1-2 朝凪との遭遇
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結局、誠人の狂乱は鳩尾に拳を叩き込むことで解決した。人事不省から目覚めた誠人は、その時のことをまったく憶えてはいなかった。ぼくも拳を叩き込んだのは忘れるとしよう。
野球はといえば、予想どおり観戦するだけで終わってしまった。
試合が終わるまで観戦しているつもりはなかったのに、途中で帰ろうとするぼくを深耶音が引き留めるので、つい帰りそびれてしまった。
絶対に出番があると信じて疑わない姿勢は立派だと思うけれど、そんな戯言を信用するほどぼくはお人好しではない。どうせ試合には出られないのだからと何度も説得したし、強行に帰ろうともした。しかし、その度に深耶音が上着の裾を握って引き留めるのだ。三回ほど帰ろうとしたところで深耶音が涙ぐみ始めたので、諦めて座っているしかなかった。
スポーツは自分でやるから楽しいのであって、見て楽しむものじゃない。ナイター中継なんて何が面白いのか理解できないし、駅伝なんて退屈すぎて見ていられない。もちろん強制するつもりはないし、共感して欲しいとも思わない。だから、ぼくにも強制や共感を求めないで欲しかった。
試合は結局負けてしまった。最終回にサヨナラ逆転打を許してしまったのだ。悔しがる誠人達は黄粉屋で反省会という名の飲み会をやるそうだ。
ちなみに黄粉屋とは、元は団子だけを扱っていた創業一二〇年の老舗で、息子が本店を隣の楠芽市に移してからは引退したご隠居が子供を相手に駄菓子屋として店を開けていた。
反省会には誘われたけれど、試合に出ていないのに行ったところで話に加われずに寂しい思いをするだけだ。だから用事があるからと誘いを断り、真っ直ぐ家に帰ることにした。
自転車を押しながら帰り道を歩く。隣を歩く深耶音はずっと黙り込んでいた。
「お前も行けば良かったのに、黄粉屋」
「行った方が良かったのかな」
何気なく言った言葉に、気落ちした声音が返ってきた。ぼくは余計なことを言ってしまったのだと気付く。少し考えれば分かったことだ。試合に参加できなかったことに深耶音が罪悪感を抱いてしまうことに。
「そうは言ってないよ。たださ、深耶音っていつもぼくに付いてくるだろ。つまんないと思って、ぼくといても」
「そっ、そんなことないよ! 楽しいよ、おもしろいよ、愉快だよ。……たぶん」
「たぶんかよ。立て前でもいいからホントだって言っといてよ」
戯けた調子で言うと、いつもの調子で深耶音が笑い出す。ぼくはその笑顔を見ているだけで胸の辺りが温かくなるのだった。
「瑞希ちゃんって、やさしいよね」
「や、優しくなんてないよ。お前なんかに優しくするはずないだろ」
なんだか顔が熱い。もしかすると、顔が真っ赤になってるのかもしれない。まったく、深耶音の奴が余計なことを言うからだ。
「そ、そうだ。消しゴムが無くなりそうだったんだ。ちょっと佐倉井に寄っていくから、先に帰ってて」
「それならみか音のを半分あげるよ。この前買ったやつがね、とっても大っきいの。たぶん一年くらい使っても無くならないよ」
適当な理由をでっち上げて深耶音と離れたかっただけなのに、余計な提案で阻止されてしまいそうだった。
「いいって。消しゴムくらい自分で買うから。それより早く帰って夕飯の手伝いをするんじゃないの」
「今日は大丈夫なんだよ。仕込みは朝やっちゃったから、後は温めるだけなんだよ」
「……そっか」
顔の火照りが感じられなくなった。もう大丈夫だろう、たぶん。それにしても気付かれなくて良かった。照れているなんて思われたら、からかわれるに決まっているんだ。下手をすると親父や夏音さんの前で言いかねないから、絶対に悟られるわけにはいかなかった。
