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10 世界の終末の記憶

 何故だか、溢れる涙がとまらない。目が流れ出す涙でふやけてしまいそうだ。私は思わず目と口を手のひらで懸命に抑えた。溢れ出す涙と一緒に、零れそうになる想いが、頭の中でぐるぐる回る。

 

 ねえ、ボット、命が対価だなんてどうかしてる。命と引き換えにしてまで、手に入れなければいけない力なんてない。

 その力で誰が救われるの? そんなに力が必要なの? 力がなかったから? ねえ、私に何の力もなかったから、女王陛下は私を殺そうとしたの? 私に力があれば、伯爵家の皆様を助けることができたの? 私にボットほどの力があれば、ボットほどの魔力があれば、ボットの描く魔法陣があれば、伯爵家から逃げ出さなくてもよかったの? そうかもしれない、そうかもしれないけど、ボット。ねえ――


 抑えきれなかった耳から、剣と剣が激しくぶつかり合う音が聞こえる。罵り合う声が聞こえる。ああ、この声を私は知っている。ヘイムダルだ。じゃあ、戦っている相手は……そう、ロキだ。憎しみ合うふたりの声が交差して……そして、静寂が訪れた。


 ――ねえ、じゃあ、私に力があれば、世界は滅びなかったの? 私が壊されなかったら、世界は終わらなかったの? ねえ、ボット……


 溢れる涙が、右目をひたす涙が、なんだか懐かしい。

 そうだ、私はずっと、こうやって泉の中にいた。

 泉の底でずっと、ずっと、ずーっと……ボットと一緒にいた。

 ああ、懐かしいな。昔みたいに水の中にいるみたいだ。泉の中でボットと一緒に……えっ? おかしいよね? ねえ、ボット、あなた誰? 歯車じゃなかったの? ちがうよね。歯車じゃない。私と一緒にいたのは左目。


 そう、思いだした。ねえ、ボット、私と一緒に隠されていたのは――


『ねえ、ホルン、ごめんね。僕が言ったのは、命をかけてホルンを守る代わりに、ソフィーに魔術を教えてもいいって意味なんだ。ほら、騎士だって主に剣を捧げるじゃないか。命をかけて主を守りますってさ。そういうのもありかなって思っただけなんだ。ねえ、ホルンってば』


 ボットの声が頭の中に響いてくる。水の中で聞いているみたいだ。

 ゆっくりと染み込んでくるみたいに、沈み込んでくるみたいに、まるで昔みたいに心に響いてくる。

 ああ、そうだ、この声だ。いつも私に語りかけてくれてた声だ。

 そうだ、言わなくっちゃ。ずっと一緒にいてくれたボットに。

 そう思った私は鼻をすすりながら、喉をうーんって震わせて、なんとか声を絞り出した。


「あり、がとう、ねボット。ずっと、いっしょ、にいて、くれたね。わたし、ねボット、のこと、思い出した。ずっと、ずっと、ずーっと、一緒にいてくれて、話しかけてくれて、ありがとう、ボット」


 えっ! というボットの大きな声が頭に響く。ボットの動きがとまった。何も聞こえなくなった。

 びっくりして、大慌てでゴシゴシと右目をこすって、涙を追い払う。

 よかった、ボットがいた。右目に映ったボットは私の足元で、丸まって震えていた。


 ぐずぐずって鼻をすすってるボット。

 私はボットの小さな背中に覆いかぶさった。ありがとうね、ボットって何度も言いながら。

 ボットはずっとブルブル震えながら丸まっていた。

 そうだ、私たちはずっとふたりでいた。そう思いながら、ボットの背中をさすり続けた。


 どのくらいの時間がたっただろうか。ぐずぐずと鼻を鳴らし続けるボットを抱え込むようにしていた私の視界の片隅で、何かが動いた。

 あっ! 忘れてた。ソフィーだ。完全に、ありえないほどに、忘れてた。たぶん、ずっと辺境公ロボットに向かって頭を下げていたのだろう。さすがの長丁場に、ちょっとだけ体が動いたのだ。

 えーっと、どうしよう。私、何かしゃべったよね、と思いながら今までの記憶をたどった。

 うん、大丈夫。ボットのことを思い出したって言っただけだ。ボットの声は聞こえてないはずだし、私とボットの関係はよくわかってないはず。でも、私のこの姿勢はおかしい。

 ソフィーはこっちを見ただろうか? うーん、まるっきり見えてないとも考えにくいな、と思いながら立ち上がった。


「えーっとね、ソフィー。命を対価にっていうのは、命を差し出せっていう意味じゃないんだって。命にかえてもあなたを守ります、みたいな意味らしいよ」


 鼻をズズーッとすすりながらソフィーに向き直った私を振り返ることなく、ソフィーは辺境公ロボットに向かって騎士の礼の姿勢を保ったまま、礼節あふれた声を響かせた。


「それはハールバルズ辺境公爵様に剣を捧げれば、私に魔術を教えてくださるということでしょうか?」


 これほど期待に満ち溢れた声というものを、私は今まで聞いたことがない。私とボット、そしてソフィーの間にはものすごい温度差がある。

 どうしよう。ボットはどうしようとしてたんだろう。でも、ボットはしばらく動けそうにない。

 ボットは今まで私の記憶を無理に呼び覚まそうとしなかった。

 思えば、ずっと待ってくれてたんだろう。私がボットのことを思い出すのを。ううん、恐かったのかもしれない。私がボットのことをすっかり忘れてしまってるんじゃないかって。


