回して、音の鳴った方向へ向かう。蔦の絡んだ大樹の密林。数メートル先もおぼつかない闇と濃霧を進んだ先、曖昧な記憶を頼りにその場所にたどり着いた。
血の臭いはしない。ただ濃厚な森の臭いが全てを包み込んでいて、大樹の根本で別の俺が横たわっていた。唖然とするような、底知れない何かを目の当たりにしたような吐息が耳元を掠める。
死体の装備は今の俺と大差はなかった。一本のナイフ。ズボン。シャツは着ていなくて、違う点があるとすれば僅かな量ではあるが手にカシューの実を持っていることだった。
「……なんで、このヨースケは死んじゃったんすか?」
「わからない。今確かめる。多分また頭痛がするだろうから、悪いけど一旦下ろす。振り落としかねないから」
ノーチェをゆっくりと地面に下ろして俺は俺と向かい合う。近づくと心臓の高鳴りが頭の血管を苛んで、胃のなかを嫌悪が渦巻く。躊躇っている時間はない。猛烈な不快感を振り切るみたいに、勢いのまま死体に触れた。
記憶が一瞬で脳に刻まれていく。本能が隠し通そうとしていた生前の行動が、何故死んだかが、どうしてここに死体があるかが拷問のように流れ込む。
――水から上がった後ノーチェが呼吸を戻さなかった。何もできないまま雨に打たれ続けて手遅れな状態になった。
全身を悪寒が包む。記憶が痛みを呼び起こして胃液が喉元まで込み上げる。目を閉じても逃げられなくて五感が犯されていく。
「あああああああ……! うう……! ノーチェ、生きてるのか……?」
口が意識から離れて勝手に動いた。足が踏み出す。止めようとしても身体が言うことを聞かないままノーチェに歩み寄る。彼女が引き攣った表情を浮かべている。怯えたような、悲しいような。
「ああ……。よかった。……よかった」
手を握ろうと腕が伸びて――寸でのところで指が止まる。ゆっくりとその指を曲げると、意識の通りに動かすことができた。もう身体が勝手に動くこともなければ、胃痛こそじんわりと残っていたけれど吐き気もなくなっていた。
ノーチェは大きなため息を一度ついて肩の緊張を緩めた。憂いげに真っ白な髪を掻いて、苦い顔を浮かべてそのまま背ける。
「ヨースケ、私はなんて言えばよかったと思うっすか……? 考えたけどわからなくて……その、怖くて何も言えなかった、から」
「……俺にもわからない。けど、死んで欲しくなかったのは……間違いない。近くに洞窟がある。装備と食べ物も貰おう。危険な場所はある程度把握できた」
再びノーチェを背負う。大して重くないはずなのにガクガクと脚が震えてしまった。体力的にガタが来ている。雨風がしのげる場所へ急いだ。四方八方を樹木と岩肌。暗闇が覆っていて方角もとっくに分からなかったが、確かな生前の記憶を頼りに足を進めた。
辻斬蟷螂
辻斬蟷螂は闘虫網キラーマンティス目に分類される昆虫系統のモンスターの総称で、前肢が極めて鋭利な鎌状に変化しており、縄張りに入った動物を捕食する肉食昆虫である。
熱帯、亜熱帯を中心に生息し身体は前後に細長い。全長は成虫のオスで1.8~2.5m。メスはオスよりも一回り大きく、2.5~4mにもなる。栄養状態によって生じる個体差が顕著で熱帯地方に生息する種ほど巨大になりやすい。甲殻の模様は環境によって変化するが熱帯であれば緑系統の色彩となる。
大半の種は前肢が鎌状に変化しており、返しのある棘を持つ種もいたがその種は辻斬蟷螂の分類から外された。
頭部は逆三角形で、2つの複眼と大顎が発達する。前胸は長く、頭部と前胸の境目は柔らかいため、頭部だけを広角に動かすことができる。触角は毛髪状で細長く、中脚と後脚も細長い。
成虫には細長い前翅と扇形に広がる後翅があり、小型昆虫として知られるいわゆる普通の蟷螂は飛行が得意ではなく短距離を直線的に飛ぶのがやっとであるのに対して辻斬蟷螂は全ての種が優れた飛行能力を持つ。直線状に滑空する際、最高時速は50km程度になる。しかしこれは平原地帯に限られ、森林で生息が確認された種は好んで飛行を行わない。
辻斬蟷螂の鎌は得物を掴むためではなく斬るために発達している。堅く鋭利な前肢は樹木程度であれば一振りで両断してしまうほどであり、本種の縄張りの境界線は不自然な倒木が確認できる。
獲物を狙う時には、体を中脚と後脚で支え、左右の前脚を揃えて胸部につけるように折りたたむ独特の姿勢をとって、じっと動かずに待ち伏せし、滑空で詰めれる距離に入った得物を鎌で斬りつける。しかし繁殖期になると待ち伏せを行わず、縄張り内を巡回し目についた標的を手あたり次第追い回し、斬りつける。
一方で天敵や自身よりも大きい相手に遭遇した場合は身を大きく反らして翅を広げ、前脚の鎌を大きく振り上げて威嚇を行う。
通常は狩りを行った際、その場で捕食行動を行うが繁殖期の際は捉えた得物を弱らせた状態で自身の縄張りの中心に集める習性がある。これはメスに自身をアピールする目的があるほか、繁殖の際にメスが栄養を取り込むためでもある。集めた餌が不足していると共食いが発生する。地域によって狙う得物は異なるが、繁殖期でない限り成体の動物を好んで狙おうとはしない。
また、辻斬蟷螂は自身が捕まえた得物に執着するため、取られた物を取り返す行為は危険である。
メスは交尾後に多数の卵を比較的大きな卵鞘の中に産み付ける。卵鞘は卵と同時に分泌される粘液が泡立って形成される。大きさや形は種によって決まっている。1つの卵鞘には数百個前後の卵が含まれる。卵は卵鞘内で多数の気泡に包まれ、外部からの衝撃や暑さ寒さから守られている。卵鞘は軽度の毒を含み、人間が触れた場合、脈拍の上昇、喘息などの症状をもたらす。
人間との関わり
辻斬蟷螂はモンスターの代名詞とも呼ぶべき存在であり、古代の遺跡から多くの痕跡が発見されている。その甲殻は同種の鎌を通さないほど堅く、しかし飛行能力を失わないために軽く作られており、建材・武具、交易品として大変重宝される。待ち伏せを行う際の構えが祈りを捧げているように見えることから宗教的なシンボルとなっている地域もある。
古くから狩猟の対象となっており、冒険者の依頼としても多く存在する。しかし辻斬蟷螂を相手にするには全身を甲冑で覆ったうえで魔法による攻撃が必要であり、受注を行えるのは中級冒険者に限られる。しかし時として命知らずな若者が金銭を目的に依頼を受けてしまうこともある。
鎌・甲殻・翅はどれも高価で取引されるが辻斬蟷螂は都市から離れた農村部では恐怖の象徴でもある。最も被害が甚大な例では、辻斬蟷螂の縄張りになってしまった村が繁殖期の際に壊滅。一匹を相手に死者が五十名を超える事態となった。




