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悠久の終わりに  作者: 神楽あまみ
5/5

2-1 九條佐保







二日目



「瑞希ちゃん、起きてぇ〜!」

 ドカッ!!

「うぎゃあぁああぁぁぁーー!!」

 突然の衝撃と圧迫感に驚いて、無様に悲鳴を上げながら目を覚ます。慌てて確認すると、お腹上に深耶音が跨っていた。

「深耶音……、お前は何をしてるんだよ。いや、何をしてるのかは分かってる。何をしたのかも」

 深耶音は満面の笑みを浮かべながら、お腹の上で暴れ出した。

「分かってるなら良いじゃない。ほら、起きよ。起きて遊ぼうよ」

「ぐほっ、がはっ、ぐえっ、やっ、やめっ、」

「起きて、起きて、起きてぇ〜」

「おっ、起きられるかぁ!」

 全力で上半身を起こし、倒れた深耶音を足で挟んで横に投げ飛ばす。勢いよく転がった深耶音は、ゲーム機やソフトを蹴散らしてテレビラックに激突した。ラックの中にも積み重ねて置いてあったゲームソフトが裏側に崩れ落ちてしまう。ああ、あそこは埃だらけなのに。

「こら、ゲーム機が壊れてたら弁償だぞ。ソフトもきれいにして元の場所に戻しておけよ」

「ううっ、それはみか音のせいなのかなぁ」

 不平を言う深耶音を無視して時計を見ると、長針と短針が真上を指し示す直前だった。休みとはいえ寝過ぎたかも知れない。いや、確実に寝過ぎだ。寝過ぎると脳細胞が死んじゃうんだぞ。……本当かどうかは知らないけど。

「いいか、お前に一つ言っておきたいことがある」

 ピシッ! と人差し指を突き付けて、ぼくは言った。

「わっ、何かな。関白宣言?」

「ちゃうわ! 言ったよね、打撃で起こすなって」

「打撃じゃないよ。乗っただけだよ」

「勢いよく乗れば十分打撃だって。ほら、着替えるんだから出てって」

 納得のいかない様子の深耶音を無視して、パジャマ代わりのトレーナーを脱ぎ出す。深耶音が出て行くまで待つなんてことはしない。もちろん深耶音も気にした様子もなく、簡単に散らかったゲームソフトを積み上げて立ち上がった。

「じゃあ、あひるご飯作るね。ちょっと時間掛かるから、ゆっくり着替えてていいよ」

「アヒル?」

「朝も兼ねたお昼ご飯だから、あひるご飯」

 それはどうだろう。別の料理にしか聞こえないんだけれど。

「……美味しく、お願いします」

 もちろんだよと言い残して深耶音が部屋を出て行く。やれやれと溜息を吐きながら着替えていると、窓に映る景色がいつもとは違うことに気が付いた。昨日の朝には無かった朱い洋館。改めて白昼の明るい時間帯に見ると、真紅ではなく程よく薄い朱色なのだと分かる。

 この光景を知っている様な気がする。そんなはずはないのに。

 昨日だってそうだ。何故か葵とは初対面な感じがせず、警戒や抵抗感もなくうち解けていた。窓辺とはいえ初対面の人を部屋に入れるなんて考えられない。いつもなら絶対に拒んでいたはずだ。それを素直に招いてしまったのは、あの時感じた既視感によるものだ。そう、あの時感じた気持ちは、五年前に西織に越してきた時に感じた感覚と同じだ。それは懐かしさにとても似た感覚だった。

 途中でトイレと洗面所に寄ってから居間に辿り着くと、甚平をだらし無く着崩した親父が座椅子に座って新聞を読んでいた。寝癖でボサボサになったままの頭を見ると、どうやら親父も起きたばかりのようだ。

「親父、仕事は休みなのか?」

 自営業の親父には決められた定休日などというものはなく、休みたいと思った時が定休日だった。仕事さえあれば休日にも働くし、暇ならば平日に休んだりもする。

 周囲からは自由奔放な仕事だと思われているけれど、自由に休めるということはそれだけ自己責任が重いということだ。

「いや、午後から打合せだ」

 親父は庭に工房を構えて家具造りをしている。今は椅子と箪笥だけを造って卸しているけれど、注文さえあればどんな家具でも引き受けている。打合せを必要とする注文は得てして高額になる為、量産品よりも割が良い。しかし、割の良い仕事が来たからといって、サボっている余裕なんて無いはずだ。

 無名の親父が作る家具の値段など高がしれているので、ある程度まとまった数を作らなければ生活費すらも稼ぎ出せないのだけれど、物が物だけに大量に作れる代物ではない。だから休み無く造り続けなければ、食費を切り詰めなければならないほど生活が切迫してしまう。それに安定して売れてくれれば良いのだけど、全然売れない時があったりすると、在庫が増えるのに対して食卓のおかずが一品ずつ減っていく。

 最近では僅かとはいえ人気が出てきたのか、予約まで入るようになっていた。安定して売れるようになったのは良いのだけれど、今度は捌ききれない量の注文に忙殺されるようになった。価格を上げて受注量を調整すればいいのに、当の親父は価格を上げるのに反対するのだ。だから工房の動かない日は皆無で、休みたくても休めないのが現状だ。親父は常々、決まった休みがある仕事が羨ましいと洩らしている。

「仕事はどうしたんだ。もしかして体調でも悪いのか」

「キャンセルしたんだよ。全部」

「キャンセル? 何を全部キャンセル?」

 意味を理解することができなかった。

「一ヶ月先まで入っていた注文を、全部キャンセルしたんだ」

 注文をキャンセルって……。まさか販売業者との契約をキャンセルしたって言っているのだろうか。

 いやいや、きっと聞き違いだ。だって、こっちから契約を破棄なんてしたら、契約金の三倍にもなる違約金を払わなければならないのだ。来月の生活費すらままならないのに、そんな大金を用意できるはずがない。

 それに失うのはお金だけではない。仕事を請け負っておきながら投げ出してしまうなんて、今後の信用に係わる大問題だろう。下手をすると、うちの商品を扱ってくれなくなってしまうかも知れない。

「どうした、ボケッとして。ああ、ボケッとしてるのはいつもか。――いいか、キャンセルだ。解約、反故、解消だ」

「言葉の意味は分かってるよ。行動の意味が分からないだけで。それって働かないってことか? 無収入に逆戻りってわけか?」

 工房を構えてからの一年間は注文が一件も来なくて、その日の食べ物にも困っていた。向坂一家からの援助がなかったら、ぼくと親父は餓死していただろう。あのひもじい日々が戻ってくるのかと思うと、目眩がしてふらついてしまう。

「ふっふっふっ、安心しろ愚息よ。父もそこまで愚かではないぞ。実はな、新たな注文が入ったんだ。しかも大口だぞ。いつもの業者を仲介しての依頼ってことになってるから違約金も払わなくて済むぞ。午後はその打合せに行ってくるのだ」

