1-4 神座葵
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消し炭のような鮭を平らげ、お風呂に入った後、ぼくは布団に横になっていた。ジワジワと胃が痛んできたからだ。
原因はやっぱりあの鮭なんだろうな。珍しく焼き魚を選んだチャレンジ精神は認めるけれど、表面が黒こげで、中身がレアよりもレアなのは焼き魚と認めるわけにはいかない。刺身に出来るほど新鮮なら良いけれど、この辺りで焼き魚用に売られている物に、そんな期待をしてはいけない。そんなことをすれば、過剰な期待に耐えられなくなった切り身はのし掛かる重圧に耐えられなくなって家庭内暴力を振るうようになってしまうだろう。
取り敢えず、フライパンで焼くのは良いとしよう。魚用グリルを使うのが面倒なときは、ぼくもよくやる手だ。クリルで焼くのは良いけれど、焼いた後の片付けが面倒なのだ。
でも、焼く前から醤油を掛けてしまうと、その後どうなってしまうかはぼくだって知っている。そう、焼き上がる前に焦げて真っ黒だ。それなのに中に火は通らずに生のままになってしまう。
……ああ……、残せばいいのに食べ物を粗末に出来ない性格が恨めしい。
後悔の念に蝕まれていると、大きな足音を立てながら親父が廊下を歩いて近付いてくるのに気付いた。親父の足音はドカドカと煩いのだ。
「おーい、瑞希。胃薬持ってきてやったぞ。……なんだ明かりも点けないで」
親父が襖を開けて入ってくる。もちろんノックなんてしない。
「点けなくていいよ。もう寝るから。後で飲むから、机の上にでも置いといて」
「なんだぁ。随分早いじゃねえか。ゲームやろうぜ。ゲーム」
「もう飽きたよ。面白そうなのが出るまではいいや」
「そうか……」
親父は何か言いたそうな素振りを見せるが、結局何も言わなかった。黙り込んだ親父を訝しく思い、表情を窺おうとするけれど、廊下の明かりが顔に影を作って隠していた。
「じゃあ、おやすみ。布団掛けて寝ろよ。風邪引いても学校行かすからな」
もしかして、周りからは布団を掛けないで寝ていると思われているのだろうか。そんなことを思っていると、布団の上に薬の瓶が落ちてきた。親父が投げて寄越したのだろう。
「親父、……ありがと」
親父は一瞬だけ動きを止めたけれど、結局は何も言わずに襖を閉めて戻っていった。
折角なので胃薬の錠剤を唾で呑み込み、水を持ってこない気の利かなさが実に親父らしいと納得する。
開け放たれた掃き出し窓から空を見上げると、そこには星空が広がっていた。
空を覆い尽くす星の光。月の無い夜にだけ魅せる星々の饗宴。
こんなにも素晴らしい眺望を前にしては、眺める以外にすることはないだろう。心が奪われるとは、こんな状態を言うのだろうか。
思えば、この星空を見てからかもしれない。あまりテレビゲームを面白く感じなくなったのは。身近に別の世界が広がっているのを知ったとき、画面の中にしかない狭い世界に魅力を感じなくなってしまったのだ。
それは遊びにしてもそうだった。鬼ごっこや隠れん坊の楽しさを知ったとき。野球やサッカーの楽しさを知ったとき。どんどんテレビゲームに魅力を感じなくなっていった。
ぼくは低次だと莫迦にしていた遊びが、この上なく楽しい行為なのだと知った。そして、煩わしいだけだった友達が、掛け替えのない仲間で在ることを遊びが教えてくれたのだ。
親父は山奥で何も無い田舎に家移りしなければいけなかったことを、今でも引け目に感じているらしい。初めて聞かされたときからずっと、ぼくは反対しつづけていたからだ。
この村に来るまでの一ヶ月間は徹底して無視を決め込んだ。この家に越してきたときも十日間は部屋に閉じこもった。出てくるのはトイレと食料をあさるときだけ。
今考えると、何故あそこまで頑なに反対したのかと思う。でも、ふて腐れもするだろ。親の都合で住み慣れた都会を離れ、不便極まりない田舎に連れてこられれば。
