5 フラン大公殿下
軽くウェーブのかかった淡い緑の髪に、茶目っ気たっぷりの青い瞳。もうすぐ三十歳とはとうてい思えない、女性のようなやわらかなカーブを描く顔の輪郭。すべすべの卵のようだ。
大公という地位に似つかわしくない手慣れた動きで、私たちに手ずから紅茶を注いでくれる。自然とにじみ出る優しさに、ちょっとだけ顔がほてる。
大公殿下の心遣いで、謁見の間から出てすぐにキュウキュウのコルセットから解放された。それだけでもありがたい。
テラスに優しく吹き込む風が心地良い。葉擦れの音とともに、揺れる葉の隙間から零れる柔らかな陽の光が、解き放たれた体をじんわりと温めてくれる。
紅茶から漂ってくる芳ばしい香りを感じられるのも、腰やあばらや背中が自由を謳歌しているおかげだろう。
「私の故郷のボルネス産の紅茶でね。口に合わないかもしれないが、よかったら飲んでみてくれ。料理に関してはドルテアのほうが舌に合うんだが、紅茶だけは何故かボルネス産じゃないと駄目なんだよ」
もともとドルテア王国の隣国であるボルネス王国の第三王子だった大公殿下は、宰相のクーデターから逃れてきたクリスティーネ王女に一目惚れした。
しぶる国王を説き伏せて兵を借り受け、ドルテア王国を王女の手に取り戻すために力を貸した。
そして、無事ドルテア王国を取り戻した王女と結婚して大公となった後も、公私にわたって女王陛下を支えている。
容姿も振る舞いもふんわりとした大公殿下だが、謁見の間での助け舟といい、お優しいお方なのだろう。
そのお優しいお方が手ずから入れてくださった紅茶を、ちびボットが遠慮なく魔法陣を浮かび上がらせて、何やら調べている。大公殿下が同じお茶を口に付けているにもかかわらず。
ボットが私にニコッと目配せする。ちびボットがティーカップを宙に浮かせ、頭の上でひっくり返した。と同時に浮かび上がった魔法陣に紅茶が零れ落ち、どこかに消えた。
チラッと視界の端でボットを捉えると、喉がゴクンと動いたのが見えた。飲んだ……のだろうか?
慌ててティーカップに手を伸ばした私の横で、今度は大きなロボットが、宙に描いた魔法陣の中にティーカップごと腕を突っ込んだ。
そして、魔法陣からチューブのような腕を引き抜いた。その手には何も掴まれていない。
一瞬の後に、ボットの手元にティーカップが姿を現した。左目にはティーカップが映っていないということは、ボットが持っているティーカップは私以外には見えていないということだろうか。こんがらがってきた。
コルセットをしていないにもかかわらず、今度は胸が痛む。
ボットを見ないように視線を大公殿下に向け、引き攣った笑みを浮かべながら、紅茶に口をつけた。
混乱した頭のせいか、味がさっぱりわからない。何か味の感想を言ったほうがいいのだろうか。だけど、何の味もしなかった。泣きたい。
「紅茶を飲めるんだな、辺境公。それに、ずいぶんと人付き合いが良くなった。その女の子のおかげなのかな? まさか、辺境公とお茶を楽しめる日が来ようとは思いもよらなかったよ。本当に、先のことなんてわからないものだな。へなちょこで役立たずの第三王子だった私が、君のおかげで今や大公殿下だなんて呼ばれている。それだけでも驚きなのに、壊れたロボットだなんて名乗って碌に口もきいてくれなかった君が、感情をあらわにして王宮にまで押しかけてくるとはね。いやはや、世の中ってやつは本当に不思議なことで満ち溢れているね」
人好きのする笑顔を浮かべた大公殿下が、うんうんと言いながら、昔を思い返すようにどこか遠くを見つめる。
そこに、すべてを台無しにするような、ちびボットの甲高い声が響いた。
「くだらない昔話はいいから、とっとと本題に入れ」
ちびボットにまん丸の目を向けた大公殿下が、お腹を抱えて笑いだす。
「うんうん、わかりやすくていいね。私は嬉しくて嬉しくてたまらないんだよ。君に少しでも借りが返せると思うとね。あと、もう少しだけ私にも優しくしてくれると、もっと嬉しいんだがね。おっと……本題だね。結論からいうと、君の要望どおりにさせてもらうよ。まずはアルベルティーナ・ホルン嬢に負わされていた咎をすべて、女王陛下の特別な恩赦として赦そう。それから、取り潰されていたホルン伯爵家を再興し、アルベルティーナ嬢をホルン伯爵家令嬢として認める。その上でキッティラ王立魔術学院への推薦状を出そう。守護精霊付きの特待生としてね。ただ、我が王国では家名と爵位だけを与えることができるのは名誉男爵のみでね。名誉伯爵というものは前例がない。ゆえに、領地と伯爵位を切り離すわけにはいかなくてね。差し当たって、ホルン伯爵領は王領と同じく代官を派遣してこちらで面倒を見るが、アルベルティーナ嬢が成人したあかつきには後継者として領地を治めてもらう。それでもいいかな?」
あっさり、いいだろうと答えるちびボット。
そのやりとりに、思わず私の口が勝手に開き、えっ? と大きな声を響かせた。
伯爵家の後継者? えっ? 後継ぎ? 伯爵になるってこと? 私が? 成人したら? 成人って十四歳で? って、あと二年ちょっとってこと?
