第三章 裏切り その一
ナディアの顔を象った硬貨を窓の肘掛けの上に恭しく置いたカルアは、柔らかな床の上に跪いていた。
「……聖女ナディアの教えにいかなる場合においても忠実に従い、この命を捧げることを誓います。すべての信者、すべての民、そして聖女ナディアの頭上に清らかな導きがありますように」
いつものように祈りを捧げたカルアは、王から返還された荷に入っていた革袋の中から乾燥した葉を取り出し、口に含んだ。ゆっくり唾液で溶かすと、葉の独特の苦みと微かな甘さが広がる。
熟した果実というよりは、花の蜜のようなさわやかな甘さが、疲れたカルアにはありがたかった。
口腔いっぱいに葉の味が広がると、カルアはそれをよく噛んでから飲み込んだ。
そうすると心地よい浮遊感がカルアを襲い、つかのま焦点の合わない双眸が、開かれた窓の外へ向けられた。
漆黒の夜空には、双月があった。
主神ラザスは、双子の神を創りだしたが、お互いに離れたくないとくっついていた神々は、「月神となって暗闇に恐怖する人々に和らぎを」というラザスの命令も聞かず、明るい空の下を流れ歩いていた。それに怒ったラザスが、双子の体をひとつにしてしまったのだ。頭が二つにひとつの体はさすがに窮屈に思ってか、ラザスに泣きついたが、彼は許さなかった。
明るい空の下では自分たちの姿はさらせないと、泣く泣く彼らは闇の空に旅立ち、月神としての役目を果たしたのだった。
だから月は丸くなく、楕円の葉を二枚並べたような形をしているのだという。
いつか神の怒りが解けたとき、明るい空の下にあった月のように、夜の空を飾るのは円形の二つの月になるだろう。
「聖女ナディアの御言葉は絶対であり、それに逆らう者は悪である。伝導師により導きこそが民に平穏をもたらし、聖女ナディアの教えによって多くの者が救われる」
口調を変えたカルアは、虚ろなまま、毎日唱えてきた台詞を口にした。
頭はぼうっとしているが、それを口にする声音は揺るぎなかった。記憶がなくてもそらんじることができるだろう。それほどまでに心に刻み込まれていた。
ナディアの名を呟くと、活力が生まれるようだった。
まるでそれ自体に癒しの作用があるようだった。やはり見知らぬ地――それもナディアの教えに否定的な国にいるせいか、ほんの少しだけカルアの精神は不安定であった。
ナディアの素晴らしさを知っているだけに、なぜ蒼き国の者があれほどまでにナディアに対して憎しみを抱くのか理解できなかった。
そのとき、ふいに人の気配を感じたカルアは、冴えてきた頭を軽くふると、勢いよく振り向いた。
蝋燭の明かりに照らされて浮かび上がったのは、細身の青年の姿だった。
影となって見えにくい顔立ちに、カルアは目を細めた。
「失礼。返事がなかったものだから」
その柔らかな声に、カルアの胸がとくんっと鳴った。
ナディアのことを思い浮かべていたせいだろうか。声音はまったく違うのに、優しげな物言いがとても似ていた。
「淑女の部屋に断りもせず入り込むのは、いかに王といえども無作法ではありませんか?」
「アレイは席を外しているようだったのでね。取り次ぐ者がいなかったんだ」
「それで、何のご用ですか」
硬貨を懐にしまい、セラフィックに近づいたカルアは、寝室から隣の部屋へ移った。
セラフィックが灯したのだろうか。アレイが消したはずの燭台に火がついていた。
寝室よりも明るい居間で、セラフィックは優雅に長いすに腰掛けた。彼に促され、向かいの長いすに座ったカルアの顔はほんの少しだけ不機嫌であった。まだ寝間着でなかったのが救いだろう。それくらいの羞恥心はカルアにもあった。
教徒区員は、カルアを女性のように扱いはしなかったが、細やかなところでは気配りをしてくれたのだ。
夜中に異性が寝室に訪れるようなことはなかった。
緊急時のときは、女性教徒区員がやって来るか、扉を強めに叩いて知らせるくらいであった。
「ディエス司祭と会ってどうだった?」
「どう、とは?」
「何を感じた?」
「意志の疎通ができないのに、何を感じる必要がありましょう。それよりも聖女ナディアの教えを広めるために派遣されたというのに、それができないのはどういうことでしょう」
「それはもう話したはずだよ。ナディアも無謀なことをしたね。使者をつけず君をひとりでこの国に送るなんて。もし見張りの者が君に気づいて僕に知らせなかったら、あのまま君は死んでいたかもしれない」
「……ッ」
「君はナディアのお気に入りだと聞いていたけれど、そうではなかったのかな」
カルアは顔色が変わりそうになったのを耐えた。
拳を痛いほどに握りしめる。
セラフィックの言葉が針となって心臓に突き刺さるようだった。
「……供も連れずひとりで私の部屋にいらしたのなら、いささか不用心ではありませんか?」
カルアは声を落とし、真正面からセラフィックを睨みつけた。
「なぜ?」
セラフィックはおかしげに笑った。
カルアの向ける殺気など意に介していないようだった。
それがなおさら腹立たしく感じられ、非礼と知りつつもあふれ出す殺気を隠すことはできなかった。
「麗しい姫君のもとへ赴くのに無粋な兵は必要ないと思うけれど」
空気を圧するような殺気にもセラフィックは動じた素振りもみせなかった。呆れるほど隙だらけで、もしカルアが刺客だとしたらいとも簡単に命を奪うことができただろう。
「なぜ私を呼んだのです。ナディアの教えを受け入れるつもりがないのなら、私がこの国にいる必要性はありません」
「ナディアに泣きつくかい?」
「私は……っ」
カッと頬を怒りに赤らめたカルアだったが、続く言葉をとっさに飲み込んだ。
「カルア」
伝導師、ではなく、名前で呼んだセラフィック。
その親しげな態度に、カルアの顔が嫌そうに歪む。
「ナディアの洗脳を解いてみせるよ」
「いきなりなにを……」
「僕が言いたかったのはそれだけ。今日はもう失礼するよ。睡眠を妨げて悪かったね」
セラフィックは、用はすんだとばかりに立ち上がると、にこやかな笑みを浮かべて去っていった。
残されたカルアは、呆然とそれを見つめていた。
おかしい。
変なのだ。
セラフィックの理解できない行動がカルアを悩ませていた。
あれがこの国の王……。
ナディアはこの国が保護区に入るのをお望みだ。
しかし、当初とはだいぶ予定が違ってしまった。ナディアですら予測していなかっただろう。
「私はどうしたらいいの……?」
どこか弱々しい呟きは、静かに消えていった。
「ナディア様、私にどうか知恵をお与え下さい……」
もっと自分が有能だったならば、この難関を切り抜けられたはずだ。
ほかの伝導師だったならば、深い叡知と手腕で国王を説得し、ナディアの教えを広めることに成功しただろう。
けれどまだ若いカルアには、どうしたらセラフィックに受け入れてもらえるのかわからない。
完全に八方塞がりだった。




