その四
さすがに万事休すかと諦めたそのとき、柔らかな声が響き渡った。
「カルア。こういうときには、僕の名を呼ぶものではない?」
「セラ兄様~、それはちょっと無理でしょ。呼ぶなら俺じゃない?」
セラフィックとシーファスだ。
その声を聞いた瞬間、安堵からかカルアの体から力が抜けた。
「カルアさま!」
すっとカルアの前に降り立つ影があった。人垣の上を跳躍してきたのか、すっと着地した影は、カルアを軽々と抱き上げると再び跳んだ。教徒の頭を思い切り踏みながら、その影は、暢気な声をあげるセラフィックたちの横に立った。
「お怪我はございませんか?」
「アレイ……」
影はアレイであった。
とても普通の者とはいいがたい身のこなしに、カルアは目を見開いた。
「これは、アレイにいいところを取られてしまったかな?」
穏やかに問いかけるセラフィックの目は笑っていない。
「ひっ、も、申し訳ございませんっ」
アレイの声が恐怖からか裏返った。
「ふふ、まあカルアが無事だったしね」
荒い呼吸を吐くカルアを優しく撫でたセラフィックは、だれもが見惚れるような美しい笑みを浮かべた。
「けれど、傷がついてしまったね……せっかく美しい肌をしていたのに」
セラフィックの視線がカルアの全身に注意深く注がれる。塵すらも見落とさないような熱い視線に、カルアは酷く恥ずかしい心地となった。
「……ナディア様の血です」
セラフィックはカルアの頬についた血のことを言っているのだろう。
「ナディアの?」
「ハルヴィ様の手によって亡くなられました」
「なるほど、ようやく合点がいった。君がなぜ戦っていたのか。せっかくの計画がふいになってしまったのだね。それでは、見事に壊してくれた人物にお礼をしないといけないね」
セラフィックの目が冷たく光る。たったそれだけで冷気が漂うかのようであった。
すでにシーファスはひとりで愉しんでいるようで、周囲には屍が無数に転がっていた。生きているのか死んでいるのかここからでは判断つかなかった。
「殺す、のですか?」
セラフィックは薄く微笑んだだけで答えなかった。その手には、白銀に輝く剣が握られていた。もう一度だけ愛おしげにカルアを撫でると、むずがる子供をあやすように額に口づけた。
「もうなにも心配しなくていい」
セラフィックは優しく囁いた。
カルアはカッと頬を染めると、アレイの胸に顔を埋めた。触れた部分が酷く熱かった。さらに目眩が強くなるような感覚に、目を瞑った。
「カルアさま、申し訳ございませんが、少しの間離れていただいてもよろしいですか?」
アレイのすまなそうな問いかけに頷くと、繊細な仕草で芝生の上に下ろされた。
次の瞬間、シーファスの手を逃れた教徒たちが襲いかかってきた。
カルアはアレイを守ろうと立ち上がろうとしたが、アレイが静かに制した。
「カルアさま。わたくしは侍女ではなく、王家に仕える闇の一族。カルアさまには敵いませんが、それなりに武術や剣術を習っております。ご安心を」
シーファスと同じようで剣を持つ教徒相手に素手で応戦し始めた。その動きは無駄がなく、流れるような軽やかさがあった。的確に相手の急所を突き、次々と地面へ静めていく。
圧倒的な強さと表現するには、動きが優雅すぎた。まるで舞踏でもみているかのようだった。アレイはカルアのほうが強いと謙遜していたが、実力ではアレイのほうが上かもしれない。カルアはただ力が強く、運動神経に優れているだけだ。アレイのように幼少の頃より訓練されたようなすきのない動きはできなかった。
シーファスとアレイの活躍により、残り百三十人程度であった教徒は、三十人を切っていた。
セラフィックもアレイのような優雅な動作で、教徒を一撃で伸していくが、その目には状況を楽しんでいたハルヴィしか映されていなかった。
「陛下……」
カルアはセラフィックがどれほど強いのかわからなかった。獣族の血が流れているセラフィック。シーファスのように剛で攻めるようには見えなかった。柔軟さで、ナディア教一の腕前を誇ったハルヴィに勝てるのだろうか。
セラフィックまでもが死んでしまったなら……。
そう考えるとなぜか胸が張り裂けそうに痛んだ。助けたいのに、動かない体が恨めしかった。悔しくて、情けなくて、涙がこみ上げてくるようだった。
「陛下ならば大丈夫です」
あとはシーファスたちに任せても大丈夫と判断したのか、少し呼吸の乱れているアレイがしゃがみ込んだ。汗ひとつかかず涼やかな顔で、彼女もセラフィックとハルヴィの対決を見守った。
「アレイは心配ではないのですか? 王家に仕えているのならば……」
「もちろん気がかりですが、下手に手を出せば叱られてしまいます」
アレイは苦く笑った。叱られるどころか、首を落とされるかもしれない。なにしろ体を動かしたいシーファスと違い、カルアに格好良いところをみせたいセラフィックなのだから、邪魔をしたら逆鱗に触れるだろう。
「それに、闇の一族の者が気配を殺して潜んでおりますので、危うくなれば助けましょう」
「いつから……? 気づきませんでした……」
気配を殺しているのか、探ってみてもやはりわからなかった。カルアにすら気取らせないとなると、相当の手練れだろう。蒼き国は思っていた以上に強者が揃っているようだった。
