海の見える庭
地下鉄から顔を出すと、眩しい光が車内を刺し、目を閉じていた人たちも眉間に皺を寄せている。景色が見たかった私は首を少し伸ばし、肩と肩との隙間から見える風景をちらちら見ていた。
二子玉川からしばらくすると小さい家々やマンションが縦に連なり、山を作っている。頂点には太い柱が君臨し、細い線を四方に伸ばし街を束ねていた。あまり聞き覚えのない駅名が呼ばれ、目前の人たちがちらほらと電車を降りるが、おんなじくらいの量の人が入り込んできて、前の席が空いたと思ったら、また広い肩で過ぎる景色をぶつ切りで見るしかなくなった。小さいカバンに、文庫本一冊と携帯とiPod、財布、ポーチ。手を突っ込んで文庫本に触るが、ためらって手を離した。
横浜の街が近づいてきた、今日はどこで降りようか…。暇な電車の中、景色もろくに見れなかったから、東京に来てから初めての山下公園で海を見ながらにしようかな。電光掲示板を見る。たしか…山下公園へ行くには"元町中華街"で降りればいいのかな、…、終点じゃん。
「次はー終点、元町中華街、お忘れもののないようご注意くださいー。」
少し、そわそわした気持ちになり、背もたれから腰を浮かせて座っていた私は、アナウンスと同時に席をたちドアの目の前にいった。広いホームに出迎えられドアが開く、一番に電車を降りた。後半はまた地下に潜っていたので、階段を上がると夏の雲一つない青空と太陽の光にくらくらした。前に中華街の門のようなものがある。逆だな、と思いくるっと軀を回転させると、林のが見えた。とりあえずそっちの方向に進むことにした。
見えてきた、林の間から見える大きな船の姿。小学生くらいのころ、夏の家族旅行であの船の前で写真を撮ったことが鮮明に思い出された。うん、ここが山下公園だ。記憶を辿って、確信を持った。
海の脇を歩きながらいい具合のベンチの見つけ腰を下ろした。日差しは強かったが、そのベンチは木が直射日光を遮ってくれていた。先程まで滴るほどの汗をかいていたが、座ってしばらくするとじんわりとした汗にかわっていた。海ならではのザバーンという波が打ち上がる音がしなくて、なんだかつまらなかったが、夏の静かな海を眺めているのはそれはそれで、日本海側育ちの私にとっては新しかった。後ろでは、芝生で幼稚園児とみられる子どもたちの遊んでいる声が聞こえてきた。
さて…。と、カバンから文庫本を取り出した。ここでしばらく読書をする、ということである。大学生の夏休みは思った以上に苦痛だった。バイトに部活、予定を入れているつもりでも、まだ時間が余る。特に目標もなく学生時代を過ごしていた私は、この長期休暇を持て余していた。そこで、その頃は、適当な本を選び、思いつきの場所で本を読んで、帰宅。という暇の潰し方がマイブームになっていたのだった。いざ本を開くとそこからは、一気にのめり込む。せっかく良い景色が目の前に広がっているのに、なんてときどき思ったが、ただただ本を読んだ。
集中力が切れた、と思うとそこであっさり、本を読むのを中断した。周りを見てみると、読み始めた時とは風景が変わっている。周りの人の配置はもちろん、目に映る人間自体が変わっている。その間の周りの記憶はほとんどないので、時計を見ると二時間ほどしか経過していないのに空や海の色さえ、初めに見た時とは違う色になっているように感じた。それは、初めにある絵を見せられ、次に少し変化した絵を見させられて間違い探しをさせられているような気分であった。特にこのあと、遊んで帰ったり、中華街に興味もなかった私は、いつもの通り、目的だけ果たしたら、耳にイヤフォンをはめ落ち着いた曲を選択してベンチを立った。