「な、なんだよ。また貧乏に逆戻りかと思って心配しただろ」

 ひもじい思いをしないで済むのなら大口でも小口でも構わないのだけれど、一時の儲けの為に今までの信用を失わないですんで良かった。

「わっははは、更に驚け愚息よ。今度の仕事は豪邸を一軒分まるまるだ」

「えっ、ほんと!」

 これで合点がいった。豪邸と呼べるほど大きな屋敷の中を、自分の作った家具でコーディネイトするのが、この仕事を始めた時に掲げた親父の夢だった。それをたった五年で実現できるのだから、他の仕事を全部断ってしまうような無茶な仕事を請け負ったのも納得ができる。このチャンスを逃したら二度と無いに違いない。

「うはぁ〜。親父もやっと認められたんだなぁ」

「おおよ。地道な努力が実を結びやがったぜ。よし、この嬉しさを表現する為に、村中を踊りながら駆け回るか! 行くぞ! 愚息よ」

「絶対行かない。――で、どこの奇特な客が頼んできたの?」

「そんな蔑んだ目で父さんを見るなよ。それがな、お隣なんだ」

「隣って、昨日越してきたばっかりの?」

「おおよ。屋敷中の家具を全部新調するってんで、気鋭の家具職人である俺様に頼んできたって訳だ。その数、全十室分。居間や客間に寝室、台所、更に使用人部屋まで全ての家具を俺様色に染められるんだぜ。どうだ、遣り甲斐ありそうだろ」

「すっげ〜。でも、それってデザインから起こすんだろ。何ヶ月掛かるんだよ」

「下手したら年単位かもしれんな」

「まさか出来上がってからの支払いじゃないだろうな。その間の生活費を賄える蓄えなんて、これっぽっちも無いからな」

 親指と人差し指の間に隙間を作り、これっぽっちを強調させる。親父の夢を応援したいとは思うけれど、先立つ物がなければ生きてはいけないのだ。一ヶ月程度なら何とかなるけれど、二ヶ月は流石辛い。しかも、その期間で終わるとはとても思えない。安価で高品質に拘り続けた結果がこれだ。喜ぶのは客ばかりで、ろくに貯金も出来やしない。久我原家の生活は常にかつかつなのだ。

「安心しろ愚息よ。一ヶ月毎の出来高払いってことになっている。精算日までに納品した家具の金額があれば余裕だろ」

 なるほど。全部が終わってからの請求じゃないのか。うちはいつも出来高払いで契約を結んでいたから、今回もそうなのかと思ってしまった。

「なんだ。それなら大丈夫そうだな。で、どのくらいの予算でやれって?」

「それがな、幾らでも良いんだと。俺の裁量で必要な家具を作って、勝手に値段を決めてくれってよ」

「なんだそりゃ。大雑把だなぁ。昨日会った子はきっちりしてそうだったけどな」

「あん? 昨日会っただぁ。いつ会ったんだ。寝るの早かったんだから夕方か」

 しまった。夜に窓辺で会ったなんて言ったりしたら絶対にからかわれるに決まっている。ここは誤魔化しておかないと……。

 あれ、そういえば親父はいつ注文を受けたんだ?

 今の時間に甚平で寛いでいるということは、少なくとも今日聞いたのではないだろう。ということは、ぼくが部屋に閉じこもってからだろうか。

 そんな事を考えていたら、深耶音が昼飯を運んできた。

「さあ、美味しいあひるの時間ですよ〜。卓袱台の上を片付けてくださ〜い」

 ぼくと親父は言われたとおりに、いそいそと卓袱台の上に載っていた雑誌やリモコンを片付ける。片付けといっても壁際に放り投げただけだけど。

「は〜い、めちゃくちゃ美味しいお蕎麦(そば)ですよ〜」

 ドンッ! と、大きなザルが卓袱台の真ん中に置かれた。一抱えもありそうなザルには大盛り過ぎる量の蕎麦が盛りつけられていた。一体何十人分あるんだといった量だ。

「え〜、また蕎麦かよ。いいかげん飽きた〜」

 ぼくは不平を言った。別に蕎麦が嫌いだからではなく、本当に飽きているからだ。

「飽きないよ、飽きっこないよ。こんなに美味しいんだよ」

 どんなに美味しい料理でも二日周期で食べていたら普通は飽きると思う。それが味の変化がない蕎麦では尚更だ。

 まったく、深耶音の蕎麦好きにも困ったものだ。不平を言っても蕎麦を出してくるのだけは止めはしない。そんなに好きなら自分だけで食べていればいいのに。

 もちろん蕎麦は買ってきた物ではなく、自分で打ったものだ。しかも蕎麦打ちだけではあきたらず、自分専用の畑で蕎麦(そばむぎ)の栽培まで行っている。

「さあ、食べて、食べて。深耶音謹製の麺汁も調製済みだよ〜」

 しかも麺汁まで拘っていた。

「麺汁なんて市販品で十分だってば」

「分かってないなぁ。分かってないよ。お店で売ってるのは、ただの味付き醤油なんだよ。美味しく食べるのには鮮度が足りないんだよ。それにね、蕎麦の味は碾いた時の温度や湿度で違っちゃうんだから、ちゃんと汁も調整してあげないと美味しく食べてあげられないんだからね」

 ぼくには理解できない(こだわ)りがそこにはあった。その無意味にも思える拘りは、もう職人の域にあると言っても良いんじゃないだろうか。

「それは何回も聞いたよ。御託はいいから、伸びる前にさっさと食べよう」

「さっさと食べないで、味わって食べてよ」

 深耶音の発言は無視して、吐き気を催すほど山盛りの蕎麦に箸を伸ばす。

 ……うん、美味い。流石深耶音だ。これを食べたら他の蕎麦なんて食えた物じゃない。

 でも飽きた。とことん飽きた。美味さを超越して飽きていた。

 蕎麦なんて一月に一度くらいで十分じゃないだろうか。幾ら美味しくても所詮は年寄りの食べ物なのだ。同じ麺類ならラーメンや焼きそばの方がいいに決まっている。

「あれ、深耶音ちゃんは食べないのか?」

 親父が深耶音の分の食器が用意されていないのを見取って尋ねる。そういえば二人分の用意しかされていなかったな。山盛りにされ過ぎた蕎麦を見て、深耶音も食べるのだと思い込んでいたから気付かなかった。

「みか音は家で食べてきました。お母さんと。だから遠慮しないで全部食べちゃってくださいね」

「いやいや、無理だから。どう見ても五人分はあるから」

 ぼくが真っ当なことを言うと、不服そうな表情で深耶音が言い返してくる。

「えーっ! この前『蕎麦なんか食った気がしない』って言われたから、今回は多めに作ったんだよ。これだけあれば食べた気になるかなって思ったのに」

「それは意味の受け取り方がちがうから。あれは蕎麦自体を食べたくないってことで、量が少ないって問題じゃないよ」

 何を隠そう、ぼくは麺よりもお米が大好きなごはん党員で、白米を食べないと食事をした気分にならないのだ。

「諦めろ愚息よ。深耶音ちゃんの天然さを見誤ったお前の責任だ」

 遠回りに酷い事を言っている気がする。

「親父……深耶音の料理欲しさに、息子を売る気か」

 親父の魂胆は見え見えだ。深耶音の味方をしておいて、ポイントを稼ぐつもりなのだろう。深耶音を(おだ)てると、おかずが少しだけ豪華になるからな。その代わりに機嫌を損ねた方のおかずは一品少なくなったりする。