でも、今は感謝していたりする。ぼくはこの村に来てから多くの今を手に入れた。棄ててきた過去があまりにも小さすぎて、記憶に残らないのではと思わせるほどに。
そんな機会を与えてくれたのは親父だ。ぼくも親父も望んで越して来たわけではないけれど、今はとても感謝している。そんなことを口に出して言うのは恥ずかしいので絶対に言わないけれど、本当に感謝しているんだ。
ぼんやりと星空を眺めていると、虫の声に混ざって何か大きな何かが移動しているような音が聞こえることに気が付いた。はたして動物だろうか。
しかし村には野良猫も野良犬もいない筈だ。野生化したら困るからと、見付け次第捕獲してしまう。猿も猪も鹿も村には近付いて来ないと聞いた。現に隣町の簓町(現在は楠目市に併合されているけれど、未だ簓町と呼んでいる人が多い)では熊や猿が何度も目撃されているのに対し、山奥と言ってもいい場所にある西織村には一度たりとも現れた記録が残ってはいないらしい。もっともこの話の情報源は誠人なので、どこまで信用しても良いのかは分からない。
月の無い夜は空を星で満たし、地を漆黒に染め上げていた。星の明かりに慣れてしまうと足元が暗闇に覆われ、暗闇に慣れてしまうと星が眩しすぎて空が見えない。
星の仄かな光では辺りを過不足なく照らすには弱すぎて、逆に闇を際だたせて多くの造形物を隠してしまう。
そんな世界にひとつの闇が蠢いていた。闇は仄かとはいえ光が燦爛と輝く世界にあってなお闇として揺らめいていた。
漆黒よりも暗い闇がそこにはあって、その闇はゆっくりと近付いて来ていた。
闇は恐怖だ。何も見えない。何も感じられない。無機物の持つ冷たさ。何物をも許容し、全てを否定する。逃げ出したい衝動に駆られても、実行に移す命令を脳が発してくれない。出来たことと言えば、ゆっくりと上半身を起こすことだけだった。
「こんばんは」
闇が声を発した。凛とした声。透き通るような、冬の空気にも似た響き。それでいて、どこか幼さを感じさせるような声音だった。
闇が晴れて声の主が姿を現した。それは同い年くらいの少女だろうか。背後の星明かりが邪魔をして、顔を確認することが出来ない。それにしても、女の子がこんな時間のこんな場所で一体何をしているのだろう。
「こ、こんばんは」
平静を装って返答したけれど、思わず吃ってしまった。少し恥ずかしい。
「貴方も星を見ていたの? 月の無い星空って綺麗よね」
少女が妙に大人びた口調で話しかけてくる。もしかすると少女などではなく、背が低くて声の幼い女性かもしれない。
「えっ、ええ。綺麗ですね」
思わず余所行きの声で答えてしまった。どうやら、本気で動揺しているようだ。落ち着け、落ち着くんだ、ぼく。
「そちらにお伺いしても、宜しいかしら」
「えっ、えっと、どうぞ」
不思議と断る気持ちが湧いては来なかった。それどころか、わざわざ確認されたことに寂しさのような気持ちを感じていた。
さっきは暗闇の中を人が近寄ってきたから動揺しただけだ。正体さえ分かれば動揺する必要はないし、何よりかっこ悪いではないか。
立ち上がって蛍光灯の紐を引っ張る。明かりが点くと、ゆっくりと窓際まで近付いてきた少女の姿が鮮明に浮かび上がった。
そこに居たのは、とても美しい少女だった。純白のワンピースを纏い、さらりと広がった黒髪が膝の辺りまで伸びていた。白と黒のコントラストがそれぞれの持つ長所を高め合い、神秘的と言っても大袈裟ではない輝きを放って見えた。
明かりを受けて艶を放つ黒髪の幾筋が純白の衣装と白みを帯びた肌に絡み付き、その髪をかき上げる姿を見ているだけでどぎまぎしてしまう。それに、その仕種が何となく懐かしいような気がして、つい見とれてしまった。
「好きなの?」
「えっ!」
髪をかき上げる動作に見とれていたのを見透かされたのかと思い、頭の中が真っ白になる。
「ずっと見てたから、星が好きなのかと思ったの。違うのかしら」
「あっ、ああ、星ね。うん、結構好きだよ。ずっと見ていても飽きないし」
