柚香は魔王になりまして3
魔王様の夜は早い。
年頃の少年少女といえば眠り盛りが基本ではあるが、かくてこの柚香こと魔王様においては、その精神年齢は既に成人の一歩手前である。
元来的な性分として、むしろ柚香は朝が苦手だったりしたわけだが、学生であるという立場上、いつまでもすやすやと寝ているわけにもいかなかった背景が、かつての柚香にも確かに存在していた。
よって、魔王様の世話人ことエレノアが起こしに来るまでもなく、柚香は勝手に目覚め、そして自身でその身支度を済ませることができていた。
……のではあったのだが、この世界に来て初めて迎える夜に、柚香がごく当たり前のようにそれをやってのけたところ、その実、エレノアの反応は思わぬ期待外れの様相を呈した。
エレノアのその落胆した様子を鑑みた柚香は、わざわざ夜更かしならぬ朝更かしをしてまで、そのエレノアのささやかな願望に付き合うことにしたのであった。
あるいは単純に、日が昇っている最中に寝るといった昼夜逆転じみた生活に、柚香が耐えられなかったからという理由もある。
今日もまた、柚香の寝室の扉がノックされ、一人の女性が姿を見せる。小刻みなステップを刻むかのようなその足捌きは、まるで板梁を移動する忍者のように静穏で、そして繊細な所作であった。
その女性はすすすっと滑るように柚香が身体を丸めているベットに身を寄せると、深くひと呼吸を置いた後に、その喜色満面にふさわしい答弁を翻す。
「ユズカ様、起床のお時間でございます」
「うぅ……、後、五分だけ……」
これがお約束とでも言うのだろうか。薄い絹の掛け毛布を胸に抱いた柚香は、毛布に顔を埋めながら何やら呻き、ぎゅっとその身を固めた。
「駄目です」
「そこを、何とか……」
「駄目です」
「少しぐら……うわああっ! 」
エレノアは、柚香をその毛布ごと掴み上げたと思うと、思いっきりシーツの上へと放り投げた。毛布から引きはがされた柚香は、数度ベッドの上を横転した。ふらふらと身体を起こした柚香は一言、血色の冴えない顔でエレノアに対する苦情を述べる。
「……もうちょっと、安全な起こし方はできないの? 」
「善処させていただきます」
ここまでが、二人が恒例的に繰り広げる夜の一幕である。
柚香からしてみれば、毎晩、脳をかき混ぜられるような起こし方では、到底気持ちのよい一日など迎えられそうにもないのではあるが、どうにもこのエレノアには、その辺の配慮といったものが欠けているように思えた。
とは言え、柚香自身も寝起きが苦手であることを自覚してはいるので、生半可な起こされ方ではきっと目を覚まさないのだろうという懸念もある。
事実、魔王である以前の世界においての柚香は、目覚まし時計をいくつもセットしてなお、どうにか生活リズムを矯正していたという実績を持っていた。
柚香が今一歩エレノアに対し強く出れないのも、エレノアの対応無しに柚香が確実に起床できるという保障が、どこにも存在しないからであった。
柚香が、呆けた眼差しを空に投げかけ、まだまだ血の回らない脳で思考を働かせているうちに、エレノアが着替えを用意し、御召し替えの準備に取り掛かる。
「本日は、お客様がいらっしゃる予定ですのでこちらをご用意いたしました」
エレノアが発したその言葉で、柚香は来客の用件があったことを、ふと思い出したのであった。
魔王への謁見の申し出がこの屋敷に届けられたのは、数日前の出来事である。
この世界における魔王の立ち位置がどれほどのものであるのかを知らなかった柚香は、その申し出に対して、一体どうしたらよいものかと悩んでいた。
だからこそ、柚香はエレノアと伴に過去の知識を拝借するために書庫を訪れていた訳だが、結局そこで分かったことは、この世界では魔王という存在が、特段そこまで身近な存在として捉えられていない、ということであった。
というのも、この大陸に住む人間の大半は、神や魔王に関する神話こそ知れど、それが自身にかかわりを持っているという認識にまでは至っていないのだ。せいぜい、国交関連の場に身を置く人間のみが、その魔王との対外折衝の関係を意識するのみである。
柚香が想像していたような、魔王が人間界を侵略するなどといったありがちな関係は、ここで儚くも崩れ落ちていた。
勿論、あの絵本に記されていたような時代もあったらしいのだが、最近は専ら、人間と魔王との間には和平とまではいかないまでも、一種の均衡のようなものが働いており、それがますます魔王という存在を風化させる要因となっていた。
