征服始まりにいたるまでっ!
「朝かあああー。暑っ」
朝の日差しによってアキレス、つまりは俺なのだが、アキレスは目を覚ました。
カーテンもないこの部屋は、夏はサウナのように暑くなる。
そして今日から夏休みなので、アキレスの部屋はまさにサウナのように暑くなっていた。部屋に住んでいる彼、つまり俺はもう暑くて仕方がない状態なのだ。なんて朝だ。
「こりゃ死ぬかも。しゃーねえ。涼んでくるか」
ドアを開けて外に出るアキレス。外は彼の部屋ほど暑くはなかったが、それでもやっぱり温度は高い。
アキレスの住んでいる部屋は、彼がいく高校の男子寮にあった。寮は高校のすぐ隣に建っているため、夏休みに校舎まで涼みにいく寮生が必ずいる。少なくとも去年は多かったと俺は記憶している。
「あれ、人がいねえなあ」
アキレスはきょろきょろと辺りを見回す。しかし寮の周辺にはだれもいない。
彼は不思議そうな顔で校舎へと歩いていく。なんとなーく不気味な気がしたから。
その時だ。そんなアキレスに声をかける者がいた。
「やあ、君もこの星に残れた人間だね!」
アキレスは声の聞こえたほうに顔を向ける。彼に声をかけたのは空中に浮いている少女だった。年はアキレスと同年代くらいだ。高校生くらいじゃねーかなーとアキレスには感じられた。
しかし、すぐにアキレスの頭はそんなことよりも別のことでいっぱいになった。それもそのはずである。
なぜなら空中に浮かぶ女の子はスカートを履いていた。そしてアキレスはその中を見たのだ。しかし中は真っ暗であった! 太もも辺りから奥は闇のようなモヤがかかっていた!
アキレスはとても驚き、やばい悲しみを味わった。彼の悲しみはとても深いもので、視線はもはや地面の茶色い土に注がれていた。
「はああ。で、なにか用ですか?」
ため息混じりにもう一度空中を見上げるアキレス。
その瞬間、彼は驚いた!
空に浮かんでいる少女を発見したからだ!
アキレスに声をかけた主は、現実ではありえない状態にあった! こんな状況、たとえ一目見ただけであったとしても驚くなというほうが不可能であろう!
「うおおおぉ! 人が浮いてるっ!」
あまりに予測不能の事態に見舞われて、アキレスは腰を抜かしてしまう。
少女はアキレスの隣に降り立つ。そしてアキレスの顔を覗き込むようにして、にっこりと微笑んだ。
「ふふふ。そう怖がらないでよ。他の多くの住民は消えちゃったけど、君は消えなかった。君は選ばれたんだよ」
少女はアキレスの肩に手をぽんと置いた。
アキレスは青ざめた顔で体を震わせた。
恐怖におびえながら少女の顔を見た。
「しかもスカートの中が闇のようで、奥までちゃんと見えなかった」
「もう少し怖がってくれてもいいんじゃないかなあ」
少女はあきれたような表情を浮かべる。そしてアキレスの肩から手を退けると、自己紹介を始めた。
「私はアルティー・メイト。地球を乗っ取るために日本に来てたの」
彼女、アルティーはおかしな奴である。
アルティーの自己紹介を聞いて、アキレスの顔はすぐに自信に満ちあふれたものになった。
「俺はアキレス。地球侵略者を手引きしたのはこの俺だ!」
アキレスは自分を指差しながら、堂々とウソの自己紹介をした。彼には絶妙なたくらみがあった。
彼は、自分を味方だと思わせておけば地球がもらえると考えたのだ! 彼の中では、もう地球を手にしたようなものだった。
意外かもしれないが、彼、アキレスはかなりおかしな奴である。
「地球侵略!? なんでそんな酷いことに手を貸せるの!? 君は最低だね!」
アルティーは声を荒げる。彼女の目はまっすぐにアキレスを見据えていた。
表情からはおふざけや冗談というものを感じることはできず、まさに真剣そのものといった感じだ。
「そんな悪事からは足を洗って、私と地球侵略しようよ!」
「へー」
即答するアキレス。とても即答だ。
「でもごめんね。地球侵略はすでに終わってるの。旅行したら帰るんだっ」
申し訳なさそうな声で謝るアルティー。にこやかな表情を浮かべながらウィンクしている。
「…………」
その瞬間、アキレスの心に殺意が芽生えた! さまざまな悪意や相手を傷つけたいという欲望が、彼の体中を駆け巡った! 心が、暗くよどんだ感情に支配されていく。彼自身が感情をコントロールできないほど負の感情は大きくなっていった。
そして大きすぎる殺意によりアキレスは理性を失った! もはや彼は本能の赴くままに行動するのみである!
