1-1 図書館から学校へ
一日目
声が聞こえる。聞こえてくる。
凛とした声。透き通るような冬の空気にも似た響き。
それでいて、どこか幼さを感じさせるような声。
声は優しさを奏で続ける。
声は癒しを与えてくれる。
声は懐かしさを思わせる。
そして、声は寂しさに彩られていた。
1
「おきてーーーっっ!!」
机に突っ伏して気持ちよく寝っていたぼくの耳から入り込んだ音が、頭蓋の中で反射を繰り返して脳髄をかき回した。
「うあぁぁぁぁーーー!!」
大音量の高周波に吃驚したぼくは、無様に悲鳴を上げて飛び起きる。
バゴム!!
もの凄い音を聞いたと同時に、この世の物とも思えない激痛が後頭部を駆け抜けた。あまりの痛さに椅子から転げ落ちて、両手で頭を抱えながらピカピカに磨かれた床の上を転げ回る。駆け抜けていった痛みが何度も引き返してきては、頭の中を蹂躙していく。早くどこかに行って欲しいのに、頑強に居座って中々立ち去ってくれない。
「うわ〜、びっくりしたぁ」
間抜けな声が耳に入ってきた。やっぱりあいつだ。痛みで目を開けられないけれど、こんな事をするのはあいつしかいない。
「ビックリしたのは、ぼくの方だーーぁっ!」
痛みを誤魔化す為に叫び返すけれど、全然誤魔化せなくて床を転げ回り続ける。いっそのこと気絶していれば痛くなかったのに。
「大丈夫? 大丈夫だよね? うん、それだけ元気なら大丈夫だよ。瑞希ちゃんは強い子元気な子、だよね」
勝手な言い分に、何かが切れるような音を聞いた。何が切れたのかは察して欲しい。
「うわしゃーーー!! きょうこそゆぅるぅぅさねーーーっ!!」
怒りに任せて立ち上がる。何かが切れたせいなのか、後頭部の痛みが小さくなった。
「うわわっ、何を言ってるのか分からないよ。日本語を使って欲しいよ」
ぼくの頭を破壊しようとした犯人を、ひたすら睨む。しかし、その犯人は気にした様子もなく、いつもの様に笑顔を浮かべていた。……金属バットを抱えながら。
「ごめんね、瑞希ちゃん。軽く叩いてたんだけど、起きてくれないからちょっと強く叩いちゃった。ホントはね、起きて頭を上げた時にチョコンと当てようと思っただけなんだよ」
謝罪に誠意が感じられないし、そもそも計画的な犯行じゃないか。酌量の余地はないな。
「だけど駄目だよ、瑞希ちゃん。図書館はお昼寝の場所じゃないよ」
「えっ……?」
図書館? どこの?
冷静になって周りを見回してみる。広々とした作業机が中央に鎮座し、それをパーティションで区切られた個人用の閲覧スペースが囲っている。背後には大きな本棚が立ち並んでいた。やたらと大きな採光窓が並んでいることを除けば、間違いなく図書館の閲覧室にしか見えなかった。
そういえば村営図書館で調べ物をしていたら睡魔に負けて眠ってしまったんだっけ。本がたくさん有るところに行くとトイレに行きたくなるって人がいるけれど、ぼくは眠くなる派閥に属していた。そもそも静かな図書館を相手に寝ない方がどうかしてる。
だったら図書館なんかに来るなよって話だけれど、家だと邪魔が入って勉強できないのだから仕方ない。もっとも図書館でも邪魔が入ってしまったけれど。
ん? 静かな?