「そうね。時折、時間を忘れて見とれてしまうわ。――ねぇ、腰を掛けても良いかしら」
「ど、どうぞ」
少女は返事を聞くと、背中に流していた髪を前方で一本の束にまとめ上げてから、申し訳程度の縁側に腰掛ける。またしても髪を纏める行為に視線が釘付けになってしまった。
ぼくは一体どうしてしまったのだろう。ただ髪を纏めただけじゃないか。こんなにどぎまぎしなくちゃいけない理由なんてない筈だ。
「初めまして。私は神座葵。葵と呼んでくれると嬉しいわ。名字で呼ばれるのは好きじゃないの。語呂が悪のだもの。それと、敬語など使わずに普通に話してもらえるかしら。私も気を遣いたくないもの」
注文の多い自己紹介だった。
「分かったよ。ぼくは――」
「今日の引っ越しは驚いてもらえた?」
自己紹介を返そうとしたけれど、その隙を与えてはもらえなかった。せっかちな性格なのだろうか。それとも、ぼくの名前なんかに興味はないって意味だろうか。
「引っ越しって、隣の洋館のこと?」
ぼくが知っている最近の引っ越しは隣の洋館以外にはない。但し、あれが引っ越しと呼べるのならだけれど。
「そうよ。家ごと引っ越してきたの。まったく困ったものよね、お父様の思い付きにも。唐突に家が建っていたら、皆さん驚くだろうと仰って」
そりゃあ、驚くだろ。昨日まで空き地だった場所にいきなりあんな大きな建物が建っていたら、大抵の人は驚くに決まってる。
「でも凄い発想だね。家をヘリコプターで移動させるなんて」
「そうね。発想だけは凄いわよね。やらされる周りは迷惑でしょうけれど」
葵は嬉しそうに微笑む。可愛いと言うよりも美しいと言った方が適切だろう。ちょっとドキッとしてしまった。
「家ごとってことは、葵さんも吊されて来たの?」
「『さん』は要らないわ。葵でお願い。堅苦しくなってしまうのは嫌だもの」
葵の言葉遣いが一番堅苦しい気がするけれど、きっとこれでも気軽に話しているつもりなのだろう。育ちが違うと堅苦しさの基準も違ってしまうらしい。
初対面で馴れ馴れしいのもどうかと思ったけれど、どうやら葵は気にしないタイプのようだ。あまり気にしないで気軽に話すとしよう。
「それじゃあ、葵も吊されて来たの?」
「まさか。それ程無謀ではないわ」
葵は楽しそうに微笑む。美人が微笑むと何かを企んでいる様に見えるけれど、葵の微笑みは凶悪に可愛いく見える。先程からの大人びた表情からは想像も付かないほど子供っぽくて無垢な笑顔だった。
「それで、葵はこんなに遅い時間に何をしてたの?」
「こんなって、まだ九時も回っていないわよ。そんなに遅い時間でもないでしょ」
「それもそうか。西織って夜が早くてさ。七時を過ぎると誰も出歩かないんだよ。店とか開いてないから、八時過ぎると深夜みたいになっちゃうし」
西織に来たばかりの頃は夜の暇な時間を潰すべく、何か暇を潰せるものを求めて彷徨い歩いていた。そして夜を構成している質が、今まで住んでいた場所とは違いすぎることに愕然としたものだった。
まず、七時過ぎに開いているお店は飲み屋以外にはない。その飲み屋にしたって華やかな喧騒とは無縁の小さなお店だった。コンビニの名を掲げている中本屋ですら七時には閉まってしまう、全然コンビニエンスじゃないコンビニしかなかった。
街灯などは主要道路と公共施設にしか建っていないので、懐中電灯を持たずに出歩くのはとても怖かったりする。前に住んでいた場所なら十時前に閉まる店は少ないし、外灯などは何を照らすつもりなのか理解に苦しむような場所にまで設置されていた。
「だから星を眺めていたの? 他にやることもないから?」
「うん、そう。うちってさ、ケーブルとか入ってないからチャンネルが少ないんだ。しかも映り悪いしさ。つまんない番組しか映んないんじゃ視てもしょうがないだろ」
「ケーブルって?」
「ああ、ケーブルテレビだよ。隣の町からテレビの線を引っ張ってきてるんだって。凄いらしいよ。60チャンネルもあって映りも良いし、インターネットだって出来るんだってさ」