一番広い改札口に行くために山下公園を右に歩いて、駐車場の脇にある鉄筋の螺旋階段を上った。カンカンカンカンという頭に響くような足音と、それに合わせ自分の軀に振動が来た。露出している太ももが揺れて汗をはじていた。耳に入ってくる音楽とは違うリズムが体内から伝わってきて不思議な感覚であったが、変に気持ちよかった。しかし、その不思議な気持ちよさが徐々に違和感を抱き始めた。カンカンド、カンカンドン、カカンドン。今までにないリズムが軀に響いてきた。私の足音?…いや歩く歩調は変わっていない。カカンドンの音は次第に大きくなってきた。カカンドン、カンカン、ドン、カンカン、ドン、はぁはあ…。はぁはぁ…。ちょ…、待っ…。
螺旋階段を黙々と歩いていた私の後方に今度は息切れと脳にくるようなドンという音と振動にびっくりした。近づいてきてた!しかも、この音の正体は私に「待って」といっていないか?短調にぐるぐると回っていた私は、音のせいか、歩いているせいで脈拍が上がっているのか心臓がバクバクしてきて、恐怖心ながらに立ちどまり後ろを振り返った。そして、私は思わずイヤフォンを外したのだった。
姿は、もう私の真後ろまできていた。
◆
「待って、待って…はぁ、はぁ、…怪しいものではないから、ちょっと話させてねはぁ…ふーう。」
腰を曲げて、この暑いのにベージュのジャケットを羽織り、ジャケットが上下に揺れている。
自分の足よりも先に、茶色の杖を前に出してのっしりと階段を上ってきた、整った白髪の頭がゆっくりと顔を上げた。
「……そんな、怪しいものを見るような目をしないでください、決して怪しいものではないですから。」
自分からは怪しいものではない、という男を初めて見た。なんだこの、へんなおじいさんは…。
「はぁ、ごめんなさい、私急いでるんで」
手に持っていたイヤフォンをもう一度つけようと、顔をそらしながら耳に手をやった。それと同じくらいの速さで、後ろから早口で
「あなたに興味があって……」
という言葉が耳に入ってきた。このおじいさんは、ナンパをしているのだろうか、もう一度不審気な顔を焦燥の老翁に向けた。なぜこの時に、無視して先に進まず、彼を見返したのか。今思うと私は少し彼に興味を抱いてしまったのかもしれない。少しくらい話を聞いてみようかなと少なからず思ってしまったのだ。
私が立ち止まって、見返したことに気づいた彼は、もう一度、前に杖をカンっとついた。そして、杖を支えに姿勢を直す。顔は紅潮し、こめかみから少し汗がたれている。はぁーと深く息を吐きながら、彼はほうれい線を下と横にだらんと広げ、穏やかに微笑した。
「ありがとう…ありがとう。ふぅ…
私のような老人にはきつい階段だ、それにあなたときたら登るのがとっても早いから、えっせえっせと追いかけても追いつかない。途中から待ってくれと声をかけても振り向いてもくれないのだから、困りましたよ。追いかけるしかありませんでしたよ。……いやいや、私はナンパのようなことをしているわけではないんですよ。あなたの落し物を拾って届けにきたわけでもありません。えぇ。さっき、向こうのベンチで本を読んでいましたね、その姿を見てあなたが気になって、声をかけましたよ、えぇ」
私が、何も言い返さなかったので、彼はゆっくり、時々速度を早めて、だいたいこんなようなことを言った。
その後も、彼は私を見ながら話し始めた。
「あなた、ここへはよく読書をしに来られるんですか」
「いえ、初めてです、今日は気分でここへ…」
「あぁー、それは嬉しい。私は毎日ここへ散歩に来るんですけどね、あなたがこの公園を選んでくれて嬉しいねぇ。どうですか、ここは」
またあの微笑を浮かべて、フチなしの眼鏡からシワをたくさん拵えて細める目が印象的であった。
「…いいところですね。」
まだ、彼を怪訝な様子で見ていた私は、目をそらしながらそっけない返事をした。
「向こうには行きましたか、この先にはバラ庭園があるんですよ、中華街には興味はありますか?元町の方には?」