もう一度見回してみると、四人の閲覧者が本を広げていた。全員がネクタイなんか締めちゃって、迷惑そうな顔付きでこっちを見ていた。
五月蠅い。迷惑だ。とっとと出て行け。
そんな言葉が聞こえてきそうだった
突き刺さってくる視線が痛かった。とても言い訳ができるような雰囲気じゃない。
「ねーねー、瑞希ちゃん、みか音と付き合ってよー」
空気の読めない莫迦が、なおも騒ぎ立てる。
その様子を見つめる利用者達の視線が羨望の眼差しに変わりつつあった。場所を考えずにイチャイチャするバカップルとでも思われているのかもしれない。殺気を感じるのは気のせいではないだろう。
深耶音は性格はともかく外見だけは良いからな。周りから見れば美少女に付き合ってくれと言い寄られている様に思われているに違いない。このままでは呪われかねないな。
「それはともかく、早くここを出よう。仁志田さんがくるぞ」
司書の仁志田さんはマナーに煩い。少しでも騒いでいたりすると、説教のフルコースをご馳走してくれる。
「そ、そうだね。急いで逃げた方が良いよね」
二人とも何度も説教を受けたことがあるだけあって逃げ足が上達していた。態度を改めるよりも、如何にして逃げきるかに労力を費やしてきた二人の行動は伊達じゃない。
机の上に広げてあった教科書やノートを腕の一掻きでメッセンジャーバッグに放り込み、一目散に外を目指して駆けだした。足音なんかもちろんさせない。書棚を態と遠回りする経路を選び、書棚と本の隙間から受付カウンターを覗き込むと、幸運にも仁志田さんの姿がそこには無なかった。チャンスを逃さずカウンターの前を通って扉を押し開けると、飛び降りるようにして階段を駆け下りる。訳の分からないオブジェが飾られた玄関ホールを横切り、ゆっくりと開く自動ドアにやきもきしながら外へと飛び出したのだった。
図書館を出ると涼しい風がそよいでいた。少し肌寒いかもしれない。珍しく雲が浮いていない青空に輝く太陽が紅葉で紅く染まった山々を照らしていた。
図書館の周りは樹木に囲まれており、正面には田畑が広がっていた。スズメやトンボが忙しなく飛び交い、名前を知らない(興味ないから)鳥達が木々を渉っていく。見えるのは高圧線くらいなもので、建物はポンプ小屋と、村で唯一のバス停の待合い小屋くらいしか見当たらない。
山々に囲まれた湖の畔という辺鄙な場所に在る西織村でも、更に辺鄙な場所に西織村営図書館は建っていた。ここは隣町へと通じる唯一の村道が、山の稜線に沿いながら左右に分れる分岐点だ。村を出入りするには、ここを通るのが一番早いし、唯一の方法といえた。
ここは本当の意味においての西織村と外界との境だ。行政界はまだまだ向こうの方だけれど、図書館から隣町までの間には山が聳えていて人家も田畑も何も無い。村人にとっては図書館までが村内であり、隣町までを隔てる山々が村外と言われている。
図書館はまさに村の入り口と言って良い場所に建っている。そのせいか村外からの閲覧客は村の中まではやってこない。何せ閲覧室の壁には村内に食堂が無い事を伝える張り紙がしてある。昼飯を食べようと思ったら弁当を持ってくるか、隣町まで戻ることになる。
そもそも図書館のような公共の建物は人家の密集した場所に建てられることが多い。なのにこの図書館は人家から離れた場所に建てられており、とても村民の為に建てられた図書館とは思えない設備を誇っていた。
図書館は地上二階、地下一階の近代的な建物で、脇には広場までもが設けられていた。まだ建てられたばかりで、最新の設備とセキュリティが自慢らしい。
光に弱い本を扱う場所だというのに採光窓が多いのは、光の状態によって光量と向きを変更できる光学フィルターを内蔵するガラスを採用しているからだ。おかげで明るく開放感のある室内を演出している。
詳しくは教えてもらえないけれど、セキュリティも相当なものらしい。
とても村営とは思えない設備を誇り、蔵書も世界各地から閲覧希望者がやって来るほどなのだとか。
立派な外見に劣らない膨大な蔵書を誇り、世界各国の稀覯本が大量に納められているらしい。書籍の大半は貸出禁止になっており、それらの本は一階の閲覧室でしか読むことができない。
五年前は村役場の一室に、申し訳程度の図書室が在ったらしい。村に長年住んでいる人でも存在を知らない図書室を、村に不釣り合いなほど立派な図書館に建て替えさせたのは、村の有力者である九條家からの進言と寄付によるものだと言われている。
根拠として村の収支と、九條家が所蔵していた本の寄贈が上げられている。
村役場の庁舎は消防署が同居した木造二階建ての建物で、意図していないにも拘わらず床一面がウグイス張りになってしまった見るからに古そうな建物である。毎年立て替えの審議が村議会に提出されているけれど、予算の関係で却下され続けている。
それに対して近代的な意匠を凝らした地下付き二階建ての図書館は、明らかに莫大な予算を掛けて作られているし、維持費だってバカにできない金額になる筈だ。実際、九條家から入る税収が、全て図書館の維持費で消えているらしい。
利用者の少ない図書館に莫大な予算を注ぎ込んだにも拘わらず、表だった非難が出てこないのは、九條家の意向で建てられたとの噂があるからだ。
