エンカウント
迷わないで海に戻れるようにナイフで樹木を傷つけていくが戻れる自信はあまりなかった。
マングローブ付近でもない完全な熱帯雨林。過密なまでに生い茂る樹木。道もない泥と腐葉土の地面。
木の根がどこもかしこも這っていて、その上は苔むしていて、わずかに開いた地面の隙間を競うように身の丈ほどの植物が茂る。特徴に残らない葉から巨大なアロエのようなものまで。
背の低い椰子も葉が堅く棘がついていて、全てナイフで切り払って奥へと進んでいく。
際限なく広がる樹木の世界。何分歩いたか分からないがすぐに波音は聞こえなくなった。曇っているせいで空気が霞んでいて視界も悪い。喧しい鳥の鳴き声。
ホエーホエーと高く反響するものやピィピィと囀るもの。それに虫の鳴き声はもっと濃厚で、飛蝗系統のものや蝉の類が混沌と交わって、ああ……そうだ、虫だ。虫が多すぎる。
「痒い。脚と額と首の裏が。なんで左脚だけ狙ってくるんだこいつら……」
(マングローブを沿っていったときは全然いなかったはずだ。蚊は水辺にいるもんじゃないのか? というかこれは刺されて平気なやつか? 場所によってはマラリアだのデング熱だの。こっちの世界にはないのか? ああ、そもそも悪魔だの魔法だのある世界でなんで蚊に苦しまなきゃあ……)
けど今さら考えたって手遅れだ。手の回りと口の周囲以外はどこもかしこも刺されてる。ノーチェもうんざりな様子だった。彼女の服装は露出が多すぎる。
「どこもかしこも……悪魔から血を吸うなんて……! しかもこれ魔力持って行ってるやつまで……ああくるな! くるな!」
耳元で羽音を鳴らす虫を必死に振り払うけど、効果はなかった。露わになっている褐色の背に、脚に。見ていて不憫になるくらい虫が集まってくる。
「ノーチェ、背中に蝶がいるぞ。六匹」
「見てないで払えっす!!」
善処はしたが追い払っても別のが来るだけで俺達は途中で諦めた。でも蝿や蝶はマシな部類だ。見ていたけれど、汗を吸っているようだった。歩かれるとむずむずして不快なぐらいだ。
奥に、奥に向かった。殴り塗った緑色の葉を斬って、枯葉の地面を踏みしめる。
既に波に攫われる場所ではないが、寝床にするにはあんまりなジャングルだった。
「ノーチェ、あんまり海と湖沼の両方から離れすぎても不便じゃないか?」
「岸から見たとき森が膨らんでるような地形だったから途中で崖があってもおかしくないはずっす。洞窟がなければせめて……背中の安全は欲しいっすよ」
ゴクゴクと椰子の実をまた一つ飲み干す。昨日食べ得たカロリーを全て消耗した気がしてくる。段々と痛む脚。特に膝まわり。
急に冷えた所為か余計に鈍く感じる。虫に刺されたところは特に最悪で、赤い斑点ができたり腫れてきている。
「……ノーチェ、あれはなんだ?」
攻撃性のあるウニが生息する世界だ。視界に慣れないものが映り込んで俺は足を止めた。樹木の一本、枝分かれする幹に挟まるようにそれこそ蜂の巣みたいに巨大な塊がくっついていた。
「あれはどうみても蟹の巣じゃないっすか! ちょうどよかったっすね。あれ捕まえて取られた分の血をつくるっすよ」
「……そうだな」
(どうみても蟹の巣?)
納得いかないフレーズに頭が詰まりそうになるものの、ノーチェが機嫌を直して蟹の巣とやらへ向かうから俺も慌てて彼女を追った。すぐに追いついて邪魔な巨大シダやら棘の着いたイネ系の葉を斬り払う。
バチン。
不意に変な音がした。石をぶつけ合ったみたいな、けど妙に森全体に響くような音。ノーチェがピタリと足を止めた。虫を払おうとしてか動き続けていた尻尾と小さな両翼すら動かなくなる。
バチン。バチン。
続けざまに二度。全く同じ音が空気を揺らす。ゆっくりと、ノーチェの腕が俺の前に伸びた。指先が震えている。わからない。これは何の音なんだ。
「ノーチェ……?」
小さな声で彼女の名前を呼んだ。何が起きているのか分からない。バチン、バチンと今も音は鳴り続けていて。わかることはノーチェが酷く怯えていることぐらいで。
(モンスター……? どこに。何の――)
飢え。喉の渇き。暑さ。暗闇。どれとも違う。心臓が否応なく脈打つ。音が漏れてしまいそうなくらい。俺は彼女の手を握った。武器はナイフだけだ。持ってるのは俺だ。
バチン、バチン!
さっきまでの音より激しく打ち鳴っていくのが分った。ノーチェが顔を動かさずに、視線だけを動かして音を探していた。震える呼気。鼻から吸って、口から出て行く。一歩、また一歩と来た方向へと後ずさって。
「目が……合っちゃったっす」
振り絞るような声で彼女は呟いて、今に泣きそうな青い双眸が俺の顔を覗いた。頼りない手が俺を強く握る。
次の刹那、背筋が強張った。全身に蠢く異様な感覚。鳥肌が立って――――吐き気がするぐらい脳が警鐘を鳴らす。
(伏せろ! 伏せろ! 伏せろ!! 彼女を覆え! 今すぐッ!)
体が勝手に動いた。握っていた手を力任せに引っ張った。ノーチェの華奢な身体を抱き寄せて勢いのままに地面に倒れる。泥が跳ねた。小さな草葉が顔を斬る。
刹那遅れて、ノーチェが立っていた場所を衝撃が突き抜けた。髪が靡く。耳から離れそうにない打ち付け音がバチン、バチンと。俺達を通りすぎて後方で響く。
「テトラオディ・フォーパル……!」
ノーチェがその怪物の名前を呟く。聴き慣れない発音。異界の言葉。遅れて俺の何かが、ギロチン風船と翻訳した。倒れたままじゃなにもできなくて、破裂しそうなくらい心臓が鼓動するなか立ちあがる。対峙した。
濃密な熱帯雨林に染まったような極彩色。黄色の斑点。混ざり合った土と緑色の外皮。その名前の通り、宙に浮かぶ全長二メートルは裕に超える巨大フグは俺達に向かい合いながらバチン、バチンと鋭利で人間みたいな歯を重ねて威嚇していた。




