呼吸
次の瞬間、加速が急停止すると同時に全身が吹き飛ばされた。水中に轟く破裂の衝撃が殴るみたいに腹部を突き抜けて偶然か必然か、水上に向かう力が掛かる。
勢いのまま外気が顔を触れた。肺に送り込まれる空気。ドクドクと鳴り響く心臓。過呼吸が収まりそうにない。視界が白黒と眩む。
「ガホッーーー!! ゴハッ! フー……! フー……!」
どこにいるかが理解できなかった。水面を打ち付ける豪雨は依然として続いていて、覆い尽くす暗雲と林冠が視界を暗闇に落としたまま。時折、白い一閃が宙から落ちる。落雷の轟音。頭が揺さぶられる。
呼吸管を凍り付かせたあと何が起きた? わからない。いきなり吹き飛ばされた。数秒、息をすることだけに神経が注がれて、それから正気に戻ると共に手の違和感が脳をざわつかせる。ノーチェの手を離したしまった。
「ノーチェ!!」
叫んで、周囲を見渡す。真っ暗だ。いない。雨音と暗闇だけ。大きく息を吸って再び水中に潜る。今度はすぐに見つけられた。影に染まった水のなかで、彼女の真っ白な髪は異質なくらい目立った。
ノーチェは水深二メートル程度の腐葉土の底に寝そべるみたいに浮かんでいた。あの怪物の鎌状の肢だけが突き刺さったままで、枯葉色の巨躯は破裂した風船みたいにぐちゃぐちゃになって底に転がっている。
(蓋をした所為で加速の力が逆流したのか?)
推測の域を超えない。普通なら管の根本だけが吹き飛びそうなものだが内臓とそのまま繋がっている? とにかくそれは、翅も肢もバラバラになっているのに生きることを諦めていないのか水底を痙攣しながら這っていた。
すぐに我に返る。慌ててノーチェの肩を抱えて、脚に食い込んだままの鎌を引き抜く余裕もなく腐葉土を蹴り込んで一気に水面まであがる。
「ノーチェ! ノーチェ! 起きてたら返事しろ!」
沈黙。心臓の鼓動は伝わってくる。まだ生きているはずだ。なのに、なのに彼女の身体は死んだみたいに冷たくて、返事もなければ呼吸をしているように思えない。腹部も喉もピクリとも動かなくて、目も閉じたまま。
(とにかく陸地に上がらないと。どこにあるんだ? 何も見えない)
足のつかない雨溜まりのなかを検討もつかないまま必死に漕いで進む。吹き付ける暴風が顔を撫でるたびに悪寒がする。それでもすぐに足がついてくれた。何も見えない岸になんとか上がりつく。服が鉛みたいに重い。倒れないように、ふらつきながら巨大な樹木の傍まで移動した。
その場にノーチェを寝かせる。起きる気配はない。暗闇でもわかるくらい彼女は衰弱していた。顔は蒼白としたまま、さっきまでが嘘みたいに唇は紫掛かっている。俺の脚を撫でてくれた尾も伸びきっていて、翼は縮こまるみたいに硬直している。
「ノーチェ! ノーチェ!! 目を開けてくれ! 開けろよ! ……ああ、どうすれば、どうすればいいんだ」
昔教えられたことを必死に思い出そうと頭を巡らせる。心臓マッサージや人工呼吸。AEDはないが教わったのは間違いない。けどその前に服を脱がせるべきか? 体温が――意味はあるのか? でも考えてる時間なんてない。
突き動かされるみたいに彼女の上着を解いた。今更躊躇いなんてない。ショートパンツを脱がせようとして刺さったままの怪物の棘が邪魔になる。――引き抜く? 嫌、駄目だ。先に呼吸を戻さないと。
曖昧な記憶に従って胸の中央に深く両手を押し込んだ。力強く。何度も。何度も。打ち付けるみたいに。
「目を開けろ! 起きるんだよノーチェ! 頼む……! お願い……だから……!」
一定間隔に全身の体重を掛けるぐらいに押し込む。十回を超えたあたりで粘りつくような不安が過る。弱り切った華奢な身体がこれの所為で死んでしまうような気がして、手が止まりそうになる。
とっくに超えていた体力の限界が睡魔を誘う。無視して胸を圧迫し続けたら息が上がって、肩で呼吸を始める。
何も考えたくなくて首を横に振った。黙っているとざぁざぁと無慈悲に全身を打つ雨音に包まれて、訳も分からないまま涙が出てくる。嗚咽を堪え続ける。
「二十八。……ッ、ぅ二十九。フー……! 三十」
ただ心臓を圧迫する数を口にした。三十回まで数えたら彼女の額を押さえて顎を持ち上げる。鼻を押さえて息を吹き込む。口が触れ合って焦燥が一層かき回す。
肺が膨らんで胸部が上がる。目を覚まさないまま彼女の口から吐息が零れる。二回。吹き込んだ息はすぐに肺から出ていく。
「がほっ!! ごはッぅ!」
吐息と共にノーチェは確かに噎せ込んだ。口から水が溢れてくる。すぐに顔を横にさせて溢れた水を可能な限り吐かせた。吐いたものを指で掻き出す。
(起きた? 違う。まだだ。でも水を吐いてくれた。大丈夫だ。絶対に助かる。そしたら雨をしのげる場所を探して――!)
疲弊して攣りそうな腕で再度胸部を強く圧迫していく。何度も。何度も。冷え切っていたはずの身体が熱いくらいに。額を伝う雨粒に汗が混じる。――三十回。
もう一度ノーチェの顎を持ち上げて、鼻を押さえて咥内に息を吹きかける。一秒。吹き込んだ吐息が水と共に口から溢れる。すぐに指で掻き出そうとした瞬間、彼女はいきなり目を開けて、咳き込んだ勢いのまま指を噛まれる。
「がぅッ! ぉぇぇええ……!! フー……!!」
「痛っぇ!? っ、ノーチェ!? 起きたのか? 起きてるよな? 生きてるよな!?」
噛みつかれた指の痛みなんて一瞬で吹き飛んだ。思わずノーチェを抱き上げて何度も尋ねる。力の入らない体。冷え切った肌。ふと目を離した瞬間どこかに行ってしまいそうで、そうならないように強く抱き締める。
彼女は状況が理解できないまま周囲を見渡して、蒼い瞳がハッキリと見上げる。それからニヘラぁと空元気を振り絞ったような笑みを浮かべた。




