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悠久の終わりに  作者: 神楽あまみ
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1-3 空からの来訪者



 迷惑を掛けてしまったことを店長に謝ってから店を出ると、すでに表は薄暗くなっていた。

 西織を取り囲む山々が集落に濃い影を落とし、視界に不自由するほど暗くなっている場所を作っている。四時を廻ったばかりだというのに、すでに照度センサーが反応した街灯が点り始めていた。しかし、空を見上げてみれば、まだまだ明るい青空が広がっている。山の稜線から昼と夜とがはっきりと分かれて世界を二分していた。

 空の明るさが地上の薄暗さを否応無しに際立たせ、山の陰になる場所では夜の様相を醸し出していた。村には街灯が申し訳程度にしか立っていないので、後数刻もすれば村の殆どの場所は闇に覆われてしまうだろう。特に月も星も無い夜には深い闇が村を漆黒に塗り潰してしまう。どこにいても不自由しない程度には明るかった都会とは大違いだ。

 西織の集落は山奥と言っても良い場所に在る。四方を山に囲まれ、星乃湖の(ほとり)に開けた僅かばかりの湖盆に、民家と田畑が申し訳程度に広がっている。山奥にしては規模が大きく、二千人に近い村人が住んでいた。

 西織村は豊かな自然に恵まれた風光明媚な所で、一見すると観光地や別荘地として申し分ない場所に見える。夏は涼しくて避暑地として最適であり、秋は紅く彩られた山々が素晴らしい景観を見せつける。冬は寒さが厳しくてあまりお勧めはできないけれど、春に芽吹く草木や花々の美しさは、厳しい冬を耐えてきたものだけが見せる輝きを放っていた。

 そして何よりも星乃湖の存在が大きい。青く澄んだ、透明度の高い水質と、波の凪いだ時に映り込む景色の鮮やかさは、見た者を感嘆させずにはいられない。

 しかし、これ程の観光要素を内包していながら、今まで観光地化されることはなかった。様々な企業や行政が観光地化に名乗りを上げたけれど、必ず用地買収に失敗して頓挫していた。何故ならば、西織村全域が九條家の敷地だと言ってしまっても差し支えないからだ。

 今でこそ各家の敷地や田んぼ等はその家の家族名義となってはいたけれど、元々は九條家が所有していた土地だったのだ。大東亜戦争終結後に行われた農地改革によって耕作者に権利が譲渡されたのだけれど、村人は譲渡された後も勝手に売却したりせず、九條家に義理立てをしている家が殆どだ。その為に観光地化されずに取り越されてきた。

 農地改革を簡単に説明するならば、土地を独占して所有していた地主から国が強制的に取り上げて、実際に田畑を耕作している小作人に無償で譲渡させた改革だ。

 元々の地主にとっては迷惑極まりない改革だけれど、ただ権利を持って管理していただけの九條家にとっては、書類上の名義が換わっただけの話だった。なにしろ借地料などの費用は取っていなかったし、売却できたとしても二束三文にしかならない。むしろ税金の負担が減ってくれる分だけ、九條家にプラスだったかもしれない。

 困惑したのは九條家よりも譲渡された村人の方だった。不満も不都合もないのに土地を譲渡され、今まで九條家が納めていた税金などを自分達で払わなければいけなくなった。それはまるで、国が九條家から奪った土地を村人に貸し与え、税金という名の借地料を取っていると感じさせた。

 だからなのか、西織に住んでいる者達は未だに九條家を君主のように崇めている。しかも最たる行政機関である村役場ですら九條家の言葉には従順だった。もっとも、村の行政機関で働いているのは村人なのだから、九條家を特別視しているのは当然といえば当然なのだけれど。



 星乃湖(ほしのこ)を左手に望みながら、のんびりと家路を歩いていく。湖の対岸には九條屋敷に点った明かりが星のように瞬いていた。右手には様々な作物が植えられた畑と、生け垣越しに明かりの点る民家が見てとれる。山の陰から逃れた場所は未だ明るいというのに、この辺りには早すぎる夜が訪れていた。

 隣には深耶音が歩いている。向坂家はうちの裏だから、遊び場所や学校への行き帰りはいつも一緒だった。

「それにしても痛かったなぁ」

 頭を擦ってみると、鋭い痛みが疼いている場所が(こぶ)となって腫れているのが分かる。自転車に乗るとズキズキと疼くので、仕方なく歩くことにしたのだ。

「瑞希ちゃん、ごめんね。助けてあげられなかったよ。みか音がもっと強くなって、次こそは絶対に助けてみせるよ」

 深耶音が済まなさそうに謝ったかと思った途端、決意を込めた瞳で決意を表明してきた。けれど次なんかあって欲しくはないし、自分で対処した方が間違いがないので深耶音に助けてもらう気なんて更々ない。