ワクワクしたような様子で、杖をヒョイと上げて、あっちを指したり向こうを指したりした。先程まで息を切らしていたのと同じ人物とは思えないほど軽快な口調で、楽しそうにそう言い出した。
「見ていないですけど、今日はもう帰ろうと思います。今、帰ろうと駅に向かっている途中なんです。それでは…」
しれっとした態度で、彼を足らったつもりだった。しかし、彼にはなんにも堪えていないようだった。彼の嬉しそうな表情は変わらずに、さらに思いついた表情をして。
「あぁ、今お時間ありますか」
「先ほど言いましたが、今から帰ることろです。」
「まだ外も明るいですし、まだ帰るなんで言わないで。あなたに横浜を案内させてください!私と今からデートしましょう!」
少し、この愉快な紳士が気になった。
◆
木陰に足を踏み入れる、背の高い木々は天空でそれぞれの腕を絡み合わせ、その隙間から強さの和らいだ光が差し始めていた。森の中に入っていく老翁の後ろ姿を眺めながらゆっくりと歩いた。彼は家永と名乗った。この近くに住んでいて、毎日山下公園を散歩しては、気になる女性がいると声をかけているのだという。なんという気の若い老人なんだ、と私は思った。しかも、嘘かほんとか知らないが、彼は今まであまり無視をされたことがなく、女性の皆さんは相手をしてくれるそうだ。女性たちはきっと福祉の心を持った優しい方たちばかりだっだのであろうと思った。しかし、渋谷にいるキャッチのお兄さん達も顔負けである。身丈からはそのようなことを気軽にするような老翁には見えない紳士のようだが、人は見かけによらないなぁ、と私は感心していた。だが、そんな彼に結局ついてきた私には何も言えないなと心の中で、自分に呆れてしまった。
少し歩きにくい足場で、土と木で作られた低い階段を、杖を上手に使って登る。山下公園の歴史や、今歩いている場所の話、木々の名前などを時々私の方を振り向きながら説明していた。私は、博物館や、観光地のガイドさんと歩いている気分で、先ほどよりは、興味を持っている素振りのある愛想良い相槌をうっていた。森の中から見える海は、山下公園よりも少し高台で、草木から覗く海は、水平が見え、キラキラと輝いていた。今日横浜に来て初めて、海を綺麗と思った瞬間だった。しばらく登ると急に視界が晴れた。
「さぁ、着きました、着きました。もうひとつの公園の名所、港の見える丘公園です。」
「ここは、横浜開港の時期にイギリスとフランスの軍人が駐屯した場所なんですよ、戦後に公園地として開園したそうで、昔のいろいろな逸話がある歴史的な公園なんですね。」
名所…と言われても、人はぽつぽつといるばかりであった。展望台のような海を眺める場所があったのでそこに立って見たが、先ほど草木の隙間から見えた海よりは感動が薄かった。家永さんは一緒に展望台には立たず、後ろで待っていた。私もすぐ降りた。
彼のペースに合わせながら、隣をゆっくり歩いた。家永さんの横浜解説は、聞いていて面白かった。私は完全にガイドから解説を聞いて、「へー」とか「なるほどー」とかを繰り返すだけの観光客に成り代わっていた。
「この公園は、ねぇ、ベイブリッジもよく見えるから若者のデートスポットには最適な気がするけれど、意外と皆さん来ないね。私は女性を必ずここに連れて行きますが、皆さん喜ばれますよ。ふふふ、…」
過去のことを思い出すように幸せそうな含み笑いをした。私といるのに、過去の女性を思い出して話に出すなんて紳士じゃないなぁ、と観光客はときどき女になっていた。
「季節になりますと、野鳥の声を聞きながら散策ができるんですよ、とても楽しいものです。」
「いいですね、私も、鳥の鳴き声は好きです」
「そうですか」
彼は前を向きながら微笑み、唇を尖らせて、小鳥の鳴き真似をした。その音は耳元にキンと響き、空中に消えた。
