7 ソフィー・エレオネーラ公爵令嬢
「わぁー、すごいねー、ボット。こんなに広いんだー。えーっとー、こっちはキッチンで……すごい、お風呂もあるよ……うん? そのドアはトイレかな? ああ、こっちの部屋が私の部屋なんだ。うわっ! 広い! すごいねー! やっぱり、特待生だからかな? わぁー、ベットも大きいし、フッカフカだねー」
キッティラ王立魔術学院の広大な敷地の一角に建つ学生寮の一室で、私はベットに座ってビョンビョンと跳ねていた。
ちびボットは忙しそうにあちこちに魔法陣を飛ばしては、何かを調べている。
ボットは魔石の粉が入った袋を取り出して、部屋の天井に浮かび上がらせた魔法陣に魔力を使って魔石を塗りこめている。
たしか、空間を守護する魔法陣だ。いつ見ても、ボットの描いた魔法陣は綺麗だ。
伯爵家で習ったルーン文字なんて比べものにならないほどの美しさ。
一点の欠損もない完璧に閉じられた魔法陣。
魔力を完全に閉じ込め、最低限の消費で最大の力を引き出すボットの魔法陣は、まさに芸術品だ。
「すごいね、ボット。あっ、冷房も入ってるんだ。でも、ここはドルティアよりずいぶん北にあるから、冷房は必要ないんじゃないのかな。明日から十月だし、あっ、でも来年の夏にひょっとしたら必要になるかもって考えたの? えーっと、ここは暖房で……ここは、うーんと……すごい結界だね。いない時は空間を切り離すんだ。これをひとつの魔法陣にするだなんて、やっぱりボットってすごいよね」
魔石の粉をふんだんに塗り込めた魔法陣を、ボットが魔力を込めて光らせては、機能をチェックしていく。
暖房に冷房、明るさ調節に守護結界、そして最後に空間の隔離。
外の世界からこの一室だけが切り離され、光が、音が、閉ざされる。
「うん、これでいいかな。僕とホルン以外はこの部屋に入れないようにしたからね。ああ、あと辺境公ロボットとちびボットは入れるけどね」
「そうなんだ。あっ! でも、もうひとり、向かいの部屋で暮らすんだよね? 案内してくれた人も、明日の入学式までにはもうひとり来るって言ってたし、こっちの部屋に挨拶に来たりするんじゃないの?」
学生寮の部屋にはいろいろとランクがあるらしく、私にあてがわれたのはふたり部屋だった。
とはいえ、ふたりでひと部屋を使うという訳ではなく、廊下への出入り口がふたりでひとつであるというぐらいの意味だ。
扉を開けて中に入ると大きなソファが置かれた共用スペース広がり、台所と浴室とトイレはふたり供用になっているものの、鍵のかかる個室がふたつ向かい合わせで配置されている。
向かいの個室にはすでに荷物が運び込まれているようなので、今日か明日には同居人が現われるはずだ。
ひょっとしたら、私の個室にやってくるかもしれない。一緒に住む人に部屋に入るなとは言いにくい。
「その子も入れるようにしたほうが……」
そう言いかけた私の唇を、ボットがちょんと指で押さえた。
「ホルン、その子はホルンの見張り役なんだ。ホルンのことを調べて、ドルテアに報告するために一緒の部屋になっているんだ。この個室には入れないほうがいい」
「えっ? そうなの? 報告って何のために? えーっと、私ってもう捕まったりしないよね? 女王陛下に赦してもらえたんだよね? 大公殿下もそう言ってたよね?」
伯爵家を逃げ出してからの苦しかった日々が頭の中を駆け巡り、思わずボットに縋りつきそうになる。
「大丈夫だよ、ホルン。僕がいるからね。でも、見張りがつくのはホルンのことを知っておきたいからとか、ひょっとしたら、ホルンを守るためかもしれないね。学院にはたくさんの国から、貴族やら、強い魔力を持った連中やらが集まるからね。ドルテアにはドルテアの派閥があるだろうし、そういったものを教えてくれるかのかもしれないね。用心しておくにこしたことはないけど、敵ではないと思うよ」
ああ、そうなんだと、ほっと息を吐き出した私に、ボットは、うんうんと優しく頷きかけた。
「あとね、さっきの魔法陣だけどね。人間には理解できないものだから、見せないためにも個室には他人を入れないほうがいい」
「えっ? そうなの? たしかに、描くのは大変そうだけど、読めなくはないよね」
「ホルンは僕と一緒にいたからね。完全なルーン文字が記憶の底に眠っているから読めるんだよ。でも、人の世界に拙いながらも伝わっていたルーン文字は、完全に失われてしまったからね。今、人間が使っているのは精霊界からもたらされた不完全なルーン文字だ。しかも、精霊だって人間にすべてを教えてくれるわけじゃない。人間は精霊に教えてもらったルーン文字みたいなものを、わけもわからず、ただ描き移して使ってるだけなんだ」
ボットの言っていることがさっぱりわからず、私の目がシパシパと瞬かれる。