産業も観光も無い村にとって、九條家が納める税金は無二の財源だといえる。九條家が居なくなってしまえば、村税を幾ら上げたところで村は成り立たなくなってしまう。たとえ九條家にその気がなくても、九條家の意向は絶対の強制力を持って受け取られるのだ。
図書館の脇に在る、これまた意味の分からないオブジェに埋め込まれた時計を見上げて時間を確認すると、ここに来てから一時間ほど経っていた。勉強を始めてから十分くらいで寝てしまったから、五十分ほど昼寝していたことになる。……何しに来たんだろうな。
ぼくの名前は柚賀原瑞希。
ここ西織村へは五年前に越してきた。両親の離婚を契機に、親父の実家である祖父の家に親子共々転がり込んだのだ。なにしろ当時の親父には金も無ければ職も無く、唯一の親族である親元に戻るしかなかったのだ。男の出戻りってのも、なんだかなって感じだ。
住み慣れた都会からド田舎に越してきたぼくは祖父との三人暮らしを始めたのだけれど、その祖父も三年前に亡くなってしまい、今は親父との二人暮らしを続けている。
越してきた当初は特殊な村の成り立ちに戸惑いはしたものの、住民の悠々閑々とした空気がそうさせたのか、すぐに慣れてしまった。思えばあの当時のぼくはビデオゲームができればどこに引っ越そうが構わないと思っていた。どうせゲームよりも面白いことなど無いのだからと。
だけど、今は違う。やっぱり何も無いというのは退屈なのだ。
村には生活に必要とされる店しかない。ゲーセンはおろかコンビニすら無く、娯楽らしいものは居酒屋にあるカラオケ程度のものだ。しかし、そのカラオケですら大人の娯楽と思われており、置いてある場所からして子供には縁のない娯楽だ。
ゲームやマンガが欲しくても、隣町まで買いに行かなければならないのは苦痛といえた。距離的には大したものではなくても、その道程の苦労は大変なものだ。この西織村は山の中に開けた行きは下り坂だけれど、帰りはそこを上ってこなければならないのだから苦痛だ。
ああ、早くこの村から出て行きたい。
とにかく、一刻も早く図書館から離れようと思い、公園を早足で通り抜ける。駐輪場に自転車を取りに行かなくてはならないからだ。駐輪場は景観を損ねるからと、少し離れた場所に作られている。脇道を山へと入り、少し登ったところに駐輪場が在った。駐輪場の更に上に公共の駐車場が在って、いつでも何台かの車が駐車されている。
信じられないくらい豪華な図書館だというのに、村人が利用しているところを見たことがない。住宅街から離れているのに難しい本ばかりで、それなのに貸出をしてくれないのだから村の人達が来ないのも当然と言ってもいいと思う。
「うわん、ちょっと待ってよ。歩くの早いよ」
急ぐぼくの前に回り込んで立ちふさがった。興奮してバットを振り回すものだから危なくて仕方ない。
「待ってって言ってるじゃない。聞こえてないのかな」
「聞こえてるよ。無視してるの、無視」
「なんで! なんで無視するの。瑞希ちゃんの意地悪。いじめっ子!」
この逆ギレしているのは向坂深耶音という、男子だけでなく女子からも「黙っていれば……」と言われ続ける薄幸の少女だ。
うちの裏手に住む向坂家の次女で、ぼくと同い年なだけでなく、同じ誕生日だという希有な存在だ。まさか時間まで一緒じゃないだろうな。
深耶音とは五年前からの付き合いだけれど、生まれてからずっと一緒だったような気がするほど、いつも付きまとってくる。手足をばたつかせて怒っている深耶音を見ていると年下としか思えないのだけれど、なぜかお姉さん振る時がある。都会の大学寮に寄宿している天音姉さんにでも憧れているのだろうか。
まったく。怒りたいのはぼくの方だ。
深耶音がいつも邪魔をするから、わざわざ図書館まで行っていたのだ。とても静かで、冷暖房が完備されていて、睡眠導入効果のある本がたくさん置いてある、勉強と昼寝には理想的な場所だったのに。あれだけ騒がれては、しばらく図書館には入れない。
せっかく深耶音には秘密にしていたのに、一ヶ月足らずで突き止めやがった。しかも、場所柄を弁えずに騒ぎやがるし。
早く新たな隠れ家を見つけないと、ぼくの憩いの時間がなくなってしまう。
「えーと、それから、それからぁ……うぅぅ」
言葉に詰まり、俯きながら唸りだす。深耶音は相手を罵る語彙がとても貧困で、すぐに考え込んで唸りだしてしまう。一旦こうなると再起動するまでが長いので、いつもこっちから折れることになる。
「それで、何か急用なの? わざわざ図書館まで押し掛けてきて」
一瞬きょとんとした表情を浮かべる深耶音。やっぱり怒るのに手一杯で、用件を忘れていたみたいだ。
「そうそう、瑞希ちゃんにお願いがあって来たんだよ。誠人ちゃんが急用で今日の練習試合を欠席するって言うんだよ。いきなりすぎだよね。だから、瑞希ちゃんに試合に出て欲しいんだよ」
「そんな理由で勉強を邪魔した上に、バットで撲殺しようと殴ったのか。痛かったんだぞ」
「ちっ、違うよ。起き上がったら軽く当たるようにしてたんだってば。それに、寝てたよ。勉強なんてしてなかったよ」
