11 冥界の女王ヘルの罠
頼もしいボットの笑顔に、思わずクラクラっと引き寄せられそうになる。そうだ。最高神オーディンは戦神でもある。ボットはその左目だ。しかも、知恵の泉にずっと沈んでいた。知恵ならオーディンを上回っていてもおかしくはない。
オーディンだけが知っていた完全なルーン文字や、魔術の神とも言われるオーディンの魔術の知識だって、ボットは持っている。力は片目分しかないとしても、その頭脳は最高神そのものだ。うんうん、さすがはボット、頼もしいはずだ。
でも、さっきボットは言った。神に狙われているって。なぜ? 神そのものではないにせよ、ボットは神の一部だ。
ラグナロクを生きのびた神は数えるほどしかいない。神だってボットの知識や知恵が必要なはずなのに。
うん? だからこそ狙われているのかな? でも、それなら教えてって頼めばいいのに。
私が知らない間に何かあったのだろうか。私は、うーんと首を捻りながら、開いたままの口から声を出した。
「ねえ、ボット。ボットだって、神族ではあるよね。神から狙われてるってどういうこと?」
『ホルン、世界が滅びた後、復活する神がいたよね。バルドルとヘズだよ』
ボットは私を脚の上に乗せたまま、私の肩に両手を置いた。
あー、そうだったねと答えながら、私は記憶を探った。
光の神バルドルとその弟である盲目のヘズ。ふたりはその昔、ロキの悪巧みによって命を落とした。たしか予言によると、ラグナロクの後、復活するという話だった。
『ふたりは世界が滅ぶ直前に蘇って、巫女に予言を与えられたらしいんだ。盲目のヘズは兄バルドルとともに最高神オーディンの左目と光の神ヘイムダルの右目を手に入れる。そして、新たな世界の最高神となるだろうってね』
えっ!? という私の声が部屋に響き、沈黙が訪れる。
どういうこと? オーディンの左目ってボットだよね。
ヘイムダルの右目ってなに? ヘイムダルは死んだ。復活していないはず。
そういえば、復活するってどういうこと? 死者を蘇らせることができるのは冥界の女王ヘルだけだ。
じゃあ、ヘルがふたりの神を蘇らせて……
えっ!? ひょっとして、私を生まれ変わらせたのもヘルなの?
ボットは知恵の神のような思慮深い笑みを見せながら、私の肩においた手に力を込めた。
『ヘルはまさか、ロキがギャラルホルンの角笛を壊すとは思っていなかったと思う。だって、ホルンが壊れれば、炎の巨人スルトが解き放たれる。そうすれば、スルトは親の仇である神族を殺そうと動き出す。その結果、ヘルと冥界の住人は滅び去る。スルトのいる灼熱の国から神の国にいたるには、冥界を通る必要があるからね。とんだ、とばっちりだけどね。ヘルだってロキだってそのことは知っていたはずなんだ。だって、予言の巫女はヘルの母親だからね。知らないはずがない。でも、どこかで予言は外れるんじゃないか、自分たちは生き残れるんじゃないかって、みんな思ってた。だから、最終戦争は起こったし、世界は滅んだ。ただ、ロキは悪戯の神でもあるからね。最後の最後に悪戯心が起きたのか、それとも光の神ヘイムダルが憎くて、その耳であるホルンも壊したのか。そればかりは、ロキにしかわからない――』
ボットの神々しい笑顔にまたしてもクラクラしかけた私だったが、耳という言葉に耳がピンと跳ねて、遮るように声が飛び出した。
「――耳って、どういうこと?」
『あれっ? 言ったことなかったっけ?』
ボットは首をコトンと傾げて、大きな瞳をパチパチと瞬かせた。
『ギャラルホルンの角笛は光の神ヘイムダルの耳の骨を中核として作られてるからね。ホルンは僕と同じで、神の一部なんだよ』
えっーーー!? 初耳ですけど……って、耳だけに? いやいや、そんなことを思ってる場合じゃなくて。
『耳だから聞こえてるはずだと思って、ずっと話しかけてたんだよ、ホルン』
思ってもみなかった衝撃の事実に、私は口をパクパクしながらボットの左目を覗き込んだ。
私がボットと同じで神の一部……えー、しかも耳だなんて。
じゃあ、ボットにしてみれば、ずっと耳が傍にいたってことなんだ。
それで、ずっと私に話しかけてたんだ。
でも、ボットって目だよね。まあ、最高神の目ともなるとそれぐらいのことはできるのだろうけど。