だからといってなにかするわけではない。彼の本能はなにもしないのだ。
「…………」
アルティーもただじっとしているだけだった。
声も出さずにアキレスを睨んでいる。殺意でも芽生えているのだろうか。
二人は時間の経過にも動じないままずっと睨み合った!
日が昇りきり、日が沈んでも、互いに睨み続けた!
そして夜が明けた!
先に口を開いたのはアルティーであった。彼女は眠そうに目をこすっている。
気温が高かったにも関わらず、汗一つかいていない。夏の女なのだろう。
「ねえー。私、今日は東京とか見にいく予定だからもう行くよ?」
返事も聞かずにぱっと消えるアルティー。一人の侵略者は、唐突に姿を消したのだった。
「……」
一方、アキレスはその場で固まっていた。いまだに殺意で理性を失っており、本能でなにもできずにいた。絶大な感情力に支配された彼は、もはや殺意の対象がいなくなったことにさえ気づくことができなかった。
また汗をかいてはいなかったものの、いや、むしろだからこそ、アキレスの体温は上がり続けていた。
このままではいずれ溶けて死ぬだろう。あるいは発火、爆発するだろう。普段そんなことを思いつくアキレスはなにも考えていない。
夏の日差しがアキレスを照らし続ける。
太陽がアキレスの頭上に君臨している。
そんなアキレスに近づく人影が二つあった。人影の大きさにはわずかに大小の違いがあった。
「兄さん? 兄さーん!」
小さな人影の主が大きく手を振る。それは中学生くらいの少女だった。彼女は不思議そうな表情を浮かべながら手を振っている。
大きな人影の主は大学生くらいの少女だった。身長はアキレスよりも高い。彼女は腕を組んでにやにやと笑っている。
一緒にいた二人は顔を合わせ、アキレスに近づいてくる。
大学生くらいの少女は、アキレスの正面で立ち止まった。
先ほどと同じく、にやけ笑いを浮かべながら腕を組んでいる。さっきと違う点は、仁王立ちをしていることくらいである。
「せっかく来てやったってのに無視かしら? 寝ぼけてんの?」
中学生くらいの少女は、アキレスの肩を横から揺さぶっていた。アキレスの耳元で必死なようすで「兄さん! 兄さんっ!」と呼びかけている。
顔には不安げな表情が浮かんでいる。
この瞬間、少女たちの呼びかけによりアキレスの理性は復活した! そして理性は、殺意を発散させるためにアキレスの拳を動かした! ナナメ上に振りぬくという最も殺意を発散できる動きで、拳を動かしてしまったのだ!
結果! アキレスの拳は大学生くらいの少女を殴り退けた!
通過地点は顎。アキレスの拳が振りぬいたのは、大学生くらいの少女の顎だ。
殴られた少女は後ろにのけぞる。そしてのけぞった姿勢のまま固まっていた。先ほどよりもよっぽど深いにやけ顔を浮かべている。もはや不自然さを感じるほどのにやけた笑みだ。
殴られた衝撃で、彼女の顔の側面はひどく歪んでいる。
にやけ顔と顔の歪みが相まって、不気味な雰囲気を漂わせていた。
「ふふふ」
大学生くらいの少女はアキレスの両肩をつかんだ。
アキレスは何度か瞬きをする。そして驚きのあまり叫んだ。
「……あ? げえええぇっ! な、ナツレス姉ちゃん!?」
驚いた表情で、正面にいた大学生くらいの少女を小さく指差す。
次に中学生くらいの少女を指差した。
「フユレスも!」
ここでアキレスは、理性と感情によって拳を振るったことを再認識する。そして自分の行いを自覚したとき、血の気が引いていくのを感じた。彼は死を覚悟した。
「兄さん……」
アキレス、ナツレスの妹であるフユレス。
彼女は哀れみと悲しみを含んだような目でアキレスを見つめる。そして二人のいるところから距離をとった。
「コロッ、アキレス。元気そうでなによりコロよ。ええ、まったく本当にコロ」
ナツレスは実に似合わない語尾を口にしていた。
彼女は片手で、殴られたときに歪んだ顔を整えている。もう片手はアキレスの肩にがっちりと食い込んでいる。
アキレスは姉から狂気を感じ取った。
なぜナツレスがこのような語尾をつけているのか? アキレスは姉との付き合いからすぐに答えがわかった。
これは最終警告である! 姉の語尾は『コロス』の三文字の一部を表しており、この先、機嫌を損ねて語尾を言わせきってしまえば、本当にアキレスを殺すつもりなのだ!
