その四
前を歩くダーガ補佐官についていきながら、カルアはほんの少し眉を寄せた。
どうもおかしい。
自分が歓迎されていないのを肌で感じていた。一体、これはどういうことだろう。
カルアは知らなかったが、ナディアの教えを受け入れた都市や国には、まず教徒区員が赴き、制圧して抵抗勢力を抑えているのだ。
蒼き国は、カルア以外を拒んだため教徒区員が事前に仕掛けることができなかったのだ。
カルアははじめから民に冷たい目でみられて混乱していた。
王は伝導師を受け入れることを話していたようだから、皆はじめて見る顔のカルアが伝導師であることを知っているのだろう。
カルアたちが通りを歩くと人々は道ばたから素早く家の中へ非難し、窓からそっと伺っているようだった。
なぜかそれを不安に感じるのは、相棒を背負っていないせいだろうか。微かに汗ばんだ手を握りしめ、こぼれ落ちそうになるため息を飲み込んだ。
複雑に入り組んだ通りを進んでいくと、広場のようなところに出た。円形の開かれた場所を中心に、細路地と馬車も通れそうなほど広い道が八方に伸びていた。
カルアたちが出てきたのは細路地のひとつであったが、同じような家がぐるりと並んでいるせいか、どの通りから来たかわからなくなってしまう。どうやら蒼き国自体も迷路のようになっているようだ。
カルアのように外から来た者は、すぐに迷ってしまうだろう。
「こっちだ」
そう声をかけるダーガ補佐官の表情は暗い。長身で中肉の体躯が今だけ小さく見えるようだった。その体を覆うのは、正装としてまとっていた裾の長い外衣ではなく、踝までの長い袖ありの外衣であった。
裾の長い外衣は、宮殿内のみに使用するようで、外をでるときは踝ほどのものに替えるらしい。
カルアも同じく踝までの外衣を用意してもらい歩いていたが、こちらのほうが引きずらなくてよいので歩きやすかった。
太陽はまだ頭上に届いていなかった。
カルアが起きたのはちょうど陽が昇って少し経った頃だったのだ。太陽の日差しが注がれている今は、朝方よりも暖かかったが、厚手の外衣はありがたかった。
「ああ、まったく、なんでワシがこんな役目を……」
ぶつぶつと不満を漏らす声が聞こえてくる。
「――――伝導師はそれほどまでに快く思われていないのですか?」
声をかけられると思っていなかったのだろう。ダーガ補佐官が目を丸くしながら振り返った。
「ワシらが噂を知らないと思ったかね!」
ダーガ補佐官は、王の補佐的立場にあるが、実質的に王の異母兄が参謀として王の傍らにいるため、近衛兵のように陛下の身辺警護を担う役目も負っていた。
そのため外界と閉ざされたとされる蒼き国で過ごしていても世情に詳しいのだ。
「噂などあてにはなりません。現に、ナディア様の教えを受け入れた国々は平穏に暮らしています。専制君主の非道な振る舞いに怯える暮らしから解放されたというのに、なにを忌み嫌う必要があるのです」
「――血塗られた虐殺のことを忘れたわけではあるまい?」
感情を抑えるかのような低い問いかけに、カルアの眉がぴくりと上がった。
「血塗られた?」
「五年前の恐慌さ! ナディアの支配下にある国々の宗教を問わず、多くの聖職者が惨殺されたっ」
「あれは、聖なる粛清です。ナディア様は深いお心で彼らを包み込もうとしたのに、利己的な彼らは権力が薄れると思ってナディア様を悪と決めつけたのです。もしナディア様の御言葉を受け入れていたのなら、あのような悲劇は起こりませんでした」
聖なる粛清のとき、まだ伝導師を目指して修行中だったカルアは、師である伝導師から聞いた話しか知らない。
けれど、ナディアは教徒全員に、これが聖なる粛清で、正しいことなのだと説いて聞かせてくれたのだ。
「それは、どうだろうか」
ふいに穏やかながらも鋭さを秘めた声が割って入ってきた。