「ぜひ、またここへ来てください。鳥たちの声を聴きに。ここはもともとバラの名所として知られていたんですよ。バラ園の花たちの時期になればとても華やかですよ。えぇ、とても綺麗です、私も大好きなんです。そうですね、5月の中旬くらいがいいでしょうか、彼氏と来てもいいですし、私でよければまたご一緒させてください。」
そう言いながら、またほうれい線を横にだらりとして微笑んだ。今度は口元を少し開けながら、力の抜け笑だった。なんと答えていいやら、こちらも合わせて、軽く微笑んだ。
正直にいうと、結構な時間彼と過ごしているが、心なんて開くことはなかった。ただ『なんだか可哀想な老人』に付き合ってあげているという感覚のほうが大きかった。そんな自分を"偽善者〟だと客観的に見ていた。電車で隣に座っていた人が、立ち際に落し物をして、それを教えてあげなくてはと、妙な使命感に駆られる時と似ていた。そういう時結局声をかけられないで、行動に移せなかった自分をひどく蔑み、後悔と反省の思いがこみ上げてくる。そして、もしまた似たようなことが起こった時は、絶対に後悔しないように行動しようと心に決めてその場の気持ちを紛らわすという状態になる。そう考えると、今の私の状況は偽善者と思いながらも「あのときあの老人に付き合ってあげていたら…」などと後悔をするような状態にはけっしてならないことが私にとっての救いであると感じるようになった。しかし、それではこの老人のためと思って付き添っているというように見えるが、結局は自分が後で生じるであろう後悔から免れるためのようにも感じられて、気持ちが錯綜していた。
そのようなことを考えている私の横で横浜案内人は、自分の知識を披露しながら楽しそうに公園を歩いていた。
赤レンガでできた大きい円形の花壇の中を縫うように歩くと広い階段が近づいてきた。そこで彼の歩調はゆっくりとなった。
「この階段の先に続く通りがあります、この通りを西に辿ると有名な外国人墓地がるんです…。」
私も彼と同じ方向を見た。
「…さて、私たち結構歩きましたね。駅に向かう前にここで少し腰を下ろしましょう。」
そう言いながら彼は階段を登って、赤い靴のバス停の前にある、座るのにちょうど良い具合の石造りの横に立った。石造りの後ろに大きな木が一本伸び座るところに切れ切れの陰をつくっていた。日は傾き、陰の隙間から差し込む光は柔らかかった。蝉の鳴き声が遠くから聞こえるのだが、その声は耳の中に激しく鳴り響く。目の前にある時計台を見ると時間は16時を回っていた。
私ははい、と頷き彼の横に腰を下ろす。石なので座ると熱いかと思い、恐る恐る座ってみると、案外冷えていて太ももが一瞬ひんやりした。彼はズボンのポケットから小さく折りたたまれた薄手のハンカチを取り出して、たたくように顔の汗を拭き取ったようだった。私の頬も汗が伝い、サイドに垂れた髪が皮膚にひっついていた。こうやってじっとすると、蝉の声がいっそう強く頭の中をめぐるような感じがした。
「この時間になっても暑いですね」
彼はそう言いながら、ハンカチを戻し、今度は黒い小さなショルダーバッグから何かを取り出して、私の方にそれらを見せた。シルバーのボールペンと、黒革の薄い手帳のようだった。
「私、出逢った女性に必ず連絡先を聞いているんです。お近づきの記念に、定期的に連絡を取り合ったりして。あなたがよろしければ、名前とメールアドレスをここに書いてくれませんか。
悪用なんてしませんし、メールも頻繁になんか送りませんので、えぇもちろん」
彼は、自分で言っていることを自分で確認するような相槌を打ちながら笑顔でそのようなことを言った。
「いきなり、先ほど逢ったばかりの老人にこんなこと言われても怪しがりますよね。」
「本当に皆さん連絡先教えてくれるんですか」