姉に対する心象もあり、これ以外の答えはありえないと考えた。
すぐ殺されるよりも寿命が延びたことで、アキレスはひとまず安心する。
幸いにも、アキレスは口に自信があった。彼は、会話の相手を無言にさせることが得意だったからだ。『コロス』と言わせなければ殺されない。そう考えながら、アキレスは姉に話しかけた!
「ね、姉ちゃんも元気そうじゃねーか。あれだ、さっきの歪んだ顔? あれ、バケモノみたいでカッコよかったぜ! 姉ちゃんらしさが出てた!」
アキレスは全身に汗を垂れ流しながら、身振り手振りで姉を褒めていく。
彼は、今のナツレスが嘘一つで爆発しかねないと考えていた。よって細心の注意を払い、嘘らしさが出ないように賞賛を続けていった。
「もうさ、ホント人間の顔とは思えねえほどだった(カッコよさが)。姉ちゃんの前にいると顔が赤くなってくるぜ」
アキレスは照れるようにして、ナツレスから顔を背ける。もちろん演技だ。
そしてすぐに姉を見て、一言。
「やっぱ姉ちゃんの顔はすげーよ」
ナツレスの肩にぽんと手を置くアキレス。そして彼なりに最高のスマイルを浮かべた。
「……」
ナツレスは無言だった。
先ほどまでのにやけ顔もなくなっていた。彼女は真顔で固まっている。
そう、それはアキレスの思惑通り! 彼は見事に姉を黙らせることができた! 自分の命を脅かす姉を無力化できた! アキレスは全身を達成感が埋め尽くしていくのを感じた。
紛れもなくアキレスの勝利である。
紛れもなく姉の敗北である。
「ふ」
自然と笑みが浮かぶ。もはや彼にとって目前の姉など脅威ではない。アキレスが二、三つ賞賛すれば怒りを収める、ちょっろい姉なのだ!
アキレスは十秒もの間、自身の勝利に酔いしれていた。
「コロス」
ナツレスは、残酷な一言をはっきりとつぶやいた。
それはあまりに容赦のない結果だった。ただ単に反応が遅れただけかもしれない。しかし、アキレスにとっては確定した勝利を剥奪されるという、残酷な仕打ちであった。
彼は絶望した。
死を覚悟した。
ナツレスは、アキレスの肩から手を離す。
そしてなにかするわけでもなく、敷地の出入り口へと歩いていく。
「夏休み、思い残しのないように楽しむことコロスね」
途中で立ち止まり、彼女は言った。
フユレスはナツレスの元まで駆け寄っていく。
彼女は途中で振り返り、「兄さん」と一声かける。
そしてアキレスに手を振った。
二人は去っていった。
アキレスはとりあえず軽く手を振っておく。
その後、地面にぺたりと座り込む。
「もう、寝よう」
アキレスは地面に倒れこんだ。
一晩中立ちっぱなしだった疲れが、今になってやってきたのだ。
彼は大量の汗をかきながら、夜まで外で寝ていた。
その日から、夏休みが終わるまではあっという間だった。
街中を歩いてもほとんど人はおらず、誰かいても関わり合いになる気は起きなかった。高校にもわずかに生徒がいたが、日が経つにつれて、いつの間にかいなくなっていた。
寝て、食堂やコンビニの食べ物をいただいて、散歩する。毎日がそんな感じで過ぎていった。
そして夏休みが終わった。
とても暑い寮の部屋。
アキレスは朝食を食べていた。彼は夏休みがどうとか気にすることなく日々を過ごしていた。
朝食を食べながら、再放送しか流れなくなったテレビをつける。
「あーあー。アキレス起きてるー!? まだなら寝てんじゃないわよ!」
テレビには、ナツレスの顔が画面全体に映し出された。
「ごはぁ!」
アキレスはいきなりの出来事に食べていた朝食を噴出した。
水を飲んで、画面に釘付けになる。
その時、高校の校内放送が流れた。
内容は、テレビでナツレスがしゃべったことがそのまま放送されている。
「まだなら起きてさっさとテレビをつけんのよ!」
画面の奥に下がるナツレス。
テレビには真っ白な部屋と、彼女、フユレス、そしてアルティーも映っていた。
姉はこちらを指差してにやにやと笑う。
「世界征服、二週間で終わったわ! まず日本で一週間。次に世界で一週間。東京を落としてからは順調だった。この子のおかげでね!」
「やっほー。番組のゲストでーす」
アルティーは手を上げる。
あのゲスト見覚えあるな、とアキレスは感じた。
彼にとって夏休み初日などすでに過去のことである。
「私はこの夏休みの間、あんたをじわじわと苦しめるために、世界征服をしていたの」
ナツレスはいうまでもなく、かなり狂気じみた姉である。
「そして地球の全人類、一億人を私の支配下に置いたのよ! アキレス、あんたを除いてね! ふふふふふふふふっ!」
「ひでえ! 俺のどこに責められる要素があるっていうんだ!」
アキレスにとって、姉を殴った事実などとっくに過去のものだった。
理不尽な放送に体を震わせる。
「あれ。でも人類ってもっといたような」
アキレスはナツレスの発言にふと疑問を抱く。
しかし彼は、姉との付き合いからすぐに答えを導き出した!
