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   その三

 その夜、大切な人の悲鳴を聞いた気がした。

 カルアは目を覚まそうと思うのに、体が思うように動かなかった。迫る危険を知らせるかのように心臓が激しく鼓動を打った。

 じっとりと浮かぶ汗。

 頭は冴えているというのに、手足が思うように動かなかった。そのまま気配を探るように耳を澄ます。

 カツンッという物音をその耳に捕らえたカルアは、今度こそ弾かれたように起き上がった。


「ナ、ディ……!」


 じんとした痺れが全身をかける。力が入らない。呂律が回らないカルアは、一瞬で痺れ薬を盛られたことを知った。いつもよりずっと鈍い動きで枕元に置いていた鎌を組み立て、構える。

 まだ部屋の中は薄暗かった。

 頭上の窓から零れる双月の月明かりが淡く筋のように床に落ちていた。

 ナディアのことが心配で同じ部屋で寝ていたカルアはナディアに駆け寄ろうとした。が、何かが動く気配を捕らえたカルアはバッと後ろに下がる。石の壁にぶつかった何かが、鈍い金属音を立てて床に落ちた。月明かりに照らされたそれは短剣であった。

 暗闇に紛れていた影がゆっくりと動いた。

 それを目に捕らえたカルアは立ちすくんだ。


「ハ……ィ、さま」


 ハルヴィ様、とカルアは呟いた。


「久しいな、カルア」


 ハルヴィは、不敵な笑みを浮かべた。カルアの視線が彼の右手に移る。その手は黒ずんでいた。いや、黒だろうか? 転がる短剣にも同じくべっとりと何かがついていた。月明かりだけでは色がわからない。

 けれどカルアの胸が不安にざわめく。

 まさかという絶望が全身を駆けめぐった。

 その一瞬気を抜かれたカルアの体が崩れ落ちる。


「……くっ」


 鎌を杖代わりにして体を支えたカルアを、ハルヴィが底の見えない笑みを浮かべて見つめていた。


「どうした?」


 おかしそうに問いかけてくる。

 鼻につく鉄のような香りがカルアにまとわりついた。これは血の匂いだ。だれかが怪我をした?

 どくんっと心臓が鳴った。

 ナディアはどこだ?

 なぜナディアの声がしない?

 普通ならば、目を覚ます状況だ。

 最悪のことばかり脳裏をかすめる。違うと否定したくとも、ハルヴィの顔が真実を告げているような気がした。


「な、ぜ……」

「さすが、獣族の娘。痺れ薬だけではなく睡眠薬も混ぜておいたというのに、よもや目をさますとは。秘密裏に始末しようと思っていたのに、残念だ」


 くつくつと嗤う。

 酷く耳障りな声であった。

 本当にハルヴィなのだろうか。まるで別人のようであった。


「――ナディアの替え玉を用意するとは考えたな」

「!」

「わたしが知らないと思ったか? 王とわたしは旧知の仲。新参の蒼き国の王よりもずっと親しいのだ」


 一歩、また一歩と近づいてくる。

 カルアは唇を噛みしめた。痛みを覚えるまできつく噛みしめる。

 獣族の一族があっけなく敵襲に敗れた原因は痺れ作用のある葉のせいであった。最強とうたわれながらも、満足な力を発揮できなければただ人と同じだ。


(ここで死ぬわけにはいかない)


 ナディアのことが気にかかる。

 カルアの視線はついハルヴィではなくその後ろへと行ってしまう。ちょうど影となっていてよく見えないのだ。

 それに気づいたのか、カルアの目の前で立ち止まったハルヴィは、右手を突き出した。殺されるかと思って身構えようとしたカルアであったが、濃くなった血の香りに固まった。


「獣族は人間の血肉は好まないのか? ナディアは若い娘の血を喜んですすったというのに」


 それはカルアに、いや獣族に対する間違いようのない侮辱であった。

 獣族は森の中に暮らし、狩りを好む。獣の肉は喜んで食したが、人の血は決して食べない。それは周知の事実だ。普通の人間の生活とはまったく違った生活環境であったが、それでも独自の文化と歴史があり、みな誇り高く生活していたのだ。

 洞窟に住み、毛皮をまとった生活を送っていたせいか、本物の獣と勘違いする連中もいたが、本能しかない獣とは違い、獣族にはちゃんと理性と感情があった。同じ種族の人間を無闇に襲ったりしないのだ。