「えぇ、皆さん、だいたい書いてくれていますよ。よかったら中をご覧になってください。」
にっこり笑った彼から、怪訝な顔をしていただろう私は、手帳を受け取りページをめくって見た。すると、横書きの下線上に様々な字で、女性の名前・アドレス・電話番号という順番で本当に記入されていた。適当なページを開いたので、今度はそのページの前後もめくって見たのだが、一ページに大体五人くらいで埋まっていた。その中には子供っぽい字のカタカナで書かれた名前が少なくなかったことに私は注目した。
「外人さんですか」
特定の一人の名前を指差した。彼はああという顔をして答え始めた。
「そうです、フィリピンからの留学生さんで、彼女もここを案内してあげたらとても喜んでくれてね。彼女はよくメールを送ってくれて、今年の春に出逢ったのですが、それから三度お逢いしています。ここには彼女のように外国から来た方もよくこられるので、私のつたない英語でも案内してあげると、皆さんとても喜んでくれるのです」
「へぇ…」
そんな話を聞きながら、手帳と一緒に渡されたペンを動かさずにいた。しかし、連絡先を教えその後もちゃんとやり取りしている人がいることに私は心底驚いた。
「本当にいつもここを歩いていらっしゃるんですね」
「この公園を歩くのは毎日の日課ですから。この年になって女の人に声をかけるなんておかしいんじゃないかと自分でも思いますが、私は根っからこういうことをするような人間だったわけではないんですよ。」
「確かに、あなたの第一印象からはそのようなことをするような方には見えませんでした。」
それを言ったあとにちょっと言いすぎたかなと思ったが、彼はこの言葉を聞いて昔のことを振り返りだした。
「私は定年退職をして五年になります。仕事は銀行員をしていました。定年する前までは仕事一筋でこれでも人並みよりはよく稼いでいたほうだと自分でも思います。結婚して子供が出来ても、家庭のことは何一つやりませんでした。すべて妻に任せて、私は仕事に一生懸命でした。典型的な話に聞こえますね、私もそうはならないぞと思って家庭を持ったのですが、自分のことになると客観的に見れないものです。自分が仕事している姿を妻も認めてくれていましたし、支えてくれていたことにその時は気づけなかったんですね、えぇ…。今は、二人の息子も独り立ちして、長男は家庭をもっています。二人とも東京に住んでいて、退職後私は家に独りきりになりました。」
独りきり…?私が違和感を感じている様子を持家さんも悟ったようで、一度私の顔を見てから、また前を向いて話しだした。わたしも、その疑問を問おうと思ったが、その言葉をとどめて、家永さんの話に耳を傾けた。
「退職をして、私はマンションを買いました。そこにベイブリッジが見えますね、その手前に白い大きな建物があるんですけど、ここから少し見えます。」
そう言って彼が指をさした先を見た。遠くてはっきりは見えないが、マンションらしき窓が等間隔にある建物を見つけ私は頷いた。ここから見るとそのマンションはベイブリッジとくっついているように見えた。
「私が今住んでいる所ですよ。私の妻は散歩が好きでした。よくここを散歩していたそうです。退職の時に、彼女を喜ばせてあげようと山下公園がすぐそばのあのマンションを買ったんです。
そう…仕事がなくなると、今まで彼女に辛い思いをさせてきたことを身にしみて感じた私は、これからは二人でのんびりと海とこの公園を庭のようにゆっくりと生活をしたいそう思ったんです。だから私はこれからは、時間ができる。これからは毎日、ここを一緒に散歩をしよう。そう彼女に言って、聞かせました。彼女は心から喜んでくれました、彼女の笑顔を見たのはいつぶりだろうそう思ったくらい、本当に嬉しそうでした。私は心から安心をしました。これからはいままで苦労をさせた恩返しができると実感したからです。しかし、彼女と一緒にここを散歩できたのはほんの数ヶ月でした。彼女は今は家にはいません。私は家に独りきりになりました。