「君には期待しておりません」

「あうっ、ひどいよ瑞希ちゃん。少しは期待してよ。選挙の公約くらいは期待してよ」

 わざと丁寧に答えると、深耶音は傷付いたとばかりに呻いた。しかも、期待して欲しいのか、して欲しくないのか分からない例え付きだった。

「それにしても朝凪の奴、今度会ったら絶対に仕返ししてやるぞ」

 思い出すだけで怒りがこみ上げてくる。

「仕返しはいいけど、女の子を叩いたりしたらダメだよ」

 いいのか、仕返し。

「分かってるよ。だから口では言えないような酷い目に遭わせてやる」

「何だか悪役みたいだよ瑞希ちゃん。でも酷い目ってなんだろ。……まさか、オオカミになって……」

「ええい、それは忘れろ」

 流石に朝凪の冗談だったと気付きはしたけれど、未だ内容に引っ掛かりを憶えているらしい。深耶音にとっては衝撃的な内容だったのだろうけれど、いつまでも引っ張られるのは気分が良くない。ここはひとつ、深耶音の為にも忠告しておいてやろう。

「深耶音、いい加減に何でもかんでも信じるのは止めた方が良いよ。特に朝凪の冗談を信じると命に係わるからな」

「でも信じるのは大切なことだよ」

「限度があるんだって。冗談だと分かってて信じるのと、分かっていなくて信じるのには、決して超えられない大きな隔たりがあるんだ」

「分かってて冗談を信じちゃダメなんじゃないかな」

 違う。そんなことが言いたいのではない。論点が違うと思うけれど、考えなくて良い所を考えてしまうのが実に深耶音らしい。深耶音は「んー」と考え込むけれど、どうせ理解はしていないのだろう。

「大丈夫だよ。朝ちゃんは友達だもん。襲ってきても命までは取らないよ」

 いやいや、友達だったら襲ってこないって、最初から。

 しかし朝凪はヤバイ。隙があれば容赦なく襲ってくる。今日など隙を見せたつもりもないのに、いつの間にか頭を叩かれていた。奴に隙を見せたらいつの間にか昏倒させられて臓器バイヤーにでも売られているかもしれない。確かに誠人に勝てるように鍛えてくれとお願いしたのはぼくだけれど、ここまで来るとやり過ぎだろう。徐々に巧妙になる手口に対処し、いつ襲ってくるのか分からない緊張感を維持し続けるのは不可能だ。でも効果があるのは確かなので、今のところ止めるつもりはない。

 家の近くまで来ると、西から差し込む夕日によって朱く染まっていた。未だに日の当たっている山の頂付近が茜色に染まり、夜の当来が間近に迫ったことを告げていた。

 取り留めのない話を交わしながら家の前まで来ると、隣地前の道路に人が集まっていた。こんな時間に井戸端会議でもあるまいに、みんな集まって何をしているのだろうか。

「あれ、米沢のおじちゃんだ。濱見(はまみ)のおじちゃんもいるよ。森崎さんに利根塚さんに野際さんまでいるよ」

「ご近所さん大集合だな。こんな所で何してるんだろ?」

 近づいて確認してみると、ご近所さんが六人も集まっていた。薄暗い道路に(たむろ)しているご近所さん。隣町へのカチコミか、銀行を襲撃する予定なんかを話し合っているに違いない。

「おう、帰ってきたか、愚息よ」

 ご近所さん達から少し離れた所に親父と深耶音の母親である夏音さんがいた。

 親父はどうでもいいとして、夏音さんがこんな時間に帰っているのは珍しい。いつもは仕事で遅くにならないと帰ってこないのに。

「どうしたんだよ親父。みんなして集まって」

「どうしたじゃねえよ。見りゃわかんだろうが」

 親父は言いながら空き地に向けて左腕を振りかざすと、人差し指を伸ばして指し示す。ぼくと深耶音の視線が指の先を辿っていくと、お昼に見た時には無かった建物が、隣の空き地に建っていた。