人の気配に気づいていたカルアは、緩やかな曲がった道の先から歩いて来た声の主へと視線を向けた。
「若い伝導師殿。ご挨拶が遅れましたが、わたしがこの国の司祭――ディエスと申します」
純白の裾の長い衣服に身を包んだ白髪の老人は、細長い杖を持っていた。
その杖を観察したカルアは、彼が主神ラザスを崇める教会の者だということに気づいた。
ラザスは世界を創った神であり、万物の祖とされている。その主神ラザスを唯一の神とし、崇拝する宗教はいくつかあるが、杖にラザスの象徴ともいえる文様を描いているのは、聖ラザス教しかないだろう。
聖ラザス教は、ナディア教が広まる前、大国一の信者を誇っていたが、ナディアの教えが布教し始めると衰退していった。
なによりも聖なる粛清で大打撃をくらったのが聖ラザス教だ。彼らはラザス以外を神として崇めるのに最後まで抗ったため、多くの血が流れた。教皇もそのときに倒れ、以来聖ラザス教は表向き消滅したと考えられていた。
それが蒼き国でひっそりと活動を続けていたと知り、カルアは驚いた。
ダーガ補佐官が嫌がるはずだ。聖ラザス教の聖職者ならば、ナディア教を憎んでいるだろう。
「ディエス司祭ですね。私は伝導師カルア。あなたの頭上にナディアのご加護を」
立ったまま右の手を左肩に置いて頭を下げたカルアは、ナディアの名を聞いた瞬間に、彼のまとう空気が殺気を帯びるのを感じた。
「――――ナディアッ」
ディエスは憎々しげに呟いた。怒りのためか杖を握る手が小刻みに震えていた。
けれどナディアに敵意を向けられてカルアも黙ってはいない。
ナディアの教えにより、この国がまだ保護区でない以上、無益な殺生は禁じられている。
もし聖女ナディアの保護区にあったならば、ナディアに敵愾心を持つディエスを躊躇なく切り捨てていただろう。
「ナディア様、とお呼び下さい。聖女ナディアは女神の化身なのですから」
「女神の化身……ああ、あなた方はそれを信じている」
怒りに満ちた顔から嘲るように、くくっと喉の奥で笑った老人は、深い皺の刻まれた穏和な目元に憐れみを込めた。
「愚かな……。猊下は、あの女の真の姿を知っておられたというのに……」
「ナディア様は、慈愛深いお方です。常に教徒や民を想い、平静でない世を憂えていらっしゃる。あなた方は、表面上のことしかみていません。ナディア様のお心に触れずしてなにがおわかりになるでしょう」
「触れずともわかる。破壊と残虐な振る舞いを平然と行う女が正気のはずがない。あの女が見せしめのごとく行った血塗られた虐殺のせいで幾多の血が流れたことか……。いや、それだけではない。保護区では、軽い罪を犯しただけで伝導師どもに命を奪われると聞く。それのどこが慈悲か。あの女は聖女の仮面を被った魔物ではないか!」
「あなた方はいつもナディア様を批判なさいますね。そう醜く糾弾する聖職者のほうがよほど狂気じみていると思いませんか」
彼らと伝導師の間にはやはり深い溝があるようだ。
カルアにとって聖なる粛清は正義であり、それによって多くの命が失われていてもなんの呵責も覚えない。
すべてはナディアを悪とののしり侮辱する彼らが悪いのだ。
ナディアがいかに慈しみの心で善行をしようと、些細なことまでも歪めて見る彼らからすると裏があるようにしか思えないのだろう。どうしようもなく腐った心根を目にするたびに、抑えられない殺意が芽生えたこともある。
それはもはや裁きというより、憎しみからだっただろう。
彼らが信仰する神をけなされて憤るように、ナディア教の教徒もナディアを馬鹿にされれば頭にくるのだ。
正義の粛清のあとは声高に罵る声はあまりきかなくなったが、それでも水面下ではナディアを受け入れている宗教はほとんどいないだろう。