「あれ? ねえ、瑞希ちゃん。消しゴムって、二週間くらい前に買わなかったかな」
「えっ、そうだっけ。そう言われると、そんな気もするけど」
憶えてないよ、そんなこと。
どうしてぼくですら忘れていることを憶えているんだか。自分のことはすぐに忘れてしまったり、社会科などの暗記問題が苦手なくせに、どうでもいいことや変なことは憶えているんだよな。ここは取り敢えず、適当なことを言って誤魔化しておこう。
「ほら、書き間違えが多いからさ、すぐ無くなっちゃうんだ」
これは本当だ。どういうわけか黒板の文字をノートに写すの苦手だった。
「あはは、そうだよね。授業が終わった後なんて、机の周りが凄いことになってるもんね」
よし、食い付いたな。このまま煙に巻いてしまおう。
「見直すと気付くんだよ、写し間違ってるの。テストの時も、考えてるのと違う答えを書いてたりしてさ、おかげで睡眠時間が無くなるんだ。早く回答欄を埋めて、寝ようと思ってるのに」
「それって寝ようと思って焦ってるから間違うんじゃないのかな。眠る時間が欲しくて急いじゃってるのかな?」
「もちろんそうだよ。ぼくは睡眠時間を欲してるんだ。狂おしいほどに。……まてよ。もしかして、寝てからやれば間違えないんじゃないのか?」
「どうしてそうなるのかな。時間無くて見直しできなくなるよ」
「だからいいじゃないか。間違えてる余裕がなくなれば間違えないですむよ。逆転の発想ってやつだよ。なんで今まで気付かなかったんだろうな、ぼくの莫迦」
「……うん、莫迦だと思うよ」
深耶音にしては珍しく、微笑みを浮かべているのに無表情な、まるで哀れな子でも見るような表情でぼくを見ていた。小さく「みか音がしっかりしなくちゃ」と聞こえたのは、きっと気のせいだろう。
取り留めのない話をしていると、程なくスーパー佐倉井が見えてきた。別に買い物をする必要もないのだけれど、言ってしまった手前寄るしかなかったのだ。
佐倉井は村で唯一の総合雑貨店だ。狭い店内には商品が雑多に並べられており、とにかく通路が狭くて二人がすれ違える程度しかない。売り物の種類は多いけれど、埃を被った商品が多々置いてあるのは、食品も扱っている商店としては如何なものだろうか。掃除ぐらいしろっていうか、埃を被るほど置かれた商品の賞味期限が気になる。
当然のように文具も扱っており、専門店には及ばない品揃えながらも、文具に拘りを持たない人達には好評だった。なぜならば、僅かながらも割り引きされているからだ。
少しでも安く買って定価との差額を着服することは、小遣いの少ない学生に与えられた当然の権利だといえよう。この権利に異議を唱えるのは、小遣いに不自由しない金持ちか、子供のためとか言いながら子供を人間扱いしていない自称教育者くらいなものだろう。おっと、具体的な名前とかは言えないし、あくまでぼくの主観だから異議は受け付けていませんよ。
申し訳程度に設置された文具コーナーには先客がおり、鉛筆の刺さったケースを朝凪が覗き込んでいた。
矛條朝凪は夕凪の妹だった。二人合わせて凪姉妹と呼ばれている。二人は双子だと主張をしているけれど、その面差しはあまり似てはいない。性格も正反対だし、趣味や味覚の好みなんかも全然違うらしい。似ているのは背丈と服装くらいだろうか。……まぁ、同じメイド服なのだから当たり前なんだけど。そう言えば二人の私服姿を見たことがないけれど、買い物に来る時くらいは普段着でもいいのではないだろうか。九條家の使用人として制服を常用するのは分かるけれど、見るからに高価そうな服を着た二人を遊びに誘うのに気が引けてしまう。遊びといえば、都会にいた時は室内が当たり前だったけれど、西織では外で遊ぶのが当たり前だ。だから服に泥や土ぼこりが付着するのは道理というもので、汚れたら困りそうな服を着ているのは凪姉妹と主人の佐保くらいなものだろう。