「ふんっ。料理一つ満足に出来ない愚息で良いのなら、幾らでも売っぱらってくれるわ。俺様は美味しいご飯を食べたいんだ」

「言ったな。自分を棚に上げて言ったな。自分だって料理下手なくせに。あ〜あっ、こんな親父より、夏音さんの息子が良かったなぁ」

()かせ。夏音の息子の座は渡さねぇ」

「親父も息子狙いなのかよ」

 くだらない言い争いだと思いながらも売り言葉に買い言葉、言い返さずにはいられない。

「はい、そこまでです。早く食べないと伸びちゃいますよ。ケンカは食べ終わってからにしてくださいね」

 見るに見かねた深耶音が仲裁に入るけれど、止める理由はあくまで蕎麦だった。蕎麦さえ伸びなければ、ぼく達のいがみ合いなどどうでも良いのだろう。

 気付けば二人とも食べながら言い合うものだから、卓袱台の上が随分と悲惨なことになっていた。



「腹が割けそうだ……」

 大量の蕎麦を()き込んだくちい腹を押さえながら、ぼくと深耶音は土手沿いの砂利道を歩いていた。

 結局は三割程度の蕎麦が残ってしまったけれど、これ以上は食えないと土下座して許してもらったのだ。明らかに作り過ぎた深耶音の責任のような気がしたけれど、作ってもらっておきながら文句を言うのは何か違う気がしたからだ。

 深耶音は肩からぶら下げた水筒を振り回しながら先頭を切って歩いていく。どこに行くのか、ぼくは知らない。深耶音が黙って付いてこいと言うから、仕方なく後を付いて歩いていた。

 ぼくは自転車を使いたかったのだけど、自転車に乗るのが下手な深耶音に反対されたので、仕方なく歩くことにした。砂利道や荒れ地が多いから、深耶音には歩きの方が安全で良いのかも知れない。

「まだ着かないの?」

「気が早いなぁ。まだ十分も歩いてないよ」

「目的地を知らないと遠く険しい道に感じるんだよ」

「そうかなぁ。――ほら、あそこだよ」

 深耶音が指で示した先には星乃湖と用水路を隔てる樋門(ひもん)があった。

 樋門は田畑に水を送る為の、西織村存続に係わる最重要施設だ。ここが破壊されるような事があれば村の作物は大打撃を受けてしまい、たちまち村人の生活は立ち行かなくなってしまうだろう。そのため厳重なセキュリティが施されており、何重にも張り巡らされた鉄条網の間には地雷が敷設されている――なんて事はなく、幅が三メートル程度の小さな樋門だった。ここから村中に張り巡らせてある用水路を巡り、道路沿いを流れる河川となって隣町へと流れていく。

「ここでザリガニ釣りするって、誠人ちゃんが言ってたんだよ」

 元は小魚やタニシくらいしか住んでいなかった用水路に、いつしかザリガニが住み着くようになった。誰かが持ち込んだのは間違いがないのだけれど、それが誰なのかは分かっていない。誠人だとする声が高いけれど、本人は否定している。

 見た感じでは誠人達はまだ居ないようだ。居るのは小学部らしき連中だけで、笹で作った竿を持ってザリガニを釣っている。

「誰も居ないな」

「あれぇ、午後から水門って言ってたのになぁ」

「予定が変わったんじゃないの。中止になったとか、場所が変わったとか」

「ん〜、そうかも。ちょっと聞いてみるよ」

 深耶音は小学生の所まで走っていき、二,三言葉を交わすとすぐに戻ってきた。

「なんかね、お母さんが迎えに来て、慌てて帰ったんだって」

「へー、他の皆は?」

「ザリガニが好きなのって誠人ちゃんだけだから、みんなは野球にでも行ったんじゃないのかな」

「ぼく達も行くの?」

「う〜ん、それもいいけど……。そだ、ボートに乗りに行こうよ。湖から見るもみじってきれいなんだよ」

 紅葉なんて見飽きてはいるけれど、他にやることもないので素直に賛成する。ボートで競争するのも良いだろう。置いてけぼりで半べそになる深耶音を見るのも悪くないしな。

 堤防を兼ねた土手の上を歩く。星乃湖の湖面には透き通るような空が映り込んでおり、まるで足元にも空が広がっているかのように見えた。暑い日に泳いでいる時など、まるで空を飛んでいるような気分になれる。申し訳程度の砂浜を見渡すと、やはり人っ子一人いなかった。湖で遊ぶには流石寒いからだ。この辺りに吹く風は昼間は山から下りてきて、夜は湖で冷やされた冷たい風が村を抜けていく。その冷風の発生源でもある場所に遊びに来たがる奴は滅多にいない。夏は大盛況だけれど、少しでも涼しくなると見向きもされなくなってしまうのだった。



 星乃湖は周囲長19.7キロメートルのカルデラ湖だ。ほぼ真円を描いているので人造湖だと主張する学者がいるそうだけれど、ここで生活しているぼく達にはどうでも良い話だ。人の手で作られたのだとしても、別に今の生活が変わる訳ではない。

 そんな事よりも、魚が繁殖しない方が問題視されていた。住み着かないのではなく、繁殖しないのだ。幾ら放流しても繁殖してくれなければ一代限りで(つい)えてしまう。

 当初は餌となるべき貝や昆虫、蛙などの両生類はもちろん、水草すら繁殖していないのが原因とも言われたけれど、それでは餌を撒き続けていたのに繁殖しなかった理由とはならない。今では仕入れた方が安いとの理由で、養殖施設はもちろんのこと、原因を調査していた調査チームも解散してしまっていた。

 当然、不安視する声はあった。農作物はもちろん、飲み水にもなっている水だ。害があっては堪らない。

 しかし、毎年役場が実施している水質調査では問題が発見されたことはないし、行政の発表では信用できないという有志によって調査された結果でも問題は発見出来なかった。マグネシム、マンガン、カルシウム、鉄分などのミネラル成分が多く含まれた、ごく普通の美味しい水だったそうだ。

 不安があっても専門家達の意見は安全な水で一致しているし、事実、水が害になった事はない。湖から取水している用水路には魚などが棲みついているし、村人全員が湖の水を使って何百年も経っている。動植物を死に追いやるような成分が含まれていたら、人間にだって何らかの影響があって然るべきで、水を飲んで具合が悪くなったり死亡した村人はいない。放流した魚だって繁殖しないだけで、餌を与え続ければ寿命を全うするのだ。そもそも騒いだのは新たに住所を移してきた人達だけで、昔から居を構えている村人には寝耳に水の騒動だったそうだ。