「それは楽しそうね。なぜ入っていないの?」
「親父がお笑いを嫌ってるんだよ。特に罰ゲームとかが嫌いらしくて、あんなものを見るならゲームでもやれなんて言うんだ。ネットもやってみたいけど、パソコンなんてうちの家計じゃ高すぎて買えないしさ」
うちは貧乏ではないけど余裕があるわけでもない。毎月カツカツな生活だ。だったら家具の値段を上げれば良さそうなものだけれど、親父の信念が『良い物を安く』だから、仕事が殺到するようになった今でもたいした収入にはなっていない。
「大体さ、パソコンなんてゲームとネットくらいにしか役立たないくせに高すぎるんだよ。簡単だとか言っといて、すっごく難しいしさ。あんなの憶えるくらいなら、他のことをやった方がいいよ」
「何事を為すにも最初は難しいものよ。慣れてしまえば難しい事は無くなっていくわ。少しでも興味があるのなら、諦めて拒否する前に挑戦した方が良いのではないかしら」
「がんばって憶えても更に難しい問題が次々と増えていくんだ。そんなの面倒臭いよ」
「そうね。難問は決して無くなりはしないわ。でも、それが生きいる証なのではないかしら」
「そんな大袈裟な」
「何事も大袈裟な方が丁度良いのよ。諦めて何も為さないのは死んでいるのと同じことではないかしら。生きている意味が見出せないのならば、それは死にかけているからよ。だから人は意味を求めて生きていくの。――あくまで私の仮説だけれど」
何だか話がかみ合っていない気がする。ぼくはパソコンのことを言っているのに、生きる意味などと哲学的な話をされても付いていけない。
葵は右腕に着けている時計を見やると、優雅な動作で立ち上がった。束にしていた髪がふわりと解けて、蛍光灯の光に輝きながら広がった。
「そろそろ門限みたい。早く帰らないと希更に怒られてしまうわ」
「帰るなら、送ろうか?」
「ありがとう。でも大丈夫よ。お隣ですもの」
微笑む葵の瞳が真っ直ぐにぼくを見つめてくる。話し相手の目を見るのは礼儀なのかもしれないけれど、ぼくは恥ずかしくて駄目だった。相手の口元を見ていれば視線が合っているように誤魔化せる。だから、このときも僅かに視線をずらしていた。それに気が付いたのか、一瞬だけ憂いの表情を浮かべた気がしたけれど、もしかしたら見間違えかもしれない。
「また、お話に来ても良いかしら」
「いつでも来てよ」
「ありがとう。それではお休みなさい。またね、瑞希」
「うん、おやすみ、またね」
葵はゆっくりと振り返り、ゆったりと歩き出す。決して動作が緩慢なのではなく、これが優雅な振る舞いというやつなのだろう。
突然引き留めたい気持ちが湧いてくるけれど、引き留める言葉が出てこない。掛ける言葉が思い付かなかったのと、引き留めなければいけないと思った理由が分からなかった。どうしてそんな気持ちが湧き上がってきたのか、自分のことながら困惑してしまう。
蛍光灯の照らす光の中から葵の姿が消える。まるで闇に呑み込まれてしまったかのようだった。
もちろん本当に消えたわけではない。部屋の明るさに慣れてしまった角膜ではほんの二,三メートル先であっても像を結ぶことが出来ず、光の届く範囲以外を隠してしまう。
葵の消えていった先を未練がましく見つめてしまう。戻ってくる筈もないのに。
何かが引っ掛かっていた。何か、大切なこと。でも心当たりはない。諦めて考えることを止めたとき、ふと疑問が湧いてきた。
「……あれ? そういえば、葵に名前を言ったっけ?」
言ったような、言っていないような。良く憶えてはいないけれど、きっと言ったのに違いない。だって、言っていないなら知っている筈がないのだから。
何だか考えるのが面倒臭くなってしまった。窓を閉じて明かりを消すと、布団に寝転がって空を見る。ガラス越しに見る星の瞬きも、やっぱり綺麗で飽きなかった。
いつの間に治ったのか、胃の痛みが消えていた。