誠人などは「メイド服は作業着だから汚してもいいんだ」などと言っていたけれど、少なくとも泥だらけにしてもいい作業着とは違うと思う。なんと言ってもメイドは清潔感が大切なのだ。誰だって薄汚れたメイドに世話を焼かれたくはないだろう。
それはともかく、朝凪はぼくの師匠だった。華道や茶道ではない。体術全般の師匠だ。
西織に来てからというもの、誠人と深耶音に無理矢理付き合わされる遊びの数々に連敗しまくり、負け犬街道を全力疾走していた。その汚名を返上するために、厭わしく思いながらも朝凪に弟子入りしたのだ。聞いた話では誠人が申し込む一方的な勝負を軽く一蹴し、あの誠人が天敵と認める唯一の人物だそうで、どうしても一矢を報いたかったぼくはプライドをかなぐり捨てて弟子入りしたのだ。
師匠とは言っても定期的に道場に通う様なものではなくて、朝凪の気が向いた時だけに稽古を付けてもらえるという実にいい加減なものなので、これといった師弟の絆などはない。尊敬をしてはいないし、朝凪も求めてはいないようだった。だから特別な扱いはしないし、朝凪もしようとは思っていないようだ。
「あっ、朝ちゃんだ。奇遇だね、こんにちは」
「わぁ〜っ、みかっちに、瑞っちだ〜。久しぶりですね〜。何年ぶりですか。十年ぶりくらい?」
「二日ぶりだって。十年前は村に居ないし」
ぼくが村に越してきたのは五年前だ。それまでは遊びに来たこともない。
「えーっ、忘れちゃったのですか。あんなに仲良しだったのに」
「わっ、二人は幼なじみだったんだね」
「んっなわけないって」
深耶音の驚きようからは、本気で十年ぶりに再会した幼なじみだと思っているのが伝わってきた。相変わらず深耶音には冗談が通じない。
「あれ、忘れちゃったのですね。毎朝や・さ・し・く起こしてあげてたじゃないですかぁ。『俺はイバラ王子だから、朝凪のキスでしか起きない』って、我が侭を仰って……ポっ」
「ふ、ふ、ふ、ふた、二人とも、ふ、不潔だよ。淫らだよ。淫行だよ。そんなことしても良いと思ってるのかな。許されると思っているのかな」
盛大に震えている人差し指を突き付け、ぼくと朝凪を糾弾する。
「おっ、落ち着いて深耶音。嘘だから、大嘘だから。朝凪一流の冗談だから。ほら、その証拠に一人称が『俺』になってるだろ。ぼくは俺なんて言ってないから。――朝凪、いい加減なこと言うなってば。深耶音には冗談が通じないんだから」
狼狽えながら朝凪の方に振り向いて注意していると、金属同士が擦れ合う澄んだ音が店内に響いてきた。素早く深耶音に向き直ると、いつの間にか棚にぶら下がっていた金属製直尺を抜き取り、正面突きに構えていた。鈍い銀の光沢を帯びた定規には一ミリ単位の目盛りが一メートルに渡って刻まれており、それがまるで刃文のように見えた。
ちなみに、金属製直尺ってのは言葉の通り金属で出来た物差しの事だ。親父が仕事で使っているけれど、一般の家庭に必要とされる機会は殆どないだろう。こんな需要の無さそうな商品ばかりを取りそろえて、よく商売が成り立つものだと思う。
「ちょっ、ちょっと、危ないって。それは洒落じゃ済まないから。落ち着いて話を聞いてくれると嬉しいんだけど。――ちょっと、朝凪も止めてよ」
顔だけで朝凪に振り返ると、にんまりと笑う悪魔の表情が一瞬だけ垣間見えた。
その瞬間、朝凪の罠にはまって死地に追い込まれてしまったことを自覚する。咄嗟に逃げ出す算段をしたけれど、前後を鬼と悪魔に挟まれ、左右を商品棚に挟まれている状況では逃げようがない。深耶音は武器を持っているし、朝凪は華奢に見えても武道に長けている。