 ボート乗り場には六艘の手漕ぎボートと、一艘のモーターボートが停留していた。つまり、全てのボートが使われずに繋がれているってことだ。

 当たり前の話だけれど、暖かい時期はいつも満員御礼なのにちょっと寒くなると誰も乗らなくなってしまう。ぼくも越してきたばかりの頃は物珍しくて寒い時に乗ったりもしたけれど、雪が降ろうかというほど寒い時に乗った時には凍死するんじゃないかと思った。今日の様な少し肌寒い陽気くらいが限界だと思う。

 桟橋への入り口には、一人が座っていられる程度の管理小屋が設置してある。管理小屋とはいっても、九條家へ繋がるだけの直通電話が置いてあるだけで、常に誰も居ないし、鍵さえ掛かっていない。不用心と言うよりも、ここで悪戯をする村人は存在しないので鍵なんかいらないのだ。

 それはどうしてかといえば、ボート乗り場は九條家が設置して管理している施設だからだ。この村で九條の施設に悪さをしようと考える者は滅多にいない。誠人が率いる悪逆無道な連中ですら躊躇するほどに指導されている。

 何故こんな施設を九條家が持っているのかといえば、湖を挟んで村の反対側に建っている九條の屋敷に行く為には湖を渡る必要があるからだ。九條屋敷まで通じる道はないので、屋敷に出入りするには船を使って湖を渡るしかなかった。

 ここに常設されているモーターボートは九條家専用で、カバーが掛かったまま動いているのを見たことがなかった。ちゃんとメンテナンスとかしているのか心配だ。

 手漕ぎボートも九條家の所有物だけれど、村人が自由に使えるように開放されている。本当は十六歳以上でなければ乗ってはいけない規則があるらしいけれど、そんな規則を守っては若者の名折れとばかりに破られまくっている。もちろん、ぼくだって守っていない。

 一番きれいなボートを選ぼうと桟橋を歩きながら物色していると、甲高いエンジン音が聞こえて来るのに気が付いた。湖面に目をやると、一台のモーターボートがこっちに向かって走って来ていた。

「あれ、ボートが来る」

「青いストライプの旗が付いてるから夕ちゃんのボートだよね。お買い物かな」

「よく見えるなぁ。ぼくには全然分かんないよ」

「昔からお蕎麦を食べてるから目が良いんだよ」

 それは本気で言っているのか? それとも冗談だろうか。

「あれ、二人乗ってるみたいだな。朝凪も一緒なのかな」

「それはないよ。佐保ちゃんから離れるのは一人だけって言ってたもん」

「へぇ〜。そうなんだ。じゃあ、もう一人は佐保か」

 どうでも良さそうな情報に感心していると、深耶音が慌てたような声を上げる。

「そんな事より凄いスピードだよ。あれって止まれるの?」

 言われてみれば確かに早い。後50メートルもないのにスピードを落とす様子がない。

「そうだな……無理…なんじゃないかな」

「ねぇ、こっち来るよ、こっち来るよ!」

 慌てふためく深耶音と、呆然とするぼくを目掛けて、凄いスピードのボートが突っ込んでくる。舵が故障したのだろうか。夕凪が気絶でもしてるのだろうか。今はそんな事を考えている場合ではないのに、他に何を考えたらいいのか分からなかった。ほら、あれだ。こんな時は昔の事を思い出せばいいんだ。走馬燈って言うんだっけ?

「きゃああぁぁああぁぁぁ」

「うわああぁぁああぁぁぁ」

 悲鳴は出てくるのに体が硬直して動けない。ボートは少しだけ方向を変えると、ぼく達の真横を通り過ぎていく。ボートの横面と桟橋が(こすり)り合い、波との相乗効果で桟橋が崩壊するのではと思われるほど大きく揺れると、とても立ってはいられなかった。繋ぎ止めてあった何台かの手漕ぎボートが巻き込まれ、紛々になりながら吹き飛んでいった。水しぶきを被ったけれど、湖に落ちなかっただけ幸運だ。

 波に大きく揺らされる桟橋に屈み込んだまま、ボートが走り抜けていった方向に顔を向けると、そこには凄まじい惨状が広がっていた。

 散乱する手漕ぎボートの破片。モーターボートの直撃を食らって吹き飛んだ管理小屋。砂浜に刻まれた傷跡を追っていくと、堤防に激突して大破したモーターボート。

 どう見ても大惨事だった。後少しの距離で巻き込まれていたかと思うと、ケガ一つないのが奇跡のようだ。

「た、た、大変だよ! 事故だよ! 救急車だよ! 助けなくちゃだよ!」

 ショック状態から抜け出た深耶音が立ち上がりながら叫ぶ。

「ま、まてまて、待って。こ、こんな時は落ち着くんだ。冷静になるんだよ」

 おたおたしている深耶音をサポートすべく、ぼくも立ち上がって冷静になれと諭した。

「そ、そうだね! 冷静だよね」

「そうそう。クールになるんだよ。えっと、事故といったら、まずは人命救助だ。溺れた人を岸まで引き上げて人工呼吸だよ」

「うん、分かった。『はっ、はっ、ふー』だね」

「そうだ。『はっ、はっ、ふー』だ」

 よし、落ち着いたし、深耶音との呼吸合わせも完璧だな。さぁ、助けに行こう!

「お忙しいところ申し訳ございませんが、『はっ、はっ、ふー』は出産ではないかと」

「「えっ、そうなの」」

 声を合わせた莫迦二人が声の聞こえてきた方を振り向くと、そこには夕凪と佐保が佇んでいた。いつの間に背後を取られたのだろうか。油断も隙もない。

 夕凪の隣に着物姿で突っ立っている少女が九條佐保だ。白い肌、整い過ぎた目鼻立ち、膝の辺りまで長く伸びている烏羽色の髪。丹色の和服と低い背も相俟って、国宝級の技を持つ職人が作り出した人形かと見紛うほどに完璧な容姿だった。

 佐保は九條一族を統括する九條家の現当主だ。一條から数え上げて九條まで在る九家族が九條一族と呼ばれている。その一族の中でも頂点に君臨しているのが九條家であり、その現当主が佐保なのだそうだ。

 つまり佐保が九條一族、延いては西織で一番偉いってことだ。九條一族について詳しくはしらないけれど、佐保が村人から(あが)められているのは知っている。九條当主は西織の指導者であり、庇護者であり、神だった。

 でも、そんなのは大人達の話だ。ぼく達には関係ない。少なくとも崇められて距離を置かれることを、佐保は望んではいないのだから。

「…お久しぶりです。…瑞希に…深耶音」

 のんびりとしたテンポで佐保が言った。ただの挨拶なのに、少し緊張してしまうのは何故だろうか。品格とか威厳みたいな雰囲気を纏っているからだろうか。

「こんにちは。佐保ちゃんに夕ちゃん」

 しかし深耶音には通用しないようだ。天然は何よりも強いからな。

「うん、久しぶりだね。何年ぶりだろ」

 朝凪の冗談を夕凪に返す。さて、姉はどういう切り返しをしてくるのか楽しみだ。

「瑞希ちゃん、夕ちゃんは昨日遇ったし、佐保ちゃんは五日ぶりだよ。ホントに瑞希ちゃんは日にちの感覚ないよね」

 やれやれ、仕様がないな、とでも言いたそうな深耶音の頬を掴み、満面の笑顔を浮かべながら思いっ切り引っ張ってやる。お前には聞いていないし、いい加減に冗談だと理解して欲しい。このまま社会に出たら空気の読めない奴だと迫害されかねないぞ。