私の日課は散歩ともう一つあります。散歩の前は必ず病院に寄ってくるんです。妻の見舞いにです。退職してから気づいたのですが、私は人と話すのが好きで、人一倍寂しがり屋でした。だからいつも妻の見舞いをして、長い時間横に腰掛け、毎日のことを話して聞かせているんです。彼女は植物状態なので返事は返ってこないんですがね」
私はその話を聞いていて家永さんに同情の思いでいた、だから余計な相槌も打たず持っていた手帳をじっと見つめていた。だが、そんな私の様子とは反対に、家永さんは淡々と話をしていた。彼は、ベイブリッジがかかるマンションを優しい顔で見つめながら話していた。私も同じ方向を向いた。
じっと遠くを見ていると、あの大きなマンションで肩をおとして一人でいる家永さんの姿と、病院で奥さんの横で話をしている家永さんの姿が交互に想像された。私の中で浮かぶその想像図の背景はピンクと灰色が混ざったような色をしていた。今日私と一緒に公園を歩いていた、今並んで座っている家永さんと、今頭の中で想像している老人の姿が同一人物のように感じられず、不思議な感覚になった。そんな寂しそうな姿が家永さんには似合わない。
彼の話は本当だろう、疑っているわけではないが、家永さんの話は作り話で、私の頭の中で想像される老人はその話の主人公であるかのように感じられた。
「妻が倒れてから、私は散歩をしばらくしていませんでした。その時は一人ではする意味がないと思っていましたから。今のように散歩をするようになったのは二年ほど前です。妻ができない分私が散歩をしてあげなくては、と…何か突然使命感に駆られるようになったんです。それまでは、病院と家との往復だけでしたが…今思うと…、散歩し始めたおかげで、大きな空を見て、季節の移ろいを全身で感じるようになったおかげで、心が大らかになっていったような気がしますね…。一番最初、声をかけた女性はあなたと同じように氷川丸の前のベンチに座っているアメリカからきていたお嬢さんでした。その方も留学生で日本語は通じたのですが、彼女を道案内して、とても楽しかったんです。若い女性と話すと、気分も若くなる気がしますね。妻が怒っているんじゃないかって?いやいや、彼女は喜んでくれていると思います。私が、背中を丸くして家で一人でいるよりも、笑って楽しそうにしている姿のほうがきっと喜んでくれると思いますから。」
そういって家永さんは、声は出さず、口を大きく開けて微笑んでいた。その笑顔をみて、私が彼の私生活に同情する必要はないんだと感じ、一緒に微笑み合った。気持ちが軽くなった。
「面白いですね、家永さん。面白い健康方法ですね。」
「健康方法…確かに、たくさんの人から元気をもらっていますねぇ」
はっはっはと、先ほどよりも顎を上げて笑って言った。
「息子さんたちは、女の子に声をかけて過ごしていることをご存知なんですか」
「知っていますよ、特に何も言ってきませんが、むしろ良く思ってくれていると思いますよ。私の思いすごしかもしれませんがね」
「あら、息子さん方もおおらかですね。」
私は笑って返した。連絡先、教えてもいいかなと思うようになった。
「ここに…名前と、アドレスだけでいいですか」
ボールペンを握り直し、新しいページを開いた。できるだけ大きい字で、名前とその下にPCのメールアドレスを書いて彼に渡した。
「えぇ、どうもありがとう。今日さっそくここにメール送りますね、帰ってから。私のアドレスを確認しておいてください。」