深耶音を防ぐと朝凪が、朝凪を防ぐと深耶音が襲ってくるだろう。これが俗に言う『前門の虎、後門の狼』なのかもしれない。
「ごめんね、みかっち。嘘を吐いてました」
朝凪が珍しくフォローをしてくれた。雨でも降らなければいいけど。
「ホントはですね『俺様はオオカミだ。お前を食ってやる』って押し倒されたのです。でね、その後……ポっ」
フォローじゃなかった。更に状況を悪化させる気満々だ。
冗談をエスカレートさせた朝凪は、ほんのりと赤みを帯びた頬を両手で包み込むように押さえながら恥ずかしそうに俯いた。その愛々(あいあい)しい表情が、ぼくの瞳には悪魔の微笑みに映って見えた。
「更に嘘を重ねるのか! なんだよ、その意味深な『ポっ』てのは!」
「意味どおりです。ポっ」
小さい『つ』がむかつく。なんだか『っ』だけが平仮名っぽい気がするのが精神を逆撫でして毛羽立たせてくれる。ああ、朝凪と話していると頭が痛くなってくるな。
「ん?」
深耶音に視線を戻すと静かに俯いていた。微かに震えているような気がするけれど、見間違いかもしれない。怒っているだけとは思えない様子にただ事ではない雰囲気を感じたぼくは、慌てて労りの言葉を掛けた。
「ど、どうかしたの、深耶音。具合でも悪くなった? なんなら肩を貸すよ」
心配のあまり手を差し伸べようとした瞬間、沈黙していた深耶音が声を吐き出した。
「……ば」
「ん? ば? ばってなに?」
深耶音は息を吸い込みながら徐々に胸を反らせると、それでも強調されない胸いっぱいに詰め込んだ空気を使い、ありったけの声を絞り出した。
「ばかぁーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!」
全力全開で叫んだ深耶音は、普段のとろさからは想像も付かない素早さで外に走り去って行く。殴られるのかと思って咄嗟に屈んでしまったせいで、走り去る深耶音を捕まえ損ねてしまった。
「まっ、待てよ! 物差しは置いていけ。万引きだぞ、窃盗だぞ、泥棒なんだぞー」
大声で呼び止めるけれど聞こえてはいないだろう。なにせ呼び止める前には店を出て行ってしまったのだから。
「よかった〜。ホントに叩いちゃうかと思っちゃいました。あんなので叩かれたら死んじゃいますからね〜」
「なんだろ、朝凪が言うと、すっごく白々しい言葉に聞こえるんだけど」
緊張から解放された反動で脱力していると、騒ぎを聞きつけた店長が奥の事務所兼倉庫からやって来た。たぶんテレビでも見ていたのだろう。もちろん店番なんて雇っていないので、店長が奥にいる間は店内に人の目はなくなってしまう。この店は日本一不用心な店にノミネートされてもおかしくはない。
「やあ、瑞希君に朝凪ちゃん。元気……だよね」
残されたぼくと朝凪を見ると、呆れた顔付きで声を掛けてきた。元気なのは見て分かるとでも言いたそうだ。
「はい、朝凪は概ね元気ですよ。夕姉も元気だと思います」
呆れたような店長と、何事もなかったかのように返事をする朝凪。親子ほども歳の離れた少女が相手なのに店長は朝凪に対しては注意をしづらそうだった。たとえ相手が使用人でも、九條家に関係している者を相手には文句を言いづらいのだろう。
そんな店長の態度に何かを感じたのか、朝凪の表情が真面目なものに切り替わる。
「お騒がせ致しまして、申し訳ございません。今後はこの様な事の無きよう留意致しますので、どうかお許し下さい」
両手を前で揃えると、丁寧に腰を折り謝罪する。流石は九條家を影から取り仕切っているだけあって、メイドモードに切り替わった朝凪の態度は堂々たるものだった。こうして礼儀正しく振る舞っていると、夕凪と重なって見えるから不思議だ。