(つまり、割とどうでもいい扱いなのね、私って……)
この世界に産み落とされておきながら、こういった冷ややかな歓迎を受けていることに対し、柚香は少しなんだかなぁという気分ではあったのだが、まあ平和な世の中ならそれはそれで問題はないし、と持ち前の楽観的な思考で最終的な決着をつけた。
それ故に、『物語を動かす』ことを名目にあれこれと考えていた柚香にとって、この謁見の申し出は、ある意味で渡りに船のようなものだったのかもしれない。
「ユズカ様、こんな感じでどうでしょうか? 」
柚香が徒然なる思考を巡らせているうちに、どうやらエレノアの御召し替えも終わったらしい。
言われるがままに眼前の姿見へと視線を移動させた柚香は、うっかり心の準備を忘れてしまっていた自身を、多いに後悔することとなる。
鏡の向こう側の少女は、それはもう可愛らしいふりっふりのプリンセスドレスに、その幼体を包んでいた。紫陽花色の生地と銀髪の調和は柚香の白い肌も相まって、まるで生きた人形を思わせるほどに、神秘的な魅力を放っていた。
(似合ってる、確かによく似合ってるけどさ……)
どこのお遊戯会だよ、と柚香の突っ込みが心の中でこだました。同時に、今まで十数年間培ってきたプライドというものが、がらがらと音を立てて崩れ去っていく音も聞こえた。
発育年齢と精神年齢の乖離はここまで深刻な問題だったのかと、柚香は今更になって己に降りかかっている災難について、危機感のようなものをその肌身をもって実感していた。
柚香は、今すぐにでもベッドに逆戻りしてしまいたい気分ではあったが、背後で満面の笑みを浮かべるエレノアを前に、何とかそれだけは堪えてみせた。
「う、うん、これでいいんじゃない、かな……」
ぎこちなく口元をひくつかせる柚香に、エレノアは満足そうに頷いてみせた。勿論、柚香の本心になど欠片も気付きはしない。
むしろ、柚香のためというより己の眼福のためではないかとさえ思えるようなその職人っぷりに、柚香の気持ちなどは微塵も酌量されていないのかもしれない。
そんなエレノアの想いが通じてしまったのか、柚香はもうどうにでもなれといった投遣りな気分のままに、試しに姿見の前でくるりと一回転して見せた、半笑いで。
ふわりとスカートが風を巻き込んで膨らみ、柚香の足元をひやりとした感触がすり抜ける。柚香が反射的にスカートを押さえ込んだのと、エレノアが悶絶しながら後方にぶっ倒れたのは、ほぼ同時の出来事であった。
◇ ◇ ◇
柚香が御召し替えを済ませている間にも、既に玉座の間にて来たる客人は柚香こと魔王様の謁見を待ちわびているようであった。
その話をエレノアから聞かされた柚香は、わざわざこんな夜分に尋ねて来なくてもいいのに、と辟易しそうになったところで、自身の昼夜逆転風な生活リズムの方が余程おかしいことに気付き、慌ててその発想を打ち消す。
そして、そんな生活リズムにすっかり毒されてしまった自分自身にも、少しだけげんなりしてしまうのであった。
普段であれば、スリッパを高級品にしたような履物で屋敷内を闊歩しているところであるが、今日はエレノアの薦めにより編み上げのブーツを履くこととなった。
威厳は身長で稼ぐとでも言うのだろうか。厚底になったそれは予想以上に柚香の一足一挙を制限する。その竹馬にでも乗っているかのようなふらついた動きに、思わずエレノアも苦笑いを浮かべてしまうほどであった。
最終的に、エレノアがその手を貸すことによって足を挫くといった不幸は訪れなかったものの、柚香にしてみれば、そのエスコートの配慮自体が既に心を挫いてしまっていたともいえる。
よもや客人の背中から姿を現すわけにもいかないため、柚香は予め設けられた玉座の間の裏手の通路へとわざわざ迂回する羽目になったのだが、そういう通路があるんだったら靴だけはそこで着替えたらいいのではないか、と後になって自身の苦労を水泡に帰され、柚香は悲しみに包まれた。
そのような提案をエレノアに伝えてみたところ、唖然とした表情のまま水呑み鳥のように首を上下に動かされ、柚香は何とも言えない脱力感にも襲われることとなった。
ともあれ、こうして柚香こと魔王様と客人との接見はつつがなく始まりを迎える運びとなったわけだが、柚香が入室した時の客人の息を呑む声が柚香の胸へと深く突き刺さったことで、この接見の立ち行き不安さ加減を暗示させることとなった。