 それは洋館だった。凝った意匠を施され、暗くくすんだ赤で統一された色調の中で、白く塗られた大きな窓枠だけがやたらと目立つ。大きなテラスの上はサンルームになっているのだろうか、平面ガラスを何枚も使うことで曲線を作りだし、まるで植物園の温室のようだ。屋敷の裏手には円筒の塔屋まで建っていた。古くさいデザインのはずなのに古さを感じさせず、積極的に明かりを取り入れるデザインでありながら、重厚な威容を誇っている。しかし、赤を基調とした采色が、何となく不吉な印象を醸し出していた。

 古ぼけた木造建築が立ち並ぶ村にあって、一部に石造りを取り入れた意匠は明らかに周囲から浮いているのにも係わらず、特別珍しい景色とも思えなかった。何故なら九條の屋敷群を見慣れているからだ。

「……なぁ、親父。こんなにでっかくて豪華な家を半日で建てるには、何をどうすればいいんだ。大工さんを五百人くらい集めればいいのか?」

「ふっ、莫迦を言うな愚息よ。何千人集めようと絶対に無理だ」

「絶対に無理な建物が、どうしてここに建ってるんだよ」

「運ばれてきたのよ。空からね」

 ぼくの疑問に答えてくれたのは夏音さんだった。娘と違って冗談の通じる人なのだった。

「ははっ、やだなぁ、あんな大きくて重い物が運べるわけないじゃないですか」

「私もそう思うのだけどね。見た人が居るのよ。何台ものヘリコプターが吊り下げてきたんだって」

「えーっと、冗談じゃなくて本気で言ってます? ちょっと信じられないんですけど」

「意見が合って安心したわ。私も信じられないのよね」

 夏音さんに言った台詞を受けて、近所の人達が集まってくる。どうやら目撃者のようで、聞いてもいないのに目撃談を話し始めた。

「いやいや、本当なんだって。でっけえヘリコプタが運んできたんを、しっかり見たんだからよ。なぁ、元子さんよ、あんたも見たよな」

「見た見た。洗濯もん取り込んどったら家が飛んどるんだもの。ビックリしてカゴを落としちまったんよ」

(うち)のばあさんなんざ、呪いだ〜、祟りだ〜って騒いで閉じこもっちまったんよ。そげにしても、近頃の引っ越しは派手やんなぁ」

 嘘や冗談を言っているようには見えないし感じないけれど、それでも信じられない気持ちが勝っていた。こんなに大きな重量物を持ち上げることが出来るとは思えないし、何よりこの屋敷からは長年そこに在ったかのような存在感を抱かされるのだった。ここに建っているのが当然で、とても自然なことに感じていた。しかし、そんなことは有り得ないし、この郷愁にも似た感情だってどこかで見た景色と勘違いしているだけなのだ。

 取り敢えず、異口同音に騒ぐご近所さんの言葉をまとめてみよう。

 ぼくが図書館に出かけて直ぐに何台ものトラックやワンボックスのライトバンがやって来たらしい。何人もの作業員が基礎部分に機械を取り付けていたが、それが何なのか詳細は分からない。米沢さんが声を掛けてみたけれど、危険だからと追い出されてしまい、何も答えてはもらえなかった。

 そのうち機器の設置が一段落したのか作業員がお茶を飲み始めると、爆音を轟かせながら四台のヘリコプターが家を運んできた。家は大きな風船の様なもので吊り下げられており、それをヘリコプターで引っ張ってきたらしい。

 ゆっくりと降ろされた家が基礎に固定され、電気や水道が引かれ、ガスボンベが設置された。屋敷中の照明が点いたり消えたりを繰り返すと、全ての作業が終了したのか作業員が撤収していった。

 ずっと見守っていたご近所さん達は、そのあまりの手際の良さに感心するしかなかったそうだ。というか、ずっと見てたのか。まったく暇人ばかりだな、この村は。

「じゃあ、もう住めるんだ。明日にでも引っ越してくるのかな」

「しかし大胆だぜ。木造の洋館を丸ごと運んで来るなんてな。歪んだりしそうなものだが。まったく、技術の進歩って凄えな」

 木造家具造りを生業にしている親父には、住人よりも家の方に興味があるみたいだ。ぼくとしては建物よりも、こんな変わった引っ越しをしてくる住人に興味があった。きっと、とんでもない変わり者に違いない。

「ふえ〜、運ばれてくるとこ見たかったよぉ。誰かビデオ撮ってないのかな?」

 洋館を食い入るように見ていた深耶音が、自分も見たかったと騒ぎ始めた。野球なんてして観戦していなければ見られたんじゃないかとは思っても、口に出さないくらいの分別はぼくにだってあった。