この突然切り替わる態度に最初は戸惑いもしたけれど、慣れてしまうのに然程の時間は掛からなかった。もちろん、村の人々も慣れているので、今更驚きもしない。
「ああ、いいよ、いいよ。どうせ他に客もいないんだしさ。子供は騒がしいくらいが丁度良いのさ」
「あははっ、そうですよね。子供は元気でなくちゃダメですよね」
突然に通常モードに切り替わる。慣れている店長は朝凪の突然の変化に驚きもしない。しかも朝凪を子供扱いするその様は、まるで家族のようだった。実際に村の人間は皆が家族のような気安さがあり、他人の子供を誉めたり叱ったりするのは特別珍しい光景ではない。
「それより瑞希君。深耶音ちゃんは何を持って行ったのかな。……ああ、物差しか。あれは売れなかったなぁ。需要あると思ったんだけど」
店長は深耶音が商品を持ち出したのに気付いていた。大声で万引きだとか叫ぶんじゃなかった。このままでは深耶音が本物の泥棒になってしまいかねない。何か上手い言い訳はないだろうか。
「あれってツケでいいのかな。それとも返品かい?」
必死で言い訳を模索するぼくに対し、店長は商品を勝手に持ち出されたことを気にしてはいないようだった。流石は店番もしないでサボっている店長だけのことはある。多らかというか、いい加減というか。
「えっと、……すいません。追いかけて取り戻してきます」
どう考えても、深耶音にあんな物差しは必要ない。ここは深耶音を見つけて返品させるのが良いだろう。
「待って下さい!」
捜しに行こうとするぼくを朝凪が止める。無視して進みたかったけれど、そんなことをすれば何か仕掛けてくるのが予想できたので従っておく。
「みかっちはすぐに戻って来るのです。みかっちが泥棒をするはずがないのですから、行き違いにならないように、ここで待っている方がおすすめです」
「それはそうだけど……」
朝凪の提案はもっともだった。落ち着けばすぐに戻ってくるだろうし、捜しに行って行き違いになるよりも、ここで待っていた方が間違いないだろう。でも、ここで何もしないで待っているのは店長に悪いような気がするし、気まずくてこの場には居たくない気もする。
「それがいいね。店はちゃんと戻してくれれば、いつだって構わないから。どうせ売れないからね。なに、相手はあの深耶音ちゃんだ。すぐに戻ってくるさ」
売れないのを確信していた。埃を被っている商品が多い理由が垣間見えた気がした。
「そうですか? それじゃ、ここで待たせてもらうことにします」
「それじゃぁ、ボクは奥にいるから、深耶音ちゃんが来たら呼んでね」
「はい、分かりました」
店長はぼく達を残したまま、また店の奥に戻ってしまった。あくまで店番をする気はないらしい。大物なのか、ずぼらなのか。
「それでは、みかっちが戻って来るまで朝凪が話し相手になってあげますね」
「あげますって……朝凪が原因だと思うんだけど。……まぁいいや。ところで朝凪は何を買いに来たの?」
「ふっ、ふっ、ふっ、よくぞ聞いてくれました。じゃじゃじぁ〜ん、これで〜す、この鉛筆を買いに来たんです!」
「そんな大袈裟に発表されても……ていうか、なんで鉛筆。シャープペン使えばいいのに」
「夕姉が鉛筆派なんです。シャープペンには暖かみがないから、姫様に使って欲しくないんだって。しかもですね、姫様って鉛筆を一本しか持ってないんですよ。鉛筆だけじゃなくて、食材とかも買い置きをさせてくれないんです。なくなる度に買い出しに来るのは面倒なんで宅配にして欲しいんですけど」
「あそこに配達するのは無理じゃないかな。だいいち鉛筆一本だけじゃ持ってきてくれないよ」
「ふっふっふっ、九條家を舐めて貰っちゃ困ります。その気になればお米一粒はもちろん、オーストリア大陸だって持ってこさせます」
「自信の程は分かったけど、大陸はオーストラリアだから」
