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息のできない暗闇

「――――ッ!」


 水のなかを藻掻くように、ノーチェは咄嗟に身を翻して前肢にナイフを突き立てる。刃は鈍く煌めきながらたやすく突き刺さるものの怪物は微動だにしない。虫に痛覚はない。恐怖も。ただ抵抗を許さないようにモンスターはノーチェの脚を手繰り寄せる。突き刺さる棘がなおのこと食い込んで血が水に溶けていく。


 時間がない。俺が怪物を殺す以外に生存の術はない。ノーチェを絶対に離さないように彼女の手を掴みながら狙うべき敵を定める。魔法を使わないと、想像しないと。怪物を潰す岩の一撃を。ノーチェを巻き込まないように。指先の一寸にまで力を籠める。


 曖昧にしか感じられない魔力に神経を注ぐ。息もできない水のなかで焦燥だけが募る。頭が真っ白になっていくなか目を見開く。


(【アース――!)


 理解しがたい力が全身を巡る。バチンと小さな稲妻が水のなかを走った。熱を伴う魔力。指先が紫紺の蛍光を発して怪物の頭上に五芒星が形成される。


 次の刹那激流が全身を打ち付けた。何が起きたかわからないまま背から頭部に衝撃が走る。肺のなかの空気が潰されるみたいに口から溢れ出る。


 視界の混濁。五感の全てが水に呑まれて痺れていく。ああ、けどまだ腕は掴んでる。指が絡む。爪が皮膚に食い込む。冷え切ってしまいそうな熱と痛みが意識を覚醒させる。


(――ノーチェがこのままじゃ持たない)


 耳が水音に呑まれた。呼吸の限界がすぐに迎える。息が苦しい。必死に口を閉じるけど、手足が空気を欲して勝手に藻掻こうとする。状況を把握できたのは奇跡的だった。


 目を開けても水の中は真っ暗で、体を潰すみたいな水流が大量の気泡を作り出してほとんど見えない。けど激流のなかに入ったわけじゃない。この怪物が加速してる。肢を折りたたんで、鰭もないのに水底を一瞬で加速している。


(時間がない。でもダメだ。【岩槍】は当てられない。魔法が形成される前に加速されたら当てられない)


 でもこのままノーチェの手を掴み続けて何ができる。どうすればいい? 怪物は俺を振り落とそうと水中を貫くように旋回する。加速によって生じた力が全て腕にかかる。肩がもげそうなくらい関節が軋む。


「――――ッがッぅ!? っgグ……ッb!」


 悲鳴をあげることすらできない水の中。ノーチェが目を見開いて声にならない叫びをあげる。大きく開いた口からは空気すら出てこない。不自然なくらい彼女の腕が伸びている。


 それでもノーチェはすぐに歯を噛み締めて耐え続ける。俺の手を離そうとしない。けど無理だ。無理だ無理だ無理だ。何も考えられない。水中で加速し続ける怪物に振り落とされないように手を握ることしかできない。


 全身の筋肉が強張る。喉が引き攣る。思考が混濁する。水中にも関わらず口が勝手に開こうとする。脚が呼吸しようと勝手に暴れる。空気のない身体が激流のなか沈もうとする。


(何かないのか? 止める方法は? ない。ない。ない。ならどうして俺の記憶はあんな警鐘を寄越した!? ノーチェを守るためにナイフを体に突き立てて、俺はどうやってこいつを殺そうとした!?)


 頭は真っ白にすらならない。焦燥が、脳の血管が脈打つたびに突き刺すみたいな痛みが走り続ける。じわじわと嬲るみたいに鈍痛が広がる。モンスターは鎌状の肢を緩めてはくれない。


 枯葉色の巨躯は水底の樹木も岩も置き去りにするみたいに、ただただ一方的に加速する。背部の管から噴射する泡の軌跡。旋回。回転。三半規管も麻痺してどうしようもない生存本能が手を離せと叫ぶ。


(死ぬ。死ぬ。死ぬ! 苦しい。怖い。死んだらどうなる? 俺の死んだ記憶は過去に引き継がれるのか? 違う。違う。そうじゃない。ただ真っ暗になるだけだ。同一人物なんかじゃない! 嫌だ。何もないのか? 何か、何か――)


 思考が巡る。死んだ未来の記憶を漁ろうとする。過去の記憶がごちゃごちゃに入り乱れる。苦しい。喉が引き攣って胸が潰されるほど痛みと一緒に走馬灯みたいにフラッシュバックが続く。


 ――――じりじりと皮膚を焼く太陽。狂ったような晴天。白い砂浜。エメラルドグリーンの海。数日前のはずなのにもはや懐かしいくらいの光景。


 ノーチェの握力が弱くなっていく。俺がつかめてないだけ? わからない。ただ血と激流の泡が線を描いて影の差した黒い水のなかを進み続ける。脚が水草みたいに伸びる。苦しい。


(水が欲しいって――言ってたのが、馬鹿みたいだ)


 諦めるみたいに思考は郷愁を想わせる。戻りたい。けどダメだ。戻った俺は俺じゃない。死ぬ。嫌だ。ノーチェも助からない。絶対に――何かないのか? 本当になにも。ならなんで……警告した。


 ――――私のほう向けるなっすよ? やり方は単純っす。それ持って指先に力を込めて魔法っぽい言葉叫ぶっすよ。理屈は分からないっすけどそれでトリガーになる筋肉的なものが動くらしいっす。まぁ火の魔法を使いたいなら火に関する言葉を叫ぶと出やすいとかあるっすけど、才能がなければ出ないから、それを見る道具っすね。


(魔法…………)


 耳元で囁かれた気がした。ただ過去のことを思い出してるだけだ。しがみ付くみたいに。けど出せたのは土と砂ぐらいだ。覚えている……。


 ノーチェは……どうなった? 幻聴がノーチェに縋らせようとする。項垂れた頭部が視界の隅に映る。力なく流れに沿う白髪。背筋が凍り付いた。死んだ? わからない。脳みそが黒く染まっていく。思考が塗り潰される。体が急速に凍えていく。


「…………」


 目を開く力が抜けていく。ノーチェの手を握っていない。微かな熱もない宙ぶらりんな手を必死に突き伸ばす。加速と水の質量が吹き飛びそうなくら腕を押し付ける。


 ……指先に力を籠めるだけ。方法は思い出した。強力な一撃じゃないなら、五芒星もいらない。無駄な蛍光も。何もいらない。


(魔法を……)


 あのとき試せないことがあった。土しか出せなかったから。魔力が尽きたから。水と火が欲しいだけだったから。追憶がそこで途切れたから。彼女の幻聴に呼び起されるみたいに掠れた意識で行動に移す。


 体温のない身体がそれだけで、一層凍り付くみたいに感覚を麻痺させる。心臓から血管へ。魔力が巡る。


(【凍結コルディア】――)


 水を出すことはできなかった。けど水底でそんなものはいらない。必要なのはあのとき砂を僅かに冷やした力だけだ。激流を生み出す管を。ミズカマキリの怪物の呼吸管を。周囲の水を――。


 凍らせる。

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― 新着の感想 ―
[一言] 続きが楽しみです。
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