ゆずレモン
ピアノを弾くようにしてパソコンのキーボードを打つ。
ドレミという音色はなく、カチカチと言う音が鳴り響く。
5歳から18歳までピアノをずーっと習ってきた。あたしのその指は、ピアノを弾くことから遠ざかっていると、無性に指を動かしたくなってしまう。
あの日、ジョージが結婚してしまったから、大好きだったピアノを触る事すらしなくなったというわけではない。
でも、あの日も、確かにジョージは私の心の中にいた。
どうしてジョージは、あたしを選ばなかったんだろう。
ジョージのサラサラの髪の毛、大きくてゴツゴツした手、低くて鼻にかかった声。
あたしは封筒を開けて、手紙を取り出してそれを読む。
「 まりかへ
お前と居ると、俺の黒く濁った心が洗われて透明になるのが分かる。お前は俺の大切な人で、お前がいないと俺は生きていけない。愛している永遠に。
ジョージ」
何度も何度も繰り返して読むせいか、手紙の折れ目は今にも破れそうになっている。この言葉を手紙を見ずに言える程よんでいるのに、ジョージの手書きの文章は、あたしの心を安心させた。
手紙を通して、ジョージの深い愛が私の心を包み込むようだった。
ねぇ、ジョージ。あたしにはジョージしかいない。この広い世界中でどれほどの男性がいたとしても、あたしの心にはジョージあなたしか映らない。
ジョージとあたしが出会ったのは深い森の中だった。そこには小さな神社があって5円玉を投げた時にあたしはそのまま意識を失っていた。
あたしの心臓は生まれつき弱くて、子供の頃は入退院を繰り返していた。
気が付くとジョージの腕の中で、あたしは驚いてしまった。ジョージは近所に住む3個くらい年上の人だったから。
いつも見かけては、いいなって思っていた人だったから。
意識を失って倒れ込んだ時に近くにいたのがジョージだった。これは偶然で約束しててとかそういうことではなかった。
でも、あの日の事を今でも、偶然じゃなくて必然だったと、そう思っている。
2、3分意識を失ってしまったあたしをジョージは、自分の車であたしを総合病院まで連れて行ってくれた。
そのまま入院することになったけど、検査入院ですぐに退院したあたしは、ジョージの家まで菓子折りを持ってお礼に行った。
ジョージは、そんなのしなくてもいいんだよ、と優しくそう言った。
強面に似合わず優しそうに笑う顔をみて、あたしは一瞬で恋に落ちてしまった。
ジョージは、そんなあたしをすぐには受け入れようとはしなかったけど、少しずつジョージもあたしに心を開いてくれるようになった。
ジョージと付き合ったのは、出会ってから半年後だった。
あたしから告白しようとしたら、そんな事は女の子が言うもんじゃない、と言ってジョージから告白してくれた。
俺たち恋しようか、ってそんな風に。
付き合おうってそう言う月並な言葉じゃなくて、恋しようかって言うその言葉がジョージらしくて、あたしは嬉しくて泣いた。
付き合ってからも、ジョージは今までと変わったりせず、それどころかジョージは今まで以上に優しくなった。
だけど、ジョージはある日あたしの前から、何も告げることなく姿を消した。
23歳の秋の出来事だった。
あれからもう6年。
ジョージが結婚したことを知ったのは、一年前だった。久しぶりに実家に帰ると、ジョージが綺麗な女の人と子供を連れて、ジョージの家に入って行く姿を見てしまった。
共通の知人には、ジョージが居なくなってからも、ジョージの事を一度も聞けなかった。
あたし以外のだれかの口から何かを言われてしまう事が怖かった。
あたしはジョージの姿を見て固まってしまった。心の中ではジョージが、もう自分とは関係ないって分かっていたはずだった。
でも、実際にそんな幸せそうな姿を見てしまったあたしは、ジョージがあたしに気が付かないようにって走って逃げた。
あれから、ジョージを見ることはない。
あたしも、ジョージがいるその街にいくことが怖くて、あれから一度も帰ることができないでいる。
ジョージからの手紙を机の上に置いて、水滴が沢山ついた水の入ったグラスを右手で持ち上げて口に持っていく。
ジョージがあたしの前から消えて、一月が経ったころジョージの友達、シントがあたしに告白してきた。
付き合ってくれ、そう言って。
でも、あたしはジョージしか見えないからと言って断った。
ジョージとシントはすごく仲が良い一番の親友だった。
ジョージはいつも、シントの為に欲しい物を譲った。お気に入りだったヴィンテージのギターだって、ジョージはシントにあげた。
親友は一生ものだから、その言葉がジョージの口癖だった。
30歳目前の今、あたしはゆずレモンをグラスの中に入れてジョージの手紙を心の中に大切にしまい込んだ。
ゆずレモンはいい香りでいて甘酸っぱい__。