「遅れてるなぁ瑞っち。今の若者はら抜き言葉を使うんですよ」
「それ意味が違うから。それと今の若者とか言うと年寄り臭いよ」
相変わらず朝凪の言ってることはいい加減だ。これで九條家当主の専属メイドだって言うんだから、九條の内情は推して知るべしだ。
「あれ、いま『こんなの雇ってるんだから、九條家って大したことないなぁ』なんて思いました?」
「はっ、はっ、はっ、思ってないって」
これ以上ないって位の爽やかな笑顔で答える。
「うわっ、気色悪いです。そんな顔していたら肯定してるのと同じです」
「そんなことないって。気のせい、気のせい」
「二回繰り返すのって、大概は誤魔化す時です。まぁ、いいですけど。――これで良いかな」
朝凪がピンク色の鉛筆を選び出した。三年くらい前に放送していた魔法少女のキャラクターが小さくプリントされており、どこから見ても小学低学年をターゲットに販売された商品だった。
「子供でも遊びに来てるの?」
「はい? 何のことですか」
「えっ、だって、それってどう見ても小さい子供向けの鉛筆だろ」
「違いますよ〜。これはいい歳した大人が買うものなのですよ。子供騙しの見え透いた商品を、子供が買うわけありませんから。子供向け商品ほど大人によく売れるんですよ」
何かが間違っている気もしたけれど、あまり触れない方が良いと理性が警告してきた。ここは話を流すべきだとエマージェンシーコールが鳴り響いている。
「じゃあ、朝凪が使うの?」
「まっさか〜。朝凪は鉛筆なんて使わないのです。そもそも筆記用具を持っていません。これは姫様の勉強道具なんですよ」
姫様とは、九條家の家長である九條佐保のことだ。凪姉妹だけではなく、みんなから姫様と呼ばれている。姫と呼ばないのは、ぼくと深耶音くらいなものだ。
「佐保が使うなら、もっと落ち着いた感じのが良いんじゃないの」
「分かってないですねぇ。まったく分かっていません。ダメ、ミッチーはホントーにダメダメです」
「誰なんだ、ミッチーって」
「いいですか。姫様もお年頃なんです。かわいいのが良いに決まってます」
「それは朝凪の趣味じゃないの。佐保は違うと思うし、お年頃とか関係ない」
佐保の服装を思い浮かべてみるけれど、地味な意匠が施された着物姿しか思い浮かばない。魔法少女でピンク色な鉛筆を使っている姿は想像すらできなかった。
「姫様は立場上あんな格好してますけど、部屋の中はファンシーでメルヘンなんです。あっ、これって口外したら消されますから、気を付けて下さいね。冗談ではないですから」
消すって記憶を? それともこの世から?
九條ならやれそうな気がするから怖い。ていうか、お前は口外しても良いのか。
「あのぉ〜、すみませ〜ん」
そんなこんなで九條家の暗殺部隊に付け狙われる恐怖に震えていると、入り口から弱気そうな深耶音の声が聞こえてきた。どうやら戻ってきたようだ。
「おかえり」
ぼくが何事もなかったかのように声を掛けると、俯きながら深耶音が入ってくる。お腹の前で組まれた手の中には、棚から持ち出された物差しが握られていた。その様子は、まるで罪の意識に苛まれて自首してきた犯罪者ようだった。
「おや、みかっち。やっと自首する気になったんですね」
そんな深耶音に容赦なく追い打ちを掛ける朝凪。
「ううっ、悪気はなかったの。気が付いたら握りしめてたの」
「魔が差したのですね。大丈夫ですよ。警察の方には九條家からお願いしておきますから。きっと情状酌量されますよ」
「ご、ごめ、ごめんなざい……うっ、うっく…」
あっ、やばい。深耶音が泣きそうだ。からかい過ぎだぞ、朝凪の奴。
ぼくが止めようとする前に朝凪が動いた。深耶音にそっと近づくと、優しく抱きしめて囁きかけた。
