第二章 閉ざされた蒼き国 その一
愛馬アシュにまたがり、獣道を走っていたカルアは、開けた視界に気づいて手綱を引いた。意を汲んだようにアシュはゆっくりと止まった。
「アレが蒼き国……」
崖から見下ろした先にぽっかりと不自然に空いた空間が見えた。周囲を新緑の緑に囲まれ、木々よりもずっと高い塀が巡らされていた。
森の奥に隠されるように建国された蒼き国は、崖の上から見ると畏敬の念を覚えるかのようだった。
神々の山脈が、まるで蒼き国を守るように雄大にそびえ立っているかのようで、その天まで届きそうな峰は近くでみるとよりいっそうの迫力がある。
山脈自体に力があるというのだろうか。雪化粧がされ、うっすらと雲がかかった神々の山脈は美しいと感嘆とするより畏れを抱かせる。
そして、その畏れゆえに東の地アーゼルと西の地ヘーベルを結ぶ道は存在しないのだろう。だれも神聖な山脈に足を踏み入れるまねはしなかった。神々の山脈を切り開く考えに及ばなかったのだろう。
それに、あの険しい神々の山脈を越えて西の地へ行くのは不可能だ。西の地へ渡りたいのならば、海路でなくては。蒼き国が保護区となったならば、船で海を渡って西の地へ行くことになるだろう。
そう未来へ思いをはせていたカルアは、もう一度蒼き国へと視線を向けた。
カルアがこの崖に登ったのは、深すぎる森で迷ってしまい、蒼き国への通り道を探すためであった。使者はカルアの身の保障として聖地ハーエルに留まることになったため、蒼き国への案内人がだれもいなかったのだ。
「アシュ、もう一踏ん張りよ」
ナディアの保護区にあるアッカージ国を出てから、すでに数時間は経っただろうか。
朝陽が水平線から顔を覗かせた頃に出立したが、陽は頭上にさしかかろうとしていた。
アッカージから蒼き国まで、そう遠い距離ではなかったが、やはり森に惑わされたのだろう。
ふと、アッカージの民が、死の森だと恐れていたのを思い出した。
一度入ったら生きて出ることはできない呪いの森。
カルアはそれを一笑に付したが、森に足を踏み入れたあとは己の軽率さを悔やんだ。呪いの森という呼び名は決して誇張ではないだろう。
アシュの腹を軽く蹴り、道順を頭の中で組み立てたカルアは、険しい森の中を矢のように駆け抜けていった。
枝や大きな葉に行く手を阻まれながらたどり着いたのは、身の丈の四倍以上ありそうな塀であった。蔦が絡んだ石畳の塀は、どこか陰気さが漂っていた。
門扉はどこだろうと塀伝いに周囲をゆっくりと回っているカルアの顔色がだんだん険しくなる。
どういうことだ?
門扉が見あたらないのだ。
小国とは思えない広々とした国土を有す蒼き国を一周し終えた頃には、太陽が沈もうとしていた。だんだんと薄暗くなっていく空の端を眺めたカルアは、野宿など冗談じゃないと唇を噛んだ。
「一体、どうなっているのよっ」
苛立ちが焦燥となっていく。朝に軽く摂っただけのカルアは、空腹だった。
すぐに着くと思っていたので、携帯食は用意しておらず、革袋にいれた飲み水は、アシュにすべて飲ませてしまった。
「ごめんね、アシュ……」
アシュも疲れ切っているのだろう。
降り立ったカルアに鼻先を押しつける動作に覇気がなかった。アシュに抱きつき、汗に濡れた毛を撫でていたカルアは、自分のふがいなさに涙がこみ上げてきた。
計画性のなさがこの事態を引き起こしたのだ。
ナディアの庇護のもとで育ってきたカルアは、腕こそ優秀であったが、旅には不慣れであった。
カルアがほかの地に赴くときは、すべて教徒区員が用意を調えており、不便さを感じさせなかったのだ。そのため、旅にはほとんど荷を持つことがなかった。
(私はなにもできないのね……)
ひとりではなにもできない。
カルアははじめてそれに気づいたのだ。大切に守られていたのだと改めて感じ、感謝の念がこみ上げると同時に恥ずかしくなった。これではまるで幼子のようではないか。
きゅっと唇を引き結んだカルアは、頭をひねった。
門はないが、入口すらないとは考えにくい。使者が聖地ハーエルまで赴くことができたのなら、どこかに隠された秘密の扉があるはずだ。
しかし、再び探す猶予はない。
すでに藍色の帳が空の大半を覆い隠していた。暗く染まるまでそう時間はかからないだろう。
「アシュ、良い子にしていてね」
アシュの利発な黒目を見つめ、そう諭すと、まるで言葉がわかったように鼻先をカルアの首に押しつけた。
アシュから離れたカルアは、絶壁のような壁を見上げた。
いけるだろうか。いや、いくしかない。
不安を押し殺し、石と石の隙間につま先をひっかけ、両手で窪みを掴んだカルアは、木登りでもしているような要領でのぼっていった。
それはとても線の細い少女がのぼれるような高さではなかったが、額に汗を浮かばせ、渾身の力を振り絞った。
(私は獣族の娘よ。こんなところでくじけるわけにはいかない……っ)
はあ、はあっという荒い息だけがその空間を満たしていた。
しかし、半日あまり旅を続けていたカルアの体力は限界に近づいていた。ほとんど垂直に立つ壁を手と足の力だけ支えながらのぼるのは、思ったよりもきつかった。
半分ほどのぼったところで、指先の感覚がマヒしてきた。腕や足の筋が限界を訴えるかのように震え、じっとりと滲む汗は、額だけではなく手にも浮かんでいた。石を掴む指先が滑り、何度か半身が反り返りそうになった。
「あ……っ」
手にばかり気をとられていたカルアは、右足が隙間に入っていないのに気づかなかった。
がくっと傾ぐ体が宙を舞う。
――――落ちる。
どうすることもできず、呆然と目を見開いたカルアの指先が虚しく宙をかいた。
この高さでは助からないだろう。
「……ディア様っ」
悲鳴が空気に溶け消える。
一瞬、死を覚悟したカルアだったが、ナディアの顔が浮かぶと死にたくないと強く思った。
とっさに受け身をとるように体を丸めたカルアは衝撃に備えて目を瞑った。
しかし、次の瞬間襲ってきたのは痛みではなく、鈍い衝撃と柑橘系の香りだった。
「……ッ。無茶をするね」
柔らかい声は、どこかナディアと通じるものがあった。けれど低い声は、しっとりとした艶があり、ナディアのような包み込む温かさはなかった。
「……」
カルアはぼんやりと目を開けたが、焦点は定まっていなかった。歪む視界に、ぼんやりと影らしいものが映る。
「大丈夫。もう僕が来たから安心して」
耳に心地よい美声は、子守歌のようにカルアの耳に入り込んだ。
そのまますっと意識を失ったカルアを声の持ち主が大切そうに抱いていた。
「カツェラ……やっと会えたね」
愛おしげな呟きは、気を失ったカルアの耳に届くことはなかった。