「いはい、いはいよ、いはいいはい、いはいっへは」

 おお、伸びる伸びる。何だか楽しい。

「ごめん。日本語しか話せないんだ。深耶音語は難しくて理解できないし、理解する気もないんだ」

「ははへー」

 両手を振り回して抵抗してくるけれど、動く深耶音が痛いだけで、ぼくは痛くも痒くもなかった。ジタバタしている深耶音を見ていると、あまりの愛しさに和んでしまう。

「瑞希様。なにやらお急ぎだったご様子でしたが、もう宜しいのですか」

「あっ、そうだ! 人命救助の途中だったんだ。急いで助けないと!」

 夕凪に言われるまで忘れていた。深耶音の頬を引っ張ている場合じゃない。

 パチンと良い音がしそうな感じにまで伸びていた頬から手を離し、慌ててモーターボートまで駆け寄った。かなりのスピードで突っ込んだにも拘わらず、先端部が少し砕けているだけでキャビンに大した損傷は無いように見える。中を覗いてみるけれど、誰も乗ってはいなかった。

「あれ? 運転手がいない。投げ出されたのかな」

「運転手なら私ですが。何かご用ですか」

 声の方を振り返ると夕凪と佐保がいた。付いてきていたらしい。

「夕凪、ふざけてる場合じゃないんだ。怪我人が居るかも知れないんだよ。急いで助けないと」

「…運転していたのは夕凪です。…怪我人はいません」

 夕凪を肯定したのは佐保だった。佐保は嘘を言わない。少なくともぼくが聞いたことはない。一方、夕凪も嘘は吐かないけれど、分かりづらい冗談を言うから佐保よりも信用度は下だった。

「そう……なんだ」

「私って信用ないのですね……」

 夕凪が瞳を逸らして呟くけれど、相手をしている場合ではなかった。

「そういう訳じゃないけど……。ホントに乗ってたの? ホントに?」

 (にわか)には信じられなかった。激突したボートから桟橋の中程に居たぼく達の背後に立つまでに、一体どれほどの時間が必要なのだろうか。十秒、いや、二十秒でも無理だ。ただでさえ佐保は和服で草履履きなのだから、急ごうにも急ぎようがない。ぼくはそんなに長い時間を惚けていたのだろうか。

「本当です……たぶん。それよりも電話をお借りできませんか。船舶管理の会社に連絡したいのですが」

 たぶん? なんだ、たぶんって。その一言が信用を落としている原因なのを気付いて欲しいな。

「電話ならそこに……って、管理小屋は無くなっちゃったのか。(うち)まで来てくれるなら好きに使っていいけど」

 ぼく達は携帯電話を持っていない。ぼくはお金がないから。深耶音は電話が必要になる場所に友達がいないから。佐保は電話が嫌いだから。夕凪は主が嫌いな物を使用人が持つわけにはいかないという義務感から持とうとしなかった。

「それは助かります。早急に船の修理を頼まなければなりません」

「これって修理で直る程度を越えてないかな」

「何とかなります。……たぶん」

 随分と弱気なたぶんだった。

「あれ、そういえば深耶音は?」

 一番大騒ぎしそうな深耶音がいないことに気が付いた。一体どこに消えてしまったのだろうか。

「…深耶音なら、桟橋で(うずくま)っていました」

 桟橋まで戻ると、真っ赤な頬を(さすり)りながら蹲る深耶音に睨まれた。



 湖沿いの道を広がって歩く。広がるといっても横に並らんでいるわけじゃない。狭い砂利道なので、四人が思い思いに歩くと道幅いっぱいになってしまうだけだ。車が来たら畑や原っぱに避けるしかないけれど、車に出会うこと自体が滅多になかった。出会うとしたら朝と夕方の通勤時間帯くらいのものだ。

「それにしても、なんで止まれなかったの。どこか故障?」

 気になっていた事故の原因を聞いてみた。もう少しで巻き込まれるところだったのだから、聞く権利くらいはあると思う。

「壊れてなどいません」

 夕凪の答えは丁寧でありながらぶっきらぼうに聞こえる。これが夕凪には普通の話し方なのだ。決して機嫌が悪いとか、ぼくが嫌われているわけではない。……たぶん。

「分かった。居眠りしてたんでしょ」

「いえ、実は瑞希様を見付けた姫様が急かしたからです。早く岸に着くようにと」

「それで減速もしないで突っ込んだのか? めちゃくちゃだなぁ」

「私は姫様の忠臣。姫様の望みであれば、命を代償にしても叶えてみせます。例えば先日の話ですが、有明……」

「…夕凪。…今夜はピーマン尽くしがいいです。…一緒に食べましょう」

 夕凪の会話を遮るように佐保が呟くと、夕凪は震えながら口を閉ざす。嫌いなのか、ピーマン。

「ねぇ佐保ちゃん。今日は夕ちゃんと遊びに来てくれたの?」

「…はい、…ご迷惑でなければ」

「ないない。迷惑なんてどこにもないよ。瑞希ちゃんが掛けてくる迷惑と比べたら、小石とエアーズロックくらい違うよ」

「おいおい、佐保がエアーズロックだなんて言い過ぎだよ」

「姫様。この身の程を(わきま)えない与太者に、教育を施すご許可を」

 夕凪が背中の小太刀二刀流に手を掛ける。殺気が感じられる。どうやら本気のようだ。

「…駄目です。…許可しません」

「……命拾いしましたね、瑞希様」

 許可が出ていたら真っ二つになっていたのだろうか。ぼくはコメディアンじゃないんだから、とても冗談に命を賭ける気にはならなかった。しかし、ぼくってそんなに迷惑を掛けているのだろうか?

