前の記憶
刹那、脳が乗っ取られたみたいに動かなくなって、忘れていた記憶が蘇る。この死体が俺だったときの全てが――――。島に流れ着いたとき記憶。ノーチェに林檎ジュースを飲ませた。このときも。
日が進む。夜闇のなか聞こえた歌声が何度もループする。脳天が軋む。痛い。痛い痛いイタイイタイイタイタイ!! ぐにゃぐにゃとした玉虫色の泡の集簇に抱き竦められた。
バチン。バチン。彼が死ぬ前に聞いた音だ。背筋が強張った。全身に蠢く異様な感覚。鳥肌が立って吐き気がする。警鐘を鳴らしてくれたのはこいつだった。直感なんかじゃない。ぜんぶ記憶だ。覚えていた。
濃密な熱帯雨林に染まった極彩色。黄色の斑点。混ざり合った土と緑色の外皮。四本の鋭利なギロチン状の歯。こいつは対峙したんだ。
激しく泡立つ記憶を通じて曖昧な音のパターンが高まり動きを増し何か言い表しようがなく耐え難いクライマックスを予告していた。
「ごぼッ……! ぼッがぼッ」
追憶が途切れた。水中に長く居過ぎてついに限界が来て口から呼吸の泡が溢れ出る。慌てて水底を蹴って上へあがる。ノーチェが今までにないくらい俺を不安そうに見つめていた。彼女は伸ばそうとした手を躊躇う。一瞬ばかり曇らせる表情。
「も、もどろう? ……よくないっすよ。顔色が」
「あ、あ。ごめん。けど、けどほら。見てくれよ。ペットボトルとナイフが……増えたんだ。まったく同じで使えるから……ッ」
咄嗟に謝った。心にも思ってないことがぽろぽろと零れ出る。ノーチェは強く口を結んだまま手を握ってきた。細い指は水に濡れていても熱かった。水を漕いで剥き出した岩の拠点に戻る。
(俺は誰だ。前に死んだ? 記憶だけ過去に戻った? いや、ならなんで死体が残っている?)
頭がぐるぐるする。二本目のナイフに触れたときに見えた記憶は絶対に俺自身のものだ。俺は本当に江流陽助なのか? そう思いこんでるだけで……ああ、嫌だ。考えたくない。怖い。
身体が強張ると背に手が当てられる。ノーチェのだった。彼女は俺を励まそうといつも以上に元気を振り絞っていた。葉籠に入れていた蟹やら海老を取り出してそそくさとたき火にくべていく。
「いままで食べてなかった分食べるっすよ! ほら、私こんなに捕まえたんすよ? あっ、ヨースケも大量じゃないっすかぁ~。澄まし顔してやるっすねー! …………ヨースケ」
黙り込んだ。火の音が喧しい。髪から滴る水がみず痒くて、決壊するみたいに目頭が熱くなってくる。深呼吸ができない。息を吸っても浅く吐くばかりで身体が縮こまる。
(嫌だ。泣きたくない。見られたくない)
優しく両肩に手が乗った。ノーチェが俺の顔を無理矢理覗き込む。彼女は神妙な表情で、ウンウンと唸っていたけれど、腰から伸びる黒い尾がしなると穏やかに微笑んだ。
「大丈夫っすよ。何を見たとしても私にとってのヨースケはあんただけっす」
また頭痛がした。その言葉が何度も頭のなかで響いて、響いて、響き続ける。褐色肌を朱に染めて、恥ずかしそうに視線を逸らすノーチェが、何度も頭のなかで振り返る。――聞き覚えがあった。初めて言われた言葉じゃないのかもしれない。ならまだ俺の死体はあるのか?
「……本当に、俺だけなのか?」
最低な返事をした自覚はあった。けどもう止められなかった。考え出すと脳は際限なく回り続ける。俺もいつか死ぬのか? 死んだらどうなる? 記憶だけ戻るのか? 違う。あり得ない。俺はあいつとは別人だ。だから死体が残ってる。水底に沈んだ俺はあそこで終わりで――。
思考の糸が不意に途切れた。フラッシュバックする記憶が止まる。頭のなかにヒビが入ってガラスみたいに砕け散る。
「――っ!?」
熱が包み込む。肩の隣でノーチェの臭いがする。抱き締められていた。ぎゅっと柔らかく。
「私には……ヨースケの苦しみがわからないっす。何があったかも。繊細な気配りとかもできなくて、一人じゃ何もできない中途半端な魔族っす」
耳元で囁かれるノーチェの幼さすら感じる声。パタパタと彼女の翼が震えている。
「でもわかるんすよ。私は、ノーチェはそれでも、ヨースケが苦しくて、怖い想いをしたことぐらいわかるんすよ。知らない世界に連れてこられて、いつ死ぬかも分からなくて、明日も見えなくて」
炎の光が揺らいでいる。岩に濃い影を描いている。背後で水面が太陽を反射して煌めいていて。
「ヨースケは私より弱いっす。私ですら誰かに頼らないと苦しくて、だれにも理解されないことが辛くて、耐えられないんすよ? ヨースケが……黙んまりで……耐えれるわけないじゃないっすか」
ずきりと胸が痛んだ。視界が曖昧になってくる。彼女の体温が心地いい。俺は震えていたらしい。今更になってぼんやりと自分の状況を理解する。
「それとも私の前では格好つけたいっすか? 頼れる男でいたいっすか? けど生憎、私は元海賊っすよ。姉御って呼んでもいいんすよ? 甘えても、頼ってくれてもいいっす。ベッタベタに甘やかしちゃうッス」
恐る恐るノーチェの背に手を回した。自分よりずっと華奢で、まだ幼い体躯。強く抱きしめる。思考も視界も曖昧なままだった。前に言われたかどうかは分からない。けど、助けてほしかった。
「……ッ俺が、俺が死んでた」
口にすると心臓が一層跳ねた。気が狂いそうだった。俺自身の死体。記憶。未来予知じみた直感。全てが繋がっているから。
「俺は誰なんだ……? わからない。わからないんだ」
「そうッすか」
「こわい。死にたくない」
「助けるっす。死なせない」
顔が近付く。ノーチェは小さく口を開けると不意に、頬を伝う涙を舐めとった。ぺろりと舌を妖しげに巻いて離れる。思わず固まると一瞬で目頭の熱が冷めた。
「泣いたら水分が出て行っちゃうっすよ。もったいないから私がもらってやったっす」
澄ました表情で、大きな瑠璃色の双眸で俺を見つめながら彼女は花が咲いたみたいに笑った。