確かに寝ていた。勉強をしに図書館まで行っておきながら、僅か10分足らずで眠ってしまった。だからといって打撃で起こされなければならない理由にはならない。
「早く行こうよ。みんな待ってるから」
笑いながら急かしてくる。まるで何もなかったようだ。切り替え早いなぁ、こいつ。
「だから駄目だって。明後日から中間テストだろ。野球なんてしてる場合じゃないよ」
そうなのだ。月曜日から中間テストが始まるのだ。期末試験よりも重要度は低いけれど、決して疎かにするわけにはいかない。何故ならば、親父と賭をしているからだ。
全科目で80点以上をマークすれば、憧れのゲーム機『TS×365 ポータブル』が買って貰えるのだ。手の平サイズなのに三画面も付いていて、名前だってTS×365なのだ。意味は分からないけれど、何となく凄そうではないか。
厳しい目標だったけれど、みっちり勉強すれば不可能な数字ではない。その為に図書館まで行って勉強したのだ。そう、寝る為じゃない。……ないんだってば。
「瑞希ちゃんは勉強できるから大丈夫だよ。テストなんか忘れてあそぼ。子供は遊ぶのが仕事なんだって、母さんも言ってたよ」
「お前ん家は特殊なんだって。普通は遊んでないで勉強しろって言われるんだよ」
「瑞希ちゃんは言われたの? 勉強しろって」
「言われる訳ないって。うちだって特殊なんだから」
「じゃあいいじゃない。ほら、行こうよ」
深耶音はぼくの腕を抱えこむと、強引に引っ張っていこうとする。
「うわ、やめろよ深耶音。離せよ。離せって、頼むから」
「駄目だよ。離すと逃げちゃうもん。……あれ? ねえ、顔真っ赤だよ。風邪でもひいたの?」
「違うって。これは…その……お、お前のむ、むねが…当たって…」
がっちりと抱えられた腕に深耶音の胸が当たっていた。顔が熱くて堪らない。
「むむね? ああ、胸だね。大丈夫だよ。みか音に気にする程の胸なんて無いから」
本気で言っているのか。大きさなど関係なく、胸は胸ではないか。
「もしかして、みか音が触れると気持ち悪い?」
微かな違和感を抱いて深耶音を見ると、いつもと同じ笑顔を浮かべていた。違和感が確信へと変わり、恥ずかしさが占めていた感情の領域が罪悪感で塗り潰される。いつも一緒にいるから分かる。笑顔に隠された、深耶音の寂しさに。
「そ、そんなことないよ。少し恥ずかしかっただけだって。わぁ〜い、深耶音の胸が腕に当たって気持ちいいなぁ〜」
態とらしくならないように気を付けてみたけれど、絶対に態とらしさ全開だったと確信できる。演劇の経験とかないんだから当然だ。
「ほんと! じゃあずっと掴んでてあげるね。まったくぅ、いつまでもお姉ちゃん子なんだからぁ」
分かる。これは本物の笑顔だ。間違いなく喜んでいる。
ああ、ご機嫌取りをさせられた挙げ句に、なんでセクハラ発言までさせられているんだろうか。しかも、姉貴面だし。
苦悩に歪むぼくとは違い、深耶音は満面の笑みを浮かべて微笑んでいた。なんだか少し騙された気分がしたけれど、本心から喜んでいる深耶音を見ていると、そんな気分なんてどうでもいいと思ってしまう。邪魔だけれど仕方なく駐輪場まで引きずられてやることにした。
……ホントに仕方なくだぞ。絶対に嬉しくなんてないぞ。
……ないってば。
自転車に乗って学校に辿り着くと、試合はすでに始まっていた。
「あれぇ〜。どうして。なんで誠人がいるの。用事で来れないって言ってたよね」
「おう、久々の試合に我慢できなくってさ、用事なんか適当に誤魔化して来ちまったぜ」
こいつは三條誠人。
今の学年から同じクラスに成ったのを切っ掛けに仲良くなった。とはいっても、誠人から一方的に友達扱いされて辟易していたのが本当のところで、後はなし崩し的に仲良くなっていった。
自称、遊びの伝道師。
自称、遊びの創造主。
熱く燃えたぎる血潮で遊びまくる、遊びのプロフェッショナルだ。あくまで自称だけど。
遊びとなると無意味に燃え上がる、鬱陶しくて蹴り飛ばしたくなる奴だけど、様々な遊びに精通しているだけあって一緒に遊ぶと楽しかったりする。
「僕達もさぼって来たんス。血が騒ぐっスよ。今日は絶対勝つっス」
おお、みんなの瞳が燃えている!
こいつら本気だ!
ただの練習試合なのに本気で燃えている!
流石は誠人だ。すでにみんなを本気にさせている。
それにしてもテンションが高すぎて、無理矢理に引っ張ってこられたぼくにはとてもついて行けないノリだ。
「なんだよ。ただの練習試合なんだろ。気軽にやればいいだろ」
ノリについて行けない寂しさからか、つい憎まれ口を言ってしまう。分かっちゃいるけど止められない。
「バッカヤロー!! なにを甘いこと言ってやがるんだ!! 練習なんざ関係ねーんだよ!! やるからには全力で戦って絶対勝つ!! それが俺の正義だ!!」
誠人が熱く吼えた。いつもより盛大に燃えている誠人の気概がぼくの心に燃え移り、燻っていた魂が燃焼を始める。
そうだ。そうだったのだ。ぼくが甘かった。所詮は練習試合と思いこんでいた。試合の練習を本気でやらなくて、いったい何の練習になるというのか。練習は遊びじゃない。勝負は練習の時から、すでに始まっているのだ!