「写真なら撮ったったぞ。現像したら見せてやっからな」

 野際の爺さんがカメラをひけらかしながら言った。相当な年代物らしく、何か事あるごとに引っ張り出してきては自慢をしている。本人曰く、生まれた時から一緒だったらしいけれど、写真撮影が趣味になったのは退職後からとの噂だった。

「うわ、ボロッちいカメラだな。写るのかよそれ」

 親父が茶茶を入れた。野際の爺さんがカメラ自慢を始めそうになると必ず言って、話の腰を折っている。長い自慢話を聞かないですむのは有り難いけれど、もっと穏便な言い方ってものがあると思う。これでは喧嘩を売っているようなものだ。

「莫迦言うんじゃねえ。柚賀原の小倅(こせがれ)が。名機と名高いこいつに撮れんものなぞないわ。ヒーリッツ賞ものも余裕じゃ」

 もしかしてピューリッツァー賞のことだろうか。あれは新聞報道の賞であって、普通の写真は対象にはならないはずだ。取り敢えず知ってる賞を(間違えているとはいえ)言ってみただけなんだろうな。

 野際の爺さんは怒ったような口調ではあるけど、顔は嬉しそうに歪んでいた。まるで久しぶりに遊び道具を手にした子供のようだ。

「楽しみに待ってるからな。絶対に見せてくれよ」

「おう。見たくないとほざいても見せてやるから待っとれや」

 野際の爺さんは相変わらず威勢がよかった。口は悪いけど、気さくで面倒見の良い爺さんだ。出戻った親父と普通に接してくれた、村では希有な人だった。

 そうこうしているうちに人が減り始め、夏音さんと親父も「早く家に入れよ」と言い残して行ってしまった。

 ぼくも家に帰りたかったのだけれど、深耶音が呆然と洋館を見つめて動かないのが気になって付き合っていた。

「どうかした? ボケっとして。……ははぁ、さては怖いんだ。確かに薄気味悪い洋館だよなぁ」

 話しかけても返事が返ってこなかった。聞こえなかったのだろうか。深耶音は怒っている時でも無視するような奴じゃないからな。

 深耶音の顔を覗き込んでみる。ぼくが覗いていることを気付いていないのか、それとも気にもしていないのか、真面目な顔付きをしながらひたすらに洋館を見つめていた。

 何か見えるのだろうか。深耶音の視線を追って洋館を観察してみるけれど、別に変な箇所は見当たらない。多少は薄気味悪いけれど、それは大きな屋敷が明かりも点けずに佇んでいれば普通に感じてしまう感情に違いない。やっぱり只の建物でしかなかった。

 もしかして外見ではないのだろうか。しかし、半日で建ってしまったこと以外はおかしな所はない。第一、この屋敷について知っていることは皆無に等しい。このずっと空き地だった場所の所有者すら知らなかった。それでも無理に見付けるとしたら、こんな田舎にわざわざ大仰な方法で洋館を建てたことくらいなものだろうか。

 何度見直しても洋館の存在自体に違和感はなかった。西織村には更に大きな九條屋敷が点在しているし、九條の関係者が洋風な別荘を建てている。なんでも先々代の当主が西洋文化に気触(かぶ)れてしまい、殆どの建物を西洋風に建て替えてしまったそうだ。だから、今更洋館が増えたところで別に珍しいとも思わなかった。

 だからだろうか、ぼくには深耶音が真剣に観察する理由が思い付けなかった。

「……みか音……知ってる」

 考えを巡らせていると、深耶音がぼそりと呟いた。

「えっ、今なんて?」

「わたし、見たことあるよ。この家知ってるよ」

「へぇ〜、どこか旅行に行った時にでも見たのかな」

 凝った意匠の建物だから印象に残りやすいだろうな。もしかすると有名な建築家によるデザインなのかもしれない。だとしたら建築系の雑誌に似たような洋館が載っていても不思議じゃない。なにせ(うち)の居間に行けば親父が読み散らかした建築系の雑誌が何冊も転がっている。遊びに来た深耶音が熱心に読んでいるのを見たことがあった。