柚香にだって、眼前で明らかな挙動不審に陥っている10代半ばの少女の気持ちは分からなくもないのだ。
(そりゃ、こんなちんちくりんが魔王だなんて、誰も思わないよね……)
どんな偉丈夫が出てくるのかと身構えていれば、姿を見せたのはふりっふりのドレスに身を包んだ幼女である。しかもよろよろと頼りなさげに玉座に辿り着いた挙句、何故か乾いた笑いを浮かべているのだ。これはもう、状況を瞬時に把握できる方こそどうかしている。
「……ええと、貴方が魔王様で間違いないんですよね? 」
「まあ、そうですね」
相手が相手なら不敬では済まされない程の第一声を、柚香は黙って見過ごした。ときに柚香も、寸分違わぬ疑問を誰かにぶつけたい気分で一杯なのだから救いようがない。
「ご挨拶が遅れました。私はチサトと申します。本日は貴重なお時間を私のために割いていただき、深く感謝する所存でございます」
何となく日本人っぽい名前だなぁ、とそっと顔を覗き込んでみた柚香は絶句した。
黒い艶やかな髪を頭上でひとまとめにしたその少女は、同じく黒色の切れ長の眼を柚香の方へと投げかける。
その格好は、首元の緩められた黒いネクタイと白いブラウスに、青色チェック柄のプリーツスカート姿。その上から粗雑に黒いローブを纏い、全身を闇色に溶かしている。顔立ち以上の大人びた装いながらも、しっかりと調和の取れているそれに、柚香は少しだけ羨ましく思ってしまう。
(って、どうみても日本人なんだけど……)
チサトと名乗る少女のその面構えは、柚香が過去に見慣れていたはずのそれと完全に一致していた。ちなみに、柚香もエレノアも典型的な北欧系であるために、柚香自身もその新しい顔立ちに慣れることには多少の時間を要していたりする。
(これは、もしかするともしかするかもしれない)
柚香の脳裏に、ある一つの可能性が芽吹いた。それは、元の世界に帰ることができるかもしれないという、遥か昔に心の奥底に封印したはずの期待であった。
しかし、仮に元の世界に帰れたところで果たしてそこに自分の居場所があるのか、といった疑問もある。今の姿で元の世界に戻ったところで、多少ちやほやはされるかもしれないが、それは当然、『近藤柚香』としての生き方にそぐわない。
それに加え、折角『物語を動かす』という魔王たるべき目標ができたのに、それを放棄してまで元の世界に帰るという選択を選ぶ自身が許せないというのもある。
(って、まだ帰れるって決まったわけでもないのに、一体何を考えてるんだか)
同郷の人間に会えたのが相当に嬉しかったのか、気付かないうちに柚香の気分は高揚していたようだ。こほん、と一つ咳払いをしてから、柚香はいわゆる魔王様モードへのスイッチを切り替える。
「それで、本日はどのような用件で私の元へ? 」
「はい、実は折り入って魔王様にご相談したいことがございまして……」
チサトはそう話を切り出すと、自身が何故このような場所へ来たのかを、切々と語り始めた。
チサトのいた世界、つまり柚香がかつて住んでいた世界には、魔法という概念は存在しなかったが、その代わりにそれに準ずるオーパーツが数多く存在した。そのうちのひとつに、今回チサトの捜し求めている呪物がある。
それは例えば、髪の毛がひとりでに伸びる人形のような何者かによって形作られたものであったり、怪奇スポットのような独りでに発生した空間そのものであったりする。
チサトはそのような手付かずの呪物を回収し、そして安全に管理することを目的として設営された組織に所属しており、今回、柚香こと魔王様の元を訪れたのも、それ絡みの件について、そのいきさつを説明する必要が生じたからであった。
ところが柚香はといえば、そのような不可思議な機関が、かつていた世界に存在していたことの方に驚いてしまっていた。とは言え、柚香自身も相当に不可思議な体験をしている最中であったことを思い出し、それと比較すればたいしたことではないはず、などとよく分からない結論の軟着陸をやってのけることで、話の軌道を修正させた。
そんな感じに呪物の代表例を多く交えながら、なるべく懇切丁寧な解説を心がけるチサトではあったが、柚香にしてみれば、どれもこれもどこかで聞いたことがあるような話だったりするわけで、言ってみれば、それはもう冗長的な蛇足にしかなっていない。