「いやいや、そんなわけないって。お前の戯れ言はぼくには通用しないよ。そんなことより感嘆符多すぎだから」
「ノリが悪いな瑞希!」
「お前が莫迦なんだって」
「あちゃ〜、相変わらず辛辣だねぇ。深耶音も大変だな、旦那が偏屈で」
誰が旦那か。人聞きの悪い。
「で? ぼく達は何をすればいいんだ。内野か、外野か、まさかピッチャーか。四番は遠慮したいな」
「瑞希は秘密兵器だ。ばれないようにベンチに座っててくれ」
「おお! 流石です柚賀原先輩。いきなり秘密兵器ですよ。すげえじゃねえっすか!」
……あれ? それって……補欠ってことじゃ……。
「秘密兵器だって! やったよ瑞希ちゃん」
なんで無邪気に喜んでるんだよ、深耶音。
体よくあしらわれているのにも気付かない深耶音を生温かい瞳で見守る。どうして勉強できるくせに、こういう事には頭が回らないんだろうな。勉強できる天然って厄介だよな。
みんなが守備に出て行くと、ぼくと深耶音の二人だけが取り残された。最初からメンバーに入っていないぼくが文句を言える筈もなく、仕方なく深耶音とベンチを温める。
スコアボードを見ると、四つの0が並んでいた。つまり、うちのチームは三回表の守備をしているってことだ。
いつもは一、二回に点を取られているのに、今回は珍しく一点も失ってはいない。こっちの調子が良いのか、相手の調子が悪いのかは分からないけれど、こっちが優勢だというのは分かった。
どうりでみんなが燃えている筈だ。勝機の見える試合でみんなが燃えないわけがない。後から来たぼく達に、出番を譲る気は毛頭ないだろう。ぼくだって遅れてきた奴に譲ろうとは思わない。
対戦相手は村役場と消防の青年団で編成された草野球チームだった。野球好きの大人が集まったチームだけに県内でも強豪だったりする。名前を星乃岬ファイターズといって、地域の大会では何度も優勝している。負ける時は人数が集まらなくて不戦敗という、凄いんだか情けなんだか、よく分からないチームだ。
それに比べてこっちのチームは野球部でもなければ少年野球のチームですらない。暇な子供を寄せ集めただけの、実力もチームワークの欠片もないデタラメなチームだ。力の差は比べるまでもない。ユニフォームが無ければ、チームに名前すら無く、どこを取っても勝てる要素が見つからない。常識で考えれば勝つ確率は低いどころか皆無だった。
しかし、力の差はあっても勝敗は意外と拮抗している。星乃岬ファイターズは調整程度に試合をしているのだけれど、こっちのチームはいつも本気だった。
何故なら西織の子供達は勝利に餓えているのだ。勝利を貪欲に求め、全力で相手を叩き潰そうとする。勝つ為ならば如何なる犠牲をも厭わない修羅と化すのだ。
その気合いの差が絶対的な戦力差を縮めていた。
こんなに子供らしくないチームになってしまったのは、誠人の影響を受けたからだ。
遊びを遊びで終わらせない誠人に当初こそは驚愕したけれど、慣れてしまえば清々しく感じるようになる。そうなると末期症状だ。どんな勝負にでも勝たないと気が済まなくなってしまう。ここにいる、みんなみたいに。
「はい、お茶だよ」
深耶音が水筒の蓋をコップ代わりにしてお茶を注いでくれる。渡された蓋が仄かに温かくて気持ちいい。
「あんがと」
包み込むようにカップを握ると、じわりと熱が伝わってくる。
守備に出て行ったみんなを見送ると、ぼく達にできることは応援をすることくらいしかなかった。
ユニフォームが無くてバラバラな格好をしているくせに、守備の連携は完璧と言っても過言じゃないほどに揃っていた。今回のチーム編成は当たりらしい。
対する星乃岬ファイターズの面々は、ベンチに戻って来るなり缶ビールを呷っていた。健全な筈のスポーツを不健全なものに貶めていた。これは教育に悪影響なのか、それとも反面教師として理想的なのだろうか。
しかし、これで誠人達が異常に燃えている理由が分かった。こんなチームを相手に、絶対に負けるわけにはいかないよな。プライド的に。
本当なら中間試験の為に勉強をしたいのだけれど、ここで帰ったら燃えまくっているあいつらのことだ。きっと敵前逃亡とか、勉強虫などと、言われない誹謗を浴びせかけてくるのが目に見えている。言われても実害はないかもしれないけれど、からかわれて悔しい思いをするのは嫌だ。それに、深耶音が見逃してはくれないだろう。トイレだと言って逃げだそうとしても、こいつなら一緒に付いてきそうな気がする。
出番は絶望的だし、勉強も邪魔されて上手く行かない。深耶音と一緒にいると貧乏くじばかり引かされてしまうな。
「それにしても、お前っていつも持ち歩いてるよな、それ」
水筒を指差すと、不思議そうな表情で深耶音も水筒を見つめた。
「ん? この水筒のこと?」
深耶音はいつも水筒を持ち歩いていた。本人に自覚はないようだけれど、ぼくには四六時中持ち歩いている印象が残っている。
幾ら田舎だとはいっても、飲み物の自販機ぐらいならば、ちょっと探せばすぐに見つかる。田畑の真ん中にポツンと設置されているのを見た時は、その余りのシュールさに思わず感動したものだ。
因みにその販売機は昼間は変哲のないただの販売機なのに、夜になると恐怖の販売機に変身することで有名だ。何年も交換されていない蛍光灯の発する弱々しい明かりが周囲の闇を増幅し、陰から何かが躍り出てきそうな雰囲気を醸しだしてくれるのだ。
「邪魔じゃないの、それ」
水筒を指差して聞くと、笑いながら答えてくる。
「あはは、これは命のお茶なんだよ。これがないと砂漠を無事に渉れないんだよ」
どこの砂漠を渉るつもりなのだろうか。鉄棒の前にあるやつか?