彼に手帳とボールペンを返すと、もう一度小声でありがとうと言いながら、両手で受け取ってにっこりと微笑んだ。こちらに向けられた彼の顔は、木の陰のせいか、先ほどよりも暗く落ち着いて見えた。それらをショルダーバッグにしまうと、また彼は話をしてくれた。
社会に出ていた時は、具体的にどのような仕事をしていたとか、私に対して学生のうちにしておくべき心構えや学ぶべきことなど。私は普段、大人の言うことに対して素直に理解しようと努めることがあまりない。親に言われても、大学の先生の講義を聞いても、どこか曲がった受け取り方をしていたように思う。しかし、家永さんが話してくれる言葉はすんなりと私の耳から心にストンと入っていくようであった。特に彼は、英語の勉強を勧めた。
「学生のうちにできるだけ多くの人と出会いなさいね。海外には是非行ってほしい。そのためには英語の勉強は欠かせてはいけませんよ。」
具体的な言葉ではなかったが、彼の言葉一つ一つを大切にしようとその時は思った。
しばらくすると、目尻と目の下にシミをたくさんつくりながら、彼は空を見上げた。
「ああ太陽の光が穏やかになってきましたね。いい時間に休憩できたようです。また、来てくださいね。私はいつでもいますから。あなたに出会えて今日は楽しかった。」
家永さんが空を指差したので、私も目を細めながら空を見た。
「三月になると夕方から空に、明るい二つの星が見えます。この公園からよく見えるので、私が楽しみにしている星なのですがね。その星たちはふたご座の星なのですが、昔の日本では二つの星を合わせて「夫婦星」と呼んでいました。あの二つの星のように、あなたと私もまた巡り合えるといいですね。」
そう言ってにっこり笑うその老人に、私はやられた…と思った。本当にキザだけど、悔しいけれどほんのちょっとだけれど、その言葉をいうこの老人に少しだけ惹かれてしまったと思った。
◆
二人で外国人墓地をくだり、元町の前を横切り、ここが一番近い改札だと言って、駅に案内してくれた。別れはあっさりであった。
「今日は一日ありがとうございました。」
「いいえ、こちらこそ楽しかったよ、ありがとう」
改札前で互いに深々と会釈をし、私は改札に入った。少し歩いて、後ろを振り返った。彼はとても落ち着いた、優しい満面の笑みで右の手を上げてゆっくりと手を振ってくれた。改札の淵が額縁になり、その場の光景がひとつの絵画のような、優しく穏やかな赤黄色に包まれて彼の姿がそこにあった。その姿を見て目に熱いものを感じた。なぜだか自分でも不思議に感じたが、単純に人との別れに寂しさを感じているのだろうと思うようにした。遠くになった彼にもう一度会釈をして、私はホームに向かう階段を降りた。
奥さんの話も星の話も出逢った女性ほとんどにしているのだろうなと心のなかで私は呆れていたが、家永さんとデートしたこと、メールアドレスを教えたことに後悔はしていなかった。
ホームに電車が着く。ドアが開くと、私は軽やかな足取りで電車に乗った。
◆
あれから家永さんは何度かメールをくれた。その日帰ってPCを開くと早速きていたし、季節の変わり目、お正月などにも度々メールが入っていた。その内容の中には、一緒に歩いていた時に私が話をした些細な事をきちんと踏まえた内容であった。「今年は実家に帰られましたか」「大学の生活はどうですか」「試験にむけて勉強頑張っていますか」「風邪などひいていませんか」…。いつも心のこもった優しいメールであったが、私がそのメールに返信をしたのは一度きりだった。
七年後の三月十二日、今日の青い空を見上げながら彼の星の話を思い出した。今夜ベランダから空を眺めたら、あの『夫婦星』は見えるだろうか。あの日から二年後、家永さんからのメールは途絶えた。私が返信しなかったのだからしょうがないと思っていたのだが、彼は、今も山下公園を散歩しているのだろうか。今日は、祖父の誕生日だったなぁ…。夜帰ったら、実家に電話をいれよう。