「…変わった家が建ったと聞きました」

「ああ、わざわざ見に来たんだ。丁度良い……って言ったら悪いか。その家ってうちの隣なんだよ」

「…船から見えたお屋敷で…間違いないようですね」

「良かったですね、姫様。良い口実が出来まして」

「…明日は茄子尽くしにしましょう」

「あ……ぅぅぅ……」

 夕凪は呻きながら顔を伏せて落ち込んでしまった。

 茄子も嫌いなのか。余計なこと言わなきゃ良いのに。

「ねぇ、瑞希ちゃん。今日って畑仕事してる人が少ないと思わない?」

 深耶音は立ち止まり、畑が広がる風景を眺めていた。つられて立ち止まるも、畑仕事なんか気にして見たことがないので違いが分かるはずがない。どう見てもいつもと同じ風景としか感じられなかった。

「どうだろ。こんなもんじゃないかな」

「でもね、濱見のおじちゃんが言ってたよ。一昨日から秋野菜の収穫とか、冬への準備とかで忙しくなったって」

「ほら、昨日で終わったとか、日曜だから休んでるとかさ」

「そんなに早く終わらないと思うけどな。農業に日曜は無いとか言ってたし」

 それは分かる。気儘(きまま)に見える自営業ほど休みが無いものだ。

「たまたまだって。気にするほどの事じゃないし、気にする意味が分からないよ」

「そうですよ。気にしすぎると脱毛してしまいます」

 夕凪が何故かぼくの頭を見ながら言う。冗談でも止めてもらいたい。

「う〜ん、……そだね。気のせい気のせい、気のせいだよ」

「…深耶音は西織をよく見てますね。…好きですか…西織」

「うん、好きだよ。景色も空気も水も人も、み〜〜んな優しいもん」

「…そうですね。…わたしも好きです」

「瑞希ちゃんは好き? 嫌い?」

「ぼくは……」

 どうなんだろう。改めて聞かれると困ってしまう。

 住む場所としては嫌いなのだと思う。

 お店は地域密着タイプで生活雑貨しか置かれていないし、新商品が入荷されることも滅多にない。隣町まで行けば大概の物は手に入るけれど、村から出るにはバス以外の選択肢はなく、しかも午前と午後に一回ずつ運行するだけ。午前中に出かけて、午後の便で帰ってくるしかない。

 テレビなんて四番組しか映らないし、国営放送ですらノイズにまみれている。目がチカチカしてくるほどだ。殆どの家庭はケーブルテレビを入れているらしいけれど、うちは親父のテレビ嫌いもあって入れてはいなかった。

 カラオケ、ボーリング、バッティングセンター、ゲームセンターにビリヤード、考え得る限りの娯楽施設が影も形もなく、山奥のくせに温泉すらもない。

 不便で、退屈で、やたらと緊密な近所付き合いが鬱陶しい。

 でも……。

 でも、そんなのは、どうでも良い事なんじゃないかと、最近になって思い始めていた。

 空気や水が美味しくて、採れたての野菜なんかデパートで売っている物と同じ種類だとは思えない味がする。

 それに最近では感覚が麻痺したのか、不便な事を不便に感じていなかったりもする。それどころか、不便な事を楽しく感じていた。景色の移り変わりは見ているだけで楽しいし、穏やかに流れる時間は心を落ち着かせてくれる。景色や時間が、ぼくの心を優しく包み込んでくれている錯覚すら憶える。

 嫌悪感を抱いていた場所なのに、今では都会で暮らしていた十年よりも、西織で過ごした五年間が遥かに貴重で大きい。だから西織に越してきて良かったと、今のぼくなら言える気がする。

「別にどっちでもないよ」

 しかし、口から出てきたのは曖昧な答えだった。好きだなんて恥ずかしい言葉を言えるはずがない。言おうとしただけで顔が火照ってしまう。

「瑞希様、顔が真っ赤ですよ」

「ホントだぁ。何で、どうして。分かった、恥ずかしいことを考えてたんでしょ」

「…恥ずかしいこと……、ポッ」

「姫様に(この)ましくない妄想ですか。斬り捨てますよ?」

 いつの間にか恥ずかしい言葉が、恥ずかしい妄想に変えられていた。何だかセクハラをされている気分だ。

「ちっ、違うよ。絶対に違うから、取り敢えず刀から手を放そうよ」

「…夕凪…瑞希が淫らな妄想に囚われるはずがありません。…わたしが保証します」

 いや、そんなことを保証されても……。

「瑞希ちゃん、まずいよ。こんなに信頼されちゃったら、あの段ボール箱を処分しないと大変なことになるよ」

「ば、莫迦。こんな時に何てことを。無いから、そんな段ボール」

「さぁ、早々に瑞希様のお宅に伺いましょう」

 伺って何をする気だ、夕凪。

「は、入らせないぞ。部屋には入らせないからな。電話を貸すだけだからな」

「私を止めたければ特殊歩兵を一個中隊はご用意下さい」

「…大丈夫。…わたしは信じています」

「……もう、どうにでもして」

 ぼく以外のみんなが笑っていた。夕凪の表情は変わらないけれど、笑っているような気がした。

 そんなみんなを見ていると、命が危ういというのに楽しくて仕方ない。

 ただ歩いているだけなのに、ただ話しているだけなのに。

 楽しいと思える要素なんて無いのに、こんなにも楽しく感じるのは何故なのだろうか。



 四人並んで洋館を眺める。口を開けて眺めるその姿は、端から見たら随分とマヌケな光景かも知れない。

「誰もいないな。村中の人が見に来るかと思ったのに」

「見に来てたよ。瑞希ちゃんは寝てたから知らないと思うけど」

 そっか。見物人は午前中に集中してたのか。情報が早いと言うか、暇人どもと言うか。……人のことは言えないけれど。

「…きれいなお屋敷ですね。…風情を感じます」

 抑揚のない話し方で在り来たりな感想を佐保が述べる。この程度の屋敷を見慣れている佐保には、特になんの感慨も浮かばないのかも知れない。

「姫様、玄武館に似ていませんか」

「玄武館?」

 初めて聞く名前だった。どこかの有名な建物だろうか。

「…当家の敷地に建っている館です。…玄武館と呼ばれています」

 佐保が答えると、深耶音が食い付いた。

「それと似てるの?」

「はい。放置されている玄武館よりも立派ではありますが、建物自体は非常に似ています」

「そうなんだぁ。同じ人が造ったのかな。そんなに似てるなら見てみたいかも」

 深耶音が建築物に興味を抱くなんて珍しい。親父の影響でも受けているのだろうか。

「…深耶音、…見たいですか?」

 佐保は思案するような間を開けて問いかける。見せたいけれど、見せられない。そんな感じだろうか。

「うん、見たい見たい。佐保ちゃん()って行ったこと無いけど、凄いんだろうねぇ」

 九條屋敷は大きい。とにかく大きい。建物が大きければ敷地も広い。しかも西織だけでも本家と別宅が在り、星乃湖を囲むように三カ所に点在していた。車で行ける屋敷が二カ所有り、村から星乃湖を挟んだ反対側に本家と呼ばれる屋敷群がある。一般に本家だけを指して九條屋敷と呼ぶけれど、正確には星乃湖と周囲の山をも含んだ、早い話が集落の在る盆地以外の全域が九條屋敷なのだそうだ。つまり山々は庭であり、星乃湖は庭に在る池、集落は玄関の様なものらしい。