「そっか。それじゃ大事に飲まないとな」
素直に理由を答える気はないらしい。別に知りたくもないし、冗談につっこみを入れる気力も減退していたので、適当に無難な相づちを返しておいた。ああ、寒い冗談で冷え切った心に、温かいお茶がありがたい。
お茶を一口啜ると、苦いような、渋いような、薬のような、何とも言えない不思議な味が口の中に広がった。
「なあ……このお茶さ。……変な味じゃないか?」
「でしょでしょ。みか音が作ったグアバ茶なんだよ。家の温室にいつの間にか生ってたから作ってみたんだよ。最初は変な味だけど、慣れると美味しく感じるようになるんだよ」
「慣れなくても美味しいお茶がいいなぁ。にしても、何でもかんでもお茶にするのはやめろよ。今に死人が出るぞ」
「あはは、大丈夫だよ。飲んでくれるの瑞希ちゃんだけだから」
「ぐほっ、ゲホッ、ゲホッ」
あんまりな告白に、ビックリした咽がお茶を気道に招き入れて、盛大にむせ返ってしまった。ううっ、咽が痛い。
「あわわ、大丈夫かな。背中擦ってあげるね。…さすさす」
変な擬音を付けながら背中を擦ってくれるが、まったく効果はない。
「…エホッ、…お前…まさか、ぼくに毒味させてたのか?」
「ちっ、違うよ。してないよ、そんなこと」
「さては少しずつ毒を盛って、じわじわと殺す計画だったんだな。ちきしょー、ぼくの信頼を裏切ったな」
「違うってばぁ。ちゃんとお茶になる物しか使ってないよ。それに毒なんて鑑定されやすいのなんて使わないよ。やるなら、もっと確実にやるよ」
冗談なのか、本気なのか分からない会話をしていると、背後からビニールの擦れる音が聞こえてきた。何だろうと思って振り返ると、ビニール袋を両手で抱えたメイド姿の少女が歩み寄ってきていた。
「瑞希様、深耶音様、こんにちは」
無愛想な顔をしながら、お辞儀付きの挨拶をされる。いつも思うけれど、メイドさんに挨拶されると気恥ずかしいな。
「夕ちゃんだぁ。こんにちはだよ、久しぶりだよ」
「いやいや、一昨日も会ってるって」
本気なのか冗談なのか、深耶音の分かりづらいボケは止めて頂きたい。
「はい。ご無沙汰しておりました。お二方ともお変わりないようで安心いたしました」
おお、深耶音のボケに付き合うなんて、なんて良い奴なんだろう。
「お買い物かな。毎日大変だね」
「そうでもありません。日課となっておりますので、散歩のようなものです。買い物は少々面倒ではありますが」
面倒なのか。
真剣な口調でそんなことを言うから、深耶音とは別の意味で本気なのか冗談なのかが分かりづらい。多分本気なのだろうけれど、返事に困るからこちらも是非止めて頂きたい。
この口に衣を着せない代わりにメイド服を着こなしている少女は矛條夕凪という、九條家の家政婦さんだ。いつも刀を背負っているのがトレードマークとなっている。夕凪は小太刀二刀流の模造刀だと言い張っているけれど、絶対に触らせてくれないから信憑性は限りなく低いと思う。
少しぶっきらぼうだけれど、気が利いていて面倒見が良かったりするので、多くの村人から人望を集めている。特に村長に気に入られており、将来の村長候補として狙っているらしい。ぼくや深耶音と同い年とは思えないほどの人望だった。
夕凪が両手で抱えているビニール袋には『コンビニエンス中本』の文字とロゴが入っていた。中本のビニール袋は持ち手が弱いことで有名だった。ちょと重い物を入れて持つと、すぐに切れてしまう。きっとコストダウンの弊害なのだろうけれど、抱えて持たないと駄目なんじゃあ、袋の役目を果たしていないよな。
『コンビニエンス中本』は西織で唯一のコンビニエンスストアを名乗る店だ。元々は魚屋だった店をコンビニ風に改築したのだけれど、今では店の名前と外観だけがコンビニと言っても過言ではない。だから、未だに中本屋と昔と同じ名前で呼ばれている。
開店当時こそ、どこかで見たようなデザインと、どこを参考にしたのか分かってしまう品揃いのおかげで、結構な客足があったらしい。しかし、その人気も二週間程度しか持たなかった。致命的な欠点があった為だ。
なんと、スーパー佐倉井の方が安かったのだ。