対するチサトはといえば、やたらに飲み込みの早い柚香こと魔王様に驚嘆の感情を抱きつつも、流石に魔王様と言われているだけはあるな、などと独りで勝手に納得をしてしまっているのであった。
さて、今回チサトがそういったものを専門に取り扱う機関、謂う所の上司から受けた指令は、各世界にひっそりと存在している呪書を捜し出すことであった。
呪書とは、書物の形をとった呪物であり、パンドラボックスのように災厄が封じられていたりするものや、宇宙概念そのものを捻じ曲げることのできるような魔術が記されているものなど、その種類は多岐にわたる。
もし、そんな呪書が誤った価値観を持つ者の手に渡り、その力を開放してしまったとなれば、その世界だけの問題では済まされなくなる。そしてチサトの話によれば、その危なっかしいことこのうえない呪書が、どうやら柚香のいるこの世界にも存在しているらしい。
こういった最悪のシナリオを阻止するために、一刻も早くその呪書を回収するべくチサトが向かった先が、柚香こと魔王が住むといわれているこの屋敷であった。
チサトの既成概念にも、言うまでもなく魔王イコール悪という図式が成り立っているわけで、その呪書が魔王の手中に収まってしまう展開だけは、何としても避けたいところであった。
よって、既に魔王がその呪書を手にしているのであれば、精神的ないし物理的な説得による押収を行い、持っていないのであればしかるべき対応を取るといった目論見もチサトにはあった。
「呪書かそうでないかっていうのは、どうやったら判断できるの? 」
「呪物の知識を持つ者による鑑定魔法になりますね。この場合、行使させていただくのは私という形になります」
(チサトさん、魔法使えるんだ……)
何故か羨望の眼差しを向ける柚香に、チサトは少しだけ居心地の悪さを覚えてしまう。チサトとて普通の人間であるからにして、生まれながらにそういった魔法を扱えていたわけではないのだが、その詳細はまた別の物語である。
ところで、柚香は未だにこのようなワンダーな世界に身を置きながらも、その魔法といったものをはっきりと間近で見たことが無かった。そもそも、柚香自身も己が魔王でありながら、自由に魔法を行使することができていない状況に、常に歯がゆい思いを抱えていたのである。
柚香が行使した記憶のある魔法っぽいものはといえば、エレノアの心を開く際にいつのまにか握られていたハンカチという、どちらかといえば手品に近いもののみであり、当然ながら、柚香はそんなものでは決して満足などしていなかった。
あの件を経てから、柚香もそれなりに色々と試行錯誤を行っていたのではあるが、結果から言えば全て空回りであった。書庫を訪れた際も、かすかな希望をもとめるべく魔道書の類を探していたが、都合良くそんなものが置いてあるはずもなく。
「……そういえば、魔道書は一冊も無かったよね? 」
「そうですね。目を通すだけで魔法が習得できる書物という代物は私には存じかねます」
傍に控えたエレノアの言葉に、柚香とチサトは同時に驚きの声をあげ、何事かと互いに顔を見合わせる。チサトは一つ一つを確かめるようにして、エレノアに疑問をぶつけた。
「質問なのですが、この世界では一体、どのような方法で魔法を習得しているのでしょうか? 」
「魔法は魔族のみが持ちうる生まれながらにしての資質でございます」
「つまり、人間は……」
「勿論、行使することなど不可能でございます。……まさか、その魔道書とはそれを可能にするものなのでしょうか? 」
チサトが首を振って肯定してみせると、今度はエレノアが驚愕の表情を浮かべた。
「それは、確かに悪しき者の手に渡ると厄介なことになりそうね。見つけ次第、必ず闇に葬り去ってみせるわ……」
「ちょっ、ちょっと待って! 」
何故かいきなり口調の砕け始めたエレノアを、柚香は慌てて制した。黒い笑顔を浮かべるエレノアに、思わずチサトも少し後ずさりをしている。
「まず、もし見つかったらチサトさんに持って帰ってもらうからね。分かった? 」
「……承知いたしました」
我に返ったエレノアが大人しく頷いているのを確認して、柚香はほっと安堵する。
「それと、チサトさん」
「何でしょうか? 」
「今回の件、確かに伺わせていただきました。これからチサトさんはいかがなさるおつもりですか? 」
「そうですね。他にもいくつか心当たりがございますので、ここを調べさせていただいた後に、そちらの方も順次調べていこうかと考えています」