たしかに、ボットの声は聞こえてたわけだし。
「あれっ? でも、それだと私じゃ目の代わりにならないよね?」
『そうなんだ。ホルンの力は右耳の耳骨にあるからね。その力が右目に及んでいるから金色に見えるんだ。そして、おそらく、ホルンの右目を取り出そうとすると、扉が開いて再び世界が滅ぶことになる。ヘルは冥界に自分を閉じ込めたオーディンを恨んでいたからね。さらに言えば、世界そのものをね。だから、自分が死ぬ直前に、オーディンの一部である僕を殺し世界をも滅ぼす罠を仕掛けたんだ。僕とホルンの目をヘズの両目とすれば、ヘズは全知全能の最高神となるという偽の予言を与えたうえで、バルドルとヘズと蘇らせ、ホルンを生まれ変わらせる。ヘルにしてはえらく手が込んでいるから、ひょっとしたら悪戯の神ロキの入れ知恵かもしれないけどね』
私は開いたままの口から、長い息を押し出した。今日は口が開きっぱなしだ。
滅ぶ前の世界のことをようやく思い出したと思ったら、自分も神の一部で、神から指名手配を受けていて、捕まったら世界が滅ぶという、目も当てられないことになっているだなんて。
ああ、でも、ボットと私はまったく同じ身の上なんだ。
私だけなら、神にあっという間に捕まって、世界滅亡一直線だ。でも、ボットがいる。ボットがなんとかしてくれる、きっと。
でも、バルドルはオーディンの息子で光の神だ。ボットといえども戦って勝てる相手じゃないよね。
人の世界では最強でも、神の世界ではどうなんだろう。あっ、そういえば、今までボットは神に捕まらなかったんだろうか。
「ねえ、ボット、今までどうやって神から逃げてきたの?」
『復活した世界では、世界の扉が閉じられたままだからね。強い力を持った神は人の世界には長く留まれないんだ。世界が復活して三千年ほどになるけど、人の世界で自由に動き回れるのは半神のヴァルキュリヤぐらいだし、僕を見つけられるほどの力は持ってないんだ』
うーんっと、たしか、ヴァルキュリヤって神の命令で人の魂を集めてるんだよね。世界の扉が閉じてる? えーっと、どういうこと? とりあえず、安全ってこと?
『新しいヴァルキュリヤは神と人との子供だからね。そんなに強くないんだ。ソフィーが完全な魔法陣を使えれば、ヴァルキュリヤより強くなると思うよ』
あっ! ソフィーのことをまた忘れてたよ。どうしよう。しかも、ボットに剣を捧げるということは、神の敵になるってことじゃないの? 命を対価どころじゃない気がする。
おずおずとソフィーのことを切り出した私に、ボットは聞いてみたら、と軽く応えた。自分の歩く道は、自分で決めないとね、と。
うーん、としばらく悩んだ私だったが、期待に目を輝かせていたソフィーの姿を思い起こすと、やっぱりダメとは言いにくい。
でも、神の敵になることを教えれば、ソフィーもあきらめるだろう。あんまり待たすのも悪いかなと思って、私はソフィーを呼び出した。
ソフィーは頭を下げたまま辺境公ロボットの前まで進むと、再び騎士の礼をとって剣を恭しく差し出した。
「剣を捧げる相手を間違えているぞ、ソフィー・エレオノーラ。私は誰かに守られる必要などないし、貴様に魔術を教えるのはホルンだからな」
ちびボットの甲高い声で、ソフィーが私を振り返り、驚いたように目を瞠る。私も驚いて、ボットに向かって目を瞬いた。
『そうだよ、ホルン。そもそも、僕は人の描いた魔法陣が読めないからね。それに、ホルンには全部教えてるよ。完全なルーン文字も魔法陣もすべてね。ずっと、ずっと、ずーっと僕はホルンに話しかけていたからね』
ボットはちびボットと重なったまま、クスッと頷いた。たしかに、そうかもしれない。でも、と思いながら私はソフィーに向きあった。
「ねえ、ソフィー。私とボットは神に狙われてるんだって。ソフィーが私に剣を捧げるってことは、神を敵に回すってことなの。ソフィーは魔力もすごいし、学院で授業を受けるだけでも、ものすごい魔術師になれるよ。私たちには関わらないほうがいい」
「ねえ、ティーナ。ひとつだけ質問していいかしら?」
くだけた口調を装いながらも、ソフィーの声はすこしだけ震えていた。そして、頷いた私に引き攣った笑みを浮かべた。
「あなたが死ねば世界が滅びるの?」