中本の品揃えは目新しい商品ばかりだったけれど、その様な商品に飛びつくのは若者が中心で、年配者の多い西織ではヒット商品とは成り得ない。第一、お金を自由にできる若い世代は例外なく車やバイク等の移動手段を持っているのだ。わざわざ中本で買わなくても、隣町への通勤のついでに買ってくれば済んでしまう。
そもそも、自給自足とご近所の助け合い精神が息づく西織では、お弁当やおにぎりなんて絶対に売れない。それに、手を抜いてお弁当にした日には、何を噂されるか分かったものではないそうだ。既婚者であれば不仲や離婚が噂され、子供がいたら虐待だと児童相談所に電話されかねない。ぼくは信じていないけれど、娯楽のない地域ではよくあることだと親父が言っていた。
それだけではない。唯一の利点と言えた深夜営業も、深夜まで開店していたのは最初の一ヶ月だけ。出歩く人の居なくなる八時には閉店するようになってしまった。夜に出歩く村人は少ないので仕方ないとは思うけれど、これで唯一の利便性が無くなってしまったのだからコンビニとしては致命的だ。今ではコンビニ風のデザインが施された店舗に、雑貨屋と魚屋が一緒に同居している。ある意味では斬新かもしれないけれど、そんな斬新さは要らないだろう。
「中本屋に行ってきたんだね。魚でも買ってきたのかな」
「いえ、違います。これですが、知らないのですか」
深耶音の質問に答えて、袋から白っぽい半透明なケースを取り出した。ポリエチレン製の密閉容器だった。主に料理の材料や余り物を保存する時に使うものだ。便利な代物ではあるけれど、使い方を誤ると原子炉のように危険な物となるから注意が必要だ。
初めて使った時のことだ。電子レンジで温めたら蓋が飛び、変形して中身をぶちまけてくれた。炉心熔融したレンジの中は凄惨を極め、深耶音にこっぴどく怒られて散々な目にあった記憶だけがあった。未だに密閉容器を見ると身構えてしまう。こういうのを心的外傷って言うのだろうか。
密閉容器には装飾などは施されておらず、蓋に品名と日付が書かれてあった。このままの形で売られているのだろう。随分と男らしいパッケージングだった。
「なんだか怪しさ満点な感じだね」
「ほふぇ〜、これって中本屋の手作り新鮮チーズだよね。買ってる人を初めて見ちゃったよ」
「あの店って、そんなのまで作ってたんだ。ただの魚屋だと思ってた」
「いえ、作っているのは北海道で牧場を経営している親戚だそうです。中本は隠れた名店です。西織では需要の無さそうな商品ばかりですが、扱っている商品は一級品です。あれ程の選定眼を持つ者は滅多にいません。……商売人としては三流ですけれど」
誉めながら、貶めていた。的確な分析は流石夕凪だ。
「皆様は野球の観戦ですか?」
答えづらいことを聞かれてしまった。補欠だなんて恥ずかしくて言えない。
「違うんだよ。今は敵の戦力を分析してるの。実はね、わたし達って秘密兵器なんだよ」
『重大なことを言いました』といった風情で強調されない胸を反らす深耶音。こういった状況で秘密兵器といえば、大概の人は補欠なんだと理解するだろう。なのに堂々と秘密兵器だなんて言わないで欲しい。聞いてるこっちが恥ずかしいじゃないか。
「そうですか。それは大役ですね」
夕凪の微笑みに憐憫の表情が混ざっている様に見えてしまうのは、ぼくの心が貧しいからなのだろうか。
「そうなんだよ。いざって時は代打で満塁ホームランなんだよ」
いざという時はないだろうな。しかし、どこから出てくるんだろうな、この自信は。
三人で話し込んでいると、誠人が嬉しそうな表情を浮かべながら戻ってきた。
「あっれぇ〜、矛條じゃん。また買い出しか? ……げっ、それって中本屋のチーズじゃんか。なんて物を買ってんだよ。そんな臭い物、人間の食いもんじゃねえよ。とっとと棄てた方が良いぜ。ああ、そこら辺に棄てるなよ。異臭事件で警察が来るからな」
夕凪への挨拶もそこそこに、いきなり失礼な発言を連発する誠人。相手の好みもお構いなしに完全否定してのけるとは。友達がいなくなるぞ。
「おや、蛮人が吠えていますね。保健所に電話しましょう」
「なっ!? ふざけんな、んっな物食ってる方が蛮人だぁ!」
「この味は貴方のような下賤で野卑で卑しい殿方には、一生を費やしてもお分かりにはなれません。お可哀想に……」
「全部同じ意味じゃねぇか。そんなことより、俺を哀れみの目で見るんじゃねーーー!」