「大丈夫ですよ。みかっちが悪くないのは朝凪が知っています。これから世界中が敵になっても朝凪だけは味方です。瑞っちは敵ですが、朝凪は味方ですよ。ああ、かわいそうなみかっち。瑞っちに騙されて金尺を握ってしまったばかりに全世界を敵にしてしまった。それなのに、瑞っちは世界の側に付いたんです。とんでもない裏切りです。さあ、一緒に悪を殲滅しましょう」
深耶音の頭を撫でながら、優しい言葉を掛けて洗脳していく朝凪。まったくバカバカしい。そんないい加減な話を信じる奴なんていないって。
「うん、ありがとう。一緒にがんばろうね」
うわっ、ここにいたよ。とびきりの莫迦が。
「いい加減にしろよ朝凪! いくら深耶音が信じ込みやすい莫迦だからって、ホントのことと作り話を見抜けないおマヌケだけだからって、すぐ勘違いして迷惑掛けまくる短慮で浅慮な思考回路だからって、嘘を教えるのは駄目だぞ」
「短慮と浅慮は同じ意味なんじゃないですか」
そんなツッコミは要らない。
「……ええっとぉ、みか音、もしかして非道いこと言われた?」
「はっきりと言いましたね。朝凪が言われたら死にたくなります」
「ひ、ひどいよ、瑞希ちゃん」
目じりに溜まっていた涙が頬を伝い、リノリウムの床に落ちていった。
「うわっ、な、泣くなよ深耶音。全部冗談なんだからさ。そ、そうだ。ほら、ぼくだってずっと味方だから。全世界が敵でも味方になるし、朝凪が襲ってきたらボッコボコにして追い返してやるから。だから……、朝凪、何とかしてよ。全部お前の所為なんだから」
深耶音を慰めてみたけれど泣きやむ気配がない。仕方なく朝凪に助けを求めるけれど、朝凪からの返答は礼儀正しくも理不尽なものだった。
「私の所為と仰いましても、何のことだか分かりかねます。それと、これは女の子を泣かせた罪です。――えい!」
朝凪が掛け声を掛けると、頭に激痛が走った。
「ぐおぉぉおぉぉおぉぉぁあぁぉぁぉおぁぁああぁぁ」
何が起こったのか理解できなかった。痛みが思考を遮り、頭の中を空っぽにする。頭を両手で掻きむしるように摩りながら、両膝を床に着いて蹲る。
頭をブンブンと振り回すなか、踵を返して走り去って行く朝凪の姿を見たような気がしたけれど、そんなことに構っていられる余裕なんかなかった。痛みを消してくれと、信じてもいない神様に祈ながら頭を摩っていると、何とか我慢できるくらいまで痛みが引いてくれた。ありがとう神様。これからも都合の悪い時は頼るからお願いするよ。
「大変、大変だよ。瑞希ちゃんがうずくまっちゃったよ。どこが痛いの? ここ? ここかな?」
深耶音が心配してくれる。心配されたからといって別に痛みが引いてくれるわけではないけれど、気持ち的には楽になった気がするから不思議だ。しかし、その気分も長くは持たないのだけれど。
「ぐわっ! や、やめて。痛、痛いってば。ぐあぁっ、い、痛いから触んなってば!」
激痛の時は摩ることで痛みが引くような気がしていたのに、痛みが落ち着いてきた途端に触るだけで激痛が走るようになった。だから触らないようにした途端に、心配した深耶音が遠慮なく触ってくる。こういうのを有り難迷惑というのだろうか。
「ほ〜ら、痛いの痛いの飛んでけ〜」
「痛っ、だから、お前が触らなきゃ痛くないんだってば」
痛みが走る度に朝凪への恨みが積み重なっていく。いったい何をしたのかは分からないけれど、この積怨は必ず返してやるからな。
ガバリと起き上がると、滲む視界で朝凪が消えていった出入り口を睨み付け、村のどこに居ても聞こえるようにと力の限り叫んだ。
「憶えてろよ朝凪ーー!! 絶対にお返ししてやるからなーー!!」
村中に響き渡ったかは分からないけれど、奥に引っ込んでいた店長が飛び出してくるくらいには響き渡っていた。