「ちがうよ、ここでだよ。この場所で見たんだよ」

「はあ? 何を言ってんだよ。建ったのは今日なんだから、見てるわけないって」

「うん……そう……だよね」

 深耶音は納得できない様子で洋館を見つめている。その表情から察するに、何かを思い出しそうなのに、どうしても思い出せなくて気持ちが悪いといった所だろうか。

(うち)の本で見たんだって。そっくりなのが載ってたから、それと混同してるんだよ。気にすることないって」

「うん……そうだよね」

 深耶音は洋館から視線を外して周りをぐるりと見回すと、それでモヤモヤとしたものが吹き飛んだのか、いつもの笑顔を浮かべて言った。

「うん、うん。気のせいだよ。気のせい」

「そんなことより、腹へったよ。今日の当番は親父だから期待できないけど、今ならなんだって食べられる気分だ」

「瑞希ちゃんの料理も期待できないよね。なんだったらみか音が作ってあげるよ」

「あまり甘やかさないでよ。男しか居ないんだから料理くらいは出来ないと」

 勿体ないなと思いながら、適当な理由を付けて断った。せっかく夏音さんが早く戻っているのだから、家族で食事をするべきだと思ったからだ。そのことを深耶音も察したらしく、何も言わずに引き下がった。

 さて、これで今日の夕飯を親父が作るのが確定したわけだけれど、同時に悲惨で無惨な夕飯になることも確定してしまった。

 西織村には名ばかりのラーメン屋と、名ばかりのコンビニしかなくて、需要のない弁当などは一切置かれてはいなかった。ここでは料理くらい出来ないと健康で文化的な最低限度の生活すら営めないのだった。

 越してきた当初は爺さんが作っていたのだけれど、爺さんが亡くなってからは悲惨なものだった。毎食がカップ麺やレトルト食品のオンパレードで、手作りのおかずらしい物といえばスーパーで買ってきたコロッケを切ったものくらいだった。

 しかも村のお店で売っている商品の種類が都会よりも圧倒的に少なかった。カップ麺は三っの銘柄しかなくて、しかも全てが醤油味だった。レトルト食品なんてカレーしか置いてないし、しかも置いてあるのは甘口だけ。ローテーションを工夫しても代わり映えのしない食卓に嫌気がさし、自炊を選択するのに三週間は掛からなかった。食に拘りのないぼくにだって限度というものは有るのだ。たまには魚や野菜だって食べたいのだ。

 そんなわけで自炊を決意した二人ではあったのだけれど、そもそも基礎知識がない者に満足な料理が作れるはずもなく、早々に高すぎる壁に打ちのめされたのだった。どんな料理を作ったのかは聞かないで欲しい。思い出したくもないし、無理に思い出すと吐いてしまうかもしれない。

 とにかく、親父は焼き肉ばかりだし、ぼくは麺類ばかりだ。圧倒的に野菜が不足しているのは分かっていても、好きじゃない材料を選んで料理が出来るほど、ぼく達親子は人間ができてはいなかった。だから柚賀原家の食卓にはバランスなんて考えられてもいない料理が並ぶことになる。しかも不味いというおまけまで付いて。

 今ではそんな現状を見かねて、深耶音が作りに来てくれている。深耶音はぼくと親父が越してくる前から爺さんと一緒に食事を取っていた。帰りの遅い夏音さんの代わりに、家の爺さんが預かって面倒を見ていたのだ。だから爺さんが死んだ時の深耶音の落胆振りは凄まじかったのだけれど、立ち直ってからは頻繁に料理を作りに来てくれるようになった。 

 ぼくと親父が健康を保っていられるのは、(ひとえ)に深耶音のおかげだ。いくら感謝の言葉を並び立てても足りないくらい感謝している。

 しかし、いつまでも好意に甘えているわけにはいかないだろう。巣立たない小鳥がいないように、ぼくらも簡単な料理くらいは出来るようにならなくては。と思い、深耶音に教わること二年あまりで簡単な料理は作れるようになった。パスタと卵焼きなら普通に食べられるはずだ。他の料理は……考えたくないな。

「そっか。でも明日の夕食には来てね。母さんも楽しみにしてるんだよ」

 日曜日になると柚賀原家と向坂家の合同夕食会が開かれる。合同とはいっても、柚賀原家が向坂家にご馳走になりに行くだけで、別にパーティを開催しているわけではない。

「絶対行くよ。親父なんか昼飯抜くほど楽しみにしてるんだぞ」

「それは健康に悪いよ。でも喜んでくれてるなら嬉しいな」

 微笑む深耶音を見ていると、何となく照れくさくなった。走って逃げたい気持ちを抑え付け、自然を装って歩き出す。

「それじゃ、またね」

「うん、まただよ。ちゃーんと、お布団掛けて眠るんだよ」

 深耶音は余計な一言を残し、うちの敷地を横切って裏手の自宅へと消えていく。

 それを見送ったぼくは、今夜の夕食が食べ物であることを願いながら玄関をくぐった。

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