「えっ? でも、ルーン文字自体は同じものだよね。私が伯爵家で習ったルーン文字もボットが描いているルーン文字も同じものではあるよね?」
ボットは驚いたように目をまん丸にして、首を突き出した。
「うーん、ホルンはすごいね。僕の目にはもはや同じものには見えないんだ。ルーン文字を魔法陣に用いる場合、次にくる文字によって文字の幅も縦横の比率も変えなければいけないからね。文脈が変われば、文字の形が別物のように変わる。人はそういったことをまったくわかってないから、文字を羅列することしかできない。だから僕には人間の書いた魔法陣が良くわからないんだ。そんなおかしなものでよく魔法陣を発動できるなと感心するぐらいだよ。それとは逆に、僕の描いた魔法陣を読むためには、完全なルーン文字を知っていないといけないからね。両方がわかるのは、たぶんホルンぐらいだよ」
「そうなんだ。それでボットのルーン文字はものすごくバランスと繋がりが良くて、魔力の流れがスムーズなんだ。知らなかった」
さすがはボットだ、と思わず胸の前で手を組んでじーっとボットの目を見つめていると、ボットは照れたように白い肌を桃色に染めて頭を掻いた。
「あれっ? でも、精霊界でもルーン文字が不完全なのに、ボットは完全なルーン文字を知ってるんだ。えーっと、ボットに教えてもらったから私も知ってるの? 昔ボットと私が歯車と楽器だった頃?」
「えっ? 歯車? うん? 歯車って――」
ボットが不思議そうに首をコクンと傾げた時、廊下に繋がるドアがバーンと開く音がした。
そして、可愛らしい女の子の声が個室の扉の向こうから聞こえてきた。
「よしっ! とうとう来たー! よくやった、私! ここから始まるのよ、新しい人生が! って何、こいつ?! えっ?! 何なの?! ちょっとー!」
えーっと、誰だろう? この恐ろしいまでのハイテンションな声は。ひょっとして同じ部屋で暮らす人かな。
だとしたら、挨拶しておいたほうがいいかな、と立ち上がろうとしている間に、ドカドカと床を踏みならしながら駆けてくる音がした。
その音は、すぐにドアノブをガチャガチャと回そうとする耳障りな音に変わり、さらにはドアをドンドンと叩く騒音に変わった。
「アルベルティーナ・ホルン! いるのはわかってるわ! 出てきなさい! あの、変なのは何?! 魔法陣浮かべてるわよ! どうすんのよ、あれ?! あっ! ヴィート、やめなさい! 戻って! ちょっとー! 開けなさいよー!」
あれっ? いきなり苦情? と思いながら、ベットから腰を浮かした状態で様子をうかがっていた私だったが、魔法陣という言葉でちびボットが外にいることを思い出した。
大慌てでドアを開けて飛び出し、ちびボットを捕まえる。
捕まえたちびボットを手に持ったまま、その女の子に向かってなんとか引き攣った笑みを浮かべ、頭をペコペコ下げた。
「ごめんなさいごめんなさい。大丈夫でしたか。悪い子じゃないんですけど、すぐ魔法陣で調べようとするんです」
深々と頭を下げながら、チラッと様子をうかがった私にその子は、ふーっと大きく息を吐いた。
乗馬用の丈の長いキュロットがちらっと見える。
あれっ? まさか男の子なの? と思いながら、ゆっくりと視線を上に動かしていく。白いキュロットに丈の短い紺色のジャケットに……首に白い毛皮のマフラー? と思ったら、白いマフラーが首のところでクルッと回って、かわいらしい真っ黒な双眸と尖った鼻が見えた。
あっ! 精霊だ。しかも雪の精霊だ。かわいい。たぶん、この子の守護精霊だ。
そして、服装から思わず男の子かと思ったその子の顔は、ちょっときつめだが、ものすごい美人さんだった。雪の精霊のような銀色の髪に漆黒の瞳。眉毛も睫毛も髪の毛と同じで雪のようにキラキラと輝いている。
うわー! 雪の精霊の親子みたいだ! すごい! そう思った私の口がポカンと開いたのと同時に、女の子が眉をしかめたまま口を開いた。
「そのロボット、本当に守護精霊なの? どう見ても精霊に見えないけど。しかも、魔法陣を使う守護精霊なんて聞いたことがないわ」
女の子がジトーッとした目つきで、私を値踏みするように上から下まで視線を動かした。
好意的とは言い難い視線に思わず、えっ、えっと、と口ごもる。
頭が真っ白になった私は、手にしたちびボットを女の子の目線の高さまで持ち上げ、えっ、えっと、ちびボットです、とおじぎのようにペコっと動かした。
パシパシと銀色の睫毛を瞬いた女の子は、うーん、と首を傾げながらも、首に巻きついている白ギツネの赤ちゃんのような精霊を指差した。
「この子は私の守護精霊でヴィート。雪の守護精霊よ。あと、私はソフィー・エレオノーラ。エレオノーラ公爵家の三女であなたと同じ十二歳。よろしくね」