「そこで提案なのですが、その職務に私も同行して宜しいでしょうか。いえ、同行させてください」
しん、と暫しの静寂の後に、チサトとエレノアは同時に狼狽え始める。
「えっと、あのですね。確かに魔王様のお力添えを頂けるというのは、私としても冥利に尽きるところなのですが、いくらなんでもそこまでお手を煩わせるほどのことには……」
「そうですよ! ユズカ様がいなくなったら、このお屋敷をどうするおつもりですか! 」
急にしどろもどろになるチサトと、何故か憤怒の表情を浮かべるエレノアで、玉座の間が一瞬にして騒がしくなった。
どうにかして柚香を引きとめようとする二人ではあったが、柚香とて、これこそ『物語を動かす』またとないチャンスであることくらい分かっているのだ。そうそう簡単に譲るわけにもいかない。
「屋敷には、エレノアが残ればいいじゃない」
「そんな! ユズカ様に誓った私の約束はどうなるのですか! 」
そんなものあったっけ、と首を傾げる柚香にエレノアはがっくりと肩を落とす。あの件は、ある意味でエレノアの一方的な宣言に近かったため、柚香が約束として捉えていないのも仕方のないことなのかもしれない。
「どうしてもダメなの? 」
「いえ、ダメという訳ではないんですけれども……」
玩具をねだる子供のような柚香の甘い目交ぜに、チサトの心はぐらぐらと揺れていた。
チサトとて、このような可愛らしい風体だからといって、柚香こと魔王様に完全に気を許したわけではない。
この姿は相手を油断させるための仮の姿なのかもしれないし、今ですら真っ向から衝突してしまえば歯が立たないとさえ考えている。チサトとしても、なるべく穏便に、できれば魔王のあずかり知らないところで、この件は片付けておきたいところなのである。
とは言え、いざというときに魔王の協力を仰げるというのはチサトにとっても大きな助けとなるだろうし、実のところチサトは、一人旅に若干の不安を感じているところであった。だから、こうして目的を同じくして行動する仲間が増えるということは、単純に喜ばしいことでもあった。
口をもごもごと動かしながら、どうしたらよいものかと腹を決めかねているチサトに、柚香はしみじみとした口調で駄目押しの一撃を加える。
「……私、魔王だからって生まれてからずっと今までここに閉じ込められてて、外の景色すら見たことが無いんだよね」
柚香がこの屋敷にいた期間などたかだか半月程度のものではあるが、それでも外の景色すら見たことが無い、というのは紛うことなき事実である。
しかしながら、チサトはその柚香の言葉に完全に心をへし折られた。こんな可愛い子供がずっと外の世界を知らずに生きてきたなんて、と先程までの警戒心はどこへやら、柚香に対する同情を露にする。
「分かりました。私と一緒に世界を巡りましょう」
やった、と柚香は小声で呟いた。何だか可哀想なものを見るかのようなまなざしではあったが、チサトの首を縦に振らせるためなら致し方なしである。
「……それなら、私もユズカ様にお付き添い致します。先代の二の舞には決してさせたくないですから」
チサトが柚香に堕とされたことにより、連鎖的にエレノアも肯定の意を示した。
エレノアには、先代の魔王様が自身を置いていった挙句、そしてそのまま帰ってこなかったという経緯がある。屋敷に残ったとして、柚香こと魔王様にもしものことがあれば、再びあの辛い想いを繰り返すことになってしまいかねない。
「エレノアも、ありがとう。それじゃ宜しくお願いしますね。チサトさん」
玉座から腰を上げた柚香はチサトと握手をするために眼前の段差を降りる。編み上げブーツの存在をすっかり忘れていた柚香は、その途中で思いっきり足を躓かせた。
「ひゃああっ!? 」
バランスを崩した柚香は、そのままチサトに抱きかかえられるようにして倒れこむ。
「だ、大丈夫ですかっ? 」
「え、あ、うん。私は平気」
何故か頬を赤らめているチサトに柚香は首を傾げるも、傍で真っ青になって右往左往しているエレノアを窘めるのが先決と判断し、チサトから身体を離す。
「も、申し訳ございません……」
「何も無かったんだから、そんな顔しないでよ」
まだまだエレノアとの距離が遠いことを実感した柚香は、今回の遠出を機にもう少し親密になれればいいな、などと一時はエレノアを屋敷に放置しようとしたことも棚に上げて、淡い期待を抱くのであった。