3 ボットとホルン
食事を作ることがこんなにも楽しいことだなんて、今まで思いもしなかった。
孤児院にいたときはそれはそれは大きな鍋で、たくさんの野菜や豆や雑穀を煮込んでいたのだけど、掻き混ぜるのは年長の男の子だったし、味付けは卒院前の十一歳の女の子と決まっていた。
私の仕事は主に、野菜を刻んだり、配膳したりすることだった。
それが男の子のお屋敷に来てからは、食事はすべて私に任されることになった。
ふたり用のお鍋で、男の子の狩ってきた野鳥や野兎をワインや香草・蜂蜜・塩・胡椒を使って野菜や雑穀と一緒にぐつぐつと煮込む。貴族の料理というよりは庶民の料理なのだけど、肉や香辛料を贅沢に使っているため、頬っぺたが落ちそうになるほどおいしい。
男の子も私が料理をしている間ずっと、せわしなくキョロキョロと動き回って、私の顔と鍋を楽しそうに覗き込む。幸せだ。ほんの一週間前までの悪夢のような日々がまるで嘘のようだ。
伯爵家を逃げ出してからの日々が悪い夢だったのか、それとも、今の自分が夢を見ているのか、たまに頬っぺたをつねって確認してしまう。
その度に、男の子が目をパチパチと不思議そうに瞬いて、私の赤くなった頬っぺたを優しくなでてくれる。それも幸せで、しばらくするとまた自分の頬っぺたをつねってしまう。
男の子――ボットと呼ぶことになった丈の短い紫黒のコートの下に白金色の花紋柄のベストを着こんだ、私と同じくらいの年齢の男の子。
キュロットから覗くその華奢な脚では、とうてい森の中を自在に走り回れるようには見えない可愛らしい男の子。
でも、このボットこそが、毎日野鳥や野兎を瞬く間に狩ってきてくれるハールバルズ辺境公爵本人であり、私の右目だけにその姿を映す私の前世の大切な友達……らしい。
私の前世は楽器だったらしく、ホルンと呼ばれてずっとボットと一緒にいたそうだ。
じゃあ、ボットの前世は? と聞くと、ボットは宙に浮かぶロボットの左目の部分に当たる歯車を指差して微笑んだ。……歯車と楽器? パチパチと目を瞬かせた私に、ボットはクスクスと可愛らしい声で笑った。
どこにも行けなかったし、退屈で退屈でずっとホルンに話しかけてたんだ。ずっと、ずっと、ずーっとね。ホルンだけが僕と一緒にいてくれた。ずっと、ずっと、ずーっとね。
でもね。
ボットはすっと目線を落とした。
ある日、ホルンを奪われてしまったんだ。そして、世界は滅びた。僕には何もできなかった。ボットは悲しそうに首を振った。
一拍おいた後、ボットはパッと目を輝かせて、笑顔を見せた。
でも、僕は動けるようになった。ホルンも意志を持って動けるようになった。もう、二度とホルンを手放さないからね。ずーっと一緒だよ。ずーっと、ずーっと、ずーっとだよ。そう、ボットは言ってくれた。嬉しかった。
歯車と楽器の話を信じるかと言われれば、うーんと首を捻ってしまうけど、ボットは私の命を救ってくれただけじゃなく、幸せまでくれた。
世界が滅んだなんて大袈裟だけど、そのくらいその楽器のことが大好きだったんだろう。
ボットは言葉どおりずっと一緒にいてくれて、私の作ったご飯をおいしい、おいしいって食べてくれる。本当に幸せだ。
それに、ボットのお屋敷はすごい。いたるところに魔法陣が配置されている。
今、煮込みに使っているコンロも、ボットお手製の高性能コンロだ。ほんのちょっとの魔力を使うだけで、驚くほどの強い火力を長時間にわたって出すことができる。
伯爵家にあったコンロで魔法の訓練をしたときは、一時間ほど弱火を出すだけでぐったり疲れてしまった。
魔法陣の力は書き込むルーン文字や配列によっても変わるけど、ルーン文字にちりばめられる魔石の質によっても変わる。
魔境で暮らしているボットは、魔獣を倒して魔石を手に入れ、それを魔法陣にふんだんに使っているらしい。
それが、コンロだけではなく、冷蔵庫、洗濯機、灯り、結界などありとあらゆるところに、これでもかというほど使われている。さすがはボット。世界最強の魔術師か精霊と言われる雲の上の存在。
そのことを、ボットにキラキラと目を輝かせて伝えると、ボットは照れたように頭を掻いた。そして、優しく言ってくれた。
僕はホルンの守護精霊だからね、と。
守護精霊――普通、精霊は精霊界に住んでいて、契約を結んだ人間の呼びかけによって、魔力と引き換えに人間に手を貸してくれる。
そういう精霊を契約精霊というのだけど、まれに、生まれた赤ん坊の魂に結ばれた状態で人間界に生まれてくる精霊がいる。