「あっ……あの……」
思わず、大公殿下に話しかけそうになった私は、慌ててちびボットに向き直る。
「伯爵家って……その……」
「心配しなくていいよ、ホルン。学院を出たら旅に出てもいいし、どこでも好きなところで暮らせばいいからね。魔境でもいいし、海の近くでもいいし、もっと涼しいところでも、もっと暑いところでも、どこだっていいんだよ。気にいったところがあれば、そこに家を建てればいいからね。もちろん、僕もついていくし、伯爵領なんてバカ大公がどうにでもするさ」
ボットの私を想う気持ちが入り込んでいるせいか、ちびボットの甲高い声が、いつもより耳に心地よく響く。思わず、ポーッとしてしまう。
ちびボットの小さな小さな歯車が、やさしく回っている。うん? この言葉はボットの言葉なんだよね? ちびボットが勝手にしゃべってるんじゃないよね?
思わず、視界の端っこにいるボットを確認する。そこにはいつもの優しい微笑みを浮かべたボットがいる。よかった。ボットだ。
「辺境公はアルベルティーナ嬢にはずいぶん優しいんだな。私にもその優しさのひと欠片でもいいから向けてもらいたいものだな。それと、女王陛下にもね」
組み合わせた手の上に顎をちょこんと乗せた大公閣下が、拗ねたような目でボットのいる場所を見る。
大きなロボットでもなく、ちびボットでもなく、ボットがいる空間をじっと見つめている。
えっ? 見えてる? ボットがスーッと場所を移動して大きなロボットと重なる。
すかさず、大公殿下の視線もスーッとボットを追って動く。
「ふふふふっ。恋する乙女の瞳というものは正直だからね。どうしても愛しい人を目で追ってしまうものだよ。うらやましいな、辺境公。それほどまでに相思相愛とは。女王陛下と私の若かりし頃を見ているようだな」
私が見てたから? 恋する乙女の瞳で? 一気に血が上って、自分でも顔が真っ赤になったのがわかった。
思わず、テーブルに頭を打ち付けるほど視線を落とした私に、大公殿下の言葉が追い打ちをかける。
「私も辺境公の本当の姿を見てみたいんだが、やはり愛が足りないと見えないのだろうね。女王陛下を愛する気持ちは誰にも負けないつもりだが、さすがに辺境公となるとね。命の恩人ではあるのだが、愛とは少し違うんだろうね。うーん、残念だね。まあ、しかたがないね。愛し合うふたりの間に割って入るのも無粋だしね」
大理石でできたピカピカのテーブルに額を押しあてた私の頭の中に、ボットの声が直接響いてくる。
『はったりだよ、ホルン。バカ大公は何もわかってない。ただ、こいつは王女の心を手に入れるためだけに、絶対に負けるとわかっている戦いに身を投じた生粋の恋愛バカだからね。なにかピンと来るところがあったんだろうね。ただ、僕の本当の姿を見ることはできないし、ロボットが僕ではないとばれたところで何の問題もないよ。魔術師から見ると、あのロボットは何かの魔術で動いていると思われているしね。精霊使いから見ると、中に精霊が入っているかもって思われているし、どっちでもいいんだよ』
うーん、そう言われるとそのとおりかもしれないけど。でも、私がずっとボットを目で追っている、とはっきりと言われてしまうと、恥ずかしいやら、ボットに申し訳ないやらで顔を上げられなくなる。
大理石で冷やされる額も心地良く、できればこのまま下を向いていたい。
気をつけていたつもりなのに、そんなにボットを目で追っていたんだろうか。
でも、ボットだけが頼りだし、どうしてもボットをチラチラと見てしまっていたんだろう。
駄目だ。このまま、大理石にくっついていよう。
そう決意した私の耳に、誰かが近づいてくる衣擦れの音が聞こえてきた。
誰だろう。でも、いいや。あとは、ボットに任せよう。そもそも、私はしゃべらなくていいんだ。テーブルと同化してしまおう。
うんうん、そうしようと思った私の頭上で、いっそうテンションの上がった大公殿下の声が響いた。
「これはこれは、女王陛下。心配しておりましたぞ。ご機嫌麗しいご様子でなによりです」