表向きは友好関係であっても、ナディアの権力が揺らいだときに、掌を返すことは目に見えている。
そんな簡単なことがまだ若いカルアですら把握できるというのに、心優しい聖女ナディアは逆に諭すのだ。
己の神が正しいと信じるのは仕方のないことだと。
相容れぬ彼らに対しても自分は心を砕くことをやめないだろうと。
そう情けをかけるところが余計にカルアには慈悲深く感じられ、一生を捧げたいと感じさせるのだ。
「まあまあ、お二人とも、落ち着いてくだされ!」
冷や汗というより、滝のような汗を流しながら二人の間に割って入ったのは、突然の殺気だった舌鋒の応酬に固まっていたダーガ補佐官であった。滴る汗を拭いもせず、冷静にと呼びかける声は掠れていた。
「ダーガ補佐官。わたしには王の気が知れぬぞ。伝導師なんぞを受け入れてわたしたちがどのような感情を抱くかわかっていたはずだ!」
厳しい叱責に、ダーガ補佐官の口元がひくっと引きつった。
「議会でも反対したというのに、王はお考えを改めてくださらなかったのか。蒼き国の神は主神ラザスのみと定めたはずっ」
「ディエス司祭……」
「しかも伝導師お披露目の集まりには、聖職者であるわたしたちを呼ばなかったそうですな」
老人の声が鋭さを増す。
「伝導師が蒼き国に足を踏み入れてから半日以上経つが、王は私へ伝令兵を差し向けてくださらなかった。どういうことか詳しくききたいものだ。国家の宗教が脅かされようとしているときに、その中心となる人物を欠いてなにが話せようか。今とて、伝導師がこちら向かっているとダーミヤ助祭から聞かされなかったら、わたしはのうのうと茶を飲みながら伝導師の来訪を待つところだったぞ」
「も、申し訳ないっ、いや、申し訳ありませんっ」
ディエスは司祭といえ、この国の主要な人物である。
位でいえば司教に近いだろう。
教皇亡きあと、聖ラザス教の司教は姿を消し、司祭以下の聖職者だけが残った。その司祭をまとめあげたのがディエスであった。
今は蒼き国の司祭で落ち着いているが、彼が一声かければまだ大陸に身を潜めている聖ラザス教会の聖職者や信者が集まるだろう。
「ええいっ、腹立たしいわ! いいか、わたしの目が光っている間は、伝導師なんぞに教会へは立ち入らせないぞ! 王に伝えておけっ」
怒りに肩を震わせたディエスは、身を翻すとまだ衰え知らずの足でしっかりと教会に向かって歩いていった。
その彼を追うように、ディエス司祭の後ろに影のように立っていたほかの聖職者が慌てたように駆けていった。
気を張っていたらしいダーガ補佐官は、ディエスの姿が見えなくなった瞬間、ふらふらと壁に寄りかかり、しゃがみ込んだ。
「ぬおぉぉっ、やってしまった……!」
汗はとまっていたが、かわりに血の気が引いていた。短髪をかきむしり、この世の終わりとばかりに呻いた。
「気分が優れませんか? 立てないのでしたら、医師を呼んできますが」
あまりの落ち込みように、さすがに憐れになったカルアはそう声をかけた。
ディエスの勝手な言い分は、まだ許せる気分ではなかったが、関係のないダーガ補佐官にまであたるつもりはなかった。
「ああ、いや、大丈夫だ」
カルアに優しい言葉をかけられると思っていなかったのか、やや面食らった顔で首を振った。
それにわずかに目元を和らげたカルアは、ディエスが消えたほうへと視線を移した。明るい色合いの民家が並んだ先に教会と思われる建物が建っていた。
「ダーガ補佐官。蒼き国の王は何を考えておられるのですか? 司祭と私が相対すれば決裂するのは目に見えていたはず。和やかに会話をかわすなどないことが普通に考えてもわかることではありませんか」
「……さてな。陛下の胸中を推し量ることはワシには無理だ」
覇気なく呟くダーガ補佐官に、カルアはただ眉を寄せるのだった。