「はぁ、貴方の会話は感嘆符ばかりで疲れます」
夕凪は表情を変えずに溜息を吐いた。その態度が誠人の相手をしたくないと雄弁に語っていた。
この二人はいつもこうだ。二人が一緒の場面に出くわすと、今と同じように言い争いをしている。だから一見すると嫌い合っているように見えるけれど、実際は夕凪が一方的に嫌っているのだった。
出会えば必ず言い争いをしている二人だけれど、誠人が夕凪の事を気に掛けているのは鈍感なぼくにだって分かる。だって、何かと理由を付けては誠人から近付いていくし、夕凪の罵詈雑言を浴びても怯んだりしないのだ。
誠人が夕凪を好きなのは構わないのだけれど、好きな子に悪態をついて気を引こうだなんて、今時の中学生はやらないんじゃないだろうか。それともぼくが知らないだけで、みんな好きな子を苛めてるのかな。
言い争う二人をぼんやりと眺めていると、不意に音楽が聞こえてきた。小さな音だけど、聞き取りやすいオルゴールの音だ。
夕凪がその音楽に誘われてスカートのポケットから懐中時計を取り出した。シルバーの細い鎖が時計から垂れ下がり、スカートと上着の間に消えていた。銀色に輝く懐中時計は蓋付きの古くさいデザインで、特に変わった意匠が施されているわけでもなく、素人目には良い物とは思えなかった。
まあ、ぼくには時計の価値なんて分からないのだから、実はもの凄い価値のある時計なのかもしれないけど。ぼくだったら千円台なら納得するけれど、万の位だったら騙されていると思うだろう。
それにしても曲名が気になった。誰に聞いても分からなくて、持ち主の夕凪ですら知らないそうだ。貸してもらって調べる程ではないけれど、どこかで聞いた気がして聞く度に気になっていた。
「どうやら時間のようです。申し訳ございませんが、これにて失礼させて頂きます。それでは再び出会えますように」
礼儀正しくお辞儀をする。挨拶を返そうと口を開こうとすると、誠人の挑発的な言葉に遮られた。
「おい、待てよ。まだ話は付いてないだろ。なんだよ。逃げるのかよ」
しつこく食い下がる誠人。夕凪がしつこくされるのを嫌っていると知らないわけじゃないだろうに。もしかして態とやっているのだろうか。
「……貴方とは二度と出会えませんように」
踵を返して夕凪が帰って行く。ぼくは一言で、深耶音は大きく手を振りながら挨拶を返した。
誠人は立ち去っていく夕凪を見つめながら固まっていた。愚鈍な誠人でも流石に最後の一言は応えたらしい。夕凪の姿が見えなくなると、力なく地面に崩れ落ちた。
流石に哀れに思ったけれど、いつもの事なので放っておく。どうせすぐに立ち直るだろうし、なにより相手にしたくなかった。
「なあ、瑞希。聞いて良いか」
うわっ、話し掛けられちゃったよ。自ら墓穴に落ちた奴の話なんか聞きたくはない。しかし、誠人は返事を待つこともなく勝手に話し続ける。
「前から思ってたんだけどさ。矛條って、ひょっとするとアレなのかな」
「アレ?」
「そう、アレだよ、アレ」
「だから、なんだよアレって」
要領を得ない話にイラッとしながら問い返すと、さも重大な事を発表するかのように勿体付けながら話はじめる。ああ、イライラする。
「それはな………ツンデレだよ!」
時間が止まった。世界が凍り付いた。
我関せずといった感じで聞き耳を立てていたみんなはもちろん、深耶音ですら理解できずにきょとんしていた。
「ほら、矛條っていつもツンツンしてるだろ。きっと二人きりになるとデレデレになるんだぜ。――ああ、みんなの前では素直になれない、わ・た・し。でもね、でもね、貴方が側にいてくれると、こんなに素直になれるの。…ふふっ、ふぁっはっはっはーー!」
誠人はぼくの両肩を掴んでガクガク揺らしながら高笑いを上げ始めた。ただでさえ夕凪のものまねで吐き気をもよおしそうなのに、追い打ちを掛けるように揺すぶられたら本当に吐いてしまいそうだ。
壊れてしまった誠人を引き剥がそうとすると、がっちりと肩を掴んだ手が更に強く掴んでくる。はっきり言って痛い。冗談じゃ済まないレベルを超えている。
「み、みかね、た、たすけて! こいつ怖いし痛い! 引き剥がしてくれ〜」
「愛と狂気は紙一重なんだよ」
「わけ分からないって! 誰か助けてくれ〜」
生温かく見守るだけのみんなを呪う絶叫が、校庭に大きくこだました。