 ハルヴィはせせら笑うと、指先からしたたり落ちそうになった血を舐めた。


「まずいな」


 ぺっと吐き捨てたハルヴィは、その手でカルアの頬に触れた。


「この血がだれのものかわかるか?」


 血は冷たかった。ぬるりとした嫌な感触が頬を滑っていく。


「ナディアだ」


 ハルヴィがカルアの反応を愉しむかのようにゆっくりと名を告げた。


「聖女ナディアはもうこの世にいない」

「!」


 その刹那、カルアは鎌の刃をハルヴィの首筋に突き立てようとしたが、一瞬はやくハルヴィが短剣で受け止めた。

 キィーンッと金属音が響く。

 ハルヴィの力は強く、気を抜けば簡単にはじき飛ばされそうだった。

 カルアの口の端から、すっと自分の血がこぼれ落ちる。痛みのおかげでなんとか気が紛れたのか、それとも底力だったのか。カルアにはわからなかった。


「なぜ! あなたはナディア様の右腕であったのに!」

「だからなんだ? 腹心の部下が王に逆らうのはそれほどまでに不自然な出来事か? 力ある者が世界を制するのは自然のことわり」

「けれど……っ」

「もう聖女ではなくなったナディアなどに用はない。もとより、いつかこうなる運命だった。ナディアに聖女の仮面は負担だったんだ。綻びは徐々に見え始めていた。――カルア、お前がその(さい)たるものだ」


 ハルヴィの言葉の意味がまったく理解できなかった。


「情はいつか身の破滅を招く。ナディアはお前にほだされていたんだ。お前がいなければもう少し生きながらえていたというのに」

「……っ」


 カルアは動揺した。

 そのすきをハルヴィは見逃さなかった。短剣を持つ手に力を入れ、鎌をはじき飛ばしたハルヴィは、拳を突き出した。

 避けられなかったカルアの体は吹き飛び、背中から壁にぶつかった。ぐっと臓物が飛び出るかのようだった。呼吸が止まったかのように激しい衝撃に、よろりと立ち上がったカルアは頭を振った。

 飛ばされた鎌を拾い、ハルヴィを追いかけようとしたが、ナディアのことのほうが気がかりであった。


「ナディア様……」


 ナディアの眠る寝台に駆け寄ったカルアは、呆然と見下ろした。予期していたこととはいえ、辛かった。

 動脈を切られたのだろうか。ぱっくりとあいた傷口は、鎖骨まで伸びていた。けれど目を閉じ、うっすらと笑みを浮かべているように見える唇だけみると、苦しんで死んだというよりは、安らかに眠ったようだった。カルアは頬についた血をぬぐってやった。そして、壁にもたれかかるように上半身を起こしたまま絶命していたナディアの体を横たえ、自分が被っていた清潔な布を被せた。

 本当なら血で汚れた彼女の顔のすべてを拭ってやりたかった。けれどカルアはハルヴィを追いかけなければならなかった。


「また、あとで……」


 溢れてきそうになる感情を抑え、そう静かに声をかけたカルアは走り出した。

 気配を殺していないハルヴィを見つけるのは容易かった。外へ出たカルアは、背を向けて走るハルヴィに襲いかかった。しかし寸前でかわされてしまう。振り返ったなぜかハルヴィは笑っていた。

 カルアが訝しく思っていると、ハルヴィがぱちんと指を鳴らした。すると、森林からぞろぞろと出てくる姿があった。二百人ほどであろうか。ハルヴィを負うので夢中で彼らの気配に気づかなかった。

 らしくない不注意であった。やはりナディアの死に動揺しているせいだろうか。まんまとおびき出されてしまったのだ。


「カルア。お前にも死んでもらう。――やれ」


 ハルヴィが命じたその瞬間、二百人余りの影が動き出した。

 さすがに万全ではない体調で、この人数をひとりでは相手にできない。なによりも相手は、ナディア教の教徒であった。月明かりの下で翻る服がそう示していた。教徒を傷つけることはできないだろう。


「目を覚ましてください!」


 カルアは攻撃を避けながら必死に呼びかけるが、聞こえていないようだった。彼らの顔どれも人形のようであった。焦点の合っていない目。


「無駄だ。暗示をかけておいたからな」


 ハルヴィが哄笑(こうしょう)する。

 高みの見物というわけだろうか。少し離れたところで、カルアの苦戦を見ていた。

 ひとりひとり着実に気を失わせていたカルアだったが、それでも六十人を超えたところで疲れの色が見え始めた。


「はぁ……はぁっ……っ」


 汗が滝のように落ちていく。

 長い柄で五人をなぎ倒し、首に手刀を入れ、腹を蹴り飛ばす。

もう体は限界であった。ふらつく足下。体を動かしすぎたせいか、薬がまた回り始めたようだった。ぴりぴりと痺れが指先に流れていく。


「あ……っ」


 指先から鎌が落ちていく。慌てて拾おうとしたが、教徒の剣が目に入って後ろに跳躍した。長い鎌がなければ、あっという間に距離は縮められる。周囲を教徒に囲まれたカルアの目に、無数の剣先が映る。


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