「…大きいだけです。…住んでいるのは三人だけなので…請客館(しようきやくかん)以外の建物は閉じてあります」

「へぇ〜。噂には聞いてたけど、ホントに三人しか住んでないのか。もったいない」

「事業を行うには不便な場所ですから。九條家以外の御家族は出てしまわれました。今では東京の御屋敷が本家のようなものです」

 実際は佐保が追い出したと噂されているけれど、公式には夕凪の言った理由が使われていた。おいそれと本当の事を言えないだなんて、体裁を取り繕うのも大変だ。

「…わたしはお飾りですから。…名ばかりの本家で偉そうにしているだけ。…らくちんなお仕事です」

 どこまでが本気なのか分かりづらいことを佐保が言う。どう返したものか悩む話題だった。

 いつのまにやら九條家の話になっていた。珍しい洋館だとは思うけれど、佐保達には見慣れた普通の家だった。これといった話題が出てこないのは仕方ないだろう。そもそも九條屋敷が在るのだから、今更村に似つかわしくない洋館が増えたところで、誰も珍しいとは思わないのかも知れない。

 せめて住人でも出てくれば、話のネタになるのに。――などと思っていると、玄関の重そうな扉が開いた。

「あれ、小父さんが出てきたよ」

 深耶音の言葉どおり、屋敷から出てきたのは親父だった。まったくがっかりだ。

「おーーい。小父さーん」

 家までの最短距離を進もうと原野を踏破しはじめた親父を深耶音が呼び止める。まったく余計なことを……。

「おおっ、佐保姫に夕凪嬢ではないですか。今日はボランティア活動ですか。偉いですなぁ」

「…お久しぶりです」

「こんにちは、柚賀原様。ボランティアとは何の事でしょう」

「愚息の相手をしてくれてんだろ。立派なボランティアだ」

「ああ、なるほど。納得致しました」

「…わたし偉いです。…立派です」

 なるほど、ぼくと遊ぶのは慈善行為なのか……。納得するなよ、二人とも。

「煩いからあっち行けよ。親父」

 ぼくを貶める元凶である親父を追い払おうと、強い口調で言い放つ。

「ひぃぃぃ、深耶音ちゃ〜ん。息子が邪険にするよ〜ぅ。暴力を振るうよ〜ぅ」

 深耶音の背後に回り込み、泣きマネを始める親父。ああ、本当に殴ってやりたい。

「ダメだよ瑞希ちゃん。お父さんは大切にしないと」

 深耶音は親父に甘い。激甘だった。必ずといっても言い過ぎではない程に親父の味方をする。もしかすると自分の父親と重ねているのかも知れない。

「はぁ〜、まあいいや。それで打合せは終わったの」

「そんなに早く終わるかアホ。ちょっと資料を取りに戻るところだマヌケ」

 ああ、蹴り飛ばしてやりたい。

「ねぇ、資料ってなに? 何でここから出てきたの?」

「あれ? 話してなかったかな」

 親父が洋館から出て来る理由を深耶音が知っている筈がない。何しろぼくと親父が話してた時には蕎麦を茹でていたのだから。

「はっはっはっ。何を隠そう家具を注文されたのさ。しかも家の中の家具を丸々全部ときたもんだ」

「ええっ、凄ーい。こぉーんな大きな家の家具を全部だなんて凄すぎだよ」

「わっはっはっ、そうだろう、そうだろう。この中の家具が全部! 俺様色に染まるのさ」

「嫌な表現ですね」

 夕凪が呟いた。

「…想像してしまいました。…気分がすぐれません」

 どんな想像をしたのか、佐保が口を押さえて俯いてしまった。

「あっち行けよ。親父」

 ぼくは生ゴミを漁る鴉を見るような目をしながら親父に吐き捨てる。

「はわぅ。冷めた視線で熱く見みないでくれぇ〜。父さん感じちゃうぅ」

「本気でどこか遠くに行ってください」

 車に子供を放置したままパチンコに熱狂する母親を端から見るような目をしながらお願いをする。思わず切望してしまう程に切実だった。

 ああ、首を絞めてやりたい。

「ちっ、ちきしょうーー! 二回も言いやがってぇ〜。お願いしやがってぇ〜。憶えてろよ、いつかギャフンと言わせてやるからなぁ!」

 親父は捨て台詞を残して作業場に走り去っていった。捨て台詞の小物ぶりが実に嘆かわしい。



「ゆーがーはーらー、みずきぃーーーー!」

 親父が居なくなって清々したと思っていたら、ドップラー効果を伴いながら背後から自分を呼ぶ声が聞こえてきた。殺気を感じ、声の発生源を確かめることなく真横に跳ぶ。

「うりゃああっ!」

 喊声(かんせい)と大地を穿つ音が同時に発生した。

 地面を一回転し、足が大地を捉えた瞬間に蹴り上げて立ち上がる。次の攻撃を避ける為に大きく跳び退ると、転がったときに掴んでおいた小石の一団を跳ぶ前に居た場所に目掛けて投げつける。襲撃者は予測どおりの位置で固まっていた。転がった先を予測して攻撃をしようとしたら、目標がすでに移動していたので見失ってしまったのだろう。

 ぼくの方が一手先を読んでいた。避けようにも、もう間に合わない。

 小石が襲撃者に当たるかと思った瞬間、持っていた得物で全ての小石を弾いていた。とても人間業とは思えない挙動だ。

 動きを止めた襲撃者を見ると、細長い金属の棒を携えていた。ぼくが襲撃を受けた場所に開いている細長い穴は、あの棒が開けたものだろう。そして、その棒を握っているのは朝凪だった。

「それは反則だ! そんなので叩かれたら危ないって! 死んじゃうって!」

「あははっ、すごい、すごい。朝凪の一撃を避けちゃうなんてすごいです。肩は逝くはずだったのに、完璧に避けちゃいました。しかも、反撃をしてくるなんて流石です。成長著しいですよ、瑞っち」

「誉められても嬉しくないよ。遇う度にやられてれば、嫌でも上達するっての」

 そう、これは特訓だった。朝凪は不意打ちで攻撃をし、ぼくはそれを避けて、あわよくば反撃をお見舞いする。昨日は避けられなかったけれど、今日みたいに声を上げてくれれば、自然と身体が反応して避けられるようにまでなった。

 強い攻撃の時は大振りだから避けやすいのだけれど、最近では隙の少ない攻撃を多用してくるようになった。一打の威力が小さいとはいえ、早めに反撃をしてコンビネーションを止めないと、気付いた時には全身が痣だらけになって動けなくなってしまう。

 何とか捌けるようになってきたと思ったら、今度は武器まで持ちだしてきた。流石武器は危ない。もしも捌けなければ大怪我で入院か、鬼籍に入ることになるだろう。朝凪に頼んだのは遊びに勝つ為の稽古なのに、そんな事で殺されては堪らない。

 しかし、これも王者である誠人に勝つ為だ。だから誠人が完敗を認めている唯一の人物に師事することにしたのだ。どうして誠人が朝凪に勝てないのか、四年経った今なら分かる。それはもう、師事を頼むんじゃなかったと後悔するほどに。