そういう精霊は守護精霊と言われる。守護精霊は一緒に生まれてきた人間が死ねば存在が消えるため、対価なしに守護主を守ってくれる。
さらに、呼びかけで現われるわけではなく、常に守護主と一緒にいるため、守護精霊を持つ者は常に危険から身を守られることになる。
そのため、守護精霊を持って生まれてきた人は、王族の警護や宮廷女官といった高い地位につくことも容易だし、貴族の側女としての価値も高いとされる。
ボットは生まれたときに私の傍にいなかった訳だから、守護精霊ではない。だけど、守護精霊みたいに私を守ってくれるということなんだろう。嬉しかった。
今、思い返しても顔が耳まで真っ赤になりそうだ。
それに、ボットはたぶん精霊なんだろう。私と同年代でこれだけの魔術を使える存在が人間だとは思えないし、私の右目にしか映らないんだから。
もういいかなと、お鍋からお皿にごった煮を移す。ボットがお皿を食卓に運んでくれる。グラスにレモンを絞った水と氷を落としこみ、パンの横に並べる。
ボットは辺境公爵様だから、もっとたくさん作ろうかと言ったのだけど、ホルンと同じものを同じだけ食べるからと言ってくれる。
ひょっとしたら、ボットは精霊だから、魔境で魔力を集めてるのかもしれない。でも、ボットはやさしいから、おいしい、おいしいって一緒のものを食べてくれる。
ふたりで、いただきますって言って、ご飯を食べる。今日は一緒に香草を摘みに行く予定だ。ボットが飛んで連れていってくれるから、あっというまだ。
魔獣がいっぱいいる魔境だけど、ボットがいれば魔獣は一頭も近寄ってこない。
ああ、そういえば、ポルムの実がなる季節だ。ちょっと遅いけど、この辺りは標高が高いから今頃がちょうどいい時期かもしれない。
赤い実がボットのちっちゃな赤い唇に齧られるところを想像して、なんだか顔が熱くなるのを感じた。ボットが、あれっ? という表情で私の顔を覗き込む。
慌てて、グラスに手を伸ばして喉に水を流し込んだ。なんだか、すべてが幸せだ。
ごまかすような照れ笑いを浮かべた私に、ボットはクスッと笑った。そして、ふと思いついたように口を開いた。
「そうだ、ホルン。明日は一緒に王宮に行こうよ。昨日、この前の虫けら騎士隊の隊長がようやく王都に入ったからね。今日あたりバカな女王様に報告を入れてるだろうしね」
近くの町に買い物に行くような軽い口調に、私はめまいを覚える。一週間前の光景が悪夢のように脳裡をよぎる。
ボットは私を助けるために騎士隊の頭上に、それはそれは禍々しい魔法陣を浮かび上がらせた。魔法にまったく素養がない者でも、自分の命どころか町のひとつやふたつ一瞬で吹き飛ぶと確信するほどの魔法陣を。
幸いにも隊長の迅速な判断で事無きを得たけれど、ちょっとでもしぶっていれば騎士隊どころか、あの町が消滅していたかもしれない。
ボットは優しい。ものすごく優しい。でも、私以外にも優しいのかどうかは正直わからない。
そして、私を傷つける者には、おそらく容赦はしない。私は愛されている。間違いなく愛されている。
それは幸せだけど、できれば私のために誰かに傷ついてほしくない。たぶん、私は我儘なのだろう。
「えーっと……何しに行くの? この前のことなら、もう大丈夫だからね。ボットがいてくれれば私は他に何にも要らないし、ここで暮らしていれば、王宮と関わることもないよね」
おずおずと伏し目がちに様子をうかがう私に、ボットは白い肌を少しだけ桃色に染めた。
「僕がいるだけで……うん、僕もホルンさえいてくれれば何にも要らないよ。ホルンさえいてくれればね」
よかった、と思いながら顔を真っ赤に染めているであろう私に、ボットは大きく頷いた。
「そのために行くんだよ、ホルン。まずは王宮に行ってホルンを伯爵令嬢だと認めさせて、キッティラ王国にある王立魔術学院への推薦状を書かせるんだ」
学院という言葉に私は記憶を探りながら、熱くなった顔を冷やすために、グラスの氷を口に放りこんだ。
「キッティラ……ああ、精霊契約ができる学院だったっけ……うーん、でも、ボットと離れ離れに……」
「大丈夫だよ、ホルン。僕はホルンの守護精霊だからね。守護精霊は守護主といつでも一緒にいることができる。授業中だろうと何だろうとね」
そう言って、ボットはいたずらっ子のような笑みを浮かべ、人差し指をくるっと回してみせた。
指先の空間から光が溢れ出す。目が眩むほどの光で描かれた小さな魔法陣が宙に浮かび、ふっと消えた。
そして、消えた光の後に、四角い頭と胴体をもつロボット辺境公爵をそのままミニチュアにしたような、小さな手乗りサイズのロボットが現われた。