「ああ。みんな姉ちゃんに殺されたのか」
やはり彼は夏休み初日のことなどすっかり忘れていた。
「ふふふ。私は、この日をそれはもう待ちわびていたわ。あんたへの、お前への衝動! 毎日十万文字は書いてきたっ!」
ナツレスは再び画面手前に近づき、片腕を画面外まで突き上げた!
そして言い放った!
「エロス!」
彼女の目つきが鋭くなる。言葉を口にしたとたん、彼女の顔は真剣そのものになった。彼女の目には凄みがあった。
よほど毎日、エロスの三文字を胸に秘めて生活してきたのだろう。
そこでテレビの画面に天井が映り、物が壊れるような音とともに画面が消えた。
校内放送から「拳圧でカメラが!」という声が聞こえてくる。
アキレスはテレビの電源を押してみるが反応がない。
「エロスか。エロス。エロス! エロス!」
おわんを振りながら、力いっぱい叫ぶアキレス。
彼にはナツレスの気持ちが理解できなかった。しかしエロスと叫ぶ姉に惹かれるものを感じていた。だからとりあえず真似してみたのだ。
「ふ。やっぱり姉さんはすげえや。エロスと叫べば叫ぶほど、心が休まる。今なら姉さんの気持ちが少しわかるよーな気がするぜ」
アキレスは少しだけ、姉と仲直りできるような気がした。
テレビの画面は、アキレスがエロスを叫んでいる間に復旧した。
ナツレスが画面でにやけた笑みを浮かべている。
「ふふふ。覚えているエロス? エロス! この三文字は、お前に残した予告メッセージエロスよ! 今から、征服した人々にお前を襲わせるエロスわ」
彼女は画面の向こうからこちらを指差す。
語尾にはエロスとついており、もはやざますみたいな言い方で使っている。
「そしてお前をエロスで征服し、私の世界征服は完成するエロスの。エロスに追われる恐怖を味わうがいいエロスわ~。ふふふふふ! さあ、アキレス征服の始まりエロスよ!」
姉は変わり果てている。もはや誰だろう。
「兄さん……」
フユレスは口元を手で覆い、頬を赤く染めている。目はどことなく期待に満ちているようだった。
彼女はこちらから顔を逸らした。
妹は相変わらずのようだ。
「いい置き土産ができたね。じゃあ私は帰るからがんばって。あ、約束のお土産ちょうだいー」
アルティーは画面外に歩いていく。
誰だろう。
テレビは再び他番組の再放送を映し出した。また校内放送も止まった。
「エロスで征服? や、やっぱナツレス姉さんはわけわかんねえ」
アキレスはよくわからないが不安を感じていた。自分に身の危険が迫っている。そんな予感が止まらなかった。
「逃げねえと! だれもいない、どこか安全なところに!」
アキレスは寮を飛び出した。すでにそこら中に人がたくさんいた。見えるだけでも数十名はいる。
「出てきたぞ! 奴をエロスに染め上げるんだー!」
大衆の一人が声を上げる。
それを合図に、彼らはアキレスに襲い掛かってきた。老若男女さまざまである。
それもただ走って追いかけてくるだけではない。彼らは瞬間移動するかのように、消えたり現れたりしていた。また空を飛ぶものも数多くいた。
「捕まってたまるかぁ!」
アキレスは群集の間をすり抜け、殴り、押し、街へと逃げていった。
この日以降、アキレスに安息の日々が訪れることはなかった。彼は日本のいたるところを回り、海を渡り、今も世界中を逃げ回っている。
彼への征服活動が始まってしまったのだ。