「カルアさま、なぜこれほど騒いでいるというのに、兵士が現れないと思います? 抜け目のないハルヴィは、夕食に薬を混ぜていたのです。わたくしたちのだけではなく、見回りの兵士たちにも……。もし城に近ければ兵士の応援もあったでしょうけれど」
「王はハルヴィ様の仲間です。私たちを殺すほうに手を貸すとしても、応援になど……」
「フル=ブシェの王もまた、ハルヴィに操られているのですわ」
「王も?」
「親交があだとなったのでしょうね」
すっと睫を落としたアレイは、カルアを痛ましげに見つめた。
「わたくしたちは、毒に体を慣らしているおかげか、薬は効かないのです。おかげで、異変に気づくことができました。カルアさまが部屋を出られたあと、わたくしは陛下のお部屋へまいり、こうして駆けつけたのです」
アレイの話を聞いていたカルアは突然目を見開いた。ハルヴィと対等に戦っていたセラフィックが、瞬きの間にハルヴィの手から剣を奪い、優位に立ったのだ。
「ひゅ~、さっすがセラ兄様!」
汗を拭いながらシーファスが歩いてくる。すでに二百人の教徒はみな地面に埋まっていた。変な風に手足が曲がっている者もいるが、うめき声を聞くと大半に息がありそうだった。
「ま、俺には劣るけどねっ」
にやにや笑ったシーファスは、カルアに言った。
「文を極める第一王子、武に秀でる末王子、文武を宿す王太子って昔は言われててね。セラ兄様は、要領よくなんでもこなしちゃうんだよ」
言葉の端々にもセラフィックに対する愛情と尊敬の念がうかがい知れた。
「カルア」
セラフィックが名を呼んだ。そんなに大きな声ではなかったのに、暗闇にすっと走る明瞭さがあった。
手を貸そうとするアレイの申し出を断り、立ち上がろうとしたカルアに、シーファスが鎌を差し出した。
「セラ兄様も横暴だよね。これで少しは楽になるでしょ」
杖代わりにしなよ、ということなのだろう。
「ありがとうございます」
受け取ったカルアは、ゆっくりと歩き出した。まるで何時間も歩いたあとのように体が重かった。ふらつく体を鎌が支える。すがるように地面にさしながら、一歩、また一歩とセラフィックのもとへと近づく。
ようやくたどり着くとハルヴィの喉元に剣先を突き立てていたセラフィックがゆっくりと口を開いた。
「君はどうしたい?」
「え?」
「カルアに対する振る舞いは、万死に値するけれど、ナディアが殺された以上、僕にはこの者を殺す権利はないからね。この者の運命は君の手にゆだねるよ」
カルアは大きく目を見開いた。セラフィックの思いやりなのだろうか。
ありがとうございます、と深い感謝の意を込めて呟いたカルアは、跪いて血を流すハルヴィを見下ろした。
「私は……」
カルアの瞳が考えるように揺れる。
「なにも……」
呟くように漏れた言葉。とたん、答えが胸に落ちたようだった。目の前が開けていく。
「もし、叶うのならば、このまま見逃してあげてください」
カルアの願いを聞いたハルヴィが絶句した。その目は信じられないと言いたげであった。
「また君の命を狙うかもしれないよ? それに…ナディアを殺したのだろ?」
あらかじめ答えを予期していたのか、セラフィックの声は静かであった。
「ナディア様は復讐を望んでいらっしゃいませんでした。ハルヴィ様に裏切られてもナディア様は許しておいででしたから、私に裁く権利などないのです」
カルアはナディアの死んだ姿を思い出した。口元は、どこか安堵したように笑んでいたのだ。多分ナディアは殺されたことを恨んでいない。むしろ死んで喜んでいるのかもしれない。罪を償い、一緒に生きると誓ってくれたナディアであったが、犯した罪の大きさに悩まされている様子だったからだ。きっと神の国で今は心安らかになっているのかもしれない。
カルアの勝手な推測であったが、なぜかそれは当たっているような気がした。
「ナディア様が……? 嘘だ……」
ハルヴィは呆然と呟いた。彼はナディアに恨まれていると思っていたのだ。
「ハルヴィ様、私はナディア様をあなたに殺され、あなたを決して生かしてはおけないと思いました。けれど、それは私の思いであり、ナディア様の思いではないのです。私の望みは、ナディア様の意向に沿うこと。ナディア様が復讐をお望みでないのならば、私になにができましょう」
そう切々と語るカルアの目から涙がこぼれ落ちた。
剣をしまったセラフィックは、カルアを抱きしめた。繊細な抱きしめ方に、カルアの手から鎌が滑り落ちる。
「ナディア様……! どうして……っ」
この嘆きをだれにぶつければいいのだろう。
なんて皮肉な運命なのだろう。せっかくナディアを救ったと思ったら、殺されてしまった。これが運命だというのだろうか。ナディアは死ぬ運命だったのだと。
「せっかく、せっかく……!」
新しい道を歩き出せると思っていたのに。
二人で築いていこうと思っていたのに。
あっけなく奪われた命。
けれどこの悲しみをハルヴィにぶつけられない。
「すまない……。一番愚かだったのはわたしだったのかもしれないな」
ハルヴィは苦渋に満ちた声で呟いた。
「権力が欲しかったんだ。ナディアを聖女に仕立て上げれば、世界を掌握できると……。なのに! ……なにを間違えていたんだろうな。わたしはきっと、権力を欲するあまり、人の心をなくしていたのだろうな」
だれともなく呟いたハルヴィは、足を引きずりながら森の中へと姿を消した。