「ねえ、ソフィー。ボットと話したいことがあるから、すこし時間をもらってもいいかな。個室で待っててもらえると嬉しいんだけど」


 お願い口調の私に、ソフィーはすぐさま、かしこまりましたと応えた。辺境公ロボットに頭を下げたまま、後ろ向きで下がっていく。

 えーっと、それも公爵令嬢の動きじゃないよね、ソフィー。後ろに進むような作法は女性にはないよね、という私の心の声はソフィーにはもちろん届かない。

 音もなく後ろ手でドアを開けて、音もなく個室に消えていったソフィー。今さら魔術を教えないなんて言ったら、どうなるんだろう、と思いながらその姿を見送った。


 ふと見ると、ボットが床に足を投げ出して私を見上げていた。金色の左目も、銀色の右目も、泣き腫らして真っ赤になっている。


『ねえ、ホルン。思い出したって言ったよね。その……僕が何だったかもわかるの?』


 恐る恐るといった感じで、ボットがすこし掠れた声を出した。ボットの金色の左目に吸い寄せられるように、私の右目がすっと近づく。


「うん、わかるよ、ボット。ボットはね、オーディンの左目……」


 そう、ボットは滅びた世界の最高神オーディンの左目だ。

 オーディンは知識と魔術を手に入れるために、左目を代償としてミーミルの泉の水を飲んだ。

 ボットはそれ以来、ミーミルの泉の底にいた。

 神の一部でありながら、神に捨てられた存在。それがボットだ。

 泉の底に一緒にいた時は、ボットの話を子守唄のように聞くだけだったけど、そういえば、ボットはどう思っていたんだろう。

 つらかったの? 苦しかったの? 寂しかったの? ボットの気持ちを思うと、応えなかったほうがよかったのだろうかと、思わず口から出た言葉を呼び戻したくなった。


 ボットはキュッと唇を噛みしめた。そして、ためらうように喉を震わせて、赤みを増した唇を開いた。


『ホルンのことも思い出しちゃったの?』


 ああ、やっぱりボットは優しいな。いつだって、そうだ。自分のことより私のことを心配してくれるボット。

 伸ばしかけた手も、憂いを帯びた瞳も、開いたままの唇も、全部、全部、私のことを思ってくれている。


「うん、思い出した。ボットの言ってたとおり、私が壊れて……世界が滅んだんだね」


『ちがうよ、ホルン。予言で決まってたんだ。どうしようもなかった。ホルンのせいじゃないよ。誰にもどうにもできなかった。それに、もう世界は滅んだも同然だった。ホルンが壊れなければ世界の再生もなかった』


 ボットの声には迷いがなかった。そうかもしれない、ボットの言うとおりかもしれない。

 世界は三度の冬を迎え、人も妖精も死に絶えていた。

 神族と巨人族は最終決戦へと向かい、光の神ヘイムダルは私を泉の底から引き上げ、高らかに吹き鳴らした。

 ギャラルホルンの角笛はラグナロクの到来を告げ、世界の終末の日の戦いが始まった。

 そして、ヘイムダルは神であり巨人族だったロキと戦い、相打ちとなった。

 『終わらせる者』の異名どおり、ロキは最後の最後に私を壊した。たぶん、ロキは知っていたのだろう。私が壊れればすべての扉が開かれることを。

 だから、私はミーミルの泉の底に隠されていた。世界を滅ぼす危険な角笛として。

 私が壊された後、世界がどうなったのかはわからない。

 でも、知恵の泉と呼ばれるミーミルの泉にずっと沈んでいたボットは知っていた。

 扉が開けば、灼熱の世界の門番である炎の巨人スルトが解き放たれることを。

 その結果、スルトは炎の剣で世界を焼きつくし、世界が海の底に沈むことを。

 そして、世界が再び蘇ることを。

 ボットが語ってくれた予言を、私も知っていた。


 でも、と私は思う。たしかボットが教えてくれた予言では、オーディンもロキも、他のほとんどの神や巨人も蘇らないはずだ。

 私が生まれ変わるだなんて、予言にはなかった。神じゃないから生まれ変われたんだろうか。

 でも、いいんだろうか。もし、私がギャラルホルンの力をそのまま持って人間に生まれ変わったのだとしたら、大変なことになるんじゃないだろうか。

 もし、炎の巨人スルトが生きているのなら、新しい世界だってまた燃やされてしまうんじゃないの? 思わずブルっと身震いを覚えた私は、ボットに乗りかかった。


「ねえ、ボット。ひょっとして、私が死ねばまた扉が開くの? ねえ、スルトはどうなったの?」


『安心して、ホルン。そのためにこの学院に入ったんだよ。精霊と契約して仲間を増やすんだ』


 ボットは白い頬っぺたを桃色に染めて、にっこりと私に微笑んだ。何の心配もいらないよ、というように。


「ねえ、ボット。それは、つまり、スルトは生き残ってて、私が死ねば世界をつなぐ扉が開くってことだよね?」


 うーん、とボットは困ったような声を出した。


『そういうことになるね』


 最悪だ。そもそも私は人間だ。それはどう考えても間違いない。寿命だってある。滅びた世界の神だって、黄金のリンゴを食べて不死を保ってたはずだ。どうしたらいいの?

 えーっと……そうだ。神の世界でかくまってもらえばいい。たぶん、自由は奪われるけど、新しい世界が滅ぶよりはましだ。

 そう思って、ボットの目を見つめた。ボットと会えなくなるのかな、と思うとスーッと気分が落ち込んだけど、しょうがない。


「ねえ、ボット――」


『だめだよ、ホルン。僕もホルンも神から狙われている。戦うしかないんだ。今度こそ、予言どおりになんてさせないよ。言ったよね、ふたりでいれば大丈夫だって。約束するって』


 ボットは私の唇を指で押さえて、戦神のような不敵な笑みを見せた。

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