「あははっ、次からは反撃されても止めないようにするね」

 それって絶対に叩き込むって言われてるような。ひょっとして、ぼくは朝凪に恨まれているのだろうか。

 朝凪が棒状の何かをしまう。それはどう見ても伸縮式の指し棒だった。

 ほら、黒板に書かれた文字や図形などを指し示したり、寝ている生徒を叩いて起こす為のアレだ。最近ではレーザーポインタに取って代わられているらしいけれど。

 朝凪が持っている指し棒は一段目だけが黒い光沢を放っており、『高級感を出してみました』と主張していた。やっぱり先っぽはボールペンになっているのだろうか。

 じっと指し棒を見ていると、その視線に気付いた朝凪は体でガードするように指し棒を隠す。

「なんですか。これは朝凪の宝物ですから、欲しくてもあげませんよ」

「いや、いらないけど。それって指し棒だよね。授業なんかで使う」

「使うかは知らないですけど、それのことだと思いますよ」

「ちょっと見せてくれないかな。昔憧れてたんだよ。偉い学者みたいで」

 少し悩んでから、怖ず怖ずと差し出してくる。そんなに嫌なら断れば良いのに、断り切れないところが朝凪だった。夕凪だったら断ってきただろう。

 一見すると、それはどこの文具屋にでも売っていそうな、さして珍しくもない普通の指し棒だった。引き伸ばしてみても一段目が重すぎてバランスが悪いくらいにしか思えない。これでは思い切り振り回せば簡単に折れてしまうだろう。

「さっき朝凪が打ち込んできたのって、これだよね」

「そうですよ。護身用にって夕姉から貰ったのです。因みにですね、昨日叩いたのもそれです」

「ホントにこれ? こんなので強く叩けるとは思えないけど」

 こんなに貧弱な指し棒では振り回すだけで折れてしまい、あそこまでの激痛を生み出せるとはとても思えない。しかも土とはいえ地面に穴を空けているのだ。幾ら何でも無理な話だ。

「あはっ、コツがあるんですよ。夕姉直伝です。瑞っちには無理ですから、いい加減に返して下さい」

 差し出してきた手に指し棒を乗せて返す。何だか必死な感じがした。そんなに大切なものなのだろうか。

「コツねぇ。納得できるような、できないような……」

 悩んでも答えは出そうになかった。実際にやってみせたのだから、出来るのだろう。

「…朝凪。…用件があるのではないですか」

 佐保が話を促す。確かに留守番しているはずの朝凪が用もないのに彷徨いているわけがない。その辺りの規律は厳しいらしく、奔放に仕事をしている様に見える朝凪ですら厳守している。

「あっ、そうでした。佐保姫様、急用です。至急お戻り下さい」

「駄目でしょう朝凪。しっかり報告なさい。いつも言っているでしょ。あなたは……」

「…朝凪。…これは放っておきなさい。…はい…詳細」

 佐保は説教を始めた夕凪をこれ扱いして朝凪に続きを促した。朝凪は助かったとばかりに詳細を伝える。

「はい。ご報告しますです。一條様が面会を求めておりますです。早急の御用件だそうですので、お知らせに参りました」

「…そう。…仕方…ありません。…では戻りましょう。…瑞希、深耶音、わたしは戻ります。…招待をして頂いたのに、申し訳ありません」

 佐保がゆっくりと頭を下げて謝る。ぼくは慌てて周囲を伺った。こんな所を村人に見られたら大騒ぎだ。謝ることになったのは、ぼくかも知れない。それ程までに九條家宗主は神聖視されている。

「謝ることなんか無いよ」

「そうだよ。友達に気兼ねはいらないよ」

 深耶音はもう少し気兼ねした方が良いと思うけれど、水を差すのも何なので黙っていることにする。

「…あの…その…、…また……」

 佐保は口籠もる。何を言おうとしているのか分かった。

「ああ、また遊びに来てよ。何ならそっちに遊びに行くから」

「…それは……駄目です」

 逡巡しながらも、ハッキリと答える。いつもそうだ。佐保は家まで遊びに来て欲しそうにしながらも、誰が近付くことも許さない。しかし、遊びに来て欲しそうなのが見え見えなので、今日こそは誘ってくれるんじゃないかと、つい水を向けてしまう。

「姫様、御招待致しては如何でしょうか。請客館であれば問題はないと思います」

 夕凪が佐保を執り成すなんて珍しい。

「…ですが……」

「良いじゃないですか姫様。遊びに来て貰いましょうです」

「お持て成しの準備であれば二日も頂ければ完了します。セキュリティも問題ありません。進んでお招きください」

 凪姉妹の説得を聞き終えると、曇っていた佐保の表情に晴れ間が微かに覗いた。何かが吹っ切れたかのような顔つきだった。

「…夕凪…朝凪。…ありがとう」

「感謝の言葉を賜るには及びません」

「そうです。朝凪も楽しみなのです」

 佐保はぼく達に向き直り、頬を赤く染めながらいった。

「…瑞希…深耶音。…遊びに招待しても宜しいか」

 堅苦しい招待の仕方だったけれど、佐保らしいといえば佐保らしい。しかし、それはぼく達の間では相応しくない。

「ちがうよ。遊びは招待したり、されたりするもんじゃなくて、一緒に遊びたいから行くんだし、来るから一緒に遊ぶんだよ。だから友達を誘うときは『遊ぼう』だけで良いんだ」

「そうそう。招待なんて言われたら緊張しちゃうよ。でも佐保ちゃん()に遊びに行けるなんて嬉しいな」

 本当に嬉しそうな表情を浮かべる深耶音。その幸せそうな笑顔を見ていると、ぼくも幸せな気分になってくる。

「…ともだち……」

「姫様……」

 俯いてしまった佐保を心配した夕凪が呼び掛けると、顔を上げた佐保が言い直した。

「…瑞希…深耶音。…遊びに来なさい」

 気恥ずかしいのか、赤くなった顔には期待と恐れが入り交じって、ひどく複雑な表情をしていた。こんな事が簡単に言えないなんて、実に佐保らしいと思う。なにせ、ぼくと出会うまでは屋敷の中から滅多に出た事がないそうだから、遊びに誘うような友達は一人もいなかったのだろう。凪姉妹は仲が良いとは言っても、どこかに使用人という壁が存在するし、何より同居しているのだから誘う必要もない。

「うん、いくよいくよ。ゼッタイ行くよ」

「行ってやるから覚悟しといてよ。お茶菓子食べ放題に、散らかし放題だ」

 間髪入れずに返事をすると、今まで見た事のない柔らかな微笑みを浮かべた。

「…はい。…それくらい覚悟します。…契約です」

「堅いなぁ。仲間なんだから約束でいいんだよ」

「…そうですね。…では…約束です」

 嬉しそうに微笑む佐保の後ろでは、凪姉妹も微笑んでいた。夕凪の表情はいつもの仏頂面だし、朝凪はいつも笑顔を浮かべているけれど、ぼくには微笑んでいるように見えた。

「あのさ、夕姉。覚悟するのは朝凪達じゃないのかな」

 お茶菓子を用意するのも、散らかる予定の部屋を片付けるのも、全部凪姉妹の仕事だった。

「そうね。でも、姫様が楽しそうだから良しとしましょう」

「うん、そうだね」

 凪姉妹は佐保を見つめながら、変わらない表情で微笑み合った。

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